第十二話
カンパネラの剣が伸びてくる。
黒い両刃の直剣。墨のように光沢があるが、金属ではない気がする。
狙うのはおそらく僕の心臓。カンパネラは僕の斜め前至近距離に立ち、肩口から僕の身体を斜めに裂くように振り下ろしてきている。
遠くでテレーズが振り返り、驚く顔があった。
ほんの一瞬だろうが、僕にはとても長い時間。
周囲の景色がぶれるようにぼやけ、ゆっくりと動き続けている。まるで走馬燈、もしくは僕の危機によくあるスローな景色。
落ち葉が空中で静止している。葉擦れの音が止む。
それでも剣はゆっくりと動いている。
僕の肩に迫る。風切り音もなく、強い殺意を帯びた剣が。
まるで映画を見ているように、どこか他人事のようにそれを見ていた僕。
動けない。まるで金縛りにでも遭っているかのように。動かせる余地がない、という方が正確だろうか。皮膚が石にでもなったかのように、力を入れようとも何かにぶつかったように身体が動かない。
剣だ。当たれば痛いし、怪我をする。それにこの経路はおそらく当然のように急所を通り、僕の命を奪えるものだろう。
肩口から入った剣は肋骨や胸骨を割りながら心臓に到達、脇腹へと抜ける。裂かれるのは内臓だけではなく身体そのもの。僕の身体はこのままでは、斜めに裂けて二つになる。
防ぐか躱すかしなければならない。
手で剣を払うか、もしくはカンパネラを直接打ち攻撃を中断させるか。そうでなければ後ろへ飛ぶか、せめて身体を反らして傷を浅くしなければいけない。
さもなければ、さすがに僕は死ぬだろう。さすがに、スヴェンのような再生能力は僕にはあるとは思えない。意識が残ればどうにかなるかもしれないが、さもなければ……。
背筋に冷たいものが走る。
剣が迫ってくる。僕の耳を掠めるよう伸びた剣の切っ先は、既に視界の外へと伸びている。
避けられない。
防がなければ。念動力による障壁か、闘気の賦活か。
闘気の賦活は間に合わない。ならば。
念動……
「……ぇっ!!」
僕の思考は、肩口に感じた強い衝撃と、戻った時間の感覚によって中断された。
斜め上からの力に弾き飛ばされるように、もしくは押し潰されるように僕の身体が動く。一瞬の後に身体は自由を取り戻したようで、受け身を取ろうと地面に手をついた。
急ぎ立ち上がってカンパネラを見るが、カンパネラも驚いたようで楽しげに目を丸くしていた。
「おや、この手触りは……竜鱗ですか」
遅れてパラパラと細かな塵のようなものが地面に落ちる。
光を反射し輝いているそれは、僕の肩の辺りの布地から剥がれたように落ちたもの。
「織り方も特殊らしい。素晴らしい性能だ」
クツクツとカンパネラは笑う。しかしその足は一歩引き気味で、何となくその様に警戒が見て取れた。
僕の外套、その肩部分は抉れたように一部破け、断端の糸が僅かにほつれて見える。
その威力に僕も戦慄した。
凄まじい攻撃だったということだろう。通常の布地に対衝撃の効果はあまりないが、これはリコ特製のもの。刃は突き通らず、衝撃にも布自体が板状に硬化して防ぐ。そのはず。
なのに。
ダン、とカンパネラが地面を蹴る。
今度は両手で剣を保持し、横薙ぎに僕の首を狙う。その剣を抑えようと僕は無意識に左手を上げようとするが、上がらなかった。
頭を下げて剣を躱す。頭上を通り過ぎる剣は音もない。けれど頭を上げようとした僕は、また自分の身体が動かないことに気が付く。
更に迫るのはカンパネラの膝。深緑色の下衣のしなやかな布に覆われた膝が僕の視界の大半を占めて、また次の瞬間顔面に強い衝撃を感じ、首の後ろから筋肉の奏でる嫌な音を聞いた。
何回転しただろうか。
多分回転すらせずひっくり返っただけだが、そうとすら考えてしまうほどの衝撃と、地面に背中を叩きつけた衝撃。どこかがまた固定されていて、蹴られた勢いが下向きに変化したのだろうか。明らかに、宙に浮いて落ちただけ、というよりも強い衝撃に、僕は肺から息を全て吐き出した。
「……っ……」
受け身すらとれなかった。左腕は動かず、右手だけはかろうじて地面に衝撃を僅かに逃がすことが出来たかもしれない。
立ち上がろうと地面に手をつくと、地面には大仰に血が滴り落ちた。僕の顔面から。
鼻が折れているのだろう。前歯も少しぐらつくだろうか。
滝のように漏れ出る鼻の血を無視して立ち上がり、カンパネラを見つつ鼻を摘まんで軟骨を繋ぐ。
鼻腔内からの出血部位は急ぎ塞ぐ。出血は多いが、大したことはない。はず。
だが、やはり。
「…………」
左腕は上がらない。肘は動く。手首も動く。だが、左鎖骨と第一肋骨が折れている。持ち上げようとする筋肉の引き攣れが、鎖骨を動かして鈍痛を鋭くする。
竜鱗の外套。僕の命は守ってくれたようだが、そこまでが限界だったらしい。
命を守ってくれた。
それだけでも充分すぎるほどだけれども。
「さて」
僕の間合いからも離れ、彼自身の間合いに僕も入れず、カンパネラが困ったように呟く。僕に聞かせるように。
「完璧に奇襲が決まったと思ったんですが、計算外があったようで。その外套、なかなかの一品だ。制作した方にお会いしてみたいものです」
「……疎開していなければ、現在もイラインにいますよ」
「なるほど。名前をお聞きしても?」
「…………リコという仕立屋です」
「聞いたことがありませんが、わかりました。イラインでの収穫の際には丁重に扱わせていただきましょう」
