人づてならで言ふよしもがな
レグリスの執務室はもちろん彼女の寝室と分かれている。
このザブロック邸で書き仕事をするための部屋。大きな机がはめ殺しの窓際にどんと置かれ、壁には資料が積まれた本棚が並ぶ。端にもいくつか机があるのは家令や他の誰かのためのものだろう。
侍女が開く扉から、レグリスに続いて僕たちはそこに入る。
既に壁際の蝋燭にはいくつも明かりが点され、暗くなりつつある外の明かりを補っていた。
「ルルも呼んだのですか?」
その中で、椅子にも座らず待っていた人物は、僕たちに続いて入ってきたルルを見て声を上げた。
僕たちの背後にいたルルも、彼女を見てごく小さく声を上げた。
薄手の茶色いワンピース。
赤茶色に染められた髪。長いウェーブの掛かった髪はルルとは違うが、やはりどことなく似るものなのだろう。
一瞬僕は『誰だっけ』とも思ったが、きっとそう思えたのは良いことなのだろうと思う。
「いいえ。私に話があるそうですよ。まずはそれから聞きましょう、ストナ」
「ふうん」
納得したようにストナ・サンディアが応える。無礼に近いがぎりぎり不遜ではないだろう。彼女はレグリスに応えたのではない。自分の娘を見て鼻を鳴らしたのだから。
「お久しぶりです」
「久しぶりね。あのときの子供が大きくなって」
口だけでクスクスと笑う。怜悧と愛らしい。印象は真逆だが、その顔は確かに娘であるルルに似ていた。
「レグリス様、立派なものじゃないですか」
「まあ話は急がずに」
後ろで扉が閉められる。それでも動かないルルに、「ルル?」とレグリスは促す。
僕も振り返る。
一瞬遅れて、ルルは目を覚ましたかのように瞬きを繰り返した。
「お母さんが、何で?」
「名前で呼びなさい」
ぴしゃりと叱りつけるようにストナが言う。
まるで母に叱りつけられた子供のように……まるででもなんでもなくその通りなのだが、ルルは身を固めて、それから多分謝ろうとして一度開けた口を閉ざした。
閉ざした口をほんの少しだけ開けて、ルルがまた言いづらそうに言葉を吐き出した。
「どうして、ストナが」
「よろしい……ではありませんね。失礼を申し上げました、ルル様」
くすくす、と笑うストナに、ばつが悪そうにルルは目を逸らした。
縁が切れているというわけではないだろうに。貴族へ養子に入るというのはそういうことなのだろうか、やはりまだ僕にはわからないことだらけだ。
「レグリス様に呼ばれて参りました。大事な話があるから、とね」
「大事な話?」
「おそらく、今から貴方が話そうとしていらっしゃることに関わることですよ」
笑みを一度消して、一瞬ちらりとストナが僕を見る。
その視線はそのまま僕の隣に滑り、浮いている女性に向けられた。そこで初めてにこりと目までも笑う。
「ご挨拶が遅れました。アリエル様。無礼をお許しいただきたく、私から名乗らせていただけますでしょうか」
「許すわ」
「ルル・ザブロック様の生母、ストナ・サンディアと申します」
折り目正しい礼、という感じではない。しかし丁寧で柔らかい印象の礼。
オトフシのような軍属的なものでもなく、ミルラのような毅然としたものでもない。印象的にはサロメがほぼ近いだろうか。お腹の辺りで手をまとめたその形は、エプロンなどを着けるとよく似合うと思う。
やはりというかなんとなく、官吏や貴族のものではない。この家に昔務めていたというくらいだからだろう、使用人の類いの。
「だいぶ……若いわね」
「それは嬉しいお言葉ですこと」
その姿を見分しつつ、どこか面食らう様子で少しだけ下がったアリエル様に、ストナが追い打ちを掛けるように笑いかける。
「ご子息様には命を救って頂いたこともございます。お礼も出来ずにあの時は申し訳ありませんでした」
そして僕にもすらすらと礼儀正しく言葉を掛けてくる。しかし瞳に射貫くような圧力がある。
何故だろうか、アリエル様の気持ちがわかった気がして、僕は「いえ」と返すだけで精一杯だった。
「……挨拶も済んだところで……、それで、ルル、話とは?」
「ぁ、はい……」
机に寄りかかるようにして振り返ったレグリスが、扇で口を隠しつつルルに話を振る。
