終幕:弓鳴らし
森に、宙を駆ける影がある。
頭巾つきの小豆色の外套。胴部分は赤と黒が複雑に混じった分厚い布に、革の帯が幾重にも巻かれる。弓掛け代わりの革の手袋は指先までを覆わず、その先だけが指の色で白く見える。
狩人デンアは、夕も近づくネルグの森の『上』を疾駆していた。
木々の上を跳んでいるわけではない。
踏んでいるのは木々の上。『空』である。
踏み込む足に纏うのは金色の靴。名を〈天翔靴〉という魔道具であり、闘気を込めて空中を踏むとそこに不可視の足場を生成するというものだ。
イラインの貴族や資産家の下を転々とした後、このネルグで行われた戦争が始まる直前に、彼の下に一つの願いと共に届けられた。
『戦争を止めてほしい』という願い。
金の髪を持ち、自分は殺す術しか知らないと嘯いたある人物の手で。
誰にも見えない階段を上るように、デンアが軽々と空を登っていく。既にネルグの森からは遠く、遙か上空。雲にすら手が届く高さ。
それでもまだネルグの中央にある一本の木からすれば中腹という程度ではあったが、既に眼下には青く霞むネルグの森が一望出来る高さだった。
(……まだ)
雲の湿り気を頬に受けつつ、デンアはまだ遙か上空を目指す。
細める目が見据える景色はただひたすら上のみ。
目指すは雲の上。このネルグの森全てを見下ろす中央の木の頂上よりも高い場所へ。
既に常人では墜落すれば死を免れないような高さではあるが、デンアの胸に恐れはなかった。建築物に支えられているわけではない。何かに掴まっているわけでもない。足がかりがあるとすれば、靴の裏、厚さもない頼りない硬質な何かの力。
平衡を崩し、姿勢を崩してしまえばもはや頼りになるものは何もない。
その上で、デンアには恐れはない。
それは勇気ではない。高さへの恐れを噛みしめて、それでもなお進んでいるわけではない。
恐れ知らずでもない。デンアとて、未知なるものや抗えぬものへの恐怖は持つ。
だが、恐れはない。
誰にも支えられず、何者にも守られない。デンアがいるのはそういう場所だ。
弓を取った十歳の時から、目に見えるもの全てを射貫くことが出来た。矢を番えて標的を見れば、風がどのようにして矢を運ぶか、全てを知ることが出来た。
その苦しみを理解する人間は、デンアの周りにはいなかった。
弓を引き、矢を射れば当たる。そこに他の思考が介在する余地はない。敵がいれば矢を射ればいい。そうすれば矢は当たり、その内に莫大な富を連れてくる。矢を放てば、誰しもが自分を恐れて褒めそやす。名声はすぐに広がる。
苦戦がしたかった。
矢を通せぬ固い敵に会おうと、もしくは矢が当たらぬ素早い敵に会おうと、ネルグの奥まで潜ったことがある。ネルグは浅いほど弱い魔物や動物が、深いほど強い魔物がいる。だからこそ、その奥には自分も苦戦し工夫が必要な者がいるかもしれないという一縷の望みをかけて。勿論その望みもネルグの幹に到達したことで潰えてしまったが。
『高いところ』ならば慣れている。
誰にも頼れず、そして誰にも守られない場所。圧倒的な才能を持つが故の孤独。
だからこの上空、既に雲よりも高い場所でも恐れはない。
知っているのだ。この程度の危険『らしい』場所、自分ならばどうということはない、と。
十五歳の頃、彼はプリシラと名乗る占い師に出会った。
鬱屈していた日々。退屈だった日々。請われるがままに矢を放ち、ただ何かを貫いていた日々。
莫大な財産も得たその日に全て人に譲り、美食にも女にも興味を持てず鬱々と暮らしていた日々。
何も考えずに、この世界の全てがつまらないと見下していた日のこと。
『きみは、私とおなじだね』。そう、綺麗な金の髪の彼女は口にした。当時のデンアにはその意味は分からなかったが、彼女は柔らかい手で握手をしながらも、真剣な目でデンアの行く末を占ってくれた。
彼女の勧めでデンアはムジカルとの戦に出て、……そして。
