おやすみなさい
厳しい。
僅かに額に浮かべた汗を無視したまま、トリステは塔の先を見据える。
風が汗を乾かすように吹いて涼しさを増したが、それでも肌には拭えぬ倦怠感がまとわりついていた。
崩れた塔が砂煙を上げて崩れ、更に他の建物にぶつかり倒壊させてゆく。
中に人間がいれば大惨事だろう。だが、トリステの手に残る感触にその気配はなく、そして、握りつぶせなかったものまでも含めれば。
風が髪と肌を揺らして、誰かの声のようなものを耳に届ける。
幻聴、幻覚、常人であればそうそうない異常な事態だが、トリステにとってはもはや日常だ。
丘を囲む木々から、鳥たちが飛び立ってゆく。これから起こる惨事を知っているかのように。
木々を揺らす風がもう一度吹いて、それに押されるようにトリステの身体は主の意思を無視して片膝をついた。
「……準備するよ」
「早くしてよ。のろのろしないで」
アルペッジョが唾を飲んで頷く。先ほど開いた荷物から取り出すのは、綿を入れて僅かな緩衝性を持たせた毛布。開けばトリステの身体よりも少しだけ大きいその毛布は、三十年前から製造上の誤差以上の大きさの変化を見せない。
萌える草花の上にそれを広げ、皺のないように敷く。少しでも安楽に、少しでも気分よく眠れるように。
トリステは頷いて、覚悟するように長い瞬きをする。
一瞬でも気を抜いてしまえばそのまま眠りに落ちてしまう。
限界だ。
魔力を使い発現する魔法とは、現実の否定。否定する現実が強固であるほど消費する魔力とは大きくなる。
物と物との距離、遠近とは強固な現実法則。それを無視する魔法とは、普通の魔法使いからしても大魔法。そして彼女にとっても安い魔力と引き替えに行える行為ではない。
魔力とは精神力、または思考力、もしくは集中力と言い換えられるもの。
思考を、認識を現実に反映させる度に消費し、精神的な疲れが増してゆく。
更に彼女は、ムジカルから一日以上の旅程を、眠らずにここへと来た。それ以前、ラルゴから指示を受けた際に既に数日の徹夜の後だったというのに。
限界だ。もう。
トリステは無意識に意識を手放す身体に、爪を立てて抵抗する。このままでは立ったまま眠りに落ちかねない。
せめてそうはしたくない、とそれから懸命に這うように毛布まで移動した。
仰向けで、手を腹の上に乗せて組む。もう数十年間、また数百回は繰り返してきたこの儀式のような寝姿は習慣だ。
少女が乗ることによって僅かに撓み、よれた毛布をアルペッジョが丁寧に伸ばす。
トリステの表情に健気さを見て、アルペッジョは悲痛さに眉を顰める。
けれどもそれを表に出さぬように、静かに笑ってトリステを見下ろした。
「頑張って」
「おやすみ、でしょ」
青空を背にして見下ろす幼馴染みの、何かを気負ったような顔が笑える。その顔を瞼の裏に残すよう、トリステが静かに目を閉じる。瞼の裏の暗闇から幼馴染みの顔は一瞬で消え失せて、それから見えるのは黒、それに青や赤の幾何学模様。
じりじりと、身体がどこかに沈んでいく気がする。
ぞわぞわと、耳の横で何かが這っていく感触がする。
瞼が震える。
耳の奥から何かの高い音がした。身体を覆うのは温かな気配。寝入り端、夢見る世界へと飛び立つ合図。
やっと眠れる、とトリステは感じる。
これでしばらくは寝不足の不快感とはおさらばだ。寝たくとも眠れない世界、この幼馴染みのいる苦しい世界から離れていくのだ。
深く息を吸って、吐く。
身体の力が抜けてゆく。
もう一度涼しい風が身体を撫でる。今度はただ、心地よく。
ほんの僅かな時間で、静かな寝息を立て始めた少女。
痩けた頬、目の下の隈、痛み波打つ髪の毛に袖から見える肉のない腕。およそ健康的でもない見た目ではあるが、それでも安らかな寝顔はそれを凌駕する。
まるで近くの丘へと遊びに出かけ、一休みに昼寝に入った童女のような。
夏だが照りつける日の光はそれほど強くはない。むしろ夏でも涼しいリドニックに近いミールマンの気候故に、ムジカルの血が入る彼らとしては肌寒くすら感じそうなほど。
アルペッジョはその横で座り込んで願う。
今のところは静かに気持ちよさそうに眠る幼馴染み。少しでも良い夢を見て欲しい。楽しく、温かく、幸せな夢を。
一角が崩された街を背景に、一人が眠り、一人がそれを見守る。
背景を無視して見れば、なんとも温かく、幸せそうな光景だろう、と思う者もいるだろう。
もっともそんなものは、ほんの一瞬で終わりを迎えてしまう。
ビキ、と何かが折れる音がした。
木々や何かが折れたわけではない。折れたのは、言うならば空間。アルペッジョの周りで、風景が不自然に折れ曲がり歪んでゆく。
遠くに見える煙が、木々の葉が、雲の筋が、歪んで集まり形を作る。どこかで響いていた鳥の鳴き声が、おどろおどろしい化け物の低く濁った笑い声に変わる。
始まった、とアルペッジョは思った。
青空にスウと浮かび上がるいくつもの男の顔は、眼窩や口から指の束を突き出して、血を吐き出しながら噛み砕く。