にこりとカンパネラは笑う。その剣にたしかな殺気を帯びさせたまま。
会話の時間稼ぎの最中。僕は意識して胸を張り、念動力も交えて強制的に鎖骨を整復、治癒させる。
さりげなく左腕を動かし確認をすれば、問題はなさそうだ。筋肉は治していないので未だにかなり痛いが。
あとは。
そっと魔力圏を伸ばし、カンパネラと僕を含んだ周辺を包み込む。
行うのは酸素の消失。これで意識を……。
「また毒の魔法でしたら無意味です。私は一度見ておりますので」
僕が何かしらをしたことに気が付いたのだろう。そしてその正体を看破した……のは僕の攻撃がワンパターンすぎたからだろうが。
カンパネラはまたにこりと笑い、剣から離した左手を、掌を下にして胸の前に掲げた。
どろどろと指から滴るように現れるのはまた黒い液体。持っている剣と同じ色の。それぞれの指から滴り、氷柱のようになった黒い塊を握りこむように持ち、真横に向けて投擲する。
どこへ。
そう考えた次の瞬間、視界の端に映る二人に、ああ、と僕は思い至る。
氷柱のような黒い杭。だったはずが、念動力でそれを空中で受け止めれば、もはや杭ではなく細い短剣の形になっていた。
剣が向かっていたのは、木陰の奥、三十歩近くは離れていたテレーズ。
僕の加勢をしようとしているのだろうか、騎獣から降りかけていた彼女。それに、騎乗したままのソラリック。
二人に向け、僕は上げた左手の手首を掌方向へ強く二回振る。
聖騎士に使われているかどうかは知らないが、少なくともイラインの騎士団では使われているはずのハンドサイン。消極的な行動へ向けた『続けろ』。つまり現時点での意味は、『逃げろ』。
伝わったのだろうか、わからないが、テレーズは逡巡するように騎獣に戻らない。
だがソラリックの方を僕が見れば、彼女は僕の意を汲んだのだろう。騎獣から身を乗り出して、テレーズの襟に後ろから手をかけた。
「タレーラン閣下!! 今は!!」
「…………くそっ!!」
テレーズが、しぶしぶ、と騎獣に乗り込み、名残惜しげに僕を何度も見る。
僕はといえば、視界の端で捉えながらも彼女を見返すことも出来ずに、カンパネラを見つめていたが。
そしてテレーズが最後に投擲した石礫がカンパネラのこめかみあたりに直撃する。
だが石礫は障壁だろう隙間を空けて静止し落ちた。それでも崩れない涼しい顔に、僕はその隙のなさを悟った。
酸素遮断が効いていない。
些かも意識障害の兆候が見られないカンパネラは、悠然とまた一歩、歩を進める。足音はしないが、印象的には『ぺたり』というものが合っているだろうか。
第一、僕がほぼ無防備で奇襲を受けたのは何故だろうか。もちろん僕とて無警戒ではない。
気配という曖昧なものは自信がなくとも、不自然な音や臭いには敏感だ。なのに、……。
いや、違う。
今目の前にいるカンパネラも、不自然な音がない。不自然というか、するはずの音がない。
なるほど。
「息ですか。気絶しないわけですね」
呼吸を止めているのか。
影に潜るようなあの隠形中にも隠せなかった音を。
「失礼ですが、お気づきになられるとは思わなかった」
ふふ、とカンパネラは僕の前で、ここに現れてから初めて言葉以外の息を吐く。
文字通り、息を潜めていたということだろう。
僕たちが騎獣を逃走に使うと読み、そこで。
しかし、どうしよう。
僕は一歩踏み出せずに躊躇する。酸素遮断は効かない。ずっと続けていればいつかはカンパネラの息も切れ、酸素なしの空気を吸って昏倒するかもしれないが、それがいつになるのだろう。
魔法使いだ。この間に適応してしまうかもしれない。
それに。
僕は軽く拳を開閉させて確認する。
まだ動きは封じられていない。だが、先ほどから僕の動きを封じる魔法は何だろうか。
明らかに魔法、だと思う。
それはカンパネラの近くにいるときに作用し、僕の動きが完璧に封じられる。
縛られているとかそういう感覚ではない。麻痺のように力が入らなくなるというわけでもない。
感覚的には、『塞がれている』という感じだろうか。皮膚が硬化して動けなくなる、もしくは、見えない鋳型が身体全体を覆って動きを阻む、という感じ。
呼吸もおそらく出来ないわけではないが苦しい。
視線は動く。魔法自体は以前のレイトンの動きを封じたものと同じなのだろう。その時のレイトンも、目は動かせていた。
少なくとも、酸素遮断はすぐには効かない。激しい運動をさせればいいかもしれないが、近づけば僕が動きを封じられてやられる。
この分では、カンパネラも竜鱗の外套を壊すことは出来るだろう。けれども、動きを封じた僕相手に、無駄な苦労をすることはあるまい。首を狙うか、頭を割るか、などで済ませるだろう。そして多分、僕相手ならばそれで済む。
持久戦も効果はないかもしれないし、カンパネラもそれを望まない。
そしてカンパネラは接近戦を望み、近づけば僕は殺される。
念動力の障壁は通用するだろうか。
むしろ、闘気を帯びて接近戦を挑めばどうだろう。
闘気を賦活すれば、束縛の魔法も通用しなくなるはず。
魔法を防ぎ、内傷を与える。闘気を使った接近戦は、魔法使い相手の常道でもあるはずだ。
……だがたしか、あのレイトンがカンパネラの束縛の魔法は解除できていなかった。あのレイトンが。
僕が闘気を帯びたところで、通用するだろうか?