(イコさんとシウムさんはいいとしてもー……カソクさん、ちゃんと守ってくれてるかな)
そこで、大事な仲間と出会えた。
前回の戦争で、ようやくデンアは『知る』ことが出来たのだ。自分が求めていたものを。千余の騎士の恐慌を止める偉業で伝説を成すことになったということは、彼にとってはおまけにすぎなかった。
ようやく得た『自分たちの村』。
探索者として得た全てを投げ出し、ようやく得た育てていけるもの。
小さく、日々の糧を得るのも厳しく、村人同士で助け合ってようやくその日を凌げる小さな財産。
無論、デンアならば一人でその村民百人を養うことが出来る。けれども、それだけでは足りないことがあると知った。
彼がいくら山鳥を狩ろうとも、また共に村を作った探索者たちがいくら猪を狩ろうとも、それはその日の糧になるだけだ。
自分たちがいなくなった後のために、次代のために村を大きく強固に育てる。一部の人間に頼るだけの村は、早々に潰えてしまう。ならばそうではないようにと腐心する日々。
次代のために、作物を育てるように村を育てる。無論楽ではない。村とは人と人との集まりで、人が集まれば軋轢が起きる。……村で自身すら正体不明の何者かの手で、猪が死んでいたこともあった。
弓では解決できない諸問題があることを知った。
だがそれを解決すれば、必ず手応えがあった。自分が何かをする度に、自分が仲間と力を合わせる度に、村が一つ良くなっていく。もしくは悪く、もしくは維持できる。
楽しかった。ようやく自分を無視していた人生の『問題』が、自分の方を向いてくれたと思った。
それが傷つくかもしれない。
そう知らされて、動かないデンアではない。
ムジカルとの戦があるとしても、どうせ小さなもの。ネルグ南西部の自分たちの下へ戦火が及ぶことはない、と高をくくっていた。
けれども聞くとそうではないらしい。
既に開拓村ではなく街ではあるが、自分たちの村が今回は蹂躙されるかもしれない。
勿論、デンアがいれば村へと災禍は及ばない。
デンアに、水天流先代掌門の高弟であるシウムとカソク、そしてデンアの幼少期の師イコ。彼らがいるその村は、このエッセン王国はおろかこの世で最も安全な場所だといっても過言ではない。
仮に魔王が復活し、奪い取ろうとしても指一本動かす間もなく必滅されるだろう。
だがデンアは知っている。
この世は『繋がり』で成り立っている。人と人、街と街、国と国、世界と世界。仮に村一つ残りそれ以外の全てが滅んだとするならば、それにつられて全てが崩れる。もはや幸せはないだろう。
あの村には、街には、自分が育ててきた子供には。
高く跳び、下を見る。
ここはネルグの真南、中層付近、その上空。
高さは通常人の届くところではない。既に眼下は青みを帯びて、ネルグの南の端すらも見えそうなほど。
靴に闘気を込め直し、デンアは上空を踏んで立つ。足の下にある硬質の地面が、カツンと音を立てた。
〈山徹し〉デンアの異名は、その王国史上最強の砲撃と共に伝わっている。
通常は金属もしくは水分以外には伝わらないという闘気の性質を無視し、更に身体に接触していなければ対象に流し込めないという法則に等しい強固な性質すらも無視した砲撃。
だがその《山徹し》とて、彼は修練の末に身につけたものではない。彼が自分の異質さに気が付いたのは、弓を取ってすぐ、闘気を身につけてからも改めてのことだ。
その身に纏う闘気は異質な密度を誇り、更にそれを自身から離して運用するという誰にも出来ない妙技。それを、デンアは呼吸をするように自然とやってのけた。
『それ』が出来る人物を、デンアは自分以外に師であるイコ一人しか知らない。だがそれも、微弱な闘気を矢に纏わせる程度の些細なもので、魔力による影響を受けない矢、という程度のものでしかない。
山をも徹し、戦場を穿つような威力が放てるのは彼ただ一人。
そして彼には、更にその先も。
「……さて」
デンアが担いでいた短弓を手に取る。弦も本体も何の仕掛けもない、何の変哲もない普通の弓。木製で、弦も麻の単純なものである。
