第九話
悲鳴が聞こえた。
いや、悲鳴ではない。誰かが誰かの名前を呼んで叫ぶような。
だがその悲痛さは、たしかに悲鳴で。
僕がすり鉢に向けていた目を外に向けると、同時にソラリックも気が付いたらしい。僕が立ち上がるよりも先に、ソラリックが天幕の扉を捲り、そこで立ち止まって僕の方を向いた。
「行ってもいいですか? それとも逃げるべきですか!?」
「新鮮な血の臭いはしませんが……私も同行します」
敵が来た、というわけではないと思う。金属製の何かを使う音や、怪我をして血を流したような臭いはない。
誰かが怪我をしたわけでもなければ、ソラリックの出番自体ないと思うが。
それでも何か変事があった。それは明白で、今の悲鳴に応えてバタバタと天幕の外でも誰かが走る音がする。
仮に戦闘などが起きているとしても、僕たちは独立した部隊でそこに参加する義務はない。まずは自分たちのことを考えて、パタラを回収しつつ逃げても問題はないだろう。
怪我や病気などでも同様。ソラリックは僕たちの部隊の治療師。この拠点にいくらか残っている治療師がどうにかするだろう。
だが、放っておけ、とは言いたくない。
薄い根拠、だが。
『怪我や病気』を思い浮かべたのは、根拠がないわけではない。
僕も立ち上がる。
すり鉢の中の生薬に、すりこぎが落ちる。
「行きましょう。ベルレアン閣下がいらっしゃる天幕です」
ソラリックが愕然として目を開く。僕はその横を通り過ぎて外へ出て、周囲を見てやはり、と思う。まばらに走って行く皆の足は、たしかにそこを向いていた。
それに不明瞭だが、焦っているような叫び声。
その声は、『テレーズ』と名前を呼んでいなかったか。
この拠点にも、残っている兵はまだまだいる。
とりあえず今いるのは十数名ほど。クロードたちがいる天幕の入り口付近に、まるで甘いものに集る蟻のような形で人間たちは集まっていた。
「治療師が通ります! 通してください!!」
ソラリックが声を張り上げてそこを走り抜ける。声を聞いた騎士たちは振り返るようにして身を脇に寄せ、ほんの小さな道をソラリックのために作った。
その人々の奥に蹲って見えるのは、クロード。地面に倒れている誰かの肩を揺すり、言葉にならない声をかけつづけているような。
そしてもちろん、倒れているのは。
「ソラリック殿……カラス殿…………」
僕たちが来たことにクロードが気付き、こちらに顔を向ける。
眉を寄せ、唇を震わせ、真っ青な顔で。
その彼の足下に仰向けに横たわり、力なく目をつむった顔だけを横に向けているのは、まさしく先ほどソラリックが治療したテレーズ。
白っぽい髪の毛が、床に散らばっていた。
僕は天幕に入ったところで立ち止まる。それ以上近づくことに躊躇した。
それ以上のことを、なんとなく知りたくなかった。クロードがテレーズの横にいて、テレーズが倒れている。それ以上の詳細を知るのが、多分怖くて。
そしてそんな僕を置いていくように、もう一歩踏み出したソラリックは、テレーズの頭側に回って口元に手をかざした。
手を添えた一瞬の後、ソラリックも愕然としつつ、慌てるように首元に手を当てる。
その様を見ていれば、詳しくなくとも何となくわかるだろうし、僕もその意味がわかってしまった。
ソラリックの顔も泣きそうに歪む。愕然として、クロードを見て、また僕を見た。
「……さっきまでは、普通に話していたんだ。身体を起こして、白湯を飲んで、俺と、喋って……」
ぽつぽつと、何かに縋るようにクロードはソラリックに報告をする。だがその言葉にソラリックは応えず、彼女も泣きそうな顔で膝立ちのまま力なく手を落とす。
「なあ、何が起きたんだ……? ……怪我は全部治ったんだろう?」
「…………」
「じゃあ、どうにかしてくれよ。これも、……なあ」
「……もう、手の……施しようが……」
「そんなこと言うなよっ……! なあ……!!!」
飛びかかるようにクロードがソラリックに詰め寄る。
突き飛ばされるような形になり、強かにソラリックが寝台に肩をぶつけた。
「痛っ……」
「治療師だろう!? 治療師なら、どうにかしてくれよ!!」
「……ごめん、なさい」
「謝る前にっ! ほら……! なあ!!」
クロードはソラリックを寝台の側面に押しつけるようにし、肩を揺さぶり続ける。
