閑話:惚れ薬
惚れ薬というものは、古今東西世界を問わず、多くの者が夢見る宝の一つだ。
水薬や嗅ぎ薬の形を取るその薬は、叶わないはずの恋を叶え、結ばれないはずの二人を結びつける。幼い憧れを恋慕に変えて、枯れた愛情を燃える恋に変える。
だが、特定の人物にのみ作用し、恋愛感情を惹起させる薬剤などはどこの世界においても現在確認されていない。
そうであるとされるものも、精々が性感を高め交わりを深くし、もしくは気分を高揚させて恋愛感情を誤認させる、という程度のものだ。
ざわざわと歓談の声が部屋に満ちている。
王城の使用人たちは、『また社交会か』とうんざりする心持ちだったが、中にいる貴族や傭兵団、騎士団の者たちはそうではない。
豪華な照明や壁際に置かれた軽食。振る舞われる高価な酒に圧倒される。
ここは王城の中、舞踏会の間。だが今日は戦争が終わったことと、そして変動した爵位や地位の祝いの場。
赤い絨毯は毛羽立ちもせず毛並みも揃い、壁に施された金の蔦の装飾は光り輝く。
戦争後に変動した皆の境遇。めざましい活躍をした兵を送り込んだ貴族は功績を得て、また自身から参加し活躍した傭兵団は名を上げ官位を得ることもある。
そして勝利しないまでも敗北しなかった戦争において、生き残った者が冷遇されることなどほとんどないことだ。生き残れば、大抵の場合は功績を得て、幾ばくか生活は上向くもの。
ここに参加する者は、ほぼそのように生活が上向いた者。ここはその喜びの場だ。
そこで一人、料理も取らず壁際に佇むテレーズの心中は複雑だった。
見回せど、ここにいる者たちの目に悲しみは見えない。戦争だ。人が死んだのだ。殺し殺され、命のやりとりをし、大切な者が死んだ者もここには大勢いるだろう。
だが、誰しもが喜びを全面に見せている。
騎士爵を得た元平民の男性は、ここぞとばかりに仲間の顔をして貴族にすり寄っている。領地を加増された貴族には、大勢の下級貴族や寄り子が集っている。
悲しみは置いておいて、未来のことを見ている、と考えれば格好がつくだろう。
死者のことにとらわれず、生きている自分のことを考えていると思えば。
必要なことなのだと思う。午前中、論功行賞の前に死者に対する追悼式は行った。
そこでは皆確かに悲しみを帯びた顔はしていた。ならば悲しむことはそこで済ませ、それはそれ、これはこれ、と割り切ることも必要なのだろう。
それは、自分も。
テレーズは、自身の右手を見つめて目を細める。
この右手を一度失った。そしてその時同時に、自身の部下たち全員を失った。
ピエール、モニカ、カーボス、……、部下の名前はもちろん全員覚えている。彼らの顔も忘れてなどいない。
彼らは死んだ、ムジカル軍との戦いで、呆気なく。
なのに自分はここにいる。自分だけが生きてここにいる。
溜め息をつけば、無意識に顔が俯く。白い長髪が顔を覆い隠す。
自分はここにいる。自分だけが生きて。
自分だけが生きて、ここにいていいのだろうか。幸運にも右腕を取り戻し、五体満足でのうのうと。
テレーズとて、戦争は初めてではない。今までも、部下を何人も見送ってきた。
けれども今回の戦争は特別だ。一度に全員を亡くしたことも初めてだし、自身が捕虜になったことも。
今日、テレーズは意地でここに来た。
希望的観測ではあるが、部下たちはきっと自分が自棄になることなど望んでいないだろう。
戦争が終わったことを喜んで欲しいだろうし、自分が生き残ったことに安堵して欲しいと願っている……と思う。
気のいい部下たちだった。性格はもちろんそれぞれで、気が合わない者もいたが、性格が悪い者はいなかったのだと思う。ならば、きっと。
いけない、とテレーズは右手の拳を握りしめる。
今日は祝いに来たのだ。この戦争の終わりを。部下たちの分まで。
彼女をここまで看病してくれていたソラリックは言った。
『タレーラン閣下には、死んだ人間の分まで生きる責任があります』と。
