終幕:彼らの物語
というわけで次は金髪族の風呂敷。
「腕の動きが速すぎる」
一人の茶髪の男性が、癖のある金髪の少年の腕を木剣で打ち据える。少年が取り落とした木剣が、踏めば音が鳴る道場の木の床に落ちて大きな音を立てた。
余人が見れば驚いたことだろう。今まで無手だったはずの少年の手から、突然木剣が現れた。驚きもしないがそう見えたのは男性の目からしてもそうで、しかしその種がわかっている男性はフンと鼻を鳴らした。
「レイトン、お前の悪い癖だ。仕掛けを気にして手の動きが速くなる」
「だってさ」
「だっても何もない」
言い訳をしようとしたレイトンの額を、茶髪の男性レオナールが手刀で小突く。手刀は痛くも痒くもないものだが、それと同時に腹部に押し当てられた木剣の切っ先の感触に、レイトンの背筋が凍った。
気付かなかった。もしも実戦ならば、知らぬ間に心臓を貫かれていただろう。
「お前の才能は俺たち以上だ。求められるものの高さを自覚しろ」
「そんなことをいわれても」
「もう一度だ。構えろ」
全く話を聞いてくれない。話と言うよりも言い訳を。
そう少しだけ唇を尖らせて息を吐いたレイトンが渋々と木剣を拾い上げる。そして構えたレイトンの手から、煙のように木剣が消え失せた。
同様に、兄レオナールの手からも。
葉雨流の『剣の握り』はその他の流派と比べても多種多様なものだ。
通常のように剣を握る。または逆手で。それに加えて、指で挟む、摘まむ、引っかける、乗せる、などその時に応じて使い分ける器用さが求められる。
その理由は、他者からの剣の視認の妨害。
人は見えない剣を躱すことは難しいし、そもそもに警戒できない。故に葉雨流剣士は『仕事』の際、その多種多様な握りを駆使し、周囲の視線から刃を隠す。
水天流の特色がその多種多様な足捌きにあるように、葉雨流の特色はそこにこそあるといえよう。
見つめ合って数瞬の後、ガン、と虚空から固い木を打ち合わせる音が響く。同時にまた空中から現れたレイトンの木剣を、レオナールが持った木剣で下から弾く。
レイトンが攻撃し、レオナールがそれを受けた。その光景を見てそれが理解できるのは、達人と呼ばれる猛者とて少ない。
ガン、ガン、と音を立てて、レオナールがレイトンの剣を空中で弾いて弄ぶ。
「やはりまだ未熟だな。大目録を取って仕事をしてそろそろ三月。緩む頃だと思っていたが」
「次期当主様に敵うわけがないだろう?」
「それはお前がただ怠ってるだけだ」
レオナールが剣を弾いてレイトンに投げ渡す。
それを慌てるようにして受け取ったレイトンに、またレオナールは一歩近づいた。
一人前として扱われるようになって三月。もはや一人での仕事までも任されるようになり、使用人からは兄レオナールや姉プリシラと同列に扱われるようになった弟、レイトン。
レオナールは、惜しい、と思った。
その才は自分やプリシラ、また現当主であるバルトを凌ぐものだ。生まれ持った共感覚は、初代の息子が持っていたとされるものと同様、葉雨流の剣士が求める四禁忌の理想ともいえるもの。
目で見ずとも耳と鼻と肌で相手を視て、耳で聞かずとも目と鼻と肌で聴く。それらを訓練により後天的に身につけた自分たちとは違い、生来持っていたその感覚は余人には説明しがたい『才能』といえる。
逸材だった。
次代の葉雨流を継ぐべき者として理想的な。
もしも末子でなかったら、とはレオナールも父バルトも口にしていたことだ。
開祖ラザフォードの直系の者の内最強の者が継ぐ水天流とは異なり、またそもそも開祖も当主も明かされていない黒々流などとも異なり、家伝の流派である葉雨流の当主は長子が継ぐ。
