噂は千里を走る
王都への道のりで見る風景の変化は、以前のものと変わらない。
豊穣の森ネルグから遠く離れ、街道の周囲がネルグと比べれば痩せた森に変わる。やがては木々も疎らに、更にはほとんどない平原も見られるようになる。
その間にも、街道はいくつもの街を貫いている。副都から王都へと向かう太い街道沿いには村と呼べる規模のものはなく、小さくともきちんと『街』で、それも以前と変わらない。
急ぐ行程だ。街へは入らず、または素通りし、街道に沿って飛ぶように駆けて走る。
その間も感じていた『以前と変わらない』という感想。それが少し前にレイトンと共にここを抜けた時の話なのか、それとももっと前、ルルの護衛をして王都へ向かったときの話なのか。それはわからずアリエル様にも見えぬように苦笑した。
街道を走る間は、アリエル様は横をふわふわと飛んでついてくる。おそらく新幹線並みに速いだろうに、そうは見えないのが不思議なものだ。
ちなみに僕の移動は、魔力により空気抵抗や重さを軽減、更に闘気を併用して大地を強く蹴って走る僕独自の軽功。一応空を飛ぶよりも速いと思う。
緩い放物線を描き、一歩一歩で長大な距離を跳ぶ。おそらく月面を走るときにはこのようになるのではないだろうか。
そんな風に移動を続ける僕たちは、夜、日が沈んだところで一時休息をした。
疲労困憊するとは言わないが、それでも街道をずっと走り通しは精神的にきつい。
たまたま遭遇したごく小さな森の片隅で、僕は木の根の又に寄りかかり、足の力を抜いた。
「ひ弱ねぇ」
「既にイラインよりは王都に近くなってるんですから、これでも早いと思いますけど」
息は切らしていないが、身体の疲れを抜くように僕は長い息を吐く。
だが、実際にそうだろうとも思う。
馬よりも速い騎獣などを使っても、通常は急いで五日はかかる距離。その半分以上の距離を半日で踏破したのだ。僕やたとえばレシッドの足ならば無茶とは言わないが、客観的に見たら異常な速度だろう。
アリエル様は、空に上がる欠けた月を見上げて目を細める。
「イラインを出たのが昼くらい。ここまで七時間ってところかしら?」
「その単位を久しぶりに聞きましたよ」
よ、と僕は幹から背を引きはがす。
「だいたい三刻ちょっとって言った方が今のあんたにはわかりやすかった?」
「どちらでも」
苦笑しつつ、僕は崩していた足を組むようにして今度は背筋を伸ばす。足もだが、背中もだいぶ凝っているらしい。というか全身が。
竹筒の水筒から水を一口含んで飲み込めば、染みこむように喉をじわじわと刺激した後、水分が胃まで滴り落ちていった。
アリエル様の言葉には、この世界の言葉ではないものが混じっている。そう気付いたのはカンパネラに殺されかけた日の夜だった。
というよりも、わからなかった、というのが正確だっただろうか。叫んでいたのが英語と僕は知っていたから、だと思っていた。
クロードたちと話して驚いた。
彼ら、アリエル様の声が聞こえていた人間たちは、アリエル様の言葉の意味が全て理解出来ていたのだという。
アリエル様の言葉は、この世界のものではない。ましてや日本やイギリス、イタリーやソビエトなどの言葉という意味でもない。
仮にアリエル様の言葉を聞こうともせず、あえて無視するように、『声』というよりも『音声』として認識すると、それは僕らに伝わる言語ではないのだ。
聞き耳を立てるように認識してしまうといつものように聞こえてしまうので、はっきりとはわからないが、おそらく喋っているのは彼ら独自の言語なのではないだろうか。
少なくとも僕は、これといってその言語の正体には思い至らない。エッセンのものでもムジカルものでもないし、王都の書庫で読んだりエウリューケに見せられた聖教会の禁書に書かれていた古語のようでもない。
法則性の見えない言語。だが、認識すればそれは僕らにも通じる『言葉』になる。
アリエル様からすれば、彼女はただ『意味』のやりとりをしているだけらしい。
彼女が言葉を使うとき、言葉の方が彼女の伝えたかった意味になる。同じように、他者の伝えたかった『意味』が、彼女にとっては『言葉』となって伝わるのだと。
だから、彼女は動物と話せるのだそうだ。
騎獣や狼とも、そして人間とも。
むしろアリエル様にとっては、『同じ種類の言葉でないと意思疎通が出来ない人間が不便すぎるのよ』ということらしい。