それは方便というものだろう、とテレーズは思う。
今、テレーズは常にカラス謹製の丸薬を持ち歩いている。心臓の動きを強める頓服薬。仮に気が遠くなれば、すぐにそれを服用するために。
もし仮に、また心臓の病が再発したとき。その時、自分が諦めて薬を手に取らなかった、などということがないように、と言い含めたのだろう。そんな気がする。
そして確かにその通りだ、とテレーズは思う。
死んだ人間を忘れる必要はない。けれど、とらわれてもいけない。
自分には自分のこれからの人生があるのだ。
部下を失った。功績は部下たちが壊滅したことと差し引かれ、テレーズの手の中には何も残らなかった。
聖騎士という仕事も凍結された。これからしばらくは謹慎のような生活をし、いつかは再編された聖騎士団の一員としてまた活躍できるのだろうが。
何も残らなかった。自分の手には。
人も離れていった。
他の聖騎士団員は変わらず接してくれているものの、しかし『一時期捕虜になっていた』という事実がその他の人間の態度を変える。
少なくとも、変わっているようにテレーズは感じていた。視界の端で話している使用人たちが、自分の話をしている気がする。貴族たちの視線が粘ついている気がする。ムジカル軍に汚された自分を想像しているのだろうと感じてしまう。
もっともそれは事実とは違っていたのだが。
だが、真実は違えど、テレーズが孤独感を覚えているのは事実だった。
変わらないのは、同僚である聖騎士団員たちと、カラスたち一部の人間のみ。それ以外の人間は、テレーズの中では一歩遠ざかり、どこか輪の外にいる気がする。
嫌なことがあったときには酒に溺れる。そうする人間も多いし、それをテレーズも知っている。
テレーズも、酒に溺れてみようと考えた。酒に弱い自分は、すぐに酔ってしまいいつの間にか寝てしまうため、それすらも中々出来なかったが。
そして更にもう一つ、孤独感とは別のことを考えてしまう自分に少しだけ嫌気が差していた。
(まったく、何を考えているんだろうな、私は)
これからの人生。それを考えた途端に、腰の隠しの中にある小さな瓶が存在感を増した気がした。
『これは惚れ薬』。その小瓶をテレーズに渡したアリエルは、からかうようにそう言っていた。
あの薬師カラスに、わざわざアリエルは作らせたのだという。蝋で封をされた小瓶の中には、透明に近い黄色い液体が揺蕩っている。
惚れ薬というものはあるのか、とアリエルに尋ねたのはテレーズからだ。
妖精というものは実在するのだ。ならば、人の感情をこちらに向ける夢の薬があるのかもしれない、と。
テレーズは自らの感情を、浅ましいと思ってしまう。
今自分は、誰かに縋り付きたいのだ。誰かに自分は悪くないのだと言ってほしい。誰かに自分のことを受け入れてほしい。事実はどうであれ、汚れた自分を、それでもなお。
その白羽の矢が立つ誰かを、内心で既に決定していた自分に腹が立つ。
本当なら、それを正直に話せばいいのだろう。
あの気のいい幼馴染みは、きっと自分を受け入れてくれる。愛してくれるかどうかはわからないが、少なくとも隣にいて、励ましてくれるだろう。
何せ今の自分は『かわいそうな女』だ。部下を失い立場を失い、女としての価値まで失いつつある哀れな女。同情を呼ぶに充分な。
それになんとなく、今までも互いに思いを寄せていた感覚はあった。少なくとも、私の方からは。
しかし、正直に話せる気もしなかった。
どういえばいいのだろうか。一人では寂しいから、一緒にいてくれ、とでも言おうというのか。
それとも、好きだ、と直接いえばいいのだろうか。そうすれば、全てが万事上手くいくとでもいうのだろうか。
簡単なことだ。言葉にしてしまえば一息で済む。
ただその一息が口に出来ない。一歩も踏み出せない、今のままでは。
拒絶されたらどうしよう、という恐怖が胸中に満ちる。
