肩に乗るアリエル
貧民街は、壊されつつも未だそこにある。
モスクの作った大きな壁の前。その外側に作られて密集していた粗末な建物の塊は、半壊した壁や屋根などが補修されることもなく、未だそのまま。
しかし、以前よりも建物が大分減っただろうか。全体的に減ったというよりは道に沿った形で削られるように、だが。隣の建物が瓦礫となり、今まで露出していなかった壁が見えているような場所もある。
歩く道路は石畳。しかしもう既に汚物の跡が残り、溝には泥が埋まっている。轍跡のように削られた、もしくはへこんだような類いの損壊はないのはこの街の特徴だろう。
そして未だ暗い影を落とした人間たち……特に老人と子供が道端で座り込む姿が多いのは。
青年以上の姿が見えないのは、戦争に際し皆志願兵にでもなったからだろうか。
「この街ね、あんたが世話になったお爺さんがいた場所って」
「ええ」
街を歩くのは、僕とアリエル様。
しかし僕たちがここにいるのにさして理由はない。ただ単に、クロードたちのいる防衛拠点が貧民街の東側にあるというだけで。
そこに最短距離で向かうために歩く道、アリエル様が進もうとするのを止めなかっただけで。
正直、僕としては歩きたくはない道だ。
元々貧民街の住民が街に足を踏み入れた人間に対して向ける視線は、薄暗く纏わり付く。金を持っていそうか、もしくは食料を持っていそうか、襲って勝てる相手かそうではないか。
更に戦争を始める前に、ここで起こした一悶着が効いているのか、敵意までが混ざる。
それはアリエル様が隣にいても構わず。多分、隣にいるから尚更に。
そういえば、ホウキはいないのだろうか。
探し回るわけではないが、軽く見回してみた中でもそれらしき影はない。ただ暗がりから、こちらを見ている誰かの目だけがある。
敵意と欲望と、それと多分怯え。無関心な者たちはそうそうおらず、皆が僕たちの一挙手一投足に目を向けて息を潜めている。
ここはやはり街とは違うのだ。
舌打ちなどしない。そんな、敵意がばれるようなうかつな真似は。
この街には聖教会の信者はいない。故にアリエル様に対する敬意はないだろう。ただ物珍しい珍妙な生き物がこの街に入ってきた、というだけで。
今ですら、僕たちですら隙を見せれば背後から無言で石を叩きつけられるだろう。
成功すれば僕の懐に金がないかを探り、アリエル様のような珍しい生物はどうやれば売れるだろうかと考えるだろう。
「……勿体ない街ね」
「勿体ない?」
パタパタと慎ましげに羽を鳴らしてアリエル様は溜息をつく。
「あんたには見えないからわからないと思うんだけど、この街にはね、妖精がいないの」
「元々妖精などどこにもいないというのが通説ですけど」
「いるわよ。あたしたちはどこにだって。どこにだっているはずなのに、ね」
羽ばたきを止めて、アリエル様はスイと僕の前を通り過ぎるように飛び、左肩へと止まる。大きな人形を肩に乗せたような気分で、それでも僕は立ち止まらなかった。
アリエル様の踵が僕の鎖骨を叩く。
「なんか疲れちゃったわ。目的地まで頼んだわよ」
「重くないのがありがたいですね」
「女の子の体重は林檎と一緒だからね」
「それは軽すぎると思いますが」
「あら、あんたよりも重い林檎がないって誰が決めたの?」
くつくつとアリエル様は笑う。
それから「誰がそんな重いって!?」と理不尽にも僕に向けて叫んでいた。
クロードの陣を訪ねたのは昼前のこと。
貧民街の前、麦畑よりも街側に。ネルグから出てきたムジカルの軍勢に充分な距離を以て対応出来るだけの間合いをとり、その陣地は作られていた。
縦の幅は大きくはないが、横幅が広い。恐らく三百歩ほどに渡る簡易的な防壁。派手な陣幕などはないが、一般兵の突撃をとりあえず止められる木製の柵に、その前には地面を腰程度まで掘った浅い堀。その中にはまた一段同じような囲いが作られてはいるが、簡素な陣。
中には簡易的な見張り台が作られ、夜間の襲撃にも対応出来るよう篝火も焚けるようになっていた。
まだ二日目だ、ということを考えればよく作ったものだろう。
これから時間をかければ、もっと広がりもっと堅固な拠点が出来ると予想出来る作り。まだその堅固な陣の『雛形』というようなもの。