まあ僕としては、同じ言葉を喋るのに意思疎通が出来ない人間もいる、とも注釈を入れたいところだ。
ともかく、故に、彼女は日本語や英語を操れるが、実際に喋っているわけではない。
もっとも、イギリスや日本、それにこの世界などの住んでいた国の言葉のうち、覚えた分は一応は話せるらしい。聞いてみた感じ、少なくとも日本語はネイティブに近いと思った。多分英語も。
僕が喋っているのはエッセンの言葉だ。それを基本としてこの世界の言葉を学んだのだから、そうなってしまっている。
だからだろうか。アリエル様が僕に合わせて聞かせる言葉は、だいたいエッセンの言葉だ。
日本語ではない。
今でも日本語は当然話せるが、アリエル様は僕に日本語で言葉を伝えようとはしない。
未練はないし、寂しくもないが……。
日本はもう祖国ではない。日本人でもないはずのアリエル様と話すたび、心のどこかでそう実感する自分がいた。
……仮に勇者がここにいたら、アリエル様の言葉を聞いてどう思ったのだろうか。
「お腹すいたので、ここで適当に腹ごしらえでもしませんか?」
見回せば、一応近くに木の実が生っている木がある。拳よりも小さめの、甘苦い橙色の果実、一応毒はない。
肉はさすがに贅沢だろう。獲物を狩るのが面倒だし。干し肉くらい持ってくればよかった。
「あら、気が利くじゃない。あたしもお腹が減ったのよ」
「虫がいないやつにしてね」、とアリエル様が言う。
僕はその言葉の意図を読んで、木の実を集めるべく立ち上がった。
そして、王都に着いたのは朝方のことだった。
数時間……数刻の睡眠混じりの野営を挟み、走り続けた結果のこと。
王都というかまだ王都を囲む麦畑の端に辿り着いただけで、まだ王都の建物群は遙か先にあるのだが。
朝焼けにそよぐ麦畑が緑に輝く。細長い草はまだ実りの時は迎えておらず、それでも以前エウリューケとこの辺りを歩いたときよりもだいぶ伸びてきたと思う。
踏み固められただけの、枯れ草混じりの柔らかな地面からもちょこちょこと雑草が伸びている。ただ、踏み固められるだけあって農夫の往来も激しいらしく、ほとんどが折れ曲がっていた。
「そういえば」
「なに?」
もう走りはしない。僕たちは……というか僕は地面を普通に踏みしめて歩く。アリエル様は相変わらずふよふよと浮かび、僕についてきていた。
「アリエル様はこの後どうするんですか? もう王都へ着いてしまいましたが、聖教会からは守ってくれるんですよね?」
元々彼女はルルの下へ僕を送り届けるために来たはずだ。聖教会との諍いが表面化した以上、そこまでは共に来てくれると思うのだが。
アリエル様は浮かんだまま腕を組む。
「どうしようかしらねー。ルルちゃんをあんたと会わせてあげて……聖教会の奴らが馬鹿しないってなったら……。……どうしようかしらねー」
僕の軽い質問に、意外にもアリエル様は本気で悩んでいるように見えた。
眉をひそめ、目を瞑り、口元を引き締めて。
「元々こっちに出て来る気はなかったから……大人しく帰ろうかしら。よくこんな忙しないとこで何十年もいられたのかって本気で思いつつあるわ。直光がいないからだろうけど」
「聖教会で生き神様をやるという手もありますが」
「嫌よ」
即答か。
聖典に載る本物の聖人として、崇め奉られる。そんな日々は嫌か。……まあ多分僕も嫌だけど。
がさがさと麦畑をかき分けて走る音がする。
「……何かしら? 野兎?」
それを聞いたアリエル様は、ほんの僅かに表情を固める。そこまで警戒するようなものではないと思うが。
「人間でしょう」
既に畑の世話は始まっている時間だ。多くの農夫が麦畑やまた別の作物の畑にしゃがみ込み、雑草取りや間引きなどの作業を行っている。玉蜀黍なども種類によってはもう出てきているのだろう。収穫すら行っているところもあった。
しゃがみ込み、そういった畑の世話をしている大人たちは僕たちに注目もせず、アリエル様に気付く様子もあまりない。それもありがたい。
麦畑をかき分けて走る音が近づいてくる。
背丈も小さく、歩幅も小さい。大方、手伝いに駆り出された上で飽きてしまった子供だろう。そう思ってすぐに、その子供は畑から飛び出してきて僕たちの前を横切っていった。
僕やアリエル様には目もくれないで。
走り去っていった子供を目で追って、アリエル様は安心するように鼻から息を吐く。
「ま、考えるのは全部終わってからね。とりあえず早くルルちゃんのところに行きましょ」