もしかしたら彼が持っているのは純粋な友情で、恋慕は自分からだけなのかもしれない。時たま見せる男らしい面に、自分だけがときめいているのかもしれない。
そうなれば、今のままではいられないだろう。
幼馴染みだ。親友といえるのかもしれない。
その立場を手放す危険を冒してまで、言えることなのだろうか。
今のままでいいではないか、ともテレーズは思う。これから何を自分がすることはない。
今日自分が行った準備も、思い返せば呆れるほどだ。
(こんな……化粧までして……)
テレーズは、自身の頬を撫でて内心悪態をつく。
馬鹿なことをしたものだ。
惚れ薬を受け渡す際、『ただし、この惚れ薬はかけ算なのよ』とアリエルは言った。
曰く、何の魅力がない者がこれを使っても意味はない。
まず整えるのは身だしなみ。使う際は当日、せめて前日に沐浴をし、全身を清潔に。前日は夜更かしをせず、よく眠ること。朝には歯を磨き、髪を整え、化粧をし、自分で自分に自信を持てるように笑顔の練習。
準備が整ったら、標的に近づき、その薬の匂いを嗅がせる。
手首に一滴垂らして、自身の匂いと共に、標的に。
そうすればたちまちその恋は叶うであろうぞ……と得意げにアリエルが語った姿が目に浮かぶ。
馬鹿なことを考えた、とテレーズは今になって思う。
もちろんテレーズとて、野生児のような生活をしていたわけではない。戦地でもなければ顔も洗えば身体も拭く。衣服は清潔に、皺が気になれば熱した小手で自身でも整えていた。
けれども、きちんと身だしなみを整えたのはいつ以来だろう。聖騎士団の宿舎に勤める使用人を捕まえ、慣れぬ化粧を手伝わせた。化粧水や下地など、理解不能なまでの種類の薬液を肌に塗りたくったのはいつ以来だろう。
馬鹿なことを考えた。
自分も戦争が終わった熱狂に浮かれ、狂気の体験を得てまともではなくなっているのかもしれない。
そうだ、きっとそうなのだ。
ふと、俯いた顔に影が差す。
「どうした、しょぼくれてるな」
「……よう」
渋々と演技をしつつ顔を上げれば、そこには幼馴染みのクロードがいた。
大柄な身体、聖騎士団の礼装である白い袖付き外套はいつもと変わらず。それでいてどことなく晴れやかな顔をして、首元や頬に微かな擦り傷の跡を残しつつ。
その傷跡をふと見たテレーズの視線を躱すよう、クロードは身をくねらせた。
「格好いいだろう? 名誉の負傷だ」
「どこが名誉だよ。こんな日に騒ぎを起こして」
今日の昼過ぎ、クロードが起こした騒ぎをテレーズももちろん知っている。第一位聖騎士団長との模擬戦。その結果、練武場が崩壊したことも。
常識人としてのテレーズは、呆れている。だが武芸者としてのテレーズは、見てみたかったな、との思いもあった。
「勝ったのか?」
「負けたに決まってるだろう。やっぱりあれは無理だ、勝てん」
調子の良くなった後半、実際は何度も有効打の判定はあっただろう。しかし、有効打を与えられた判定はそれよりも多くある。実戦ではどちらが戦闘不能になったのかはわからないが、上欄試合としてはやはり負けだ、とクロードは心中で補足した。
「お前でもか」
やっぱり、と落胆の息を吐きながらテレーズは囃し立てる。テレーズからすれば、第三位以上の差はほとんどなく、やはり三人ともが怪物に見えるということを考えて。
「今のお前ならいけるかもな」
「いけないから七位なんだよ」
クロードがテレーズを、自身よりも格上と見積もっていることも知らず。
部屋の隅で、王城楽団が弦楽器を奏で始める。
こうした社交会でしばしば行われる余興の一つだ。舞踏会ほどの厳格さはなく、奏でられる曲も数曲だけ。踊りたい者が踊り、一人でも同性同士でも、家族同士でも誰でも好きに踊る時間。
テレーズたちはそれを二人で眺める。
まず踊り出したのは、賑やかしの芸人たち。これからぽつぽつと、参加する人間も出てくるのだろうか。
「私は、楽しんでいいのかな」