もしもレイトンとレオナール、二人の生まれた順が逆であれば。
しかし、そうであったとしても、レイトンには重大な身体障害がある。
闘気賦活不全。その名の通り、闘気を生成する機能が身体にあるにもかかわらず、賦活しようにも微弱、またはごく短時間になってしまう原因不明の疾患である。
故に、レイトンの身体は周囲と比べると虚弱とも呼べる儚いものだ。
行動範囲が限定される形質。
だが、それを次代に受け継ぐということも避けたい事態だ。
惜しい、とレオナールは思っていた。
もしもレイトンが長子ならば。もしもレイトンがその身に障害など生まれ持っていなければ。
葉雨流の次代に継ぐべき才能は、レイトンが持っている。
もしもレイトンの子も共感覚の才能を持って生まれてくれれば。また、それが脈々と受け継がれてくれたならば。
ドルグワント家、葉雨流の次代当主は、何の問題もなくレイトンだったものを。
近づいてきたレオナールに、レイトンは身構える。
今は手に持っているのが見えている木剣。しかしその木剣が、次の瞬間思いも寄らぬ場所から飛んでくるかもしれない。また、その木剣に注目させておいて、別の隠し持った木剣や違う武器を使うかもしれない。
ふと見た顔からはレイトンの共感能力を持ってしても、攻撃の際に発する敵意も悪意も読み取れなかった。
けれどそれが怖い。この兄のそれが怖い。
自分を凌ぐ葉雨流の使い手。次期当主の名に恥じない強力な相手。
レイトンにとっては誇らしいとすら思える尊敬する兄。
それがもしも、その身につけた葉雨流の手練手管を用いて悪意を隠し、自身に襲いかかってくるのならば。
凌ぎきれる自信は……。
「さすがに朝からお前の相手は疲れた。そろそろ朝食の時間だろう。いくぞ」
そしてレオナールは、額の汗を手の甲で拭い、それからすれ違いざまにレイトンの肩をポンと叩く。拍子抜けしたようにレイトンは「え」と返した。
「どうした? 要らないというならば、お前の分は下げてもらうが」
「いや、いるけどさ」
「なら早く来い」
突然の稽古終了。
拍子抜けしたレイトンは、その兄の後ろ姿を見送る。
それから兄はひたと立ち止まり、レイトンに視線を向けずに「そうそう」と口にした。
「その剣はお前が捨てておけ」
どの剣、とレイトンは一瞬迷い、それから悩むまでもないことだ、と気付く。
レイトンが持っていた木剣。その手元に切れ目が入る。まるで金属の剣で切断されたように綺麗な断面が形作られ、遅れて木剣の先が床に落ちる音が響いた。
昼前に、ドルグワント邸から一人旅立つ者が出た。
ドルグワント家末子、レイトン・ドルグワント。今日から五日の『仕事』の出張である。
「いってらっしゃいませ、坊ちゃん」
「うん、いってくるよ」
玄関先の掃き掃除をしていた使用人に向け、レイトンは笑顔で挨拶を返す。
笑顔と元気な挨拶は人と人との結びつき。また、彼らのような稼業の者がどんどんと失ってしまうもの。そのために、それらしく思われないよう教育されてきたレイトンの笑みは快活で優しげだった。
レイトンは静かに歩き出す。尊敬する兄や大好きな姉、そして優しくも恐ろしい父バルトがいる家に背を向けて。
竹林に隠されるように立つ生家。竹垣を伝うように角を曲がって。
庭からちらりと見えたその姿を、先ほど家の中で出立の挨拶を済ませた兄と姉が眺めているのを、肌で認識しつつ。
道場の縁側。そこに腰掛けるのはレイトンの姉プリシラ。
癖のない金の髪を遊ばせ、秋の風を楽しんでいた彼女は、レイトンの姿が見えなくなるのと同時に口を開いた。
「仕事の朝まで稽古だなんて。お兄様はレイトンに厳しくないかな?」
「最近たるんでいるように見えたからな」
