誰か教えて
フィエスタたち防衛組の聖騎士が核となり近隣の騎士団を集結させた一団は、優に二千人を超えていた。
比較的元気な者をイラインへと先に走らせ、残ったのは千五百人ほど。
彼らはこの戦争で自分たちの力を思い知った者たち。ネルグの魔物に怯え、ムジカルの兵に怯え、または疲労や怪我から、既に半ば戦意を喪失している者たちといってもいい。もちろん今すぐ戦力にはならないが、肉の盾としては使える者たち。フィエスタらのあとの任務は、彼らを無事にイラインへと戻らせることである。
先導は第十一位聖騎士団〈百舌〉。殿はフィエスタ率いる第九位聖騎士団〈琴弦〉。勇者もフィエスタの一団に加わっていた。
オセロットやテレーズの率いていた侵攻組と違い、防衛組には大きな戦闘は少なかった。しかしそれでも被害は出ている。騎士たちは馬や騎獣を失った者が多く、そういった者の歩みは徒歩である。
もはや逃げる道にこだわりはないが、歩きやすい街道を使うといえども行軍速度はやたら遅かった。
「……夜までにつけるんですか?」
ヨウイチは横を騎獣に乗って揺られていたフィエスタに問いかける。だがフィエスタは、ヨウイチの予想通り首を横に振った。
「無理です。この分では急いでも明日の夕方でしょう」
「一度夜を明かすんですね」
この人数でか、とヨウイチは溜息をついた。
夜を明かすといっても、今は強行軍に近い動きだ。天幕などを張られることもなく、皆野宿に近い形で夜明けを待つのだろう。
そう予想したヨウイチだったが、ヨウイチを挟んでフィエスタの反対側にいた高等治療師は、にこにことした笑みをヨウイチに向けた。
「ご心配には及びません。勇者様には、私共の天幕をお使いになっていただきます」
「森の中で目立つ行為は控えてもらえませんか、高等治療師殿。もはや万全に戦闘できる者たちはいない。魔物の襲撃を防ぐ余計な手間をかけさせないように」
「では怪我人たちまでも野天に寝かせると?」
「参道師の指示に従うと、先ほど決めたばかりではないですか」
ヨウイチを挟み、フィエスタと高等治療師が睨み合う。両者に囲まれたヨウイチにとっては、身が竦む思いだった。
歩けない傷痍兵は現在行軍する軍の中程で馬車に揺られているが、その数は少ない。百人前後と、昼前と比べてもだいぶ減っていた。
それは、時間が経ち処置が進んだというだけではない。魔力を温存していた治療師たちが、この強行軍に伴い法術を用いた治療に切り替えたのだ。魔力を尽きる寸前になるまで絞り出し、そうやって法術を用いた治療師たちも、そのほとんどが現在馬車に揺られている。
まだ法術を扱えるほど魔力が残っている治療師はこの千人以上の兵に対して数人ほど。それも明らかに少ない数だった。
彼ら傷痍兵は、今やこの行軍を指揮する聖騎士団長の頭痛の種だ。
何せ、怪我が残る者たちがいる。洗浄をしても彼らの身体から血の臭いは漂い、動物や魔物を引き寄せる力を持つ。
もちろん血の臭いならば戦闘員ならばほとんど誰でも漂わせている。無傷な者などいない。
だが傷痍兵は、とりわけ自らの身体を守る術を持たない。完全にないわけでもないが、怪我の少ない者たちと比べれば歴然とした差があった。
血の臭いを強く漂わせ、身を守る力を持たない一団。
この森で今まさに死体を漁り、人の味を覚えた魔物たちにとっては格好の餌だ。
見捨てるべきだとフィエスタに付いてきていた参道師は言った。仮に参道師の仲間がこの状態ならば、森の中に残していく。見捨てられる仲間もそれを了承するだろう、と。
そしてそれが出来ないことも参道師は承知している。集団で動く騎士は、個人の寄り合いの参道師のようにすぐに味方を見捨てることが出来ないとも。
彼らを見捨てることも出来ず、さりとて魔物の襲撃時に撃退するに満足な護衛をつける手間はかけられない。比較的元気な聖騎士とて体力は有限だ。
ムジカル兵の襲撃と魔物の襲撃。その両方に備えつつ一昼夜の移動を行うのは、普段ならばまだしもこの戦場では出来る限り避けたい。