ルルは呆けたように固まっていたが、それをほぐすように一度頭を振った。
「貴方の婚約の話、でしたっけね?」
「…………」
また言葉を出せずに固まるルル。視線を漂わせ、そしてまたストナを見てびくりと肩を固めた。
それから小さく、ぼそぼそと口を開く。
「私の、婚約について……今日、レグリス様が、その、……」
「……? ごめんなさい。もう少し大きな声でお願いできますか?」
「……今日! レグリス様が私の縁談のためにお出かけされていたと聞きました……!!」
促され、言ってから、自分でも大きな声が出てしまった、という風にルルが自分で驚いていた。
レグリスはパタパタと扇子を動かす。
「どこでそれを?」
尋ねつつレグリスがこちらをちらりと見る。僕を疑っているのだろうか、それとも何の気なしだろうか。それはわからないけれども。
「誰からかはいえませんけど、使用人からです」
「そうですか」
ルルの言葉に、レグリスはふむと納得する。
「知っているならば言っても構わないでしょう。その通りです。ビャクダン家から縁談の申し込みがありまして、今日は外出しておりました」
それがなにか? と言外にレグリスは言いつつ先を促す。
俯くように唾を飲み、ルルはその声音を鎮める。
「……結婚は、しなくてはいけないのでしょうか」
「貴方もそろそろ適齢期というもの。私としては、勿論と言わせて頂きます。特に貴方はザブロック家の血を継ぐ最後の一人。貴方の子しか、ザブロック家を継げる人間はいないのだから」
「でも……」
拳を握りしめ、ルルが言葉を失う。
「…………その、相手を自分で見つけます、なんて言えませんけど、どうにかする、なんて言えませんけど、それでも……」
そして言い訳するように、けど、と続ける。
「わがままだって、わかってます、けど」
「ルル様は何を仰りたいんですか」
まだ言葉を止めないルルに、じれったそうにストナが呼びかける。
その呼びかけに怯えるようにルルが少しだけ身を引いて、それから視線を向けた先は、アリエル様に、僕。
助けを求められても困る、が、助けたいのも事実。
僕は喋ることもまだ決まらず、それでも口を開こうとする。しかし、それよりも先に。
「もう少し、……結婚については待ってもらえませんか」
「……もう少し、ね」
じろりとレグリスが僕を探るように見る。
ストナは不満げにルルを見て、溜め息を堪えるように胸を膨らませていた。
「今だけは身分の差も置いて、母として言います。貴方は本当にわがままよ」
「わかっています。結婚をいつかはしなければいけないことも。でも、私は」
言葉を溜めるよう、ルルは言葉を切って、黙る。
部屋に流れた一瞬の沈黙。
その沈黙を破ろうと、ストナがまた何か言葉を発しようとしたのだろう、息を吸うと同時に、またルルがその言葉を遮る。
「私は、幸せになりたいんです」
「だったら……」
「……私は! ジュリアン様との結婚は御免です!!」
今度は肩を怒らせるように足を開いて、二人の母親を見て、叫ぶように。
その大きな声にストナは目を丸くしてから、口を閉ざして緩く微笑む。
ストナから視線を向けられたレグリスは、憮然とするように表情を消して、溜め息をついた。
「ジュリアン・パンサ・ビャクダンとのものは、ビャクダン家から持ち込まれた縁談です。相手方の家格も申し分なく、断る理由はありません」
「……言いたくありませんが、王城での彼の振る舞いは」
「言いたくないなら言わなくて結構」
口元を隠したまま、レグリスが言う。ルルは口を閉ざすが、それ以上はそれに怯むことなく、視線を交わらせたままだった。
「公爵家からの縁談です。伯爵家の我が家が無理にそれを断れば、今後の他家との付き合いも考えなければいけません。断るにもそれ相応の理由というものが必要です。それでも?」
「……それは……」
だがレグリスの続く言葉に、ルルは言い淀む。
「それでも、結婚はしたくない、と?」
「……もしも、無理にでも、とお母様が仰るのであれば」
了承する、とでも言いたげな言葉。だがその言葉の最中に、僕を見る。
それからまた覚悟を決めるように唾を飲む。