「あ、その木材は後で使うんで、そっちの端に置いておいて下さい」
もっとも僕がその悪くいえば粗末な拠点を良く言っているのは、そこに知り合いがいたからというだけなのだが。
「よう」
資材を運んでいた騎士のような人間に指示を出していたのは、僕の知っている顔。仕事中だと声をかけるのを躊躇していると、モスクのほうから声をかけてきてくれた。
作業着のような吊りズボンに、上は黒い肌着。半袖の先はまだ白く細い腕だが、分厚い手袋は使い込まれているように傷だらけだった。
モスクは歩きつつ両手を手袋ごと叩き合わせる。その度に土埃と木屑の混じった粉が散った。
「お前の噂ばっか聞いてたから心配もしてねえけど、無事だったか」
「はい……じゃない、うん。イラインもまだ無事で何よりだよ」
「後半嘘だな」
お互いにケラケラと笑う。僕も心にもないことを言った、と言いながら思ったが。
「その通り。モスクが無事で良かった。リコやササメさんたちは?」
「リコさんはまだイラインにいるよ。ササメちゃんもまだいるんじゃね? 店閉めたって話聞かないし。まあ、そもそも、街は無事なんだ、全員、何かあるわけがねえよ」
「なら、僕が心配するのはそれで全部だね。全員無事でよかった」
「そうだな、お前を含めて五人全員、無事だよ。間違いなく」
目を細めてモスクは言った。僕はその言葉に頷いた。
それからモスクは手袋を脱ぐ。その視線は僕ではなく、僕の肩の上へ。
「で、……そうですね、礼儀などを学んだこともない不調法者ですので失礼があったら申し訳ありませんが、アリエル様、お会い出来て光栄です」
ぺこりと頭を下げた姿はおざなりにも見え、礼儀作法はあまり見えない。
だが肩の上の母は、気分を害したようにも見えなかった。
「あらあら、こちらこそご挨拶が遅れましたわね。アリエルでございますわ」
オホホホホ、とやけに高い声でアリエル様が返す。それから僕の耳に足をかけよじ登り、頭の上に立つ。
ずしりという重さが僕の首に掛かる。
「貴方がモスクね。だいたい知ってるわ」
「俺のことを? カラスにでも聞いたんですか?」
「いいえ。知ってるだけよ。うちの息子が世話になっておりまして……ちょっと、頭動かさないでよ、バランス取れないじゃない」
「人の頭は乗るものではないと思うんですが」
僕の抗議に鼻を鳴らして応えて、アリエル様はするすると滑り降りてまた肩に乗る。命綱のように僕の髪の毛を掴みながら。
「息子、ね」
「驚かないんですね」
小さく溜息をついて、モスクは呟く。その反応の小ささに、僕は逆に意外に思って返した。いや、大騒ぎをしてほしいわけでもないのだが。
この反応は、どちらかというとテレーズに近……いや、彼女も叫んだな。
「そんだけ仲よさげなんだから想像はつくよ。さすがに親子はちょっと予想外だったけどな。何だよ、じゃあお前も妖精ってことか?」
「両親は人間だと思うよ。アリエル様と血は繋がってないし」
「へえ」
妖精さん、とあだ名をつけられたことはあるが、僕自身は妖精ではないだろう。かといって、両親が人間だからと自分も人間を名乗るのに抵抗があるのは事実なのだが。
モスクは腕を組む。
「羨ましい、と何故だか思えないのは何でだろうなぁ……」
しみじみ呟いた言葉は、僕にも何故だかはわからない。
だがモスクのその言葉は強がりや嫉妬隠しではなく、本音で言っていそうと僕は思った。
あ、と僕は今更気付く。一言二言の挨拶で本来終わりなのに、それも何故だか話し込んでしまったようで少しだけ恥ずかしくなった。
「忙しいところ引き留めてごめん」
モスクがここにいる理由は聞いてもいないが想像はつく。
貧民街の壁や、兵たちの宿舎を作った理由と同じ。街からの要請で、彼の勤める工務店が駆り出されているからということだろう。公的な仕事だし、監督として指揮を執る、ということは若さ故に表だって出来ないまでも、それに類することはしているのだと思う。
きっと彼も戦っていたのだ。使い込まれた手袋はその証だろう。
だがモスクは事も無げに答える。
「ああ、いいよ別に。忙しくもないし……そろそろ多分仕事も終わりだろ?」
「終わりって?」
僕が聞き返すと、モスクも頭に疑問符を浮かべて首を傾げた。
