第七話
さて、ならばどうするか。
僕はテレーズの腕の傷跡を見ながら思案する。
ここで彼女の腕を治そうが、禁忌には触れない。ソラリックとクロードが用意したこの場で、一応その点は決着が付いている。
それで僕が治さないという選択肢は潰えているし、もはや僕もその選択肢を採る気もない。
けれどそれでも問題は残っている。
ソラリックにも言ったし、根本的に残っている問題。腕の材料の問題だ。
正直その問題には未だ解決策が見えていない。
成人女性の腕、肘から先の重さはだいたい二キログラムから三キログラム程度……だったっけ? それとも成人男性の腕がその程度だっけ。手から先がだいたいその三分の一くらい……だったような気がする。
重さなど通常気にしてないからうろ覚えだし、それこそ今テレーズの左腕を計ってみればはっきりするけれども、仮にそのくらいだったとしても問題だ。
腕を生やすということは、つまりその分の肉体をこれから作らなければならないということになる。
僕が指や眼球を再生する際、通常は血液や周囲の組織から材料を集めて作っている。だが、腕一本分の栄養など、血液の中にはおそらく存在しないし、強引に周囲からかき集めれば周囲の組織の方が弱ってしまう。
骨は脆くなり、筋肉は痩せ細る。指程度の質量ならばまだしも、腕ともなれば……。
「その、やっぱり、やりたくないんですか」
黙ってテレーズを見つめていた僕に向けて、ソラリックがおずおずと問いかけてくる。今それを貴方が言うんですか、と皮肉を口にしかけて僕は止める。その問題は解決済みで、それを蒸し返す気もない。
僕は首を横に振る。
「いいえ。治すための思案です」
「何か問題が?」
「この前お話ししたとおり、肉体の材料の問題ですが」
僕はテレーズのなくなった腕の輪郭をなぞるように、空中で指を動かす。
ソラリックはそれを目で追い、「材料」とだけ呟いて唾を飲んだ。
「本来腕一本分の材料を人体が作るのには時間がかかります。いつもは無理矢理それを周囲の組織から補っているんですが、さすがに腕一本ともなれば他に影響が出てしまうので」
タンパク質や脂肪分。血液内に保持している栄養分というのはそんなに多いわけではない。更に今回は腕の骨というカルシウムの塊を作らなければならない。まだ骨質も荒く骨密度も低い骨でいいとはいえ、さすがに形作るにはそれなりの量が必要だ。
「テレーズ殿もさすがに普段から鍛えていらっしゃる。大部分の修復は今でも可能でしょう。ですが、一度に全ては……せめて、何回かに分けて行いたいところですが」
段階を追っていけば問題はかなり少なくなる。
今は前腕の中程まで、次に期間をおいて手首まで、手掌部まで、指先まで、と分けていけば。その期間養生し、身体を損なわないように万全に治すことも出来るだろう。
けれど、それが難しいこともわかっている。
ソラリックは厳しい顔で首を横に振った。
「仮にテレーズ様の怪我がない場合、職業上彼女の姿形が耳目に触れる機会も多いでしょう。片手を見せないようにしたところで、勘ぐりが発生します」
「わかっています」
ソラリックが用意し、クロードが保証したこの舞台。
有効に使えるのは、テレーズが五体満足でここを出た場合のみだ。短時間なら誤魔化せても、どこかでテレーズの腕の消失は露見し、それ以上の治療が出来なくなる。
そもそも、ここで時間をかけてもまずいのだ。
時間がかかる怪我とはどういうことかと治療師たちが考えてしまえば、どこかで秘密の破綻が見えてきてしまう。
僕は苛立ち頭を掻く。
聖教会、本当に、面倒な相手だ。
勝手に決めた規則で人を縛り、規則を破れば信者や信奉する国家を使って処罰する。
その力は彼らを信じる人間たちの集団によるもので、その中心は神様などという曖昧なもの。
宗教というのは、その時代の要請によって作られるという。
たいていの宗教では、苦難に晒された人間たちが拠り所とするためにいわゆる神様を作り、いつか『神の意に背く悪人』の敵は滅びて、自分たち『神に認められた善人』の世が来るのだと人々を慰撫する。
