宴もたけなわ
テレーズの抜けた慰労会。
彼女はとりあえず空いた椅子を並べて作った即席の寝台に横たわらせて、飲み会は続く。
貴族の女性をそのような雑な扱いをすることに店主は大分難を示していて、治療師を呼ぶか、もしくはせめて二階にある彼らの寝台を使うかと申し出ていたが、それをクロードは笑って断った。
治療師ならばソラリックがいるし、そこまで丁寧な扱いをすることはない、と。
「美人のお姉さんかと思ったら、とんでもねえ人だったな」
大分皆の酔いも回り、席の向きも机に向かないようになってきた頃だ。
背もたれのない椅子が適当に置かれ、時には料理からも離れ雑に座ることもある中、モスクはまだ正気の残る赤ら顔で僕にそう漏らした。
「部下の人たちにもそう煙たがられてるらしいよ」
「まじか」
ジグは、彼女との食事会を仕事でなければ断る勢いで嫌がっていたし。
そんなことをエピソード混じりに言うと、モスクはさもありなんと神妙な顔で頷いていた。
話題が途切れ、見回せば、なんとなくこの食事会でも『島』のようなまとまりのようなものが出来はじめる。
「普段着にしても、もう少し飾りげがあってもいいと思いますよ。たとえばですね、ベルレアン様は上背も大きく腕周りが立派なので、全身簡素にすると印象が重たくなってしまうので……」
恐縮していたリコは、近くに座っていたクロードに、いつもの調子で服の駄目出しを始めていた。
少しだけ酔っているのだろう。気が大きくなっている、ということもあるだろうが。その上でリコが調子よくなっているのは、クロード側から話しかけ、更にリコの仕事について話題を広げたのが大きな要因ではないだろうか。
「う、うむ」
「……色味がですね、色味が重要なんです。髪の色がせっかく綺麗な鴨の羽色なんですから、背中に出すならそれなりの補色を入れて際立たせて」
ちらりちらりとクロードはこちらを見る。
まるで先ほどの再現のようだ、となんとなく思った。モスクがこちらに助けを求めていたようなもの。
ならば僕も料理に夢中な振りでもするべきだろうか、と考えてしまったが。
アリエル様を見れば、スヴェンとレシッドに聞かせるよう、ご満悦で武勇伝を語っている。
こちらはおそらくスヴェンが乞うたのだろう。レシッドは皆のところにちょこんちょこんと顔を出していたが、アリエル様の話がそれなりに面白くて足を止めた、とみた。
そして、机越しの僕の前には。
「本っ当にごめんなさい……! 邪魔じでっ……わだじが、レジッドざんに、わだじも参加じまずなんでいっだがら……!」
薄い酒の杯をぐいぐいと空けつつ、涙声でソラリックが謝っている。
何杯飲んでいるのだろうか。空いた側からササメに声をかけて酒を貰っているために、器が回収されてしまっていて確認できないけれども。
そこまで気に病むことではない、と本来なら言うべきところだとは思いつつ、まあ本心では言いたくはない。
「ええと、コルネアさん? そこまで謝んなくてもいいっすよ、別に」
困ったように、モスクが言う。
「わだじ、最後だからって……そんな、許してもらえる資格なんでないんでずぅ……でも、だっで、最後だからっで……」
涙を拭く代わりに、酒を飲み干す。薄い酒とはいえ限度があるだろうに。
「さすがにこれ以上はやめた方がいいと思いますけど……」
「いえ、くだざい!!」
またソラリックが酒のお代わりを頼んだことで、ササメがそれをやんわりと断る。
困ったように彼女もこちらを見る。……彼女が注文を断るのはよほどのことだろう。
「戦争中もガラズざんとかレジッドざんに迷惑ばっががけて、わだじなんで、皆ざんに」
水色の髪を振り乱すようにして小声で泣きわめくソラリックに、モスクは渋い顔をする。
「お前の知り合いってこんなのばっかかよ」
「いえ、彼女たちは特別というか……」
むしろソラリックに関しては初めて知った。モスクの小声の嘆きに応えると、モスクは苦笑しつつ肩で僕の背を叩く。
「流石に何とかしてくれ。俺その人の扱いわからんから」
「そんなの僕もわからないけど」
気絶でもさせればいいだろうか。テレーズ相手ならばその隙もなさそうだが、彼女なら点穴しても……治療師に点穴は効かないし、なら酸素遮断でも?