故に、出来るだけ目立たぬよう行動する、とフィエスタたちは取り決めをしていた。
天幕というのは目立つ。朝方になれば空を飛ぶ妖鳥から容易に見つかり、夜でも茂みの奥から視認できる目立つ建物など、参道師にとっては論外だ。
故に、それは張らない。
馬車や備品には草木を縫い付けた迷彩の布をかぶせて隠す。そして人間も全員、治療師も聖騎士も騎士も参道師も、その他全ての人間も野天で迷彩の布を被り夜を明かす。
血の臭いが強い傷痍兵は参道師が用意した匂いの強い枝の束を更に被り、せめてもの対策とする。
それが取り決めだった。
耄けているのか、とフィエスタは高等治療師を睨む。
彼らが安楽に休める天幕など一つもない。勇者も他の者と何一つ変わらず、木の幹に蹲り寝るのだと決めているのに。
だが高等治療師は、その視線を受けて鼻で笑った。
「貴方たちこそわかっているのですか。勇者様を粗末な寝台で寝かせる愚かな行為を」
「先代の勇者様の旅路では、天幕などお使いにならなかったのでは?」
ヨウイチを挟んで睨み合うフィエスタと高等治療師。
失敗した、と思った。今後の予定をただ尋ねただけだったはずのヨウイチは、彼らの対立を煽ってしまったのだと悟った。
そもそもに、その取り決めの場にいなかったのが失敗だったとも。
意を決するように、それでいて表面上は出来るだけにこやかにヨウイチは高等治療師を見る。
「構いません。そういった訓練も受けていますから」
「しかしですな」
「……これ以上、迷惑になりたくないんです」
なおも言い募ろうとする高等治療師に向けた懇願の一言には、誰も応えず沈黙が流れた。
行軍中には無駄な会話はない。
ただ乗った騎獣が歩くに任せ、聖騎士団も勇者も進んでいく。
ヨウイチはぼんやりと目の前の光景を見つめていた。
歩いていく兵たち。列を成ししずしずと歩く兵たちは、槍を携えながらももはや戦意などない。
顔触れは違えど、ここに来るまでの行軍でもヨウイチは兵たちに混じったことがあった。しかしその時とは雲泥の差だ。
戦うために歩いてきたここまでの道。逃げるために歩くこれからの道。その二つはこれほど違うのか、と愕然とする思いも感じた。
兵たちの背中に覇気はない。携えている槍や剣は、まだ地面についていないだけで、もはや杖のようにも見える。杖に縋りつつ歩く者たち。怪我や疲労で走りも出来ず、ただかろうじて前へと進んでいるだけのよう。
ふと思った言葉は、誰にも吐けなかった。
彼らはこの戦争に何をしに来たのだろうか。きっとそれぞれに理由があるはずだ。金のため、名誉のため、仕事のため、ただ自分の楽しみのため。人それぞれに様々な理由が。
だが、参加した彼らは何を得たのだろうか。何かを持ち帰ることが出来るのだろうか。
ヨウイチの脳裏に、先ほどフィエスタに聞いた言葉が思い浮かぶ。
『この戦争は無意味だ』と。そう、聖騎士団で最も古い女性が口にした。
もうすぐ終わる戦争。それは目の前の彼らにとっても無意味なのだろうか。何も得られず、何も成せずに命を拾って帰る。そんな無意味な戦争だったのだろうか。
そこまで考えて、ヨウイチは自嘲し唇を綻ばせた。その綻びは、誰にも見せぬように気を遣いながら。
無意味だったら何なのだろうか。
目の前の彼らにとってこの戦争が無意味だろうが、意味があろうが、もはや自分には関係ないのだ。
ヨウイチにとってこれは無意味な戦争だった。無意味で、愚かで、ただ苦しいだけの。
何のために召喚されたのだろうか。
何のために訓練をし、魔法を覚え、人を殺せるようになったのだろうか。
この戦場で、自分が出来ることなど何一つなかった。
全て無意味だったのだ。
ルルとの結婚を認めさせるために戦争に参加しようと思った。戦争に参加して、活躍すれば彼女との結婚が認められると思った。初めて恋した女性と、共にこの世界で生きられると思った。
けれど、それは叶わない。
戦争に参加する前に、ルル・ザブロックからは明確に拒絶されている。
つまり戦争で活躍し、彼女と結婚をしようが、彼女の心は永久に手に入らない。戦争では、彼女の心は、決して。
