閑話:ここだけの話
「ここだけの話なんだけど」
エッセン王国。その中央である王都。更にその中枢である王城の中では、日にもよるがおおよそ三千人の人々が働いている。
しかしその中で名の知れた人物というのは殊の外少ない。
王都の民に『王城で働いている人間は』と問うても、名前が挙がるのは王や王女、または城に詰めて王国の重要な仕事を司る幾人かの貴族たち、または高官たち。精々がその程度だ
大抵の組織では役職というものは地位が高いほど限られるもので、当然のように地位が高い彼らの数は王城全体の中でも少ない数だ。
そして彼ら以外の者、名前も知られていない者たちは大抵の場合『いない者』として扱われる。床を拭いている姿は確かに目に入っているのに誰も覚えていないし、雑草を毟る姿も透明化する。
仮に王都に住む子供が『王城で働きたい』と願ったとき、その夢想の中に彼らの姿が映ることもないだろう。
彼らは、貴族や高官などよりもずっと多いというのに。
掃除や洗濯などの雑用をこなす下男下女。王城内部の食堂を運営する料理人たち。草木を植え、刈って庭園を整える庭師たち。その他様々な『いない者』たちは、仕事の種類にかかわらず横の繋がりを持つ。
王城内に作られる下層社会。それが彼らの居場所だ。
朝の廊下の掃除を終えて、洗濯の仕事に入った頃。
王城の下女アネットは洗濯場、大きな洗濯槽の前で同僚二人と向かい合っていた。
「またアネットのここだけの話?」
年若い仲間の下女は呆れたように眉を寄せる。アネットの話はいつもそういう類いのものだった。誰それが賄賂を受け取っている、どこそこの貴族が庶民の女に手を出した、または若い情夫を囲っている、など。下世話な話が多くなる。
もっとも、それも仕方の無いことだった。不祥事や醜聞は人の耳目を引くし、彼ら下男下女たちの楽しみとして上層の人間の凋落は蜜の味だ。
そして、それは『ここだけの話』でも何でもない、ということも彼女らの話の常だ。
アネットは洗濯物を灰の石鹸で擦りつつ、構わず続けた。
「昨日カラスさん見ましたか?」
「カラス……ああ」
共に洗濯を続ける年配の下女はそれに頷く。確か見た気がする。若く美しい魔法使い。
「今くらいの時間だっけね」
「そうなんです。その後陛下と謁見したのは二人とも知ってます?」
「聞いた気がする」
うーん、と悩みながら年若い下女が答えた。その悩みは、今洗っている敷布についた血液のような染みが落ちないことと半々だったが。
「カラスさん、追放処分を受けたらしいです」
「は? マジで!?」
驚きに下女の頭の中から血の染みのことが抜け落ちる。今の今までアネットに向けていなかった視線を改めて向ければ、またアネットは深刻そうに頷いた。
「よくわからないんですけど、ムジカルとの戦いの中で聖教会の人に睨まれる何かをしたらしくて、……戦後にはこのエッセンから出て行かなくちゃいけないんだって、謁見の間にいた友達が言ってました」
アネットは聞いた限りのことを二人にも話す。
ミルラ王女に聞いた後、即座に確認を取ったこと。謁見の間にいた使用人――彼らは下女たちの中でももっとも上の地位ではあるが――から詳細を聞いて、アネットはその事態が理解できなかった。
カラスは聖教会の何かしらの禁忌に触れたらしい。アネットたち外部の人間には理解できなかったそれに触れた報いとして、死刑を宣告された。
その死刑宣告を、自らの褒賞を投げ打ってミルラ王女が撤回させた。そうして減刑された結果、死刑は追放刑へと減刑された。
更に、王はカラスの不敬を取り上げて非難し、謝罪を要求。
謝罪をすれば刑は更に減刑され、追放刑も撤回されることとなったが……しかし、カラスは謝罪しなかった。
故にカラスは追放されるのだと。
それがアネットの又聞きした事のあらましだった。
それを聞いてアネットも王が間違っていると非難は出来なかった。
聖教はこの国の国教だ。この国の国民は一人残らず信徒であるべきだと育てられ、自身が信じているかどうかに関わらず教会の権威に触れて育ってきている。
故に聖教会が悪といえば悪なのだろう。カラスは何かの悪いことをして、だから今悪人として裁かれているのだろう。そう感じてはいた。
それでも。
「妖精様が、アリエル様が庇った?」
「そうらしいんですよ」
その事実にはまず驚くこととなり、そして次の事実に不信感が湧く。
「え、なに、どういうこと? アリエル様? この王城にいたの!?」
カラスが連れていた〈妖精〉アリエルに関して、何故だかこの王城では知られてはいない。それがアネットには不思議で、そして同時に納得した。謁見の間では、アリエル様の顕現は箝口令が敷かれたのだという。この国に混乱をもたらさぬための一時的な処置、とその場にいた貴族や高官たちには王から申し渡されていた。
アリエルと会い、会話したことを話せば、一頻り羨ましがられる。