ふう、とレオナールは溜息をつく。プリシラの後ろで立ったまま、ドルグワント家の庭に並ぶいくつもの枯れ木を眺めつつ。
「仕事に慣れ始めた頃だ。気を緩め始めるころ。それに、大きな失敗をするのもこの頃だろう」
「お兄様にも経験があるように聞こえるね」
「そうだな。俺もちょうどあれくらいの頃、一度《陰斬り》に失敗した……知ってるだろう、そのことは」
「……まあね、お父様に怒られてたのはよく覚えてるよ」
ひひひ、とプリシラは唇をつり上げて笑う。
まだプリシラも修行中の頃。兄レオナールが仕事先で大きな騒ぎに巻き込まれそうになったというのは知っていた。
標的を尾行、接触したまではよかったものの、遅効性の斬撃《陰斬り》に失敗してその場で殺害してしまったということ。四拍子の歩法でその場からは逃れることが出来たというが、その罰として父バルトから三日ほど徹夜でしごかれていたのも知っている。
「それでもまあ、レイトンが失敗するとは思えないけどなあ。試練も一発で合格したし」
「気合いが入ったあいつなら当然だろうが。問題なのは今、慣れてきて気が緩んだときだ」
レオナールが思い返す。レイトンが大目録を取った日のこと。大目録の試練に一度の挑戦で合格したこと。自分は二度目の挑戦で合格したというのに。
そして、全くこの天才どもは、とプリシラを見つつ内心溜息をついた。
プリシラも、葉雨流大目録の試練に一度で合格した一人だ。
他の多くの流派と同様でもないが、葉雨流の大目録授与の試練に命の危険はなく、何度でも挑戦は出来る。それ故にどうしても気は緩むことになり、歴代の葉雨流剣士でも一度の挑戦で合格することは稀だった。
葉雨流大目録の試練。それは、庭に植えられたある一つの樹木を枯らすこと。
ドルグワント家の人間が生まれた年。ドルグワント家の庭には必ず一本の枝が挿される。通称〈百枚の木〉と呼ばれるその植物はネルグの深層で採取されるもので、通常の植物は持っていないある特徴があった。
植えられてからおよそ十五年。人の背丈よりも少しだけ小さい程度まで育った頃。その人の腕程度の太さの幹から伸びた枝に、緑の葉がつくのだ。
無論、緑の葉をつける程度の木ならばありふれている。
その木の特徴、それは、『葉をちぎり取っても再生する』ことである。
一本の木につく葉は、個体差があるもののおよそ百枚。
しかしその茶の葉に似た葉は、落としても落としても尽きることがない。一枚を枝から引き千切れば、どこからかまた一枚だけ葉が瞬時に伸びて補充される。まるで化かされているかのように、千切っても千切っても必ずその木の標準の葉の枚数を維持しようとする。
葉雨流の試練は、この木を枯らすこと。だがそれも、たとえば水を絶やして乾きで枯らす、などというものではない。
その木が枯れるのは、木の幹に蓄えられた栄養と、根を張った地面の養分が尽きたとき。それに加えてもう一つ、『葉が一枚もなくなったとき』だった。
その葉を樹木自体に気付かれることなく、奥義《陰斬り》によって全て切断する。
結果、葉はまるで雨のように舞い散ることになる。それは開祖の息子が葉雨流に開眼した日のこと、その再現のように。
「レイトンは油断しないよ。いつだって真剣さ。……真剣でないと、生きていけないんだ」
ぽつりとプリシラが呟く。それはレイトンへの贔屓ではなく、どちらかというと確信だった。
「あの子の身体は治らない。油断すれば死んじゃうことくらい、自分で知っているはずだよ」
「闘気賦活不全、本当にもったいないことだ」
「欠点のない人間は愛されない。それがあの子の可愛げさ」
ひひ、と笑ったプリシラにレオナールは一部同意する。確かに、とも思う。闘気賦活不全症は、レイトンの暗殺者としての重大な欠点だ。