よく考えたら、毒に強い魔力使いのはずが、何で酔ってるんだろうこの人。いや、本人が酔わないと思わなければ効果がないことも知ってはいるが。
僕はレシッドの横顔を見る。助けて欲しい。やはりこういうときに頼りになるのはレシッドなのだけれども。
……見るが、当たり前に視線に敏感なはずのレシッドは、こちらを確認もしない。
少しだけ見続けると、首下の辺りにじわりと汗が見えた気がする。
…………。
なるほど?
一番楽な『島』を選んだのか。あの男も。
心中で舌打ちをしつつ、僕はソラリックの隣に座りなおす。空になった杯の中、わずかに残った酒の滴を舐めるように逆さにしていた彼女の隣に。
「……最初は驚きましたが、別に誰も気にしてませんよ」
「でずけどぉ……」
「私や二人が気にしないって言ってるんです。なら自分を責めるのはやめて、せめて泣き止んで頂けませんか」
「…………」
目を強く瞑り、ソラリックが強く鼻を啜る。
僕よりも、見た目ほんの僅かに上の年齢。こうして横から間近で見ると、とても分厚い聖典や法律書をあれだけの精度で暗唱出来るような才女には見えないけれども。
僕に泣いている女性をとりなす能力はない。昔から。
けれども、どうにか。そう、アネット辺りとわざとらしく接するつもりで……。
「たしかに僕たちの慰労会の予定でしたけど、今はみんなの慰労会なんですから。ここにいた全員の慰労会なんです。だからソラリック様の慰労会でもあるんです」
言葉を探り探りになるからだろう。どうにも文章が長ったらしくなる。
だがその間、ソラリックはこちらに顔を向けてどうにか聞いていてくれる。ならば、長い言葉の方がいいかもしれない、と自分を励ましながら、どうにか言葉を紡いでいく。
なんとなく『全部嘘です。出てってください』と言いたくもなったが、一応その気も失せてはいることだし、今のうちにどうにか出来てしまいたい。
「ここにはお疲れ様、と楽しみに来てるんです。美味しいものを食べて、美味しいお酒も飲んで、泣いてたらそれこそ店の主人に申し訳ないじゃないですか」
ね? と、言い聞かせるようにしつつ、僕は誰かの『手本』を考える。
こういうときの手本。酒場での酔っ払いの扱いはレシッドが適任だろうか。もしくは誰かを諭す、ならレイトンか。もしくはコミュニケーション能力を取ればプリシラか。そのような様を見たことはないが、人生経験のあるスティーブンでもこういうところで上手く切り抜けられる気がする。……いや、それ以上に人生経験があるはずのクロードでもあの有様だ。適性がなければ無理だろうか。
現実逃避のようなことを考えつつ、そっと肩に手を置く。たしか、諭す時に接触するのはカウンセリングの手法であった、はず。あったっけ? その辺りはよく覚えていないけれども。
唇を尖らせるように涙を堪えているソラリックの顔を覗き込めば、彼女と目が合う。
「ソラリック様が泣いている方がみんな嫌ですよ。もちろん、私も」
ね? と再度言い聞かせるようにして、僕は何でこんなことを言わないといけないのだろうと、心のどこかに恨みが湧いた気がした。
むしろこれを理由に追い出してもいいのではないだろうか。もうそこまでする気は失せているが、それが再燃する理由にもなるかもしれない。
「コルネア=ミフリーです」
「……?」
尖らせるようにした唇のまま、ソラリックは俯く。
それと同時に、ぽつりとソラリックが呟いた。たしかそれは、先ほども言った彼女の名前。
「何で私だけ距離があるんですか……?」
…………何故名前を呼ばないのか、ということだろうか。
「……それを言うなら、ベルレアン閣下やタレーラン閣下もそうですが」
先ほどから、本人に閣下はいらないと告げられているし、不勉強なときには適当な呼び名をしてしまっていたが、一応彼らも正式な呼び方はそうだ。
それにソラリックに関して言うなら、彼女は治療師。軍でいうならば階級は参加しただけでそれなりに高く、……まあ今は違うが、戦争中は僕よりも地位は高かった。そのために、ずっとそれなりの呼び方をしてきたわけだが。
そもそもに、彼女は仕事上の付き合いだし。
「名前も覚えて貰ってませんでしたし」