この戦で騎士爵を得たのだろう、着慣れぬ礼服に着させられているような粗野な男が、からかわれるようにどこかの女性に誘われて踊る。どこか滑稽で、皆が微笑ましく見ているその演目を見つめて、テレーズは呟いた。
「どうした、急に」
「みんな死んだんだ。私を残して。私だけが祝いの席に出て、いいのかな?」
自嘲するようにテレーズは笑う。
この会には意地で来た。部下たちならば、気にせず祝ってくれと言ってくれると信じて。
だがやはりテレーズは、自分がここにいていいとは思えない。喪に服すべきなのではないだろうか。せめて数日は、数ヶ月は、数年は。
「……言っただろう。俺は、お前じゃない誰かが千人無事に戻ってくるより、お前一人が無事に戻ってきた方が万倍は嬉しい。俺にとっては、この席はお前が無事だったことのお祝いだよ」
軽口のように、半笑いでクロードは言う。ほとんど照れ隠しの笑いは、テレーズに見破られたことはない。
「お前はまたそんな適当なことを……」
「本音だぞ? だから、そんなしょげた顔をするなって。お前はお前で、自分が無事だったことでも祝えばいいさ」
色々あったがな、と小さくクロードは付け足す。きっとこの幼馴染みは、自分には想像もつかない苦しい目に遭ったのだろう、と思いつつ。
クロードとて、テレーズの気持ちはわかるつもりだった。部下を失ったのはテレーズだけではない。この戦争が始まるきっかけであるジグ・パジェスとテディ・ユタン含め、クロードの第二位聖騎士団も十名の死者が出ている。主に撤退時の乱戦で。
更にもちろんテレーズと同じく、部下を失ったのはこの戦争が初めてではない。テレーズよりも歴は浅いが、およそ百年の戦歴で、上司や同僚、部下の死はその倍以上は見てきた。
その上で、いつも心がけていること。
仲間を殺された怒りも、悲しみも、忘れてはならない。ただそれは自分を支え、戦う『何か』に変えるべきなのだ。
「俺たちは生きている。まだやりたいことをいくらでもやれる。……だから、楽しんだりはしゃいだり、ふざけたり……やりたいことをやって、死んだ人間には悔しがらせてやればいいんだ」
「そうか」
聞き流すようにテレーズは返す。
羨ましい、と思った。この幼馴染みのように割り切ることが出来れば。その強さが自分にもあれば、と。
「だから、お前は強いんだな」
クロードに聞こえぬよう、小声でテレーズは言った。自分とは違って、と内心付け足して。
す、とクロードの手がテレーズに向けて差し出される。
「なんだよ」
「落ち込んでるときはふざける……じゃなかった、楽しむのが一番だ。踊るか?」
「私とお前が、か?」
呆れるようにテレーズは笑う。その笑みを引き出せただけで、クロードは達成感を覚えた。
クロードにとって、申し出を受け入れられる必要はない。むしろ、受け入れられないだろう。いつもそうだ。こうした機会で誘うことは多いが、全てその申し出は一笑に付されてしまう。
もちろん、こうした場で男性が女性を誘い、断られるのは恥の一つだ。笑い話の一つになるほど軽いものではあるし、二人の間柄によっては何の気にもならないことかもしれないが、人によっては屈辱なのは間違いない。
それでもなお、クロードは構わない。
テレーズが少しでも笑ってくれるのであれば。
テレーズも、いつもの如くに断ろうと思った。
『ありえない』の一言で決着はつく。そもそもに二人とも、踊りの経験などほとんどないのだ。剣を駆り、踊るようにして演武を行うことであれば簡単だが、それはこのような場で行う『舞踏』ではない。
だが。
瞬きをして、テレーズは逡巡する。
落ち込んでいるときは楽しむのが一番だ、というクロードの言葉、それは一理ある。
たまにはいいじゃないか、と心の中で誰かが言う。
何と言っても、今の自分には惚れ薬がある。
この薬は匂いを嗅がせる必要がある。使うときは、きっと今が相応しい。
いいのかな? という声も、またどこかで響いた。