そしてそれを奨励するのが、民衆に道徳心を持たせたい国だ。混迷の時代、または戦国の争いの時代。反乱の芽を摘み、管理を楽にするために。
千年の昔。まだエッセンやムジカルが小国だった時代。
世界の敵である魔王を倒すため、各国が争いの手を止めて対魔王で一致団結した時代。
以前、カンパネラがルルと僕に説いた言葉を思い出す。
魔王が滅びた後、当然また戦国時代は復活したのだろう。国同士がまた争いを始め、分裂し、またまとまり、中でもついにこのエッセンは大きな国になった。
だが元々別の国の集まりだ。まとめるための何かが必要で、カンパネラは今この国をまとめている要因を『勇者』と述べた。
きっと当時のその要因が、『聖教会』なのだろう。
当時戦乱の世に苦しむ民衆は、治癒の術を持ち、無私で働く聖教会に縋った。
薬師や金瘡医同様、当時はその他の医療手段もあったのだと思う。けれど聖教会の支配下では、治療師以外の技術はどんどんと廃れていった。
廃れた他の技術ではなく、聖教会の治療師を皆が頼り、治療師が頼られることにより他の技術が廃れていく。そういった循環の中、聖教会は力を増していった。
聖教会の信徒は、治療師ではなくとも彼らの戒律に従う。
聖典に書かれた『善いこと』を規範として、善良で慎み深い国民となる。
そして当時のエッセン王は、統治のためにその信徒を国民とした。
勇者を召喚したのがこの国。その勇者は聖教会の英雄であり、ならばその勇者を擁するこの国が聖教会を導入するのに違和感はない。
この国がまとまるために、おそらく聖教会は時代の要請として浸透していったのだろう。
国教として扱われ、聖教会の敵はエッセンの法に拠らずに罪人ともなる。
宗教裁判にかけられ異端として扱われた人間を、エッセンの法は保護しない。仮に街で異端者とされた者が私刑を受けていても、加害者は無罪放免か極めて軽い罪で終わるだろう。
苛々する。
どこまでいっても、やはりそれは人間の集まりだ。聖教会も同じ。エッセンと同じく、くだらない人間たちの集まりだ。
『悪いこと』をした人間を排斥し、集団のまとまりを保つ。イライン住民に対する貧民街住民。信徒に対する異端者。思えばミーティアの宿り木持ちだってそうだ。
誰かが勝手に決めた決まりで、そこにいてはいけない誰かが決まる。
国家高官が、僕がそこにいてもいいと言ってくれたリドニック。
悪逆と噂のイグアルすらも許容し、誰でもそこにいてもいい、と国是として認められているムジカル。
その二国とて守るべき法律はあるし、リドニックも聖教会の方針には逆らえまい。
だが、神格化する気はないが、……その二国がとてもとても良い国に見えてくるくらいに。
「カラス……殿……?」
怪訝な声で、背後からクロードが呼びかけてくる。
また僕は固まっていたらしい。八つ当たりのような思考に頭が乗っ取られていた。
今考えるべきはテレーズの腕のことだ。僕は深呼吸をし、なんとなく周囲に放っていただろう怒気を抑えにかかる。
考えるべきはテレーズのこと。
どうだろう。
今問題なのが、腕の材料だ。
一つ思いついたのが、足りないならば持ってくればいいということ。
輸血か輸液で血管に直接流し込み、それを直接使えば問題はない。出来ればその場合は、人工心肺のようなもので体中に循環させつつ不要分は排出させたいが。
もしくは、くっつける。これは感染症や免疫の適合などを考える必要があるが、テレーズの腕があれば、もしくは誰かの腕を挿し木のように植え付けることでどうにかなるだろう。
考えて、僕は乾いた笑いを小さく立てる。
当然のように絵空事だ。
ここには輸血できるような設備もなく、移植に耐える新鮮な死体の腕もない。
その点、最も現実的で穏当なのが『経口』だろう。いわゆる食事。
もっとも、そのような時間がかかる手は取れない、というのが先ほどの話だが。
食事し、食物を消化し、栄養分として身体に蓄える。それで腕一本分の栄養を吸収させるのに、どれほどかかるというのだろうか。
「やっぱり、そこが問題なんですよね」
ソラリックが、真剣な目で悩むようにテレーズを見下ろしつつ、呟く。