鬼気迫る表情で。そして涙を流しながら。
「……ごめんなさい、っ、私の、せいです……」
弁解するように俯いて、ソラリックが謝り続ける。クロードの剣幕に怯えているようでもなく、ただ自省するように。
僕も、どこか遠くでその様を見ている気がする。
テレーズが倒れていて、その横でクロードとソラリックが揉めている。
ソラリックは優秀な治療師だ。患者の状態を見誤ることはあるまい。
テレーズは死んだ。呼吸も止まり、心臓も止まり。
僕もクロードの気持ちはわからなくもない。
何故? と何度も頭の中で疑問だけが繰り返される。さっき治したはずだ。ソラリックが患者の状態を見誤るとは考えづらい。仮に何か内臓などに障害があれば、それも彼女は治したはずだ。もしくは僕に相談したはずだ。彼女なら。
何の原因もなく人が突然死に至ることなどほとんどない。
ならば、原因を彼女が見逃すか、もしくは僕たちがこの天幕を出た後何かしらが起きたのか、そのどちらかであるはずだ。
新鮮な血の臭いはない。外傷はないはず。
ならば病。持病。もしくは今ここで発症した何か。
弁解もせず、ソラリックが「ごめんなさい」と繰り返し続ける。
クロードが彼女に詰め寄っている。彼女の何かしらの瑕疵を責めるように。
ひそひそと、背後で誰かが囁き声を交わしている。
「死んだ?」
「死んだって」
野次馬たち。ぽつぽつと混ざる聖騎士たちはそこに混ざらないようだが、騎士の金属鎧たちが新たに到着した誰かに状況を説明している。
何故だろう。
少しだけその声に苛ついて振り返れば、今その言葉を発していた誰かと目が合った。
逸らされたその目に負の感情は見えない。悲しみや哀悼など、そういう感情は。
代わりに感じたのは、好奇心や戸惑い、安堵。あとはほんの僅かに同情だろうか。
野次馬の背後から治療師団の気配がする。誰かが声を上げたのだろう。僅かに野次馬の波が揺れる。
時間が迫っている。
早くしないと。
僕の脳裏にその言葉が何故だか浮かぶ。今更になって、何故だか焦りが出てきた気がする。
何を早くするのだろう。何の時間が迫っているのだろうか。
戸惑いつつ一歩踏み出せば、見えない壁のような膜を僕の身体がすり抜けた気がする。そのまま手を伸ばせば、クロードの肩に手が届く。何故だか僕自身わからないままに、その肩に手をかければ、クロードのうねるような筋肉が掌の先から感触を伝えた。
「……落ち着きましょう」
「っ!!」
僕の手を振り払うように、上半身を回転させてクロードが腕を振る。
背部方向への可動域の広さは鍛錬故か、裏拳じみた拳が僕の顔に迫る。反射的にその手首を腕で受け止めれば、涙と興奮で赤くなったクロードの顔が半分だけこちらを見ていた。
その視線を受けていないはずの群衆が、ざわりと声を上げる。人の輪が天幕から少しだけ遠ざかった気配がする。
僕の腕にも多分罅が入った。……ソラリックはたいした怪我をしていないので、そっちは無意識に手加減しているのだろうが。
「……他人事のような顔をして……」
恨み言を吐き出すようにクロードは呟き、力なく肩を落とす。
まあたしかにそうだろう、と僕は内心同意する。たしかに他人事だ。テレーズは僕ではないから僕は死んでいない。テレーズは僕の幼馴染みでもないからクロードのように嘆き悲しむことも出来ない。
全て他人事だ。僕ではなく、僕の大切な誰かでもない。
だが、と僕の中で誰かがまた呟く。
時間が迫っている。
早くしないと。
ざわ、とまた何かしらを後ろで野次馬が喋った。集団の声という不明瞭なもの。それが妙な圧力を伴って聞こえた。
誰かに腕を捕まれた気がした。その声自体に何かしらの圧力があって、それが僕の腕を捉えて後ろに引き込もうとしている気がする。
背を向けたクロードから、何かの圧力がある。
先ほど踏み込んだ一歩の距離で、押しのけられている感覚。これ以上近づけず、近づけば全身の毛が逆立つような一種の嫌悪感がある。
これ以上関わるな、と誰かが言っている気がする。
所詮他人事だ。テレーズは死んだ。これでクロードも自由に動けるだろう。
もう二人を守る必要はない。予定を変更し、ソラリックとパタラを連れて僕たちはこれでイラインに待避する。そうしてこの場から離れてしまえば、全て他人事に戻るはずだ。
そう、『戻る』はずだ。
