閑話:二人
頼子さんの風呂敷は畳み終わり。
おそらくこれが今年最後の投稿です。皆様よいおとしを。
静岡にある伊豆山神社は、参道入り口である海岸から本殿まで、八百八十七段の階段が伸びていることで知られている。
季節は夏。ミンミンと鳴く蝉の声を浴びながら、二人の女性が階段を昇っていた。
「何も、下から、上ること、ないじゃない……!!」
喘ぎ声を上げながら抗議の声を上げた高宮は、友人である藤波頼子を恨めしい目で見上げた。
数段だが上におり、そして高宮よりもやや軽快な足取りが残る頼子は溜め息に紛らわせるように一息をついた。
「そうしないと御利益がないって聞いたもの」
「だからってさぁ……!」
既に三百段以上を上り、まだ終わりが見えない。それもそうだろう。未だこの先は五百段以上の階段が残る。
だが、高宮の抗議も正当ともいえるものだ。
伊豆山神社の参道、その階段は一繋ぎのものではなく、道路を挟んでいくつかに分かれている。
その中でもっとも伊豆山神社本殿に近いのは、鳥居の前から続く階段。そこはおよそ百七十段程度しかなく、全体からすれば四分の一にも満たない。
そのため多くの者が伊豆山神社を訪れる際、馬鹿正直に海岸から上ることはない。
車などの交通手段を使い、その鳥居のところまで乗り付けるのが一般的であった。
しかし頼子は階段を見上げて、そうではいけないのだ、と気を引き締める。
頼子がここへ来たのは、この神社の御利益に与るため。
「私は、良い人を、早く見つけないといけないんだから」
見据える先にある伊豆山神社は、縁結びの神社としても知られている。
古くは平安の時代。源頼朝と北条政子の逢瀬の地であるからとの謂われがあり、だからこそ良縁を求める者たちがそこへと参る。
頼子もそのためにここへと来た。早くに父を亡くした幼少期の頼子の家庭は、困窮するまではいかずとも裕福ではなかった。
今はさる名家の当主の妾となった母のおかげで『そこそこ』の生活をしていたが、妾というものには何の保証もない。年老いれば捨てられてしまうかもしれない以上、いつまでもそうしてはいられないことも知っている。
せめて、自分が早くに良い相手を見つけなければ。
そう願い、少しだけ焦る頼子が神頼みをすることも無理のないことだ。
もっとも、東京に住む頼子がこの伊豆を訪れたのは、この神社が目当てだったわけではない。
伊豆へ来たのは、単なる夏の小旅行。頼子の母が囲われている『さる名家』の者たちが夏を過ごす別荘に、母や自分の友人と共に誘われただけのこと。
そして札遊びや卓球にも飽きて暇を持て余していた際に、たまたまこの神社の噂を知っただけのことだ。
乗り気でなかった頼子は、主催した家の者に会うことはなかった。付き合いは母に任せて、自分は海で遊んでいれば良いのだと。
だがそれでも僅かに触れた豪奢な生活に、酷く呆れたものだった。
頼子の想像ではあるが、家族の者たちが使う別荘が豪華なのはわかっていた。平屋だが、海が見える大きな建物。西洋から取り寄せた調度品が惜しげもなく使われているモダンな部屋。
陶磁器のランプは割れば頼子の人生一つ失うほどの値段。ガラスのビーズが使われたシャンデリアは絢爛そのもの。まさしく上流階級の者のためのものであり、庶民の近づけるものではない。
だが、その上で。
驚いたのは、頼子たちゲスト用にも一グループに一つの建物を貸し切る余裕だった。そのゲスト用の等級の低い建物内すらも、上等な絨毯が敷かれて美しいクリスタルの花瓶が飾られる。
旧家というものは、華族というものはそういうものなのだろうか。
そう頼子は圧倒されていた。
今日ここに来たのは、その空気を吸いたくなかったからということもある。
とにかく頼子は外へ出たかった。圧倒される重厚な空気は吸いづらく息が詰まる。
しかしここには森がある。緑がある。
手すりのない石段脇には真っ直ぐな木が立ち並び、その上にはうんざりするほどの青空が見える。夏の暑い空気も午前の時間帯にはやや鳴りを潜めていて、彼女らはようやく息が出来る心地だった。
「頼子なら、こんなところに頼らなくったって、いい人すぐ見つかるでしょ!」
息を切らして汗を垂らして、高宮は言う。本音だった。
彼女らの通う高等女学校の中では、彼女は目を引く見た目ではない。しかし、悪くもない。成績は良く、気立ても悪くない。……それが『悪くない』程度でも褒められることだ、というのは半分程度高宮の偏見だったが。
「わかんない、じゃない」