それから唾を飲み込んで、言いづらそうに口を開いた。
「……その、昔、本国の人から噂に聞いたことがあるんです。聖女と認定されるかもしれなかった治療師が、異端の研究に手を染めていた、ってことで……」
「……?」
「その人は、別に《再生》の研究というわけではなかったらしいんですが、……その、人を作ろうとした、とかで」
言葉が途切れ途切れに消える。人を作ろうとした……? というのは。
「ばらばらに……小さく裂いた死体の手足を繋げようとしていたという話を聞いたことがあります。死体の腕を繋げるというのは?」
「いぃ!?」
背後でクロードが小さく呻いた。
しかし……なるほど。
ソラリックが僕を見つめる。
なるほど、たしかに、と僕は思った。何に納得したのかはわからないが。
「それは私も考えましたが、さすがにやったこともないので難しいです。そもそも新鮮な腕が必要ですし」
理想的なのは、今死んだばかりの死体。それも、今まさにここで切り落とすのが一番だろう。大きさが同じで、免疫での拒絶反応もないもの。……そこまでいけば、もう無理だろう。
「なら……私の腕、……なら?」
ソラリックが自分の腕を捲って示す。
白く細い腕。魔力使いらしく筋肉のほとんど育っていない虚弱ともいえそうな小さな腕。
だが。
「……難しいです。大きさが合いません。それに、拒絶反応が出れば全体が壊死していきますし、テレーズ殿の体調にまで影響がある。そんな博打は打てません」
そもそもに問題が解決しない。
新鮮さの一点だけではない。彼女に説明してわかるものではないだろうが、……。
「拒絶反応?」
「…………」
僕は内心舌打ちをする。彼女に知らせていい言葉ではなかった、とどこかで声が響く。
先ほどからなんとなく、彼女にはエウリューケ相手と同じ匂いがある気がする。こちらの一言で、どこまでも考察を深くし何かを究明するような。
「……人は、外部から何かが侵入した場合に自分の身を守ろうとします。薬師の言葉でいうならば、実証による亢進の反応でしょうか。大量出血の人に羊の血を流し込む、などという治療の失敗は聖教会でもあったのでは?」
たしかそういうことがあったはずだ、と僕は昔聖教会に侵入していたときに読んだ論文を思い返す。
そもそもにその研究も馬鹿げているというようなもので、様々な人物の研究を否定的な形で集めるようなメタ解析的な論文だったが。
原始的な輸血技術。彼女もそれを読んでいるだろう、というのは今抱いた期待だが。
そして期待通り、ソラリックは頷く。
「…………ああ、そういえば」
神妙な顔で。
正直、実際はどうなるかはわからない。
ソラリックの腕がテレーズに適合するかもしれないし、免疫の拒絶反応が出ても治療師が適切に法術を当てはめれば快復するかもしれない。
やるとしたら最後の手段だ。
それに。
なんとなく僕の足が疼く。
殺すわけでもない人間の手足を、一時的としても切り落としたくはない。なんとなく。
「……時間に問題がなければ、やはり段階的に治療していきたいです。栄養ある食事をとらせて養生しつつ、数週間、もしくは数ヶ月かけて」
その程度で済めばいいのだが、とも僕は内心付け加える。
何せ、腕一本だ。健康的に形作るとして、重くて三キログラム弱。
ちょっとした新生児の重さと変わらない。普通の女性はそれを十ヶ月もかけて作り、それでも身体に影響が出るというのに。
……それもちょっと違う気がする。今回は普通に作るわけでもなく、魔法による造成だ。妊婦の体調不良は尿毒症や様々な要因が絡んでくるもので、今回のものとは関係がないはず。
混乱しているのか、それともクラリセン掃討の疲労の影響か、考えがまとまらない。
いつも回らない頭が、今は更に回っていない気がする。余計なことを考えてる気がする。目の前のことに集中したいのに。
焦りと苛立ちに、地面がグラリと揺れるような錯覚を覚えていた僕。
だが、ソラリックは待たない。
「食事でどうにかなるんですか?」
「一度に吸収できる量は限度がありますので、数度に分ければ」