うぐ、と僕はソラリックの言葉になんとなく後ろめたくなった。
確かにとは思う。元々覚える気がなかった、とはいえ、流石に申し訳なくはある。
「……私も、スヴェンさんたちみたいに名前で呼んで欲しかったなぁって」
そして続けて言われて一瞬僕は思案する。
まあいいだろう。僕は既に隊長業務は終了。ほぼ終戦し、軍属でもない。別にもう仕事上の付き合いはないわけだし。後ろめたくはあるし。
「…………ええと、では、コルネアさんで」
僕がそう口にするとふとソラリックは顔を上げる。
それから僕の顔を見て、ダーッと涙をこぼした。
「コルネアです。ミフリーです。これで覚えててもらえますよね!?」
「もう覚えましたから。申し訳ないです」
だからもう泣き止んで欲しい。
「はーい! じゃあ注文のお酒! 瓶でお届けしましたっ!!」
ドン、と机の上、僕とソラリックの間辺りに、大きな黒くて厚い瓶が置かれる。
モスクを押しのけ、手を伸ばして置いたササメは、にっこりと笑って「お兄さん!! 私は可愛いササメと申しますっ! 可愛いまでが一組です!! 呼んでみて!!」と元気よく僕に言った。
「しっかしすげえ顔ぶれじゃねえかな、これ」
テレーズとソラリック。二人が眠ってしまい、どんどんと人が減ってゆく。
料理も僕とモスクによりどんどんと減っていき、そろそろ甘いものを、とまた店主謹製のデザートが机の上に供される。
一応また整列するように机に並んだ僕たちは、何かの刃物を玉蜀黍でも食べるように囓っているスヴェン以外で皿に手を伸ばす。
出されたのはフレンチトーストのようなケーキといえばいいだろうか。
多分シフォンケーキのように卵白で膨らませているのだろうケーキは、小麦粉に対する卵の分量が多いのか、卵焼きのような風味が目立つ。
だが生地には干し葡萄のようなものが混ざり、その上に木苺のジャムが乗り、まぶされた粉砂糖により甘みが確保されている。
あと、噛んだら中から練乳のようなものが染み出てきた。
立方体のように切られたケーキを手づかみで口に運びながら、モスクは言う。
「お前に、レシッドさんにスヴェンさんだろ、それにベルレアン……様。五英将倒した四人だぜ、ここに揃ってんのって」
「モスク、俺、違う」
「そうだな、ここにいる四人がこの戦争で最大戦果を上げた四人だ」
壁際で、シャクシャクと包丁を噛み砕きつつ、スヴェンが同意する。
「俺、違う」
「そう言われるとこそばゆいな。俺としては、無我夢中でそんなことなど考えもつかなかったんだが」
クロードも、はは、とはにかみつつ頷いた。口の端についた粉砂糖に、男前が台無しになっていた。
「でさあ」
それからモスクが、まったく何の気なしに、とばかりに。
「この中で一番強いの誰なんだ?」
ケーキを口の中に全て詰め込みつつそう言う。詰め込んだケーキが噛み砕けなかったのか、口の中を湿らせるように酒を呷って。
その瞬間、ぴし、と空気が震えた気がした。
「誰だろうかなぁ、レシッドよ、誰だと思う?」
「俺じゃないことはたしかじゃん?」
「カラス殿やレシッド殿がいる手前、俺だとは言いづらいな」
不敵にスヴェンが笑い、クロードがそこに視線を向けずに応える。
「だが、ここで言い争うというのは無意味だと、思うのは俺だけではないだろう?」
「たしかに。なあ、レシッドよ」
「俺、何も言ってない」
「俺とカラス殿、レシッド殿にスヴェン殿の四人で、最後まで立っていた者が一番というのが確実だな」
クロードは、名前を呼びつつ指折り数える。酔っているらしい、僅かに呂律の回らない口調で。
頷いたスヴェンは、いつもと同じ。涼しげに銀の髪が揺れた。
「そうであるな」
「僕は棄権します」
「なんだ、カラス殿は棄権か」
クロードとスヴェンの間に流れたぴりぴりした空気。別に怒りや悪意のあるものではないが、自分が一番、という自負のもとの空気。
僕は耐えきれず、そう申し出る。そういうのは三人でやってほしい。僕は別に武芸者でも求道者でもないし、その辺りに興味はない。
がたん、とクロードが席から腰を浮かし、堂々と立つ。
「ではやろうか!! この三人の内、誰が名乗るのに足る者か! 天下無双は誰なのだと!!」