「私はこのお屋敷から姿を消すでしょう。どんな見張りの中であっても、家中の扉に鍵を掛けて、全ての窓を張り付けにしても、煙のように」
「…………」
また一瞬皆が黙る。
僕はその中で内心頷く。意図は伝わった。
ならば今夜、僕が連れ出そう。オトフシも先ほどの様子ではついてくる。サロメも一緒に。
アリエル様が協力してくれるかどうかはわからないが、協力してもらえなくても充分だ。僕一人で、全員どうにかする。
覚悟は決まった僕の顔。漏れてしまったのだろうか、ストナが僕を見て、楽しげに身体を傾げた。
そして、レグリスが噴き出すようにルルに向けて小さく笑う。
「素直に『出て行きます』と言えばいいのに。どの本に出てきた言い回しですか?」
レグリスの言葉にルルが頬を染めたように見える。無表情の中で、なんとなく恥ずかしげに。
満足げにレグリスは頷いて、扇子を閉じた。
「いいでしょう。その様子では、出来るのでしょうね?」
後半は僕に向けて言う。隠している気はないが、隠す気もない。僕は素直に頷く。
オトフシの力も借りれるだろうし、僕に注意を向けられるならばそれもいいだろう。
「何度も言いますが、ルル。ビャクダン家からの縁談は、断るにしてもそれ相応の理由というものが必要です。それはおわかりですね?」
「わかっています、けれど……」
「わかっているならよろしい」
ルルの言葉をレグリスが遮るが、その言葉に棘はない。
その顔も、険のあるものでもなく緩い笑顔だ。頬の白粉に罅が入った。
「では、カラス殿」
レグリスの呼びかけに、僕は無言で続きを待つ。
そして、改まって、レグリスは軽く頭を下げた。
「カラス殿から申し出て頂いていた縁談、受け入れさせていただきます」
「え?」
僕とルルの声が完璧に揃い、そして視線が僕に集まる。
申し訳なさそうにレグリスは眉を顰め、手の甲を額に当てた。
「本当ならばご母堂であらせられるアリエル様を交えて、静かにお話しさせて頂きたかったのですが、このような場になってしまい大変申し訳ありません」
ねえ? とレグリスがストナに声なく問いかける。ストナは静かに頷いた。
「え、あの、レグリス様!? カラス様との縁談って!?」
「貴方には話しておりませんでしたね。五年ほど前に、カラス殿からストナに申し出があったそうなのですよ。私も聞いて驚きましたが」
「五年? え?」
どういうこと? とルルから視線を向けられるが、僕からしても頭の上に疑問符が飛び続ける。
何の話? と聞き返したいが、なんとなく聞き返せない圧力が部屋に満ちる。
そんな僕を嘲笑うように、ストナがにやりと笑って口を開く。
「『一廉の人物になったら、ルルお嬢様をください』。今にして思えば、あのとき受けておくべきでした。まさかあのときの子供が、アリエル様のご子息だとは露知らず」
「え、あっ!」
僕もそれを聞いてようやく思い出す。
確かにそのようなことを言ったと思う。
たしか、その目的はストナから僕の評価を確かめるためのものだったはずだが。
「『あっ』?」
そしてストナの目がスッと細くなる。
睨むようで、責めるように。
覚えてなかったのか、と言葉を吐くように。
「……いえ、確かに私の言葉です」
久しくないが、熱に浮かされたように、僕は言葉を紡ぐ。覚えているというか思い出したが、そんなはっきりと口にした気はしないのだけれども。
どこかしらで脚色が入っていないだろうか。そう思うが、それを口には出せなかった。
「あんた結構やるじゃない」
ヒュー、と口笛を鳴らしつつ僕の髪の毛を引っ張るアリエル様を無視して、僕はルルの方を向く。
「…………!?」
しかし視線が交わると、どちらともなく逸らしてしまった。
取りなすように、誤魔化すように僕はレグリスを向く。
「しかし、その、私は貴族ではありませんし、追放処分を受けたばかりです。縁談の相手に未だ不適格では?」
「貴族ではない。追放処分を受けた。それが縁談に、何か関係でも?」
「……ないんですか?」
「あるといえばありますし、ないといえばありません」
そんな曖昧な。
未だ脳内が混乱している最中。抗議するようにレグリスを見つめるが、レグリスは鼻から長い息を吐いた。