実際には数度どころか数十度だろうが。
「…………」
気まずい沈黙が天幕の中に流れる。
正直、もう既に時間をかけすぎている気もする。けれども、どうしようもない。
そろそろパタラたちも怪訝に思う頃ではないだろうか。せめてクロードに、一度外へ……。
「…………聖典、進森記、第十六章」
「?」
呟かれたソラリックの言葉に、僕は首を傾げる。ソラリックは、目を閉じ懸命に何かを思い出すように両手の人差し指を額に当てて眉を潜めていた。
「『聖トマスは手に掬い取り民に差し出した。茂る森のようなもの。どろどろと集まる泥のような塊。「これは何か」人々がそれを問うと、聖トマスは答えた。「これはあなたがたの肉であり血である。余すところなく食べなさい」また聖トマスは言った「これはあなたがたの子となり子の側で尽くす幸いとなる」。人々はそれをある者は多く食べ、ある者は少なく食べた。多く食べた者は繁栄し、少なく食べた者は繋ぐことが出来た』…………っていうところが……」
「それが何か……?」
あまりにも長い聖典の引用。
それも聖典の副読本のようなもののもので、僕はその辺り覚えていないが、それが何だというのだろうか。
「ここは……その、ネルグ開拓の重要性を聖トマスが人々に伝えたという解釈が主流なんですけど……」
うーん、とソラリックも悩みつつ、僕に何かを伝えようとする。僕が何かを察するのを待っているのではなく、どう伝えていいものかと言葉を選ぶように。
「その、どこかで読んだことがあるんです。ここの解釈はそうじゃないって。事例を添えて、飢餓状態にある人間にいきなり食べ物を食べさせると、身体が驚いちゃうというか、消化できないでそのまま下痢して死んでしまうことがあるという話が……だから聖トマスは、よく煮た粥を人々に配ったのだとかそういう……」
途切れ途切れに自信なさげに、ソラリックがぶつぶつと口の中で呟く。
と、つまりは……。
「そっちはそう古い解釈ではなくて、三十年くらい前のものだった……かなぁ……? 祝詞と、名前が、たしか……」
「消化吸収を促進する法術がある、と?」
ソラリックが声を出さず、コクコクと頷く。
「そう、そうなんです。使えませんか?」
「……どうでしょう」
使える、と言い切れずに僕は言い淀むが、まあたしかにそれはいいかもしれない。
その法術の効果がどれほどかはわからないが、やってみる価値はある。
腕一本分とまではいかない。目算では、多くとも手首から先程度のタンパク質が補給できれば充分だろう。
……それも本来は無理だろうといえる量だが。そこはソラリックの法術を信じるしかない。
「それに、本草学ではそういう薬はないんですか?」
「……ないわけでは……ないですね」
どっちだ、と僕自身内心笑ってしまったが、そうだ、ある。
もちろん劇的な効果などはないが、簡単に言えば健胃剤や整腸剤といえるものが。
僕はクロードを振り返り、笑いかける。
「クロード殿」
「おう」
待ってました、とクロードが頷く。今までの話を理解できていただろうか、それはわからないが、なんとなく嬉しそうに。
僕は言葉を選びつつ口に出す。
「補気剤に使いますので、馬の肉などいただけませんか。赤身なら馬でなくてもいいですし、生でも干していても構いません。少し、多めに」
「俺の腕より重めにだな。わかった。多分まだ食料庫にあるだろう」
撤退中だが、おそらくあるだろうと思う。
クロードは頷き、天幕を出ていく。
僕とソラリックはそれを見送り、とりあえずとソラリックは眠りの法術をかけ直し、小さな鋏を使って傷口の糸を切りにかかる。
僕はそれを尻目にいくつかの生薬の乾燥と、計量とすり潰しにかかった。
「あの……今話してもいいですか?」
「何でしょうか」
僕は乾燥が半端な黒い生薬の根を、小刀で少しずつ切り取って味を見る。鼻の奥に広がる甘みのような匂いと喉の奥に落ちていく酸味。これは一度凍らせた方がいい味だ。
ソラリックは一つ一つ丁寧に糸を切りつつ、目をテレーズから逸らさずにいた。
「さっき言ったことは本当です。もうこういう話をするのはこれっきり。カラスさんに、迷惑はかけないようにします」