だから勝とうと思ったのに。
勝てると思っていたのに。
探索者カラスに勝てば、『勇者』になれば、きっと彼女は自分の方を向いてくれると思ったのに。
何が勇者だ、とヨウイチは思う。
聖教会で崇められていようが、治療師に協力は出来ない。魔王はいない。戦場ではただの新兵に過ぎない凡人。
勇者というのは何なのだろう。
召喚陣で呼び出されたから勇者なのだろうか。それならば、何故召喚陣は自分を選んだのだろう。
聖教会で崇められれば勇者なのだろうか。ならば、教主と呼ばれる聖教会の最高位の治療師は何故勇者ではないのだろうか。
わからない。
何故、自分だったのだろうか。
勇者というものがわからない。魔王も邪神もいないこの世界で、何を成せば勇者となれるのだろうか。
わからない。
誰か、教えてほしい。
ヨウイチの耳に、笛のような、もしくは牛の声のような音が響いた気がする。
何かを言っている。
耳を澄まそうとして、顔を上げれば、頭上からエレキギターをかき鳴らすような、ハウリングのような音が聞こえてくる。
ヨウイチが顔を顰め、騒音に耳を塞ごうとした次の瞬間。
「総員戦闘準備!」と、フィエスタの声が響いた。
フィエスタを見れば、騒音は消え去り、代わりに緊迫した空気がヨウイチの肌を包んだ。
何事だ。一瞬高等治療師と顔を見合わせ、それからフィエスタに詳細を求めようとすれば、彼女は既に太い刀を抜いて騎獣から降りていた。
ヨウイチも倣い、騎獣からひらりと降りる。高等治療師はそれを見つつ、騎獣から降りられずに鞍にしがみついた。
「何が……!?」
「敵襲! おそらく魔物です!!」
街道の横、木々の奥、鬱蒼とした暗闇の中をフィエスタが見据える。
ヨウイチもそこに目を向ければ、何故だか森の奥が優しく輝いて見えた。
方向は北。ネルグの中層から深層、その辺りから迫る魔物だろうとフィエスタは推測し、その異様な気配を探ろうとする。
フィエスタは何かの気配をはっきりと感じた。獣の匂い、殺気、そして何かの唸り声。だが、その魔物は視界に入っていない。
じわじわと殺気が膨れあがり、身を焼くよう。
なのにその姿が見えず、正体もわからずにただその辺りをぼんやりと見つめ警戒を続けた。
(〈百舌〉は何してやがった……!)
フィエスタが、文句の言葉を吐く代わりに舌打ちをして堪える。
集団の先頭を行く〈百舌〉との距離はおよそ一里半。しかしこれだけの殺気ならば、彼らがここを通ったときに何か異変があるはずだ。
事実、集団の前方の方では、何かに気が付いたように誰かが声を上げている。
「奥に……何かいるんですか……!?」
ヨウイチも目を凝らすが、暗闇の先にある光以外は何も見えない。殺気、と呼べる寒々しい感覚はわかるものの、それ以外はヨウイチにもわからない。
「違え! 目の前だ、どっかに……」
殺気の場所がある程度絞れているフィエスタからすれば、見当違いの方を見つめているヨウイチ。彼を叱り飛ばすようにフィエスタは叫び、そしてようやく『何か』を見つけた。
フィエスタとヨウイチのいる街道。そこから、ほんの僅かに茂みへと分け入った先。
地面に、ほんの僅かな亀裂があった。まるで筍が地面から這い出る寸前のような。
そしてその亀裂の中に、光る目があった。
ボコン、と湿った土を割りながら、爪を持つ手が現れる。毛皮の色は土に塗れてもまだ青く、水に濡れたように光を弾く。
次いで現れた頭部は巨大なもの。人の身体の半分ほどの大きさの顔は、熊そのもの。
「ゴアアアアァァァ!!!」
叫び声は野太く、周囲の木々をちりちりと揺らした。
「青嵐熊!!」
現れた人の背丈の三倍ほどの大きさの青い熊を見て、フィエスタが改めて構える。九環刀と呼ばれる背に九つの環が通された刀。その環が微かに揺れてリンと音がした。
突如現れた魔物の姿に、行軍していた兵たちが我先にと駆けて逃げていく。歩くのがやっと、という風情だった者たちが、命の危機に力を振り絞り。
「一班二班は周囲を警戒! 三班は隊列を追って備えてください!!」
