閑話:外への扉
どうしたのだろうか。
その日、ルルはいつもの通りに目を覚ました。いつものように自分の部屋で、いつものように明るくなりかけた外の光が顔に当たって。
曇りガラスの向こう側、まだ低い日が外をぼんやりと青く照らす。
既に季節は夏。だが日が高くなれば暑くなるだろう気温も、朝のこの時間にはだいぶ温い。
毛布の下は薄手の寝間着。毛布の外にある頬が、少しだけ冷えていた。
ルルにとって、いつもの朝である。
いつものように、いつもとほとんど同じ時間に起きた、はず。
そう思い、いつものように寝起きの良さを発揮して、すぐに身体を起こして澄んだ瞳で周囲の景色を見回したが、どこかいつもとは違う気がした。
どうしたのだろうか。
見回しても、違和感は消えない。いつもの朝、いつもの自分の部屋、まさしくいつもの通りなのに。
柔らかで寝癖のあまりつかない髪の毛を、いつもの癖で整える。
きっともうすぐサロメが来るだろう。そして着付けの係と共に自分の朝の準備をして、それから自分を朝食にと向かわせるのだ。
それまではまだ寝ていようか。きっとこの違和感は、焦燥感に似た何かいつもと違う雰囲気は、拭い切れていない眠気のせいなのだろう。
そう自分を落ち着かせて、一度伸びをした。
筋肉の伸びる音と、固まっていた関節がほぐれる音が耳の中に響く。
このまま少しまた寝てしまってもいいだろう。サロメの足音と、銀の手押し車の音が聞こえるまでは。
耳を澄まし、遠くの音を聞こうとしたルルは、まだその音が聞こえないようで安堵した。
明かり取りのガラス窓の横には、風を入れるためのごく小さな木戸がある。
木戸は中庭に繋がり、開けば小さな額縁のように中にいる人間を楽しませるよう設計されていた。ルルの部屋にある数少ない美観に影響する設備である。
その木戸を、コツ、コツ、と小さく叩く音がした。
ほとんど同じく聞こえてきた羽音に、『今日は早いな』とルルは思った。
するりと寝台を抜け出し、絨毯を跨ぐようにして板の床に足をつける。
ほとんどルルの目線と同じ高さに誂えられた木戸の留め具を外し、上向きに開けばその羽音の主が反応して飛び降りる残像が見えた。
「ごめんね、今日はまだご飯はないの」
木戸越しに、見下ろすように覗き込む。そこにいたのは、ルルにとっては馴染み深い鳥が一羽。
昼の少し前の時間に、毎日僅かながらもご飯をあげる。麺麭屑や果物の欠片などを厨房に掛け合い貰ってきて、彼に差し出すという習慣の対象。
赤と黄色が斑になった羽。大きな嘴は黒。鸚鵡に似たその鳥の名前を、ルルは知らない。
プイ、と鳥が一声鳴いてまだ木戸の縁に飛んで上る。
爪が木戸の堅い縁に当たり、カツンと軽い音がした。
「え?」
そして一声鳴いた鳥の声に、ルルが聞き返す。
その鳥がここに来たのは、ご飯のためではないらしい。そうではなくて、自分への気遣いを兼ねてここに来た。恩返しに近い親切のためにここに来たのだ、とルルは察した。
真っ黒な目がルルを見つめる。一度挨拶に目を細めてから。
それからまた、ケケケケ、と一声鳴いた鳥の言葉に、ルルの胸が沸き立つ感触がした。
「戻ってきた……?」
『誰が』なのかはわからない。もしくは『何が』すらも。
けれども、『戻ってきた』という声が聞こえた気がした。
自分でも何故そう思ったのかはわからない。けれど鳥の声を聞いて、無意識のように言葉を吐き出す。
返事の代わりのように鳥が片翼をゆっくりと開く。
その翼の向こう。まだ払暁間もない外の風景を見て、ルルは今更ながらに気がつく。
まだいつも起きる時間よりもだいぶ早い。
それに気がつき、ルルの胸が僅かに跳ねた。
虫の知らせ、という縁起の悪いものではない。
しかし、何かしらの胸騒ぎということをもはや否定できなくなった。いつもと同じ朝ではない。いつもよりも早い時間に起きてしまい、そして今鳥が注進にまで来た。
勘違いかもしれない。
いいや、おそらく勘違いだろう。そうなのだろうとルルも思う。ただ単に早く目が覚めてしまっただけで、鳥がたまたまいつもと違う動きをしているだけで。