「それは当然ですね。クロード殿に殺されたくなければ」
「そう、なんですけど」
なんですけど。そう、奥歯にものが挟まったように言い、ソラリックは黙って丁寧に切った糸を引き抜く。
もう癒着自体は始まっているのか、それでも傷口は開いていかなかった。
「私、この戦争が終わって戻ったら、位階を上げようと思います」
「位階を?」
「はい。今は一等治療師。でも、上等、……せめて高等までいったら、聖教会の在り方にも口を出せるようになるんじゃないでしょうか」
まだ糸は切り終わっていない。だが、傷口をそのままにソラリックは振り返って僕を見る。どこか恥ずかしげに。
「私はおかしいと思うんです。治療師が治しちゃいけない傷があるなんて、治しちゃいけない人がいるなんて」
言ってから、僅かに後ろを気にしたのは、誰かが見ていないかという警戒だろうか。
もっとも僕も周囲に聞き耳を立てている以上、ここを聞いている誰かはいないだろうと思っているのだが。
「だから……カラスさんの名前は絶対に出しません。カラスさんの言葉や行動とは無関係ですし、影響を受けたなんてことも言いません。絶対に迷惑がかからないようにします。だから」
「だから?」
「戒律を、変えます」
僕があざ笑うように言うが、ソラリックは即座にそう言い返した。
なんとなく、緊張しながら。
それから焦るように、急ぐように、ソラリックはテレーズに目を戻す。
「戒律って誰が決めたんでしょうか?」
「案外神様が言ったのかもしれませんが」
「私の信じている神は、絶対に『助けてはいけない』なんて言いません」
パチン、パチン、とソラリックが糸を切り進めていく。
「聖典は神が書いたものではなく、人が書いたもの。それを元に戒律は作られた。なら、間違うことだってあると思うんです」
「ソラリック様が間違うこともあるのでは?」
「でも、今の私が間違えてるなんて思えません」
僕は計量を終えた生薬の根をすりこぎで潰し、また新たな生薬を手に取る。
これは味を見なくともいいだろう。茎と根を丁寧にちぎり取り、葉を揉むようにして砕いていく。
「今日ここに関わった人は間違ってなんかいない。いつかはそれを証明してみせます。いつか戒律を変えてみせます。もっと盛んに、《再生》も、いずれは《蘇生》も研究できるようにします。今度は私が……そう、頑張ってみてもいいですか?」
「…………」
生薬に油を垂らして攪拌すれば、色が緑から黄色に変わる。
何かしらの反応が始まったのだろう。指でとって舐めれば、ほのかに甘い味がする。
「僕の名前を出さない限りにおいて、勝手にすればいいのでは」
「そう……そう、します」
それからもう一言。
「ぁ……ぅ…………」
ソラリックは何事を呟いたが、僕の耳にも聞き取れなかった。
クロードが戻ってくる頃には、準備は整っていた。
彼が持ってきたのは、血の滴るような肉だったが。
「ちょうど足を怪我した軍馬を潰している奴がいてな。もらってきた」
「運がいいというか何というか……」
呆れるように答えつつ、僕は受け取った肉の塊を少し切り取り、天幕の端にあった台の上、適当な板の上に乗せる。もうこの際衛生とかそういうのは気にしない。
小刀で細かく千切るように切り……この辺りクロードにやってもらった方がいいかもしれない。
「お願いできますか」
「おうともさ」
出来るだけ細かく、挽肉よりも細かく。……出来れば液体になるまで。そう注文すると、クロードは小刀を手に取ると水を得た魚のように華麗な動きで縦横無尽に肉を切り開いていく。
ルルの手捌きには負けるが、なかなかの手捌きだと思う。
僕はそれを尻目に、生薬を放り込み火にかけている鍋をかき回す。こちらもお玉ではなく乳鉢のすりこぎを代用しているが問題はあるまい。
「カラス殿、これでいいか」
そしてほんの数分も経たないうちに、クロードが問いかけてくる。
板の上にあるのは細かめの挽肉、という風情ではあるがそれも問題はない。多分。