闘気を身につけるまでになった者は、環境の変化に強い。多少の寒冷な地でも高体温を維持し、多少の温暖な地でも熱で参ることはない。
けれどもレイトンの身体はそうではない。厚着などで防寒できる寒い地域はどうにかなるとしても、脱いだところで限界がある暑い地域での活動は難しい。
それは、時には国を跨いで活動することすらもある葉雨流の暗殺稼業には、致命的ではないが不向きな特徴だ。
レイトンはムジカルには入れない。砂漠地帯に数刻もいれば、闘気の賦活も追いつかず行動不能になる。サンギエの乾燥地帯には数日が精々だ。
エッセン王国は、変動はあるものの、温暖で安定した気候。夏は乾き死ぬこともなく、冬は凍え死ぬほどでもない。
故にレイトンの『仕事』の範囲も、その中に限って行われていた。
「今回はミールマンだっけ」
ミールマン。エッセン王国最北東の副都。冬になれば北の隣国リドニックに近い気候となり、極度の寒波にすら襲われる寒冷な地。レイトンにとって、重装備なしの場合に行動が出来る世界の果てとも言っていい場所。
「ああ。依頼主も必死だったみたいだな。わざわざこんな遠方にまで依頼を出すとは」
「『妹を乱暴し、死に追いやった奴らを探し出して殺してほしい』。ソーヤー某さんも大変だね」
ドルグワント家では、暗殺依頼の詳細は家族で共有される。共有した情報をもとに当主バルトが指示を出すものだが、やはり依頼の詳細により適性というものがあった。
今回レイトンが指示されたものは、探偵行為も含む暗殺だ。家族のなかでも、共感覚を用いて過去視に近いことを行えるレイトンが最も適しているもの。仮に剣術が、子供たち三人のなかで最も未熟だとしても。
「でも、こういう依頼ならレイトンもすっきりやれるよ」
「……すっきり、か」
甘いことを、という言葉と、仕方ない、という言葉が同時に脳内に響き、レオナールはこの日何度目かもわからない溜息をついた。
「やっぱりまだ悩んでいるか」
「だろうね。この問題は折り合いがつかない。つけちゃいけない、と私たちは教わっただろう?」
プリシラは振り返り、レオナールと目を合わせる。
こんな簡単な仕草すら、自分たちは意識しなければ出来ない。出来なく『なってしまった』。レイトンに関しても、その癖を直すのに苦労したものだ。
「お兄様には言わないだろうけど、レイトンもそれとなく何度もこぼしていたよ。やっぱり、仕事は辛いんだってね」
「……それは、お前もだろう」
勿論俺も、という言葉をレオナールはぐ、と飲み込む。
「それは思うよ。私たちは依頼を受けたら、どんな人間でも殺さなくちゃいけない。どんなに優しくてどんなに善良で、どんなに好ましい人間ですら、この手で刃を通さなければならない」
レイトンは勿論、レオナールもプリシラも、『仕事』の際には相手の素性をよく知ってしまう。それは四禁忌の修練で得た超常的な感覚により、自然と。
そしてそれだけではなく、それにより葉雨流剣士に課せられた枷が自然と重たくなってしまう。レイトンの優しい心では潰されそうなほどに。
「私たちは暗殺者だ。血に塗れた殺人鬼なんかじゃない。だから……だからこそ、レイトンには辛くなる」
葉雨流剣士は、人を殺して笑うなと教えられる。酷い撞着だ、とプリシラは思う。殺人の業をその身の隅々にまで仕込まれて、なおその業を振るうことに忌避感を持たせるとは。
そして、故に。
「どれだけ他人に厳しくて悪辣で、どんなに嫌いな人間でも、依頼がなければ殺しちゃいけない。私だって時々ふと思うよ、死んだ方がいい人間だっているのにって」