「既に話は聞いております。カラス殿はいくつかの家から養子に入るように求められているとか」
「今日の話でしょうか」
「そうです。そしてその時、爵位を与えると言われたのでは?」
僕は頷く。確かにそのような申し出が複数あったし、ティリーからもそのようなことを聞いた。
「そして既に、カラス殿はアリエル様のご子息でらっしゃる。アリエル様は一代限りとはいえモモ公国の爵位をお持ちであらせられます」
「そうなんですか?」
「そうなの?」
アリエル様も初耳、と声を上げる。僕が見返すと、アリエル様も首を傾げた。
「亡国ではありますが、魔王戦役後、婦爵として叙爵されたとか」
「あー、あの、兵隊バッジみたいなの」
「ならば貴族として扱ってもよろしいのではないでしょうか」
「……差し出がましいとは思いますが、その、暴論では……」
親の一代限りの爵位。それに、既に滅びた他国のもの。仮に僕がそれを持っている誰かの実の息子だとしても、貴族とは言えないと思う。
レグリスも頷く。
「ですから申し上げたとおり、あるといえばあり、ないといえばないのです。実質的にはなにもありませんし、申し立てられようとも無視されるかもしれない。しかし、アリエル様ご本人や、この度の戦場で活躍されたカラス様の発言力を以てすれば」
自信ありげにレグリスは言い切った。
いや、問題あるし、それにそれ以外にもまだまだ残っている。
「では、追放は?」
「何の話でしょうか?」
レグリスは首を傾げる。だがその声音は、真剣なものではなく戯れが混じる。
「未だ公式に発布されたわけでもない、内々のもの。ザブロック家当主である私はまだ知らなかった以上、この婚約が成立するのには邪魔にはなり得ません」
「しかし……ビャクダン家との縁談は」
どれだけの良縁でも、たとえビャクダン家の後に王子との縁談が上がったとしても、縁談は先に決まった方が優先されるのが当たり前だ。
既にビャクダン家との縁談が決まっているのなら、それは……。
「当然、お断りしてあります」
レグリスが肩を僅かに一度上げて下げる。
肩こりをほぐすように、というか疲れにうんざりしたように。
「今日遅くなったのはそのためなのですよ。ビャクダン大公はお気を悪くなさらなかったようですが、息子が駄目なら、と次々に太師派のご子息たちを勧められまして。四件ほど直接お断りするために回ってこなければならず」
……。
…………?
僕はレグリスの言葉にどこか違和感を覚えた。
何か矛盾がある気がする。
「ぁ」
「うちのルルでは不満ですか? まあ、そうかもしれません。今や戦場の英雄たるカラス殿、アリエル様のご子息たるその尊い身ならば、引く手あまたでしょう。うちの娘なんて貧相なものを娶る気にはなれなくなったかもしれませんが」
僕がまた何かを言いかける。
だが、ストナがそう言ってそれを止めた。おそらくわざと。
咎めるようにレグリスが咳払いをする。
「今はサンディアではなくザブロックです」
「ああ、失礼いたしました、奥様」
返事の代わりにもう一つ、コホンと咳をしてレグリスはまた口を開く。
「正直、ザブロック家としてもカラス様の身は欲しゅうございます。でもそれ以上に……そうね、ルルには、幸せな結婚をしてほしい」
身体ごと振り返り、レグリスは外を見た。
窓ガラスの向こう側。既にほとんど黒くなり、少しだけ青みが残っている暗い外。
「確かにカラス殿は貴族ではありません。追放処分も決定しております。ですが、ただそれだけではないですか?」
「それだけ、というか……」
「もちろん今回はその相談のためにお呼びしたのですが……。カラス殿やアリエル様が反対、もしくは拒否されるともなれば全てなかったことに致します。またそれ以外の条件を付け加えたいと仰るならばなんなりと」
レグリスは扇子を侍女に手渡す。空いた手で何かをするのかと思ったが、そうではないらしい。
「私は幸せな結婚とは、まず好きな相手と結婚することだと思います。その上で、相手の家や能力に問題がなく、相手が自分を好きでいてくれているならばなおのこといい」
「本当ね」