けれども、もうルルにはその違和感は無視できなくなった。
耳を澄ませても、朝の準備の時間はまだだ。朝食の匂いはまだしない。
ルルの目が決意を帯びる。
確認をしなければ。
「どうして貴方は知っているんですか?」
静かにルルが鳥に問いかける。
鳥は尋問を受けているかのように僅かに怯えを感じたが、いつもの優しいルルの顔を思い返しどうにか逃げずに留まった。
ケキ、と小さく鳥が鳴く。
「見た? どこでですか?」
それから鼻を啜るような音でまたルルの問いに応えた。
衣装棚から取り出すのはいつもの白と黒の地味な服。
けれども着慣れているそれは、ルルにとっても馴染み深い。貴族の者ならば通常は使用人に手伝わせてようやく着ることが出来る複雑なものでも、自分の手だけで着られるほどに。
袖を通し、前を閉じる紐を編むように結んでいく。元々たまに自分でも準備していたもの。手慣れているとはいえないが、それでも着ることは造作もない。
寝癖のほとんどついていない髪の毛に、手櫛を通して埃を払う。髪留めはいらない。彼に会うならば。
そろりと扉を開き、見回しても周囲にはまだ誰もいない。
がらんとした空間にはまだ人の熱もなく、そのどこか奥にだけ気配がするだけ。
音がしないよう扉を閉じて、歩き出す足は無意識に駆けるように速くなっていく。
自分でも、馬鹿げているとは思う。
ただ今日は、たまたま早く起きてしまっただけだ。そういう日もあるだろう。これという日は思いつかないが、それは取るに足らない時間の前後、故にあまり覚えていないというだけで。
たまたま鳥がいつもと違う時間に部屋に訪れただけだ。そういう日もあるだろう。たまたまお腹が空いた鳥が、自分を頼ってきてしまっただけで。彼の受け答えが、たまたま自分の質問にあってしまっただけで。
たまたまいつもと違う朝。
だからだろう、何故だかわからないこの胸のざわめきは。
まだ何かが起きているわけではない。何かが起きることを期待しているだけなのだろう。何かいつもと違うことがあって、何かいつもと違うことが起きることを願っているだけの。
自分でも馬鹿げているとは思う。
けれども、いつもと何かが違う。そう感じたことに嘘はない。
勝手知ったる家の中を、ルルは静かに早足で駆ける。
道順は知っている。あまり使用人が通らない道を探り、何度も逃げ出すことを夢想してきた道。
もしかして、と思っただけだ。
そうであってほしい、と願っただけだ。
いつものように、きっとそうだ。
これで何もなくても。これで期待通りのことが起きずとも。
きっと私は自分で自分を宥めすかし、『ほらね』と笑うのだろう。
でも今日は、そうではない気がする。
自分でも馬鹿げているとは思う。直感、第六感、予感。そんな不確かなものを感じただけで、根拠もなく信じたい。
ルルは、恐る恐ると玄関の広間に立つ。
そしてそこには、『根拠』が一つ。
「出られますか」
「オトフシ、様」
玄関の扉の脇に寄りかかり、腕を組んで誰かを待つようにしていた銀の髪の女性。深緑色の簡素な一繋ぎの服を着て、その白い手と首から上だけを露出した地味な出で立ち。
彼女は自分の警護の係。王城を去った今となっては特に何かしらの仕事をしているわけではなく、一応とばかりに屋敷に詰めているだけの。
しかし自分の警護の係。
だから不思議はない。自分がこの屋敷を出るべく移動していることを察するのも、そこについて行こうと申し出るのも。
だが、ルルはその姿に確信する。きっとこの先に『何か』があるのだ。
「……出ます」
ルルは頷く。何かがなくても構わない。でも、何かがあるのであれば。
「サロメ殿もいらっしゃらないのは少々まずいのでは?」
「危ないですか?」
「そうですな。外というのはいつでも変わらず」
クツクツと悪戯をするように笑いながら、オトフシが扉に手をかける。
それから静かに両開きの扉の片方だけを開き、頭を下げて外を指し示す。
まだ涼しい夏の風が、外から吹いてルルの髪を揺らした。