「あれ? お前が知らないってことは、あれ本当にただの噂なのか?」
「噂って……?」
「いやだから、……今朝辺り、ムジカルから講和状が送られてきたってのは」
「初耳なんだけど」
「これで未練はなくなったわね!!」
モスクの言葉に答えようとして、それに被せるように耳元で叫ばれたアリエル様の言葉で、僕の耳には鋭い痛みが走った。
耳元で叫ばないでほしい。
「本当だよ」
僕が訪ねたクロードは、その噂について簡単に認めた。暇ではないが、忙しくもないらしい司令部。彼らの部屋は、やはり簡素な半日ほどで作れる木造の一軒家だった。
中の配置はネルグの中で使っていた陣幕と同じようなもの。中央に大きな机が置かれ、イライン周辺の地図がある。壁にはネルグを挟んだエッセンムジカル両国に渡る縮尺の小さな地図が釘付けにされ、いくつかの大きな矢印が引かれていた。
立ったまま大きな机に寄りかかり、クロードは目の下をがしがしと擦りながら言う。
「実際には講和状じゃないけどな。ムジカル側からそういう申し出があったと、ミーティアから知らせが入っただけだ」
「ミーティアから? わざわざ?」
「……カラス殿も知らないことがあるんだな。さすがに直接文のやりとりは出来ないだろう? こういう場合、第三国を挟んで調停をさせるんだ。まずはその端緒といったところで……この早さだと、昨日の朝にはムジカルから知らせが飛んだんだろう。それから夜までミーティアは対応を決めるために話し合い、昨夜辺りにライプニッツ家に遣いを出した」
「国交がなくてもそういうことはするんですね」
ミーティアはライプニッツ領を除き、エッセンとの関わりを断っているはずだ。なのに。
目を瞑り、笑いながらクロードは俯いた。
「関係を断っていても、隣の国の戦争となればさすがに口出しはするさ」
クロードは近くの聖騎士に目配せをする。
向けられた聖騎士が、横にあった小さな戸棚から取り出した粗末な紙を机に広げた。
「差出人はドゥミ・ソバージュ。アリエル様にはお馴染みの名前でしょう」
「あらあら、本当にあの婆さん生きてたのね。これは写し?」
「ええ。文章は書き写し、掌印も一応証明のために写し取ってあります」
アリエル様と僕はその文章を覗き込む。
たしかに、そういうことがあったという旨が記されている。文の横、滲んだように薄い青の塗料で、歪みながらも版画のように捺されているのは、見たことはないがドゥミの肉球だろうか。
「ミーティアにはムジカル王グラーヴェの名で送られたらしい。求めるのは無条件での白紙和平。停戦保証は十五年ということだ」
「停戦保証?」
……知らない単語ばかりだ。もっとも、この無知は情けなくならないのが不思議だが。
今まで知らなかったこと。無関係でいた戦争。知らなくても良かったことだからだろうか。
「…………なんというかな、今後十五年、調停に参加する第三国に監視を頼むといえばわかりやすいか。その間にどちらかが停戦を破棄して開戦しようとした場合、その第三国は無条件でその国家に攻め込む義務と領土を切り取る権利が生まれる」
「なら、今回はミーティアが?」
「通常は双方が隣接する国家を巻き込んで行うから……前はサンギエもあっただろうが、今回はミーティアとリドニック辺りが順当だろう」
「あまり抑止力にならない気がしますけれども」
「俺はそうは思わないがな。ミーティアにはこのお方もいるだろう?」
クロードが指さしたのは、机の上の書状。そこに記されている名前。……だが。
「三百年前、エッセンに大敗したときも彼女はいたはずですが」
「たしかにな。かつての力が失われていたのか、それともやる気がなかったのか、それはわからんが」
かつてネルグの南側の支配権を有していたミーティアを、エッセンは退け平原まで追い払った。その時の戦でもドゥミはいたはずで、アリエル様がこれならば彼女だってそれなりに戦力になったはずなのに。
エッセンが強かったのか、それともドゥミが同胞を殺されても力を入れなかったのか。
「ともかく、ムジカルはエッセンとの戦で停戦の期間を破ったことはないはずだ。俺の知る限りでは」
「つまりこれで一応は戦争も終わる」