それは朝から何度も体験したことで、それがアネットには面白いということもあった。
そして話している中でアネット自身もひしひしと感じる。アリエル様の存在は、アネットら噂をしている下女たちの中で混乱を招く。
聖教会が悪と見なした。ならばカラスは悪だったのだろう。
しかし、アリエル様は庇った。ならばカラスは悪ではないのかもしれない。
混沌とした情報に、聞いた話に限ればアネットにはその善悪は判定できなかった。
けれどもこの王城での彼との関わりまでも考えれば、アネット個人の印象は決まっていた。
彼が悪いことをするとは思えないのだ。それが単なる願望だとしても。
「カラスさんを庇ったミルラ王女も言ってたですよ。『頑張っても報われない人もいる』って」
「それがカラスさん?」
アネットはこくりと頷く。その時に添えられたミルラ王女の言葉に、少しだけ彼女たちに好意的になっていることを自覚しながら。
若い下女は血の染みについては諦め、新しい布を擦り始める。泡立ちの悪い石鹸にどこか苛つきながら。
「つまり……、陛下がカラスさんに難癖つけて追放したってこと?」
「よく知らないまま、あんまりそういうことを言っては駄目ですよ」
直接的な言葉を年嵩の下女は窘めるが、その顔は叱るようではない。むしろ同調するように悲痛な表情を浮かべていた。
洗った布を洗濯場から引き上げて、アネットの話を聞いた下女は干し場に移動する。
王城内の中庭と同じように作られた広い空間。洗濯場はいくつかあり、そこは雨を避けるための屋根がついていたが、その屋根は日の光と風を通すために屋根と壁の間に大きな隙間が作られている。
今日は少し風に湿り気がある。下女は風に吹かれた髪が耳に掛かるのを払いのけ、洗濯物を干すためにまず腰を伸ばした。
「痛っ!」
掛け渡された綱に洗濯物をかけていく途中、下女の手に鋭い痛みが走った。思わず手を引いた下女は、その指先を見て溜め息をつく。
爪の横、皮膚に走る赤い傷跡。あかぎれだ。
主には冬の乾燥した時期に起こるものだが、年中水に触れてふやけた肌は、布の端に引っかかり夏にも切れる。
予防として仕事の後馬油などを塗ることはされていたが、臭いのある脂を洗濯物につけるわけにはいかず仕事中は無防備な肌を晒す。
それは仕事自体が水仕事である洗濯女の職業病ともいえるものだった。
――最近無かったのに。
下女は指先の傷を見て溜め息をつく。
最近は調子が良かった。この仕事を始めて初めてかもしれなかった自分の肌。それがいつの間にか当たり前のものになっており、手が荒れる悩みなど頭の隅からも消え去っていた。
しかしそれが今蘇ってきたのだとどこかうんざりする気分だった。
「でもなくなっちゃったんだよなぁ。あの軟膏」
その解決のため、思い浮かべたものは今は腰の隠しには入っていない。アネットを通じ手に入れていた小さな瓶、その中に入っていた白く柔らかな軟膏だった。
若いとはいえないまでも年寄りではないはずの下女も驚いたものだ。塗る前と塗った後で、肌の質感が明らかに違う。細かな皺は消え去り、染みやくすみ、痣や傷跡は薄くなる。塗る度にその効果は重なり、今は懐かしい十代の肌を手に入れられると顔にまで塗って楽しむこともあった。
馬油でも改善しないわけではないが、それとは段違いの効果。その秘密は、中に入った様々な生薬の効果なのだという。
聖教会での治療よりもむしろ効果がある軟膏。使用人の間で広がったそれは、いつしか彼らの主たちすらもこっそりと使うようになっていた。
そして、それを作っていたのは。
下女は綱にかけるべく新たな洗濯物を手にして一度バサリと振った。
水滴が飛び地面を濡らしたが、水は地面に瞬く間に吸い込まれていった。
年配の下女はここにはこない。
長年悩んでいた腰痛と上がらない肩の痛みが再発したせいで、洗濯物を干す仕事が厳しいからだ。その分花瓶などの手入れを行う仕事に回っている。
彼女もここしばらくは、『いい膏薬に助けられている』と笑って干し場にも出てきていたのに。
洗濯物をまた振り、残っていた石鹸滓を払いのける。
濡れた布にこすれて指先が痛い。
この痛みはきっとこの先も続く。仕事を頑張っても、仕事を頑張るから。
アネットが口にした、『報われない人たち』という言葉がふと頭の中を反芻する。
カラスという探索者は、薬師は報われない。戦場で活躍しようとも、王の難癖でこのまま国から追い出されていく。
濡れた指先に血が滲む。
拭い去って一時は消えようとも、すぐにまた。
「今日も朝から大変だぁ」
また別の下女が洗濯籠を抱えて姿を見せる。
籠を置いて、夏場でも苦しむ冷え性に手を擦り合わせた。
「おはよう」
「おはよー」
パンパンと敷布を広げて皺を取る。その広げた白い布、日光に透けるように染みになっているのは汗か、それとも別の何かか。