「彼女のために薬を作っています。それを無駄にするのは忍びない」
言いつつ、僕は内心自嘲する。そんな理由ではない。僕が今ここにいるのは、そんな消極的な理由でもないはずだ。
僕が適当に口にした言葉に、ソラリックが顔を上げる。
所詮他人事。だが、僕もどうにかしたい。テレーズには万全の状態で帰還してほしい。命という大事なものを失った状態で王都に戻すのは忍びない。
そして僕は関わった。もとはソラリックの要請でも、僕はこの場に。
他人事なんかじゃない。
今まさに。
何かが弾けたような感触がして、視界の歪みが元に戻る。歪んでいたこと自体に今気が付いた。
先ほどまでと立っている場所は変わっていない。しかしクロードたちが急激に近づいてきたように感じ、そして野次馬たちが先ほどよりも大分遠くにいる。
何故だか懐かしくなった。
昔リドニックで、こんなことがあった気がする。
あれはそう、リドニックの王城で、不完全な銃で指を失う怪我人が出たとき。怪我人に駆け寄ったあの彼は『誰が手を貸してもいいのなら、俺であっても構わない』と言っていた。
ソラリックは、テレーズに駆け寄った。
きっと善意から。
リドニックでの彼も、きっと。
そして僕は王城で、海兎の毒で倒れた少年に駆け寄ることが出来た。
あのときは無我夢中で。
野次馬たちがいる。誰も彼らに手を貸さず、貸せず、遠巻きに見ている者たち。
彼ら野次馬が踏み込めない理由。それは、善意もなく、無我夢中でもないからだろう。
無論、死んだテレーズはもうどうしようもないと思う。
しかし、僕の中で誰かが言うのだ。時間が迫っている、早くしないと、と。
ならばどうにか出来るはずだ。何の根拠もないが、きっとまだ遅くはない。時間は迫っているが、まだ追いついて来てはいない。
僕は今、冷静に躊躇している。野次馬たちに混ざり、また『他人事』にするのか。それとも、そうしないのか。
きっと答えは決まっている。
僕はまた一歩踏み出す。野次馬たちから離れ、ソラリックたちの下へと。
僕に善意はないだろう。そして今は無我夢中でもない。
ならばきっとこれは、僕の意思だ。
ソラリックと目が合うが、彼女は首を横に振った。
「もう、カラスさんでも……」
僕は軽く彼女にだけわかるように頷く。彼女はそうだろう。死んだ人間を生き返らせる秘術は存在しない。愛する者を蘇らせる魔法など、お伽噺の中にしか存在しない。
だが、そうだ。
彼女は本当に、『死んだ』のだろうか?
「どいてください」
僕はクロードにそう言うが、クロードは唇を噛みしめて動かない。その肩に手を添えて、僕は後ろから耳元に顔を近づけ、小声で囁く。
「他人事なんかじゃありません。僕も、テレーズ殿を助けたい」
ソラリックに絆されたわけでもない。これは僕の意思だ。
肩を引けば、クロードの身体が動き道が開く。尻餅をついたようにしたクロードを無視して僕はテレーズの頭部横、ソラリックと反対側にしゃがみ込んだ。
そっと喉に手を当てるが、息も脈もない。たしかに、死の兆候はそこにある。
けれども、まだ。
瞑られたテレーズの目、瞼を強引に開いてその目を見る。
瞳孔は散大していない。光刺激をしていないので僅かだが、反応はまだある。
死の兆候は全て揃っていない。おそらく脳波も、まだ。
意識を失ってどれくらいの時間が経っているだろうか。
悲鳴が聞こえてからまだ数分も経っていない。そのはずだ。なら、まだ目はある。
「何か体内に損傷はありましたか?」
ソラリックにそう問いかけると、戸惑いながらソラリックは唾を飲み、少しだけ震える声で口を開く。
「……ほとんどなかったと思います。目視で圧迫による痣などを確認はしましたが」
「そうですか」
軽く魔力を通すが、体内で血液が貯留しているなどはない。外傷による突然死……心膜損傷による心タンポナーデなどがまず思い浮かんだが、そうではないらしい。
それよりも、まずは……。
「……なら、大騒ぎするほどのことじゃないですよ」
僕はソラリックの目を真正面から見て、ゆっくりと、言い聞かせるように口にする。
「単に気絶されているだけじゃないですか。安心して気が抜けたんでしょう」
ねえ、とソラリックに向けて僕は念を押す。
「でも」
「脈もあるし、呼吸もある。心配することはありません」