「本当に一応は、だけどな。この後日程を詰めて、どこかで各国の代表が調印することになるだろう。その辺りのことはダルウッド公爵の範疇だ。決定するまでこっちは知らんし、それまではこのまま防備を固め続けなければならん。まだ戦闘が起きないわけじゃないしな」
そう言いつつも、クロードの姿から何となく覇気が失せているのは彼もその気配を感じているからだろう。
ムジカルの和平打診は計略などではない、気がする。
戦争が終わる。あとしばらくは連絡が途絶した部隊が森の中から侵攻してくる程度で。
何というか、聞けばまた僕の肩からも力が抜ける気がする。
ここまで森に入り、何度も何度も殺し合いをしてきて、その結末がこれだろうか。
僕たちは、僕を含めてエッセンの騎士団や傭兵や探索者は戦場で何度も敵と命を奪い合い、実際に奪い奪われてきた。僕自身自覚はないが、きっと僕ですら気疲れはしていることだろう。
そんな戦争の行方は、僕たちの手にはない。
それを決めるのはエッセン側ではダルウッド公爵や上の者で、彼らの中で決着がつく。僕たちはただ結果を知らされ、『行け』と『止まれ』の命を下されるだけだ。
更にその勝敗すらも、勝ちも負けもない。
無意味な戦で。
だから。
「なら、私はこれで一度王城へ引こうと思います。テレーズ殿の不調に備えてソラリック様は残していきますし、その護衛としてレシッドも残していきますが、ミルラ麾下カラス隊のご奉公はこれで終わりとなります」
もう興味はない、という言葉が言いやすくて助かる。
クロードも、僅かに溜息をついて唇の端と眉の端を上げた。仕方ないと言わんばかりに。
「俺としてはもう少しいてくれたほうが助かるんだが」
「もう必要ないでしょう。問題があるとするならミールマンの〈眠り姫〉ですが……そろそろ情報も入ってきたのでは?」
「まだ詳しくはわからんが、少々の被害が出たというのは聞いた。撃退か討伐かはわからんが、負けたわけではない、ってくらいだな」
「ならもう和平が済んでしまえば問題はない」
「やけに急いでいるな」
「急いでいるわけではないです。他にすることがなくなっただけで」
エッセン側は防衛戦の構えで攻勢に出ない以上、戦闘はほとんど起こらないし、小規模のもののみ。
そしてもうすぐ和平する。ならば僕にはもうやることはない。
「……なら、することというのは昨日の聖教会の件か?」
「いいえ。そんな小さなことではないですね」
「小さなことってか」
ぷ、とクロードは口元を手の甲で押さえて噴き出す。
「では?」
「私を心配してくれている方に、無事な顔を見せたいだけです」
僕が言うと、クロードが一瞬真顔になる。
それからまた小さく噴き出すと、決壊したように口を大きく開けて笑った。
「なるほどな。……ザブロック嬢もとんでもない男を虜にしたものだ」
「あえて否定はしませんが」
ルルの名前を口にされ、……多分反応するとこういう類いの人間はそれをからかいに来るのだろう。そんな隙など見せるものか、と僕は口元を引き締めた。
「まったく、怖いものだ。ルル・ザブロックは一国を転覆させかねない力を手に入れたらしい。あの小さな胸の内一つでこの国の命運が決まる。……機嫌を損ねないよう努力しなければいけない人間がまた増えた」
首元をボリボリと掻きつつ、冗談をクロードは重ねたが、哄笑はそこで終わりらしい。
笑い声は止まり、笑顔のままにクロードはどこか渋い顔を作る。
「お前は小さなことと言ったが、聖教会のことは俺たちとしては大きなことだ。だが、その件に関しては俺は全面的にお前の味方をする。陛下を敵に回そうともだ。テレーズもそうだろう。アリエル様がそこにいるからじゃないぞ。俺たちの意思でだ」
す、とクロードの手が僕の肩に乗せられる。金属製の手甲に覆われているが、それ以上の重さを持って。
「だから、決して短慮を起こすんじゃない」
懇願するように顰められた眉。それに、真摯な目。
真面目な口調で、クロードは続けた。
「具体的には、王城を燃やしたりはしないでくれ。頼むから」
「では最悪の場合、《山徹し》を打ち込むということで」
「……お前は本当にそれをやりそうだから困るんだ……」
冗談ですと僕は返したが、クロードはそれを笑わずに、アリエル様だけがケタケタと笑っていた。