煮る時間はほとんどない。けれども、出来上がった挽肉を順次鍋の中に入れていき、更に僕が魔法で保温すると、もともと無い形が更に崩れていった。
「……なんというか、早くないか?」
「普通は上がらない温度まで上げてますからね」
圧力を上げるために鍋から何も漏れないようにしているが、そのせいで良い匂いすらしない。だがその分温度は上がっており、超高圧の圧力鍋で煮ているようなものだ。
出来れば液状化するくらいに煮たい。
それこそ、おそらく聖典にあったとおり、泥のようになるまで。
液体成分を残し鍋から固体成分を引き上げて、乳鉢に入れる。
それをすりこぎですり潰せば、さらに形も無くなっていった。
石臼などを使ってもいいかもしれないが、そこまで贅沢はいえまい。
調理時間は十分ほど。
出来上がったのは半練りのコンビーフを更に細かくし、ペースト状にしたようなもの。更にそれを生薬のスープで溶いているため、食べ物に使う表現ではないと思うが、消化中の胃の内容物に似ていた。
おそらく一リットルほどの薬膳。三分の一ほどを竹筒に入れて、僕は立ち上がる。
「じゃあ、やりますか」
「はい」
なんとなく楽しくなってきたのかもしれない。
ソラリックの顔が少し明るく、声も張りがある。
ここからは正直、僕の出来ることは多くない。食べたものがどれだけ吸収されるかはソラリック頼みだ。
「起こさないのか?」
クロードがそうどちらともなく僕らへ尋ねる。
そういえば一切その相談はしていなかったが、テレーズを挟んで向かい合った僕とソラリックは、顔を見合わせてその回答を譲り合った。
そして結局、答えるのはソラリックに決まったようだ。どう決まったのかはさっぱりだが。
「意識を取り戻してしまうと、法術の効力が薄れてしまいますので、念のため」
「そうか、そういえば、そんな話も聞いたことがあるな」
クロードは納得する。
まあ僕としても、起こして薬を飲ませてから、また寝かせてもいいのだが。
その時間は惜しい。
ソラリックの法術により意識を奪われ、深い睡眠に入っているらしいテレーズ。その顎を少しだけ上げて、改めて顎を引っ張り口を開けさせる。
開いた穴に、少しずつどろどろとした肉のスープを流し込んで……。
大丈夫だろうか、気管に詰まらないだろうか。
そう僕は心配するが、ソラリックはテレーズのみぞおちの下辺りに手を当てて、探りつつ親指を、ぐ、と押し込む。
点穴ではないだろう。嚥下をさせる経穴は胸や喉にあるが、今ソラリックが押し込んだのはそのどちらでもない。だが、たしかに喉に詰まらせることもなく、テレーズが口の中のものを喉の奥に落としたのはわかった。
「カラスさんやベルレアン様の前でやっちゃったら私が怒られるんですけど」
「ソラリック殿も秘密を握らせたわけだな。なあ、カラス殿」
背後から聞こえるクロードの言葉に、ソラリックが笑うように肩だけを揺らし、僕に視線を向ける。
促されるようにして僕はまた竹筒を傾ける。今度もまたゆっくりと。ソラリックは親指をぐりぐりと規則的に動かして、口の中身を胃の奥に導いているように見えた。
繰り返すのは同じ動作。
一リットル。成人の胃の容量は人によって異なるが、たしか二リットル程度と聞いたことがある。なのでそれ自体は余裕で入るだろう。そう思ったとおり、少しだけ苦しげに眉を寄せているように見えるが、飲ませた薬は全てテレーズの胃の中に収まっていった。
「では、僕は治療にかかります」
「よろしくお願いします」
もちろんまだ胃の中にある食物はそのままだ。だが、現時点でも治療は出来る。
僕はテレーズの腕に手を添え、魔力を込める。
傷口を広げるように切り開き、中の骨や血管、神経を露出させる。
この手当てをした人間は、血管まで繋げようとしていたのだろうか。それとも血管を塞いだのだろうか。中にもいくらか縫合の痕と火傷があったが、そこは強引に引きちぎるように開いた。
そこからいつもの通り、細胞を造成してゆく。
まずは上腕骨遠位端まで。骨を伸ばし、軟骨を形作り、骨膜から神経、血管を延長させて、間を埋めるように筋肉を成長させてゆく。遅れて皮膚で覆うように。