頼子の息も切れて、言葉が途切れる。
頼子も容姿に自信があるわけではない。気立てなど、もっと自信がない。自身の性格など人と比べられるものでもなく、良いとは思えない。
だが、だからここに来たのだ。
結婚は人の縁だという。ならば、仮に自分がどれほど器量が悪かろうが、気立てが悪かろうが、神様ならば何とか出来るだろう。何とかしてくれるだろう。
もちろん頼子は神性や霊性など信じているわけではない。彼女が持つのは、信じていないとは言い切れない、程度の日本人特有の緩い宗教観だ。
その緩い信仰を積み重ね、彼女は時折神棚や神社仏閣で祈ってきた。
誰か良い人が見つかりますように、母親に苦労をさせないように、と。
「……ここから何段だっけ……?」
「あと百七十段、くらい……」
膝に両手を当てて俯き、振り分けの髪の先滴る汗を泥の地面に落として、二人は視線を交わさずに唾を飲む。
二人ともがここまでとは思わなかった。運動不足ではないはずだが、足が震える。頼子の藤色の膝下のスカートの裾が、汗でふくらはぎにへばりつく。
自身のスカートの裾をばさばさと振って足に空気を送り込む高宮に、「はしたない」と苦言を呈した頼子も、そうしたい気分だった。
「もうここで」
やめにしない? と言いかけた高宮を、頼子は視線で制する。
まだだ。まだ自分はお参りをしていない。
お参りをするのだ。お参りをして賽銭箱に一銭銅貨を投げ入れて、きちんと手を合わせるのだ。
そうしなければいけない、という使命感。ここまで来たのだから、というどこか義務感のような感情に突き動かされ、頼子は更に上を目指す。
のしのしと上がっていく頼子の背中に、待って、とも言えずに高宮は何度も深呼吸をして強引に息を整えた。
ここまでと同じく手すりのない石段を踏破し、二人はようやくと一息吐く。
石畳の上で尻から座り込みたい衝動を抑えるようにして、奥に見える朱塗りの本殿を見据えた。
ここまで来ればもう一息だ。額の汗を手の甲で拭いつつ、まずは左手側に見えた手水社へ。
「手水はちゃんとしなきゃ」
「頼子細かいよ」
左手を清め、右手を清め、口を濯いで柄杓の柄を洗う。その一連の動作までも綺麗に行う頼子にうんざりしながらも、高宮はそれに倣った。
どこか厳かな雰囲気にそうせざるを得なかったというだけではない。その頼子の仕草のあまりの真剣さに。自分も適当には出来ない、と。
そして、本殿での祈祷に付き合うのも、もはや適当には出来なかった。
一銭を投げ込み、鈴を鳴らして手を合わせる。
その際にも、二回礼をし二回手を叩く。そんな細かな仕草に、そして真剣な顔に。
隣で手を合わせた高宮は、そんな頼子にどこか見とれるほどだった。
閉じた目の先にくるりと睫毛が遊ぶ。紅を差さずとも血色の良い唇。手には皺一つなく健康的な肌は瑞々しい。
頼子の器量が悪いとは高宮も思っていなかった。
しかしほんの一瞬前までとは違う印象。幼げの混じる少女とも言えたはずの友人が、正しく大人びた静謐さを帯びた女性に見える。
僅かに眉間に寄った皺から感じるものも、険しさではなく強さ。
頼子も高宮も、まだ十五を過ぎた程度の若い女性である。当然のように、自分の美しさを誇りたい年代だ。
けれど高宮はその時には一切そのような感情を抱けることなく。
頼子はゆっくりと眩しさを堪えるように、その目を開く。
そこでようやく自分が頼子を見ていたことに気がついた高宮は、自分も手を強く叩いて合わせる。
「金持ちでいい人と結婚できますよーに!!」
大袈裟に、大きな声で唱えたのは、誤魔化しからだった。
どこかを上るのはもう疲れた。それは二人の共通見解だ。
「どうする?」
高宮は、本殿裏にある白い鳥居を指し示す。
そこから先は先ほどまでの石段とも違う、山道だ。
伊豆山神社の境内から繋がる道には、本殿以外にも本宮社と呼ばれる社殿がある。そこに至る道には白山神社や結明神社本社と呼ばれる場所も存在し、そこもまた霊験あらたかな場所ではあるが……。
「……今日はもう、いいかな」
頼子もその先を見てげんなりと肩を落とす。もはやその先は山道、それも修験者が修行に使うための険しいものだ。滑り止めのために所々に木々が埋め込まれ階段状になっているが、それはもはや坂道といっていい。
何よりその先の神社、それも頼子の目的に適う縁結びの結明神社は、本殿に上るまでの階段脇に分社がある。
帰るときにそこに寄ればいい、と甘い考えを浮かべてしまうのは、尻の下の筋肉の引きつりからだった。