左手で保持し、そして右手は矢を持たず空の手でただ弦を摘まむ。
固く引き絞り、狙いをつけるのは眼下に広がるネルグの森。
迸るような闘気がデンアの身体から放出される。だがそれも一瞬のこと。あたかも煙が身体に巻き付くように、まるで意思を持つように光が両手の先に収束してゆく。
《山徹し》。闘気で強化した弓を用い、その矢にまで闘気を込めて遠方へと飛ばす絶技。
けれどそれは矢を使ってこその技。闘気で強化されているとはいえ、行っているのは単に弓で矢を射ているだけである。
弓を引き、矢を射れば当たる。
それこそは、射の射というもの。つまりそれは誰にでも出来て当然のことで、誇るようなことでもない。
なればこそ『その先』がある。
出来て当然のことではない。余人とは隔絶した力を持つ超越者のみが行える、出来るはずがないと皆が考えるはずの技術の結晶。
この世界でもデンアただ一人しか行えない絶技。
不射の射。
その砲撃は矢を用いず、そしていずれは弓すらも。
フッ、と短い息を吐いて、デンアが右手の弦を離す。
弦が鳴る。高い音を、空気を裂く音を立てた。
そして次の瞬間、眼下の森が映る光景が、じわ、と音を立てて歪んだ。
デンアから遙か下方、ネルグの森の中。
ピン、とどこか張り詰めたような音が鳴る。その音に反応し、聡い動物は即座に逃走を選択した。鳥は一目散に枝を立ち、獣たちはがむしゃらに走り回る。
だが皆、どこへ逃げようとしているのか自分たちでも分からなかった。逃げる先は自分の本能に任せて、その知能の低い頭では何も考えずに。わからずに。
やがて、冷たい風が吹き下ろした。涼しいわけでもなく、寒いわけでもなく。ただただ冷たいその風が、染みこむように大地を撫でつけていく。
そうして次の瞬間、崩壊が起こり始めた。
ネルグを構成する植物の地面が、ぼろぼろと白く乾いていく。砂のように変じたのは地面だけではない。そこに生える木々たちまでもが、水分を失ったかのように砂のような、硝子のような粒へと変じて砕けていった。
植物の根が絡まる地面が抉れるように消えていき、更にその下までもが蟻地獄のように窪んで崩れていく。
その変化はデンアの足下だけではなかった。
ネルグの幹からネルグの森南まで、直線上に地形が抉れていく。その距離およそ四百里。余人が見れば、まるで森を写した絵画が切り裂かれ、そのまま左右に引き裂かれたようにすら見えただろう。
作られるのは、深い地の底まで届くような谷。
岸壁から岸壁までの距離はゆうに三里を超えて、地を這う獣が跳んで届く幅ではない。
ところどころ橋のように残された地形は、街道に沿ったもの。だがもはや大人数の移動は難しく、攻め込むのも難しく、防ぐのも容易な程度だった。
「移動の制限、これでいいですかねー」
煙すら吐かずに変わってしまった地形。
見下ろしながらデンアがぽつりと呟くのは、これを依頼した金髪の男への確認。そうすれば、必ずや戦争は止まる、という予言めいた言葉。
まあたしかに、だろう、とデンアは何となく感じていた。指定された期日、今日。昼頃まで感じていた森の殺気は既に大分治まっている。あとはきっかけさえあれば、きっとどうにかなるだろう、……というのが超人としての彼の直感だった。
とりあえず、これで今日は戻ろう。
明日以降、出来ればエッセン騎士団に接触を取り、状況を把握しなければいけない。……出来れば自分の名がまた売れるのは避けたいところだが。
それと、『彼』は目的を達成できただろうか。
ふと振り返り、デンアはここへ来る前に《山徹し》で狙撃した岩山を見下ろした。
デンアの人生の転機を作った占い師、プリシラ。彼女を助けたい、と願っていた彼は。
まあいいだろう。もう、関係のない話だ。
頬を撫でる風が、戦争の終わりを告げている。
デンアはそう感じた。
というわけで、次から次章、戦後処理編です。