未だ一応血液からの栄養はほとんど使っていない。
ほとんどが、腕断端に残っていた細胞の栄養や、その周囲の栄養素。肘関節まで作ったところで、もうそれも枯渇寸前だ。
テレーズに残っている左腕の形状を参考に橈骨と尺骨を想像し、架空の骨を形作る。
伸ばした血管や神経を絡みつかせ、筋肉をかぶせて、整形していく。血管からの栄養素を吸うように、根を張った植物が生長するように腕を伸ばしていく。
そうして作っていっても、……これはやはり全部は無理だ。
既に骨粗鬆症とも呼べる、すかすかな骨。僕やクロードは元より、おそらく子供でも、芋をもぐようにすれば簡単にテレーズの前腕は折れる。
しかもまだ全て終わったわけではない。
まだ手根骨すら作られていない。
手首にまで辿り着いていない。これ以上やっても、本当に虚弱な手足が作られるだけで……。
僕はソラリックを見上げる。
応えるように、にこ、とソラリックは笑い、テレーズの腹部に手を当てて目を閉じた。
「我が名コルネア……二つの連なる真の名、コルネア=ミフリー・ソラリックが神の名において命ずる。白き玉、大鍋で煮える固い殻。朝には残さず昼には待たず夜には心置きなく口の中に入れよ。多くの者は多く食べ、少なくの者は少なく食べ、不足せず、満たされず、心からそれを求めよ。満たされてはならず、不足してはならぬ。不足を強いる者には七の復讐を。満ち足りることを強いる者には七十七の報復を。主よ、主よ……」
いつになく長い祝詞が読み上げられる。
これが昔ソラリックが勉強し、うろ覚えだった祝詞だろうか。
それに先ほどの言い方では、これは主流ではなく禁じられてはいないが外法に近い法術。よく覚えていたものだ、と僕は感心する。
そして感心をしている最中、僕の手の先で異常が起きる。
血液からの養分の流入量が一気に増した。
その感知までは今のところ出来ないため推測だが、血液中のアミノ酸量が急上昇した。手の先で、細胞の分裂速度が急加速する。
僕が指の先まで架空の手を形作ると、殺到するようにそこに必要成分が沈着、実態を持つものに変貌していく。
僕は少しだけ焦るようにして、それを調整しようと試みるが、出来ず、そこでようやく気付く。
これは、僕の力、ではない。
気付けばテレーズの腹部の膨らみが消えている。
呼吸の上下動で揺れている腹には、先ほどの食物が残っている様子もなく、そっと魔力を消化管に伸ばしても既にすべて空の状態だ。
僕の力ではない。
唖然としてテレーズの手が再生していく様を見守り、僕は一息つく。
爪の先までの再生が終わる。傷一つない綺麗な爪は栄養不足を示す筋もなく、また色も健康的な薄い桃色。
肌には年齢を示すような皺もなく、また白く、日焼けの跡はない。
白い肌には透けて見えるように灰色の血管が走り、滑らかな手の甲に起伏を作っている。
手首、そして肘、目を向けてももはや一切の瑕疵はない。象牙のような綺麗な腕。
同時に、ソラリックが祝詞を唱え終わる。
最後の辺りはうろ覚えだったのだろうか。辿々しく言葉を発していたようで、さらにこちらの様子を確認することも出来なかったのだろう。
だが、絞り出した魔力に汗を浮かべた額を拭うこともなく、テレーズの右腕を見て目を見開いた。
「せ、成功ですか……っ!?」
僕は、はい、と口に出せずにただ頷きを返す。
視線の先、ソラリックの後ろで、がたんと音を立ててクロードが急ぎ踏み出そうとして、踏み出していいものか迷って腕を泳がせて止まった。
僕は何かを言おうとして、言えずにただ立ち上がった。
上腕から手首までを治したのは僕だ。しかし、その先はそうではない。僕の力はあったが、しかしそれ以上に大きな力がかかっていた。
誰かの何かの大きな力。
明らかに、消化促進の法術の効果ではないだろう。
僕は何故だか恥ずかしくなって、完治したテレーズの右腕とソラリックを交互に見る。
だが、そういえば、法術とはそういうものだった。
法術とは、魔術とは、魔法とはそういうものだった。
「ありがとうございます」と繰り返すソラリックに向けて、僕は何も言えなかった。