今の自分は心が弱っている、という自覚がある。だから誰か、誰でもいいから支えて欲しいと思っているのかもしれない。
それが幼馴染みである彼だっただけだ、ということもあるのかもしれない。
だが。
しかし。
「言っておくが、私は踊れんぞ?」
「…………奇遇だな、俺もだ」
差し出された手を、そっと掴んで意思を示す。
今日はいいのではないだろうか。今日くらいはいいのではないだろうか。
今日は惚れ薬がある。これは、惚れ薬を使う絶好の機会だ。
心が弱っているからではない。この感情は、前からあった。間違いなく、絶対に。
今まで幾度となくあった選択の場面。
自分が今まで選択してきたのは、なしくずし的な『現状維持』でしかない。
選択をしないという選択。それこそが、最も愚かだというのに。
クロードは。掴んだ手をさっさと離して歩き出したテレーズに、駆け寄るようについていく。
僅かに困惑があった。断られると思っていたのに。
「……さっぱりわからん」
「まあまあ、それっぽい感じにやればいいんじゃないか?」
文句を言いつつも、テレーズはクロードと向かい合う。
クロード側は、まるで投げに入るようにクロードの身体を掴んだテレーズの手に、『今殺る気になられたら死ぬな』と内心冷や汗を垂らしながら。
芸人の踊りを見つつ、二人は一つずつ歩き方を確かめていく。
どこか足の引っ掛け合いに似た動きになってしまっているのは二人共に諦めつつ、『こうか?』と尋ね合いどうにかと形を作っていった。
ふと、クロードの鼻が嗅ぎ慣れぬ匂いを嗅ぐ。
蜜柑と檸檬を混ぜたような香り。そう悪くはなく、現在エッセンの香水の主流である甘い匂いというよりは、爽やかな香り。
香るのは、テレーズがそっと手首に垂らした香水から。
……正体と言えば、カラスの作り上げたごく弱い強心作用のある嗅ぎ薬なのだが。
しかしその匂いを嗅いで、クロードの心臓がふと高鳴るように跳ねる。
同時に見たのは、足下を気にし、クロードの足を踏まないように真剣に見ているテレーズの顔。
「……そういえば、今日は化粧してるのか?」
珍しいな、とクロードは尋ねた。
美容を気にして夜は果物だけ、と言っている幼馴染みだが、ならば化粧の一つもすればいいのにと言ってもしなかったのに。
クロードの言葉を聞いて、テレーズは視線を上げずに内心舌打ちをした。
ばれたか、という気まずさ。それと同時に覚えたのは、ばれたか、というほんの僅かな期待と喜び。
「……たまにはな」
繋ぎ握った手の中に、違う汗が混じる。
惚れ薬というものは、古今東西世界を問わず、多くの者が夢見る宝の一つだ。
水薬や嗅ぎ薬の形を取るその薬は、叶わないはずの恋を叶え、結ばれないはずの二人を結びつける。幼い憧れを恋慕に変えて、枯れた愛情を燃える恋に変える。
だが、特定の人物にのみ作用し、恋愛感情を惹起させる薬剤などはどこの世界においても現在確認されていない。
そうであるとされるものも、精々が性感を高め交わりを深くし、もしくは気分を高揚させて恋愛感情を誤認させる、という程度のものだ。
惚れ薬など存在はしない。
けれども。
「……なんだ、今日、いつもより綺麗じゃないか?」
「…………たまにはな」
見つめ合うクロードの心臓が早鐘を打つ。幼馴染みのいつもと違う調子に心打たれたように。
素直に口にした褒め言葉は、心の底から。
惚れ薬など存在はしない。
特定の人物にのみ作用し、恋愛感情を惹起させる薬剤などはどこの世界においても現在確認されていない。
けれども。
その薬が言い訳や勇気となり、一歩踏み出すきっかけとなるのであれば。
その一歩が意中の相手との仲をわずかなりとも深めるというならば。
「そうだ、テレーズ」
「なんだ?」
「後で話があるんだが……」
その薬はきっと、惚れ薬と呼んで差し支えないだろう。
と言うわけで今章終わりです。
次話から閑章・エーミールとトリステ編がはじまりますです