最後に、と社務所でおみくじを引いて二人はまた階段を下る。
頼子は吉、高宮は中吉、と二人とも悪くはなかった。
「ねえ」
「ん?」
一歩足を踏み出す度、二人は恐る恐ると階段を降りていく。疲れた足が支えにならず、手すりのない階段に苛つきながら。
それでも快活な笑みで、高宮は尋ねた。
「頼子はさ、好きな人とかいないんだよね?」
「……うん」
恥ずかしげに頼子は言う。問い返すことはしなかった。高宮は最近、通学途中にすれ違う自転車の男の子が気になっているのだ、と昨夜隣の布団で聞いたばかりだった。
頼子は恋などしたことがない。
気になる男の子、という風なことを聞いても、正直理解が出来なかった。漱石や鏡花を読んだところでも。
頼子にとって、男性は結婚できるか出来ないか、だ。そして結婚できるかどうかすら、自身を幸せに出来るかどうかと考える。
友情は理解できる。きっと今高宮に抱いている感情と同じだろう。
愛情も理解できる。きっと、母と自分が互いに向けている感情だろう。
けれど、恋慕の情は。
「頼子は綺麗だから、好きになったらきっと叶うよ」
「だといいんだけどねー」
高宮の言葉を、ふふ、と頼子は小さく笑い飛ばす。そんなことは起こらない、という諦めのような感情と、そんなことはない、という否定の感情を込めて。
汗がまた滴る。顎先に落ちてきた汗を不快感と共に袖で拭う。そうやって騙し騙し彼女ら二人は、百七十七段の石段を転がらないようにゆっくりと下っていった。
頼子と高宮は、階段を下りきる前に見慣れないものを見た。
その下、土の道路には二人の男性がいた。
一人はおそらく使用人だろう。シャツのボタンを千切りそうなほど恰幅の良い身体に、ポマードで撫で付けた七三分けの年配の男。
そしてその横にいたのは、当時まだ珍しい車椅子に乗った二十前の男性だった。
ワイシャツの釦を上まできっちりと止めた若者は、静かに俯くように目を閉じている。両手は合わせ、階段の上に向けて熱心に祈っていた。
見目良き男性。車椅子という奇妙なものはあれど、二人の女性はそこに釘付けになる。
頼子は不思議な感覚を覚えた。
男性の閉じた目。その閉じた目に、射貫かれた気がする。その正しく美しい姿が、何故だか目を閉じても瞼の裏に浮かぶ気がする。
どちらともなく言葉を発することをやめ、頼子と高宮はその横をすり抜けるように通り過ぎた。
蝉の鳴き声が聞こえなくなる。頼子はまるで震えるように息を詰め、襟をかき寄せた。背後の彼に気付かれないようにと気遣うように。
何故だか心の臓が高鳴る。
最後にちらりと車椅子の後ろを見れば、彼はまだ祈っているようだった。
「見た?」
高宮に聞かれ、頼子は頷く。
二人とも足の疲れを忘れ、並ぶようにして階段を下る。先ほどの道で参道から外れようと話していたということも忘れ。
「……――家の若様でしょ」
「…………」
頼子はまた小さく頷く。そうか、あれが、と納得した。
母が世話になっている旧家の令息。兄弟の何番目かは忘れたが、一人片輪の者がいると頼子は聞いていた。生まれつき、足が悪くて歩けないのだと。
そうか、あれが。
顧みても、もはや彼は階段の上にいる。その影すらも見えずに、頼子は目で追えなかった。
けれどもその残り香のような光が、どこか立ち上り風に巻かれて飛んできた気がした。
そうか、あれが。
「頼子?」
「…………綺麗な人だったね」
髪の色か、眉か額の形か、それとも唇か。合わせた手か、細身の体型か、どこがすらもわからないが、頼子はそう思った。
静かに祈っているようにも見えた。けれどもその実、悲しみを湛え、妖しく光るようにすら見えた。
高宮もその言葉には同意だったが、頷きかねて押し黙る。
頼子の微笑みが、いっそう美しくなった。そんな気がして。
階段を下りながら、頼子は今し方見た光景を思い浮かべる。
互いに目が合って、静かに伏せた彼の顔色。聡明で物静かな気配。正しい美貌。
彼の笑顔を見れたらどんなに素敵だろう。
どんなに、幸せなのだろう。
二人で引いて結び損ねたおみくじが、頼子の腰のポケットの中でくしゃりと音を立てる。
"総合・吉"
"健康・注意ガ必要"
"学業・努力ガ実ル"
"仕事・…………
……
……
"良縁・スグニ来タル"
彼らの結婚はこの二年の後。
そのおみくじが当たっていたのか、それとも外れていたのか、頼子にはわからない。
けれどもその小さな紙片を頼子は終生捨てずに側に置き、そして煙となって天に帰るまで、それを誰にも見せなかった。