プリシラは自分の手を見つめる。幼い日は修行で硬くなった掌。いつの日からか、技量が上がるにつれて修練では傷つかなくなった綺麗で柔らかい手。
この手で剣を振るえば、簡単に人は死ぬ。嫌な人間も、悪い人間も、この手で簡単に。
人を殺すために修行を積んできた。ならばそれを存分に使って、何が悪いというのだろうか。
「だがそれは出来ない。俺たちは、俺たちであるために」
「真面目だね、お兄様は」
「俺たちはそう生まれてしまった以上、この重荷を解き放つことは出来ない」
笑う妹に向けて、毅然と兄は言い放つ。
「俺たちは代行者だ。依頼人の暗い部分を、依頼人に代わってやり遂げる。そしてそれ以上のことをしないから、俺たちは存在を許されている」
暗殺者だ。決して、人の作った『社会』というものに存在していいものではない。誰かを殺し、繋がりを瓦解させる存在など社会にとって単なる害悪に過ぎない。
本来は衛兵に追われ、為政者により処罰されるべき存在。
だが今は、その存在が許されている。誰もドルグワント家の家業を詮索はしないし、知っていても知らない振りをする。表面上は、善良な社会の一員としての参加を許されている。
それは、暗殺者が社会ではなく、それを構成する『人間』にとって必要なものだからだ。
「わかっているよ」
人間というものは耐えられない。自分が汚くて悪い存在だということに。
自分が悪意を持つなど認められない。もしも自分が誰かに悪意を抱いたとしたら、そうさせた相手が悪いのだと思いたいものだ。
同じように、悪に手を染めたくはない。悪意とは確かに存在するのに、それが自分の外にあると思いこまなければ生きてはいけない。
だからこそ、暗殺者は必要なのだ。
人を殺すために頼む相手。悪いことをしてくれる人間。
暗殺の技術などという小手先のもののためではない。殺人という『悪』を、己の外に置いておくために。
そしてそれが自分たちの悪い部分を担っている間は、人というものは案外優しいものだ。
『そういう人もいる』とどこかで納得する。嫌悪はしても排斥まではしない。英雄のように崇拝する感情すら湧くかもしれない。自分ではない誰かが、自分ではないということになっている悪意の被害に遭っている内は。
だがそうではなくなった場合。
自分たちが今まで便利に使っていた悪意が、勝手に意思を持ってしまったら。
そう、プリシラは知っている。
「私たちが手を繋いでいるためには、私たちの意思で人を殺しちゃいけない。私たちは悪いことをする人間であっても、悪い人間になっちゃいけない。わかっているよ」
それはプリシラが、レイトンに向けても何度も口にしてきた言葉。プリシラも、父からも兄からも何度も聞いた言葉。
社会には、法というものがある。社会を守るために皆が了解し作り上げたもので、それを守っている限りは社会の一員となれるもの。
法を自分からは破らない。そして人にやらされたと責任転嫁しない。それを守るために自分たちを律することは、力を持ち、出来る彼らにとっては酷く辛いことだ。
それは彼らのなかで最も聡明で、最も道理に明るいレイトンですらも。
「でも実際、レイトンは苦しんでるよ。優しい子だから」
「……じきに慣れるさ」
俺も、お前も、と声に出さずにレオナールは付け足す。そして内心、俺も、に関しては訂正した。
「そもそもに、お前たちには余裕があるからそういうことを考えられるんだろうな」
レオナールは苦笑して自分の肩に手をやる。
「俺はいつだって必死にやってきたから、そういうことを考える余裕がなかったよ」
本音だ、と口にしてから思った。
レオナールは、自分に才能があるなど思ったことがない。生まれ持った剣の冴えは妹に負け、観察力や洞察力は弟に負けている。それでも今長兄である威厳を保てていると思えるのは、ただ生まれが早く修行の期間が彼らよりも長いからだ。