訳知り顔でアリエル様が頷く。それを無視したわけではないが、レグリスは何の反応もせずに続けた。
「私は縁あって、そして運良く幸せでした。ベンジャミン様と結婚し存分に愛して頂けた。……心残りは子供が出来なかったことだけ」
恥ずかしげにレグリスは語る。白粉の中で、その顔色や首筋の色は見えないけれども。
「正直、女伯爵家というのは没落に向かうものです。女伯爵など、大抵は断絶がほぼ確定した家が最後の情けとして陛下に認められるもの。そんなザブロック家に、縁談など持ちかけてくる家はいない」
レグリスが振り返った。
扇子もなく、もはや顔も隠さずに。
「そんな中、これは、と思うではないですか。娘の想う相手が婚約を申し出てくれていた」
「レグリス様!?」
「しかも相手はアリエル様のご子息……とまでは昨日まで存じ上げませんでしたが、戦場で大活躍した眉目秀麗な若者。実家を継がずともよい自由の身。家も継いでゆけて、更に娘に幸せな結婚をさせてあげられる。これ以上の相手などそうそう見つかりませんとも」
レグリスの言葉に、いや、と僕はどこか否定したい気がした。
けれどもどこを否定すればいいのだろう。というよりも、本当に否定したいと思ったのか、僕は。
ぐるぐると頭の中で何か回る。
足下がふらついている気がする。
半分くらい聞こえていない気がする。聞こえていないというか、意味を取れていない気がする。
「いえ、あの、ですが……」
「カ、カラス様! あのですね!!」
ルルが声を上げる。ふと、空気が軽くなった気がした。
「ちょっとこちらで話が錯綜しているようなので! 少し席を外して頂いてもいいですか!?」
「ルル」
「レグリス様! お……ストナ! 私の知らないところで……!」
それは当然動揺するだろう、と僕は頭のどこかで納得する。驚き慌てるのも無理はない。
突然組まれた僕との縁談。それも、僕が昔口にした言葉をもとにしたもの。
親二人は既に乗り気で、それに、…………。
「ルル」
ふと、重大な言葉に今更ながら気がついた僕をよそに、レグリスがルルの名前だけを諫めるように呼ぶ。
「弁えなさい。今は大事な話の最中なのですよ」
「わ、私の大事な話です!」
「では貴方は? この話をどう思うの?」
ぎく、とルルが身を固めた。
油が差されていないブリキ細工のように首を横に向け、僕を見る。だがそこからまた、小さく声を上げて目を逸らされてしまう。
「私は……私は、その、嬉しい話ですけど……」
「では何も問題はありませんね。あとはカラス殿たちからの了承を受けるだけ」
じ、とまた視線が集まる。
圧力を感じるような、刺すような視線。僕は緊張に唾を飲んだが、それと同時に、なんとなく昔のことを思い出した。
昔というのも、遙か昔だろう。
多分、少し前に王城で見た夢の中。僕の前世の話。
"「藤波さんは……納得されているんでしょうか?」"
そんな言葉が浮かんだ。知らない声だが僕の声。
目の前にいて、そして尋ねた先は、僕の結婚相手として連れてこられた頼子さんだった。
答えは『もちろん』。しかし、それに答えたのは彼女の母親。だから僕はたしか続けて、本人の意思は、と聞いて、そして彼女も同じように納得しているのだと言った。
なんとなく、同じだと思った。
あのときと。家の都合で僕の前に連れてこられた頼子さんとルル。
今回も、彼女は家の都合で僕相手に結婚させられそうになって……。
いや、違う。
先ほどの話を聞いていなかったのだろうか、僕は。
レグリスの言葉では、彼女は……。
「まどろっこしいわね」
「痛っ!」
ほんの数瞬だが、黙り込んだ僕の頭にアリエル様が身体ごと跳び蹴りしてくる。
まるで金槌の尖った方を打ち付けられたかのような衝撃に僕が踏鞴を踏むと、小さく周囲で悲鳴が上がった。
「何するんですか!?」
叫んだのはルル。
僕は無言でアリエル様を見返すと、彼女は腕を組んで見下ろしていた。
「……今、あんたは車椅子になんか乗ってないわよ」
雨のような感触の冷たい声。少し前までは親しげで、小さな子供のように微笑ましく映るくらいの声だったのに。
「あんたはまともに生まれたわ。まともに育ったかは疑問だけどね」