視界の端で、逃げていく兵たちを捉えてフィエスタは叫ぶ。聖騎士たちはフィエスタの指示に従い散開する。
フィエスタは指示を聞いた者たちの動きも見ぬままに、青嵐熊へと飛びかかった。
数度跳ねてから、可憐ともいうべき動きで空中に飛び上がり、青嵐熊のほぼ前方へ跳ぶ。反射的に爪を振るいフィエスタを薙ごうとした青嵐熊の分厚い毛皮を易々と切り裂き、手首から先を斬り飛ばす。
フィエスタの刀がリンと鳴る。その音に熊が怯んだか怯まないかわからぬうちに、青嵐熊の頭が縦に割れた。
着地したフィエスタが刀を振り血を飛ばす。その動作で刀が鳴らないのが、ヨウイチには不思議だった。
それから周囲を見渡しフィエスタは確信する。
まだ殺気があった。それも、先ほどと何一つ変わらず。
「……隠れてないで出てきなさい」
静かにフィエスタは告げる。森に吸われるような声は、一切響かず消えていく。
そもそもに不自然だ、とフィエスタは思った。先頭の聖騎士団が気付かず、ここに来て殺気が満ちた。まるで待ち構えていたかのように。
そしてその不自然な違和感は、青嵐熊が現れた時点で確信に変わっていた。
もちろん、魔物とて待ち構える狩りをすることはあるが、青嵐熊はそうではない。
そしてまだ消えない殺気。それはまだ他にも魔物がいるということであり、そして青嵐熊の場合不思議な話だ。青嵐熊は家族以外、群れを作ることはない魔物だ。
家族というのも多くて四頭、通常三頭。しかしこの殺気は、……。
グル、と唸り声がどこかから聞こえる。
フィエスタやヨウイチが見上げた先、遙か頭上で、木の幹に器用にしがみつき彼らを狙う影がある。
黒く、泥の色の縞がある猫科の猛獣。袋獅子と呼ばれる彼らは人の背丈よりも大きく、木に登り、眼前を歩く獲物を狙う強力な森の捕食者である。
当然凡百の騎士団では相手にならず、仮に聖騎士であろうとも苦戦をするようなネルグ中層の魔物だ。
だが、フィエスタは些かも怯まない。
手に持つ九環刀を手首を返して揺らす。また刀に付いた環がリンと鳴る。その音に耳を突き刺されたように、獅子は短い悲鳴を上げて木から滑り落ちた。
一閃。フィエスタの手の先で血飛沫が飛ぶ。
その後ろの木、大人の腕が回らないほどの太さの幹ごと獅子の首が落ちた。
「いくら魔物を連れてこようが、被害が増えていくだけですよ」
首を失い、まだのたうつ獅子を視界にも収めず、淡々とフィエスタが口にする。
その言葉に応えたように、森の奥五十数歩先、木の幹の影から一人の老人が姿を見せた。
緑の裾の長い外套を纏い、髪は外套に着いた頭巾で隠している。額の皺と頬骨が目立つ男。ぎらりとした目に、締められた唇が表情を不機嫌に染めていた。
「…………」
「また隠れるなら、こっちから……」
「では、人ならどうかのう」
ぼそりと老人が呟く。
さ、と手を上げる。その手に反応するように、フィエスタの横にあった木の幹が割れ、中から木綿の粗末な服を着た男性が、柄の短い短刀を手に飛び出す。
だが。
「一緒ですね」
フィエスタは刀を水平にするりと引く。次の瞬間、ド、とムジカル兵の頭部が地面に落ち、一拍遅れて身体まで崩れ落ちた。
「怖いな」
またぼそりと老人が呟くと、今度は手を叩く。
パアンと森に破裂音が響く。その残響がなくなると同時に地面が揺れ始めた。
小刻みに揺れる地面に足を取られながらも、ヨウイチは周囲を見る。地震のようだが、地震ではない。単純な地面の揺れを堪えるよう足幅を広げ、見据えた先の地面が、再び隆起し割れた。それも、複数。
唸り声が重なる。
青嵐熊や袋獅子、大犬や四つ目狐がばたばたと姿を見せる。地面を割り、木から飛び降り、木陰から空から飛び出すように。
隠れていた木の幹を割り、ムジカル兵が現れる。それぞれに武器を携え、兵として熟練の者たち。
殺気の塊が示していただけの魔物の数。それにムジカル兵たち、合わせておよそ三十。いつの間にか囲まれていた。その事実にフィエスタは舌打ちをし、ちらりと背後のヨウイチを見た。