妹弟の躍進は誇らしく、羨ましく、そして己の背を押す推進力になる。
彼ら二人に負けないために、非才の自分は更に修練を重ねなければならない。次期当主として、長兄としてみっともない姿は誰にも見せられない。
人を殺せる自分に、人とは違う自分に思い悩む。
そんなことが出来るのは、それだけ余裕がある証拠だ。
妹弟に負けぬよう必死に修練し、妹弟が道に迷わぬよう必死に導き、妹弟が日々を笑って過ごせるように必死に家を背負う。必死にそれだけのことをやっている内には、悩む暇などありはしない。
そしてそれに耐え、踏ん張ることが、兄としての責務。
「お前たちは俺とは違う。そうやって悩んで考えていつかは答えを出せる。だから、お前たちは強くなる」
羨ましい、とレオナールは重ねて思う。
何も考えない必死の修練というものは、先人の歩んできた道をなぞり、また先に進めるものだ。けれども妹弟のように悩み考えた道というものは、先人の歩んできた道から少しだけ横に逸れて新しい道を進むことだ。
自分は葉雨流剣士としての最先端にいる。その自負はある。だからこそ、先人の歩んできた道のその先を見ることが出来る。
けれども二人は、更に違う景色を見ることが出来るのだろう。それは継ぐ者ではない彼らの優位で、才能あるものの特権だ。
剣での強さ。また自分を律する心の強さ。道理。
その全てを一言で集約した『強さ』という言葉。その中から敢えて、プリシラは剣の強さのみに言い返す。
「強くなる、か。まだ私はお兄様からは三本に一本しか取れないけど」
「まだな。まだしばらくは可愛い妹に弟として、俺に兄らしくさせろ」
ふふ、とレオナールは笑う。
どうせすぐに追い越されるだろう。才ある彼ら二人は自分や父をも越えて、更に素晴らしい何処かへ行く。それを見たい。そしてそれにも抵抗したい。
それは追い越される者、先に行く者の楽しみだ。
「……レイトンが帰ってきたら、俺たち二人でまた叩きのめしてやるぞ。才能というのは、叩かなければすぐに腐る」
天才。才あるものの宿痾がそれだ。才能というものは持っている力のことではなく、力を持つ可能性に過ぎない。だから、才能を持つ者は、非才でも努力を重ねた力を持つ者に負けることがある。油断から、また気の緩みから。
才能があるからこその停滞に対する特効薬。障害。それがレオナールが愛する妹弟に渡せる最大の贈り物だ。
「可愛いレイトンを叩きのめすなんて嫌だなあ」
ひひひ、と口だけで笑い、プリシラは竹垣の奥を見る。レイトンが消えていった道の先。そこでもレイトンは何かしらの経験をして、何かしらのものを掴んでくるだろう。凡人ならば何も得られぬことからすらも、体験して何かを得る。才能とはそういうものだ。
そしてこの家に帰れば、自分や父や兄が待っている。彼の才能を鍛え直せる者たちが。
たしかに、とプリシラは思う。
ここにいればレイトンは強くなる。自分も強くなる。技量も心も強くする環境が整っている。
「姉としては、可愛いままでいてほしいけどね」
「ならお前も強くなればいい。あいつがいつまでも可愛く思えるように」
剣を始めたばかりのプリシラに稽古をつけようとして、油断している中、遊び半分で一本を取られたことを思い出し、レオナールはプリシラに言い聞かせる。
思えばあれが、自分が奮起を始めた最初の出来事だ。
今度はレイトンがプリシラの奮起材料になってくれればいうことがない。
そういう願いと共に。
「そうだね」
その願いを聞き届けたように、プリシラは風に紛れるような声で一言呟いた。