僕はクロードを見て、そしてまたソラリックを見て呼びかける。出来れば彼女にここで口にしてほしい。早く、パタラたちが来る前に。
早く、本当に手遅れになる前に。
「…………何を、言っているんだ、カラス殿」
「目の前で突然意識を失われると驚いてしまいますからね。ベルレアン殿もすっかり慌ててしまわれた様子」
あまり不自然ではないようにテレーズの首にそっと手を添え、僕はその中の血管に働きかける。中の血液を強引に動かし、脈管系を強引に動作させる。心拍の再現などはする余裕もないが、今は仕方ない。
同時に体内、胸の辺りまで魔力の手を伸ばし、横隔膜を強制的に上下させ……ようとしたが、念動力を使えるほどは魔力が浸透しない。実際に死んでいない上に、鍛え上げた馬鹿げた量の闘気のせいだろうか。
まだ自発呼吸も心拍も再開しない。
だが……この分ではこっそりと心臓マッサージをするのも無理か。心臓を握ろうとしても、綿越しに触る程度の刺激くらいしか与えられていない。
「だから、……少々手荒いですが、私の知っている気付けを行ってもよろしいでしょうか」
言いながら、じ、と僕はソラリックを見る。早く気付いてほしい。彼女を巻き込みたいというわけではないが、治療師の裏付けがほしい。
「気付けなんか……」
クロードが呟くが、それは無視する。
そして見つめた先のソラリックが、細い首を動かすように唾を飲んだ。
「それは、つまり」
「どうしたことだ!!」
野次馬が割れる。飛び込むようにして、パタラたち数人の治療師が姿を見せる。
僕はそちらに目を向けなかったが、ソラリックが何かの言葉を言えずに飲み込んだのがわかった。
治療師たちが天幕の入り口に溜まり、こちらを窺っている。
踏み込んできたパタラがクロードと僕のすぐ後ろまで来て、どかない僕たちに一瞬苛つきを見せるように地団駄を踏んだ。
「ソラリック! どうした、何が起きている!? タレーラン卿は……!!」
パタラがソラリックに報告を求めるが、野次馬たちの誰かが一人、ぼそりと呟いた。「無理だろあれ、死んでるよ」と。
その言葉が耳に入ったのだろう。パタラはソラリックへの確認を止め、「死」とただ一言口にした。
それから僕とソラリックに何度か視線を向けた後、今の状況に思い至ったらしい。おそらくほぼ完璧に現状を推理したのだろう。僕の背中に向けた視線に、敵意がひしひしと感じられた。
「……何をなさっているんですか、カラス殿」
僕はそちらに目を向けず、ソラリックからも視線を外してテレーズを見ながら口を開く。
「気絶なさっているので、活を入れようかと」
「神は仰られております。『失われるものを取り戻すべからず』。許されざる禁忌の領域に踏み込むおつもりでしょうか」
静かに、やめろと諭すようにパタラは言う。だが僕は何故だかその言葉に笑えてきた。
踏み込むつもり。ならば、そのつもりならば踏み込めるものなのだろうか。
「意識を取り戻させるだけです。治療師の方々のお力には及びませんが、数々の武術流派には伝わっております」
「既に死した者を……!」
「死んでなどおりません」
首から手を離さずに、一瞬ソラリックに目を向けてから僕は肩越しにパタラを見る。
彼は、心底悍ましいものを見るようにこちらを見ていた。
「やめてください」
「まだ何もしておりませんが」
「その手を離して、やめなさい」
「では、活を入れてから」
「やめろっ!!」
一息に叫んでから、パタラが肩で息をする。
彼は何もしていないはずなのに、額に汗を浮かべていた。恐怖に戦くように、唇を震わせて。
手をこちらに翳すように向けて、パタラが震える唇をまた開く。
「我が連なる二つの真の名ネウィン・パタラが神の名において命ずる! かの神敵、心縛り、手足を奪い、歩まぬべき道を塞げ!!」
また、息継ぎなしで一息で叫ぶ文句。彼から発せられているのは魔力波。少々長いが、祝詞だろう。
「命ず命ず!!」
パタラが親指から一本ずつ指を折ってゆく。その度に僕の四肢がねじ曲がるように強制的に動作させられそうになる。
さすが上等治療師。エウリューケの治療のように、魔力波が僕の魔力圏をすり抜ける。闘気を帯びていない僕ならば、法術を作用させられるとは。
テレーズの体内への魔力での干渉を邪魔しないため、闘気を賦活できない今、筋力で対抗するしかない。一応そう力を入れなくとも対抗できるが、まるで油を差していないブリキの玩具のように、僕の関節がぎしぎしと鳴った。