…………。
僕も噴き出すように笑う。
こうして向かい合ってまだ数瞬。けれど、どうだろう。五英将であるはずのフラム相手よりも僕は悩んでいる。
彼女よりもずっと手強いのではないだろうか。
ムジカル軍の頂点である五人。その内の一人よりも。
僕はカンパネラの首辺りに念動力を作用させる。
頭部と胴体を遠ざけ、首を引きちぎる。闘気使い相手には通用しなくとも、魔力使い相手ならば通用するだろうと思うのだが。
ぴたりとカンパネラの動きが止まる……が、やはりとも言えるが彼の涼しい顔は微塵も崩れない。
「貴方はこれが怖い。近づけば白兵戦では無双を誇り、離れれば毒の魔法。それが効かぬとみるや、これほどの高出力の念動力」
「怖がっているようには見えないんですけど」
事実、やはりカンパネラには効いていないだろう。我慢をしている風でもなく、僕の手応えも、やはり何の強化もなしに石を引き千切ろうとしているようなものだ。
「いいえ。手札の多さというのはそれだけで強さに繋がります。取るべきではない手段と思えば、手を変え品を変え相手に食らいつこうとする。事実、貴方にはまだまだ手札はある」
確信を持ってカンパネラはそう言い切る。
手札がある、と言われてしまえば、たしかに僕にはあるのだが。
僕は魔力圏をまた伸ばす。
瞬間、僕の頭の中に、魔力圏の情報が流れ込む。かなりの精神疲労を伴うそんないつもの作業の中で、その情報の取捨選択を行う。
カンパネラの背後、人や生物はいない。
「ですが貴方にはいくつか欠点がある。教えて差し上げましょうか」
「それは?」
僕は嘲るように口にする。
「一つは、貴方には、仕える主がいないこと。どれだけ優秀な人間でも、向き不向きがあります。貴方も私も、人を率いる人間ではなく、率いられる人間だ」
「そうですか」
瞬間、僕の視界の中の全てが白熱するように燃え上がる。
焦熱鬼の熱波。それも、範囲以外は加減なしの。
木々が灰燼に変じ、地面が白く蕩けていく。
何かが燃え上がった炎の光、橙のような白い光が瞬き、太陽のような熱を帯びる。僕の顔に当たる障壁越しの風が熱い。背中にじんわりと汗が滲む。光は一瞬、だが目が眩むように景色の色が変わる。
ネルグの根が焼け落ち、跡が残った抉れた地面が溶岩となって顔を見せる。
細長い扇状に、平原のようになった僕の眼前に、カンパネラはいない。
やったか。
僕は安堵の息を吐き、一応残心を解かずに景色の中の違和感を探す。
けれども、そこにはもう誰もいない。今の今まで話していたカンパネラも、僕が気付けずに潜んでいた伏兵も。
だが。
「影が火に焼かれる様を、見たことがありますか?」
僕の胸の中央に痛みが走る。
まずい。
躱そうとしたが、身体が動かない。
まずい。これは、カンパネラの。
咄嗟に念動力を作用させ、刃をねじ曲げるように逸らそうとするが、間に合わない。
竜鱗の外套が破れたのがわかる。
背中の肉が裂けていく感覚が熱く感じる。
肺を抉りながら、大動脈を裂きつつ、肋軟骨が割られた。
ずく、と音がした気がする。
「第二に、貴方の手札は後がない。どれも一撃必殺で、だからでしょう。防がれたときの保険がない」
背後から声がする。
「勇者と同じく、若かった、ということでしょうね」
黒い刃が僕の胸を突き破って生えている。
口の中を血が満たし、溢れてくる。
背後、抱擁できるほどの近くにいたカンパネラの吐息が、耳元にかかった。