叱られるような声に言い返せず、僕は口を閉ざす。
そんな剣幕に、別の心配が生まれたのだろう。レグリスは慌てるように片手を伸ばした。
「あの、何か……」
「ちょっと待っててくれない? 今息子の教育中なのよ」
言ってから、アリエル様は何かに気がついたように顔を上げ、ルルに向けて笑みを浮かべる。
「ごめんなさいね。ちょっと取り込んでるんだけど。ちなみにあたしは反対しないわ。貴方なら一緒に美味しい秋茄子を食べたいくらい」
「茄子?」
「ああ、でも、賛成って言っても条件付きね」
「条件というのは?」
レグリスが反応して眉を上げる。
アリエル様は振り返り、空中で身をしならせる。
「こいつから申し込むこと。それも、きちんと」
こいつ、と呼んだその視線は刺々しい。
僕は目を逸らしそうになったが、飲み込むようにしてそれを堪えた。
「立場が、逆では……?」
「そうでもないわ」
呆れるようにルルが言うが、そのルルの横にアリエル様は飛び、耳打ちをするように顔を近づける。
「―――――――――――――から」
「ぴぇ!?」
ルルの肩が跳ねる。顔が赤くなる。
何を言ったんだろうか。僕にも音は聞こえてはいたが、妖精の使う謎言語しか聞き取れなかった。
「嘘……じゃないんですか」
「本当よ。だからね、この子のためと思って黙っててくれない?」
顔を真っ赤にしたルルが何度も頷く。
僕はなんとなく気が遠くなるような気分で、それを見守っていた。
「何を言ったんですか?」
「内緒」
レグリスの、期待をするような目。それにルルのものが加わる。
アリエル様は依然こちらには優しい眼差しは向けない。ただ挑発的に睨んでくる。
「さて、どうするの? 今の今まで話を聞いていたあんたは」
「選ばなくちゃいけないんですよね」
「そうね。もう足は動くのよ。それに、……選ぶものでもなくない?」
言葉が出しづらい。これが緊張というものか、目の前が白くかすんでいる気がする。
背中に汗をかいている。頬にまでは垂れていないが。
瞬きがしづらい。目と瞼の間の油が切れたように。
勇者はルルにプロポーズしたらしい。よくこの重圧に耐えたものだ。
それほどまでに好きだったのだろうか。この重圧に耐えて、彼女に愛の言葉を囁くくらいに。
ルルは好きだ。
でも、僕が結婚していい女性だとは思えない。
幸せに出来るとは思えない。
苦労をさせるだろう。貴族の家で金はある。けれども、やはり僕は追放者だ。それに生まれも悪く、貧民街で育ったイラインでの嫌われ者。
仮にルルと共にイラインへと行ったら、ルルに嫌な思いをさせるような。
僕を苦しめる悪意から、彼女を守り切れるとは思えない。
俯く視界の中に足が映る。細く頼りない脚。誰の足だろう、と一瞬考えて、それが僕の昔見ていた足だと気付く。
「……考えさせてもらえませんか」
「却下よ」
僕の懇願を、すげなくアリエル様は切り捨てる。
時間が欲しい。考える時間。それに、……。
欲しいのは、何の時間だろう。
ぼんやりとそんなことを考えてしまい、気を取り直す。
そうではない。そんなことを考えるべきではないのだ。それにそもそも、何を考えようというのだろうか。
考えたところで状況は変わらない。
「ヒントを上げるわ」
「……?」
アリエル様が人差し指を立てる。
「結婚って、一人でするもの?」
「……二人、もしくはその家族含めてですが」
「なら答えは出てるわね」
クスクスと笑い、妖精は身を引く。ルルのそばからも離れ、レグリスたちの隣へ。
僕はルルの方を向く。恥ずかしげに僕の返答を待っている彼女へと。
内心、性急すぎる、と今のこの状況に文句が湧いた。
こういう話であれば、もう少しゆっくりと詰めていくものではないだろうか。お見合いすら、何度か会って関係を固めてゆくものだったと思う。
こんなに急で、そして強制的なものは、前世の、頼子さんの時と何も……。
声に出さずに言いながら、違う、とも思う。
あの時は確かに強制的だった。父に連れられてきた頼子さんと、有無を言わさず結婚させられることになった。
だが、今日は違う。僕が嫌だと言えば、この話はなかったことになる。事実レグリスはそのつもりだろうし、アリエル様とてその場合は反対しまい。