「ソラリック様」
唖然と僕を見ているソラリックに、僕は静かに口を開く。彼女の言質が取れれば、邪魔は入らなかったものを。
だが今からでも遅くはない。きっと。
「本当に、災いなんてあると思いますか」
「……え?」
「よしんばあったとして、ソラリック様は、治療師ですよね」
そんなに力を入れていないはずだが、僕の額にも汗が浮く。意識していないだけで身体は抵抗しているのだろう。パタラの法術、それなりの威力だ。
「僕は探索者ですが、……出来ることをしたいと思います」
「…………」
一瞬ソラリックが俯いて、髪の毛が顔にかかる。何かを考え込んでいるのか、と思ったが、次の瞬間握りしめた拳がそうでないことを示した。
強く自分の腿を叩いて、ソラリックが息を吸った。
「パタラさん、やめてください!!」
「!?」
大きな声に驚いて、パタラが祝詞の詠唱をやめる。僕の身体が浮いたように軽くなった。 ソラリックが立ち上がり、肩幅に足を開く。
「テレーズ・タレーラン閣下は意識を失われただけです! 今から私がまた責任を持ってお身体を確認しますので、皆様お下がりください!!」
「……ソラリック、貴様……」
憎々しげにパタラが呟く。だが、ソラリックに怯む様子は見えない。
「貴様、自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
「現在の失態は後にきちんと謝罪します。ご本人に! 目を覚ました閣下に……!!」
「神の教えに背くことは……」
パタラの言葉が止まる。
何事か、と僕も思ったが、僕の横でふらりと立ち上がった気配に納得した。
クロードが立ち上がり、振り返り、ただじっとパタラを見る。その表情はわからないが、ただ、黙って。
「カラス殿」
「何でしょうか」
「後できちんと謝罪する。だから、頼んでもいいんだろうか」
俺は、と口の中で呟いて、クロードが僕の言葉を待つ。
クロードの視界にも入っていないだろうが、僕は頷いて拳を振り上げた。
「当然」
今や僕も、他人事ではない。
ドスン、と音が響く。テレーズの胸中央に振り下ろした拳は胸骨にぶつかり、彼女の肺と心臓を押し潰す。
突然の凶行……にでも見えたのだろうか。強い目でパタラを牽制していたソラリックが、目を丸くして僕を見た。
「ちょ、カラスさん!?」
「…………」
クロードは振り返らず、それでも肩が動いた気がする。ざわざわと野次馬に動揺の声が広がった。
僕はテレーズの首下の指先に意識を集中する。
だが、血流は未だなく、心拍の再開はない。
両掌を重ねてテレーズの胸の上に手を置くが、鼓動は勿論なく、動きもない。やはり心静止か、もしくは無脈性電気活動。
そのまま垂直に押し込むように心臓を圧迫する。
ついでとばかりに横隔膜を強制的に魔力で動かせば、自発呼吸ではないが呼吸はさせられる。
明らかな魔法で彼女を治す事は出来ないが、これくらいならきっとバレないだろう。
手の先でパキパキと音が鳴る。
「起きてください」
何度も何度も心臓を押し、僕は呟くように呼びかける。これも何故だか声が出なかった。
心停止から時間が経つほど、息を吹き返す可能性は低くなる。
途中血流を強引に再開させていたとはいえ、既におそらく五分は越えて、生存率はたしか二割程度。
今から胸骨圧迫しても、心拍の再開は難しいかもしれない。
それでも。
「起きて、目を開けてください。貴方が死ねば、泣く人がいるんです」
だから。
「待ってる人がいるんです。目を覚まして、起きてください」
後ろから、何かを喚く声が聞こえる。
神罰が下る。背信者。異端。そんな罵るような声が。だがうるさい。知ったことか。
「戻ってきてください。戻って!!」
こんな僅かな運動で汗が垂れる。テレーズの腕の横に落ちた汗の滴が地面に染みこんでいく。
「退役したらそれからのことを話そうってクロード殿が言ってましたよ!! あと百年はかからないからって!! だから、……待ってたんでしょう!? 早く! 起きて!!」
「ブハッ……」
無表情だったテレーズの顔が歪む。咳き込むようにして息を吐き出し、それからヒュウと息を吸う。
手の先から鼓動が感じられる。それに、自発呼吸が戻った!!