「落ちないんだよね、これ」
「刷毛で叩いてきなよ」
落ちない汚れは、洗剤を含ませた後に刷毛で叩く。それも彼女らの仕事の一つだった。だが、言われた下女は首を横に振る。
「やったけど無駄っぽい」
「そっか」
ふうん、とどちらともなく納得し、二人は自分の分の洗濯物を黙々と綱に掛けてゆく。
言った下女もそれ以上を言う気はない。
布の汚れは千差万別。落ちる汚れは簡単に落ちるが、落ちない汚れは全く落ちない。墨の滴が垂れた布は、一滴でも落ちれば雑布扱いだ。
しかし仮にそれを見逃せば、監督の官から叱責が飛ぶ。『もっと丁寧に洗え』と。
自分たちは洗濯女だ。たしかに、洗濯をするのが仕事で、洗濯が終わった衣類や布は綺麗になっているのが当然なのだろう。
だからこそ、綺麗にしたところで誰も褒めない。
それが当然で、そうなっていなければ叱責される。それが当然だと、下女らも思っていた。
仕事上、困っていることがあっても、それは自分たちで解決すべきこと。その解決で他を煩わせるのは以ての外だし、その問題で仕事が滞るわけにはいかない。
それはわかっていて、それがわかっているのだが……。
『いつも頑張ってくれている貴方たちに。困っていること、相談したいことがあれば』。
アネットが、ミルラ王女付きの侍女と共に、『困りごと』を聞きに回ったのは記憶に新しいことだ。そして結局はミルラ王女からの贈り物ではなかったが、アネットを通じて皆が身体の不調についてカラスに相談し、全てではないが解決できたのも記憶に新しい。
我慢しろと言われてきた手荒れとあかぎれが改善した。未熟ならそのくらい当然だといわれていた料理人の火傷が消え去った。年のせいだから仕方が無いと諦め、治療師にも一時的な鎮痛が精々だった腰痛が改善していた。
全て、当然、と監督官から言われてきたもの。当然、と彼ら自身も諦めていたもの。
しかし。
ミルラ王女殿下と、薬師カラス。
そう、きっと彼らだけだった。
先にいた下女が、後から来た下女に声を掛ける。
「ねえ、カラスってあの人が、昨日王城に来てたって知ってる?」
「え、うん。なんか誰かが見たって聞いたよ」
カラスという名もその顔も、問われた下女は覚えている。少し前に開かれた勇者の昼餐会の準備の最中、倒れた友人を介抱してくれていた美貌の青年。
当時王城内で広がっていた毒が原因と見抜きつつも、そこで自らも倒れるかもしれない危険も顧みずに友人に手を差し伸べてくれた恩人だ。
女性は比較的安全と聞いていながら、自分はそこで踏鞴を踏んでしまったというのに。
「その後謁見したって話は?」
「知らないなぁ」
下女が、その話を知らない目の前の女性を見てにっこりと笑う。
ならば教えてあげよう、と洗濯物を干す手を止める。
あかぎれの指先が痛い。
エッセン王国。その中央である王都。更にその中枢である王城の中では、日にもよるがおおよそ三千人の人々が働いている。
掃除や洗濯などの雑用をこなす下男下女。王城内部の食堂を運営する料理人たち。草木を植え、刈って庭園を整える庭師たち。彼らは仕事の種類にかかわらず横の繋がりを持つ。
王城内に作られる下層社会。それが彼らの居場所だ。
彼ら下男下女たちは、一人一人が王城を支えている大事な人員だ。
貴族や官が王城の頭脳であるならば、彼らは手足。
手足がない蜘蛛が長生きできぬように、王城にとって重要な者たち。
しかし、誰かが『王城にいる人』を思い浮かべたとき、その想像の中に彼らの姿が映ることは少ない。
思い浮かべるのは着飾った地位ある者たち。絢爛豪華な衣服を身に纏い、しゃなりしゃなりと廊下を歩き、華々しく活躍する。執務室や謁見の間で侃々諤々と語り合い、国の問題を解決する者たちだ。
蜘蛛の足が頭よりも多いように、貴族や高官などよりもずっと多い『誰か』がいるというのに。
王は、この王城から〈妖精〉を追い出した。
下男下女たちからすれば、その働きを見ずに、下々にはわからない高尚な考えを以て。
この王城には『妖精』がいた。
働き者で文句を言わず、人知れず仕事をする。掃除した塵を掃き寄せて、洗濯をこなし皆を清潔に保つ。
天井に張った蜘蛛の巣を払い、床を磨いて汚れを見逃さず。庭には景観を損ねる雑草を生やさず、池を泳ぐ鯉たちの世話をして。
整えられた調度品や磨かれた装飾品、生けられた花々はそこにいる人々の心を知らぬ間に華やがせ、この国を動かす重要な仕事を捗らせていた。
彼らがどこかで一つ手を抜いていれば、この王城は今よりもずっとくすんでいただろう。
彼らがどこかで一つ手を抜けば、この王城は今よりもずっとくすんでいくだろう。
古今東西世界を問わず、妖精が出てくるおとぎ話は数多く語られる。
そして妖精のいなくなった家がどうなるか、というのも大抵の場合同じようなものだ。
「ここだけの話なんだけどさ……」