それに僕はあの時とは違う。
あの時のように動かない身体ではないし、どこにでも行けて何でも出来る自由の身だ。
完全に、僕の意思に委ねられた。
僕はルルが好きだ。
奇跡に等しい幸運にも、ルルも僕のことを憎からず思ってくれているらしい。まだ信じられないくらいだが。
追放も、貴族でないことも関係がないとレグリスは言ってくれている。
実際は関係があるだろう。何かしらの問題は起きるだろうし、そもそもこの国を出ていかなければいけないという問題がすぐ目の前にある。
追放自体は王はしたくないと思っているのではないか、という推測はあるが、しかしそれでも追放令が出た以上は出て行かなければルルたちに迷惑が掛かる。
だがそれを置いても、と。
「カラス様には何の問題が?」
レグリスがそう僕に尋ねてくる。
その言葉に考えるまでもなく、その答えが僕の脳裏に浮かぶ。
先ほどレグリスが言った言葉。それに、ルルが言った言葉だ。
レグリスを無視して、僕はルルに問いかける。自嘲混じりに唇が歪んでいるのが自分でよくわかった。
「……私がルル様を、幸せに出来ると思いますか?」
「…………」
ルルは一瞬口ごもるように唇を結び、やや俯く。
「どうでしょう」
上気するような顔のまま、呟くように口にされた言葉。その言葉に、部屋の空気が凍り付いた気がする。僕も、何故だか笑いそうになった。
レグリスの白い肌、唇の横が少しだけひび割れるように歪む。ストナも、眉を顰めた。
だがルルは、すぐに顔を上げる。
「カラス様が私を幸せにしてくれるかはわかりませんけれど……」
けれど。そう言葉を濁すようにして、ルルは周囲を見渡す。
それから、その言葉の続きを待っている二人の母親、僕とその母に対して、恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「……二人一緒なら、幸せになれる自信はあります」
その笑みに、誰かが重なる。
黒髪、ショートカット。似ているのはそれだけで、明らかな日本人だが。
考えるまでもなく、僕が前世できっと愛していた女性の。
"「僕と結婚して、幸せだと思いますか」"
"「はい」"
その答えに、そんなわけない、と僕はずっと思ってきたけれども。
視界がじわりと滲む。
なんとなく情けなくて、悔しくて、申し訳なくて。
だがその涙をここで落としてはいけない。僕は瞬きをして、その涙を零さないように格好つけた。
僕と一緒になって幸せか、と僕はずっと昔、あの人に尋ね続けていた。
幸せにします、とすら言えなかった未熟さ故に。
後悔は後になってすることであって、そして後だからこそもう考えてもどうにもならない。前世のこと、それは既に終わったことで、その味は僕が背負うべき苦いものだ。
でも、今からならば。少なくとも今目の前にいる女性ならば、絶対に間に合うはずだ。
同じ失敗はしたくない。もう二度と。
きっとこれはチャンスなのだ。
あの時と同じ失敗をしないチャンス。また後悔する道を選ばないチャンス。
今ルルは手を差し伸べてくれている。拙い僕に向けて。彼女を幸せにする自信もなく、『幸せにします』とも言えない僕に向けて。
前世では、その手を伸ばせなかった僕に向けて。
「……私も、貴方と一緒に、幸せになりたいです」
きっと一方だけでは足りない距離。
ならば、後は僕が伸ばすだけだろう。
遠くなどはなかった。お互いに手を伸ばせば届く距離。
なのに、僕は躊躇いで、伸ばせなかった距離。
「受け入れます……受け入れますってのも変ですので、改めて申し込みます」
待たせたようで申し訳ない。
じれったそうにアリエル様は貧乏揺すりをしているが、それを注意することも出来ずに僕は目の前の女性を見つめる。
「ルル様、私と……」
大きく唾を飲み込めば、その音が響いた気がした。
「僕と、婚約して頂けませんか」
見つめあった一瞬が、とても長く感じる。
だがそれからゆっくりと、……もしかしたらそんなこともないのかもしれないが、それでも落ち着いた様子でルルは、
「はい」
と力強く応えてくれた。