魔物を殺すのは簡単だ。聖騎士団が揃っている今ならばなおさら。魔物使いも討伐は出来るだろう。だが、勇者を守りながらという条件で可能だろうか。勇者と高等治療師という非戦闘員を守りつつ、自分たちはここから脱出できるだろうか。
「第九位聖騎士団長フィエスタ・グラディエント、そして勇者ヨーイチ・オギノ。次期五英将〈玉麒麟〉の名声の礎になってくれ」
粘つくような声を出し、老人がまた手を上げようとする。
しかし老人は手を上げかけて、不思議な感覚に手を止めた。
背後から呪詛のような声が聞こえてくる。この世の全てを憎むような、そして身も心も任せてしまいたくなるような魅力的な声が。
ムジカル兵の中に混じる魔力使いも、それぞれに『何か』を感じ、同じ方向を向いた。
たとえば美味しそうな匂い。または、洗わず使い古した下着のような悪臭。
たとえばふわふわした感触、もしくは粉薬のような。
森の奥から何かが来る。
それを感じたのは、ヨウイチも同様だった。光が強くなって見える。白のような青のような光が目を突き刺すように瞬き、それから万華鏡のように赤と緑と青と白と、様々な色が混ざっていく。
森の奥の暗闇。
『何か』が、人の背丈を遙かに超え、大人でも腕を回せない太さの木々を揺らして動く。
皆は揃って不思議に思った。そこは鬱蒼と茂っていた林、だったはず。
しかし今は、暗闇の中、その『何か』に従うよう木々が避けて空間を作り、道を作り上げているように見えた。
「あぷ……あぷぁ……」
まだ暗闇の中、光がちらりと当たって桃色に近い肌が白く見えただけ。
しかしその声は何故だか皆の耳にもよく聞こえ、そしてその異様さに皆背筋を凍らせた。
ずんずんと歩み、その『何か』は近づいてくる。
全体的な影は、くびれも関節も見えないほどに太り巨大に膨れあがった人間に似ている。しかし肌は樹皮を剥いだ木のような質感。身体の各所には唇のない口のような穴が至る所に開き、呼吸するように空気を吐き出していた。
人間ならば顔がある場所にも、ただ口と目のような穴が開いているのみ。その奥の暗闇には眼球も見えず、暗闇が広がっていた。
頭部上、左右に二つ角のように茸が生える。それぞれが独立したかのようにうねり、まるでそれが触角で、その先でものを見ているようにも見える。
異様な形態。異様な生物。
およそヨウイチが知っている全ての生物に当てはまらない、おそらく魔物。
二百年以上を生きるフィエスタの記憶にもない。
魔物使いである〈玉麒麟〉も出会ったことはない。
だがこの場にいる中で、一人だけその正体に見当が付いた者がいた。
彼自身、見たことはない。しかし、知っていた。聖典で学んだ千年前の出来事。
その一人、高等治療師の呼吸が引きつっていく。まともに息が出来ない。今まさに聖典の一文を体験した事実に感動などない。ただ恐怖に震えて。
「き、茸牛……」
茸牛。聖典に載る聖獣の一頭。その権能は森の支配。
人の世に疲れた魔王を森の奥深くに隠し、魔王が指させばその街を瞬く間に自然に還したといわれている森の王。
のたっ、のたっ、と重々しい足取りで茸牛が歩く。
「あぷっ……」
茸牛の鳴き声のような一声。それを聞いた一番近くにいたムジカル兵が、自らの手に違和感を覚えた。
手の甲に、ぷくりとした腫れが出来る。疣のようなその赤い粒が何かと確認する間に、赤い粒が暴れるよう、もしくは手の皮の下が暴れるように波打った。
「……ぎ、いぇぇぇぇ!?」
激痛。手から肘、肩から胴体、首から頭、また胴体から下半身へ、痛みと共に動きが広がっていく。
「……あ、がぃ……!!!」
痛みに耐えかね倒れても、その動きは止まらない。ぼこぼことまるで沸騰するように肌が波打ち、それにつられて関節が滅茶苦茶に動く。
悲鳴が止まる頃には、ムジカル兵の身体は、大小様々な茸の子実体に覆われていた。
もはやそれは、死体か茸か判別が付かない異様な物体。
ヨウイチは唾を飲む。
目の前で起きた凄惨な死に。
そして同時に胸が高鳴ったのが、何故だか自分でもわからなかった。