「ほっほっほ、面白そうなことをやっとるのう……」
それよりも甘いケーキが美味しい。もう一つ大急ぎで焼いてくれないかな。そう頼もうとした直後、クロードの言葉に応えるよう、誰かが言葉を吐く。
それと同時に鳴り響く扉の鈴。薄い香辛料の匂いと共に姿を見せた白髪の老人に、僕はおや、と眉を上げた。
「スティーブン殿」
「邪魔するぞい、カラス殿、それに皆の者」
中に歩み入り、見回したスティーブンは、椅子の上で丸太のようにぐったりとしているテレーズとソラリックを見てぎくりと肩を固める。しかしそれ以上の反応をせずに、空いている席を探すように改めて視線を漂わせた。
「どうぞ」
リコが隣の席を勧める。
だが勧められた席に着かずに、スティーブンは立ち止まる。
ササメに、自身の持ってきた特徴的な匂いのする小包を渡しつつ。
「すまんのう、いや、別に長居をする気はないんじゃ。嬉しいことに誘いを頂いたから、顔を出しに来ただけで」
「私が呼んだのよ」
アリエル様が胸を張る。未だ立ったままのクロードの横で、それ以上に大きな態度で。
「ふぉふぉ、恐れ多いことじゃが、人生楽しからずや。妖精様からのお誘いなんぞ長生きするもんじゃて」
頬を綻ばせ、スティーブンは言う。
「そこで儂を差し置いて天下無双との、聞き捨てならぬ言葉を聞いたものでな」
「参戦なさるか、ご老人」
酒臭い息を吐きながら、クロードがにんまりと笑う。腰は曲がっていないが、それでもクロードに比べて小柄なスティーブンは、机を挟んでそれを見上げた。
「若造が、と言いたいところじゃが、噂には聞いておりまするぞ。クロード・ベルレアン閣下ですな」
「そういう貴方は、スティーブン・ラチャンス殿ですな。お噂はかねがね」
にこやかに、机を挟んで手を握り合う。固い握手、に空気がまた軋む。それも冷たいものではなく、互いの自信がぶつかり合って溶けるような。
「では、簡単な話だな。我が輩とベルレアン卿、レシッド、スティーブンの四人で立ち合い、最後に立っていた者が天下無双となる」
バキ、と包丁の木製の柄を割り中から茎の部分をスヴェンが取り出す。その音に目を向けたササメは、ギョッとした顔で声を張り上げた。
「ちょっとそれどこから持ってきたんですかぁっ!? その包丁!?」
「ここは客に食うものを出す店ではないのか?」
「それ食べるものじゃないですからっ!! っていうかいつ!?」
「なかなか質の良い鋼を使っているな。美味いぞ」
ササメが「あーっ!!」と意味のない叫びを上げる。
返す、と僅かに残った柄をササメに渡しつつ、スヴェンは目を閉じてシャクシャクと美味しそうに包丁を噛み砕いていた。
皆への挨拶と自己紹介の後、スティーブンは僕の隣に座って酒を一杯だけ頼んだ。濁り酒、というが、米で作るものではあるまい。何の匂いだろうか、発酵していてよくわからないけれども。
それに囓るのは、乾いた肉。……香辛料の匂い香る、干した鶏の肉。
「……派手な帰還のお陰か、ようやく噂も出揃ったのう。妖精の子供、五英将を討ち、死者を蘇らせるという奇跡を起こしたと」
「奇跡ですか」
モスクの言っていたことと同じだ。だが、奇跡、というのは誰が言っているのだろうか。まさか聖教会ではあるまい。
「お主の名前を出し、褒めると反感買うからの、お主の名前はなかなか出んがな」
ほっほっほ、とスティーブンは笑い飛ばして、酒を呷ってほんの僅かに唇を湿らせる。
「笑えるわな。今じゃ、お主のことを〈奇跡〉とだけ言う者もおるそうじゃ」
「過分な言葉ではないでしょうか」
というよりも、実情とかけ離れていると思う。
奇跡は起きたのかもしれない。アリエル様の顕現、それに陽光の橋。聖教会が奇跡と認定するものは。
しかしそれは僕ではない。僕が関わっていたことではあるが、僕が起こしたことではない。死者を蘇らせるという奇跡、というのは奇跡認定していいものではないだろうし。
「僕が今回聖教会に嫌がらせをされ、スティーブン殿にも迷惑をかけたのは、その『奇跡』のせいなんですが」
「ほう?」
「片っ端から聖教会に密告してみても面白いですね。僕の行いが奇跡となるのか、と問い合わせてみても」
「ひねくれたことを言うもんじゃないぞい」