アルペッジョの身長よりも大きな骸骨が、周囲の空にぷかぷかと浮かび始める。骸骨に括り付けられた縄には足場がとり付けられており、そこには幾人もの裸の人間がしがみつく。目も口も縦についた不細工な面でケタケタと笑いながら。
逃げ遅れた鳥が一羽、空中で叫び声を上げる。
腹から下を食いちぎられて、腸を無残に晒した骸が地面に落ちる。それを見ていた口だけの女は血に塗れた歯を剥き出しにしながら、肉をくちゃくちゃと噛み砕いて飲み込んだ。
空間が歪んだ澱みの影から、四つん這いの何かが駆け出してゆく。
手も足も逆向きについた毛のない犬のような影。赤く光る目が軌跡を残し、硫黄のような腐った匂いをまき散らしながら。
アルペッジョの見ているトリステの顔が苦しみに歪む。
魘されて上げる声はいつものように悲痛で、顰めた眉間の皺はもはや先ほどまでののどかな情景とは正反対のもの。額には汗が浮かび、光を弾かない萎びた髪の毛がびっしょりと貼り付いた。
「トリステ……」
もう幾度見ただろう。未だ慣れることなどなく、その幼馴染みの苦しむ様をアルペッジョはせめて目に焼き付けようとする。
いつものことだ。
トリステの放つ魔法、《悪夢》。それを彼女が使うその時には。
五歳を過ぎた頃。
ある日から、トリステは悪夢を見るようになっていた。
毎夜魘され、場合によっては叫び声を上げて飛び起きる。自分が今どこにいて何をしているのか、暗闇の中で自身の身体を触り確かめることはすぐに慣れたものとなる。
見るのは悍ましい怪物の姿。血に塗れた棍棒を振り上げて、また髭のような触手を伸ばして、トリステを貪り食らう怪物たちの姿。誰も助けてはくれない無人の荒れ野で、誰も怪物を見ない街の中で、一人だけが傷つけられ、殺されてゆく様。
寝るのが怖い、と童心にもトリステは思った。
だが恐怖しようと、悪夢は彼女を貪る手を緩めない。眠らぬよう朝を迎え、昇った朝日に安心したのも束の間、それすらも夢の中の出来事だったことなど数え切れない。
そして今も、何も変わらない。童心も、悪夢も。
怪物たちが駆け出してゆく。
生き物たちの匂いを嗅いで。彼らの糧である恐怖を覚えるであろう者たちの甘い匂いを。
音もなく忍び寄る。大地を蹴って空を跳んで。
雲霞の如き大群はトリステの夢から生まれ出る。
恐怖を求めて、恐怖を感じる人間たちを求めて。
城塞の街ミールマンを襲う大波のように、喜びの鼻歌を吠えながら。
見送ったアルペッジョは、悲痛な面持ちでそれを見ていた。
悪夢は障害物に左右されない。堅牢な石の壁に阻まれることもなく、城塞に吸い込まれてゆく。
すぐに叫び声が聞こえた気がした。もしくは喚声か。
そのどちらでもどうでもよかった。確実なのは、人間たちが襲われてゆくということ。いつものように、かつての夜中のトリステのように。
トリステの魔力から生まれた悪夢。
だが、生まれた悪夢たちはもはやトリステの手を離れていった。
彼らがこれから糧にするのは、人間たちの恐怖、もしくは悪夢だ。
これでミールマンも終わりだろう、とアルペッジョは思う。
悪夢は終わることがない。人が悪夢を見続ける限り。悪夢を見る人が居続ける限り。
アルペッジョはトリステの横に座り、彼女の手に自身の手を重ねる。
苦しみから逃れるため、自身の手を掻きむしるように力を入れた彼女の手は硬く、筋張っている。その手を、少しだけ肉付きの良いアルペッジョの手で緩く覆うように。
「頑張ってよ。頑張って……」
それ以上のことは自分には出来ない。
トリステが眠る度、この悪夢を使う度にアルペッジョは彼女の横で歯を食いしばってきた。
これ以上のことは自分には出来ない。彼女を救うために夢の世界に旅立つことも、彼女の悪夢を取り去ることも。
〈眠り姫〉の魔法、悪夢の召喚。
軍事商業国家ムジカルにおいて彼女がもっとも称賛される能力。もしくは性質。
そして、彼女が最も忌み嫌う力。
自分から離れるな、とトリステはいつもアルペッジョに命令する。
アルペッジョはそれも悔しく思う。
この四十年近い期間、彼女は自分を側に置いてくれた。彼女の側に仕えさせて欲しいという自分のわがままに応えて、直属兵という分不相応な地位に。
それに応えられない自分が不甲斐ない。
今この場においても自分は足手まといだ。戦う力など、最低限の闘気を扱える程度。直属兵どころか正規軍の中では自分は落ちこぼれもいいところだ。ミールマンに飛び出して華々しく戦うことも出来ずに、彼女の隣で応援をする程度が精々だ。
不甲斐ない。
そっと窺い見るように、アルペッジョはミールマンを見る。
煙が更に上がり始めた。今度の叫び声は空耳ではない。宙を飛ぶ骸骨の風船が、人を攫って地面に落とした。
ミールマンは終わりだろう。この戦場は既に悪夢の狩り場。トリステが占領したといっても過言ではない。
きっと聖騎士団といえども。
僅かに霞む目を瞬きで晴らし、アルペッジョは思う。
この幼馴染みを支えられるほど、強くなってみたかった。
彼女が悪夢を使わずにいられるほど、彼女に頼られるほど、強く。
昔は同じくらいだったのに。
握った彼女の手の小ささを、確かに感じながら。