「今はまだ時間が早いですね。日が完全に昇ってからでないと非常識らしいです」
王都で広く時間を知らせる鐘が鳴るのは、朝の六の鐘から夜の九の鐘まで。まだその朝の鐘すら鳴っていない以上、訪いを入れるのは無神経だろう。それは日本などでもそうだったはずだ。
「まだ寝てるんじゃないですか?」
「じゃあ夢の中に会いに行く? 連れてってあげる」
「あとでコツだけ教えてください。今は素直に待ちましょうよ」
教えられても出来るとは思えないし、人の夢を覗くのは心の中を覗くようで躊躇するけど。
「それとそろそろ姿を隠した方が」
「あら、もうね。面倒くさいわ」
「騒ぎになってもいいなら別に構いませんけど」
僕たちの視線の先には、道を塞ぐようなごく小さな簡易的な門がある。検問とかそういうものではなく、元々ある王都を出入りする商人の監視をするようなもの。金銭などを要求されることもなく、騎獣車や馬車などを含めて大きな荷物を持っていなければ素通り出来る門である。
一応あの内側が王都の『街の中』ということになっており、僕たちが目指してきたのもそこ。
そして街の中故に、人の目が多くなる。
僕らが街に入ると人間たちはまずアリエル様を好奇の目で見つめ、その正体に思い至ると大騒ぎする。それから聖教会の信徒が集まってくる。イラインを出てはじめの街で改めて体験したことだ。
昨日の時点でも、アリエル様降臨の噂は既に近隣の街にも届いていた。
更に戦闘に関わることだからもちろん報告書に記載されるとクロードも言っていたし、あれから四日も経つ以上、妖精顕現の報は王都へ届いているだろう。
というのが僕たちの予想で、まあそれも正しかったようだ。
王都の中に点在し、公的機関からの発表が貼り出される掲示板。
請われてそれを読み上げる代読屋もまだおらず、読むために集まっている人間もいなかったが、ちょうど係の者がそれを貼り替えているときだった。
今朝まで貼られていた記事には、大きな見出しで勇ましい言葉が綴られている。
『エッセン騎士団、イラインに転進』『聖騎士団被害少なし』『卑劣なるムジカル軍に威を示す』……等々。
その大きな見出しの後に、小さな文字で詳細が書かれる。多くは、エッセン側に有利なように脚色されて。
あまり読めてはいないが、戦闘の詳細ともいえない報告の中にはクロードのこともちらりと書かれているように見えた。どこそこの騎士団や傭兵などの名前もあったようなので、今日のはわからないが僕の名前も載ったことがあるのではないだろうか。
その他記事の面では半分ほどが、誰かが処刑されるだとか、ごく簡単な野菜の相場などで埋められていた。
そして貼り替えられた記事にはどんと大きな文字で、『大妖精様降臨』と記されていた。
「凄えよな、妖精様だぜ?」
「……ええはい」
記事を貼り替えている係の人間が、立ち止まっていた僕に話しかけてくる。
陽気な表情で、喜んでいるような興奮しているような顔で。
「まだ詳しいことはわかってないんだけど、千年前に勇者様と共に魔王を倒した妖精様がエッセンの味方として降臨されたんだってよ。妖精様って本当にいたんだな!」
「そうですね」
ちらりと僕は僕以外に姿を見せていないアリエル様を見るが、彼女は頬を膨らませて腕を組んでいた。
「失礼しちゃうわ。勝手にあたしのこと書くなんて」
「聖教会のお偉い様がアリエル様と親しくご笑談されたなんて噂も治療師の間ではあるみたいだなぁ。俺もお話ししてみたいもんだよ。いずれはこの王都にも来てくれるかもしんないし、そんときに遠くから見るくらいが精々だろうが」
「王都に来てくれるんですかね?」
「そりゃお前、王がお招きにならないはずはないし、聖教会のエッセンでの本部もここにあるんだから、当然来るだろう」
「……そうですね」
真実は、アリエル様は王も聖教会もどうでもいいのだろうが。その上、既にここにいる。それを知っている僕は、僅かな罪悪感を覚えつつも曖昧に頷いた。
「ムジカル軍はもう腰抜かして戦いどころじゃねえんだろうなぁ」
戦争に関する話題はアリエル様のものだけらしい。見出しの他は、彼女に向けた美辞麗句と聖教会の公式見解だろう文。アリエル様には最大限の感謝を示し、これからもよき聖教会の友であることを願うという。
係は笑いながら記事の端を釘で打ち付ける。
既に剥がした昨日の記事がひらりと風に舞いそうになって、慌ててそれを踏んで押さえていた。