「終始一貫した態度を取っていてくれれば、何の問題もない話です」
僕もご相伴に与った干し鶏肉を囓る。
美味しく……そして懐かしい味だ。
「儂は挨拶に来ただけじゃが、この干し肉はカラス殿への贈り物じゃろ。お前さんを気遣ってるのはここにいるもんだけじゃない」
「きっと僕が知っている人ですよ」
スティーブンが持ち込んだ土産の干し肉。
実はこれは、スティーブンが用意したものではないのだという。干し肉の小包は、スティーブンが自宅を出たとき行き会った名前も言わぬ『本人』から。『カラスならば渡せばわかる』と。
……ニクスキーさんも剛胆だ。
だが僕の軽口の反論に、スティーブンは首を横に振る。
「儂が月野流を立ち上げたときもそうじゃった。戦場で大活躍した儂のことを、褒め称えてくれたのは酒場の一部……そうじゃな、十人いれば二人というとこじゃ。それに、幸運に乗れただけの成り上がり者、そのうち消えると陰口を叩いたのも同じくらいじゃな」
酒の水面を見つめるスティーブンの目は優しげで懐かしげだった。
節くれ立った指が、酒の杯を軽く叩く。
「それでもじゃなぁ……いかんいかん。つい説教くさくなってしもうた。歳を取るとどうもな」
自分に呆れるようにスティーブンは言葉を継ごうとし、そこでやめる。
言葉の代わりに、酒をぐい、と飲み込んだ。
「とりあえず、思った以上にカラス殿を心配する者は多いんじゃろう。ここにいる者たちだけじゃなく、お主を嫌う者と同じくらいには。うん、この前ので不安になっとったが、なんとなく安心したわい」
「ご心配どうも」
「その袖も、……今度はどこの娘さんじゃ?」
「袖?」
ん? と僕は自分の袖を見る。
竜鱗の外套と下着の袖を捲り、前腕を露出した自分の腕。
……しかし、袖とは……。
…………ああ。
「これは」
「袖通しの槍じゃろ? 普通は槍の柄に括り付けるもんじゃが」
「いえ、これは刺繍ですね」
捲り上げた袖。そこから見えるのは、リコの入れてくれた薫衣草の刺繍。
自分が共に戦えないから、とおまじないの意味を込めて。
なるほど、と僕はその刺繍を撫でる。
そういえば、アリエル様が言っていた守りのおまじない。ルルにも負けないほどの、というこれは。
なるほど。そう何度目かのなるほどを心中で僕は繰り返す。
やはり僕はまだ何も周りが見えていないのだろうな、と少しだけ忸怩たる思いで。
スティーブンは僕の袖を掴み、撫でて確かめる。袖を縫い付けてある、というようなものではないのだと確認するように。
「お主は槍が使えんからか。ほほ、そうかのう。儂も妻の袖を剣の柄に縛り付けて出たわい。結局なくしてしまって返せんかったから、怒られたがのう」
また懐かしむように遠くを見て、スティーブンは干し肉を囓る。
「それでも、儂がその代わりじゃ、と抱きしめて迎えてくれた。儂自身が戻ってくればそれでいい、と」
「はあ」
「それでカラス殿も結婚するんか? それともしたんか? 夫に渡す袖通しの槍なんぞよく知ってる娘さんがいたのう。これはめでたい」
「…………いえ?」
ん? とそっと僕はリコの方を見る。
リコは茶色い髪の毛を翻すように、顔を逸らしていたが。
僕はスティーブンに向き直り、小さく首を横に振った。
「……私を心配してくれたおまじないらしいですが、これをしてくれたのは女性ではないので」
「うん? ……あ、ああ、例の靴の結び目の者かの。なるほど? 古いまじないじゃし、どこかで意味が変わってしまったのかの」
頷いて、スティーブンは自分で納得する。
「どうですかね。でも、アリエル様曰くとても強いおまじないだったらしいです。僕の命を、きちんと守ってくれたと」
リコも勘違いをしたのだろうか。それとも、なんというか、他に思いつかなかったからの姑息の策だったのだろうか。それは僕にもわからないけれども。
とにかくとして、改めて考えてみれば『ルルにも負けない』とアリエル様が何かしらで感じられるほどの。きっと、とても強いものだったのだろう。
ありがたい。
視界の端で胸を撫で下ろすような仕草を取ったリコを確認し、僕はそれ以上の言及をやめた。
というわけで、次話でこの章の本編終わりです。