「テレーズ!!」
「まさか!?」
驚く声が響く。クロードと、それとパタラと。
ソラリックが一息だけ笑うように微かに噴き出す。それからしゃがみ込み、咳が止まらないテレーズの首に手を当てる。
一瞬の後、涙をぽろぽろとこぼして、満面の笑みを浮かべた。
「……目が、覚めたみたいです」
言ってから、鼻水を啜り袖で鼻の下を拭く。
ソラリックは何度も鼻を啜り、僕を見つめた。
ヒィ、と悲鳴が響く。腰を抜かすようにして、パタラが倒れた気配がする。
僕が振り返る頃には他の治療師に縋って立ち上がり、よろけるようにして僕を睨んでいたが。
「なんと悍ましいことを!!? ベルレアン閣下! 神敵カラス!! ソラリック!!! このことは教会に報告させてもらいます!!!」
怯える顔は真っ青で、僕たちをもはや人間とも思っていない態度だったと思う。
パタラは野次馬をかき分け、一目散に逃げていく。他の治療師も、僕たちを汚いものを見る顔で見つめて去っていった。
それを見て、どうしようかな、と僕は今更ながらになって考える。
まずいことをしてしまった気がする。気がするどころではない、まずいことだろう。
『あれは蘇生ではない』というソラリックとクロードの証言があっても、これは異端審問は免れまい。ミルラ王女はどうでもいいが、ルルに迷惑がかかるかもしれない。
まあ、今は喜ぶところだろう。
テレーズは生きている。……多分、何も問題なく。
咳き込むテレーズの首下に手を当てて、ソラリックがおそらく咳止めのための祝詞を唱える。ついでに後で治療も頼まないと。
僕たちはその様を見つつ、テレーズを見下ろしているクロードの横に立った。
「ソラリック様が揃えてくださった材料はあることですし、頓服の強心剤を用意します。それと念のため、私がまだ付き添いましょう」
「ああ」
後は原因の究明が必要だろうか。ソラリックも交え、彼女から問診を取らないと。
「二人きりになれないのは残念でしょうが」
「言うな」
ぷるぷると震えつつ言ったクロードが、それから僕の顔すら見ることなく勢いよく頭を下げる。腰を九十度まで曲げた最敬礼で。
「済まぬ。迷惑をかけたみたいだ」
「いいえ」
それよりもまずはテレーズを、と指し示せば、テレーズの咳も落ち着きを見せていた。
「……私は」
喘鳴音が混じる声で、テレーズが周囲を見上げる。まだ咳を何度か重ねて、それでもやはり息は吹き返したようだ。意識も鮮明、だと思う。
「寝てた」
「寝て……マジか?」
言い聞かせるようにクロードが口にした言葉にも、きちんと受け答えをする。
僕とソラリックの顔を見て、尋常のことではないと気が付いたらしい。それ以上の疑問を飲み込むように、長い息を吐いた。
散れ、散れ、と聖騎士が野次馬に呼びかける声が響く。
まだ名残惜しそうな視線はいくつも残るが、皆が渋々と足を動かし始める。
テレーズが腕を上げ、自分の右手を見る。まさしく寝起きのように薄めた目で瞬きをしつつ手を翳し、掌と甲を交互に見た。
「さっきの話、やっぱ駄目だ」
「さっきの話?」
クロードが反応するが、僕とソラリックはわからず顔を見合わせる。
二人の間でした会話だろう……まるで先ほどの僕とソラリックのように。
「お前が裸に前掛けだけで料理してる夢見た。最悪」
「せめて料理は私が作るよ」と言いながら、テレーズは自分の右手で目を隠すように落とす。
「……本当にやっちゃうぞ」と返すクロードを見ながら、いよいよ僕たちは意味がわからず、顔を見合わせ首を傾げた。
テレーズの風呂敷畳みは戦後で




