逃げるが勝ち
「……撤退」
第九位聖騎士団の天幕。そこで聖騎士団長フィエスタから言い渡された言葉を、ヨウイチは口の中で繰り返した。
短い黒髪を後頭部で折り返すように畳んだ少女と思わしき聖騎士団長は、ヨウイチのその言葉に頷いて、横にいる聖騎士を顎で示した。
「先ほどガウス……第十四位聖騎士団の者が伝令に来ました。撤退となります」
第九位聖騎士団長フィエスタ・グラディエント。齢二百五十を間近に控える身ではあるが、その声は確かに幼く、ヨウイチよりもむしろ若く艶がある。
「でも、まだ……」
「まだ?」
じと、とフィエスタがヨウイチを見つめて先を促す。ヨウイチはその言葉の先に何があったのか自分でもよくわからずに口を噤んだ。
まだ戦っていない、というならばそれは間違いだ。自分はたしかに戦った。第八位聖騎士団の戦場に赴き、何人もの敵兵を殺した。ならばそれは戦いで、既に済ませた話だ。
ならば、何を?
ふと悩んだヨウイチを無視し、もう答えは待たずにフィエスタは続ける。
「既にこの拠点にいる団長各位にも伝えています。撤退準備を始めているでしょう。勇者様も、部下の方々に伝え、速やかにここを離れるように」
「でも、どこへ?」
「イラインまで。そこでベルレアン主導の下部隊を再編し、五英将フラム・ビスクローマとイグアル・ローコ、またラルゴ・グリッサンドの侵攻に備えるとのこと」
「……なら、この森の戦いは」
「趨勢は決しました。この森は今やムジカルの支配下にあります」
ヨウイチは、愕然とその言葉を反芻した。
森がムジカルの支配下ということ、つまりエッセン王国はその支配を失ったということ。この戦争が始まってからの最も大きな関心は、このネルグの森を巡っての争いだったはずだ。
そして今趨勢は決し、支配を奪われたということは、つまり。
「負けたってことですか……?」
「負けではありません。撤退です」
同じではないのか、とヨウイチは言いかけて止めた。フィエスタの鋭い目が、一瞬ぎらりと光った気がした。
「繰り返します、負けではありません。この森での戦果は充分なものです。こちらの被害はたしかに大きく、撤退を余儀なくされています。しかしながら、敵の損耗もそれ以上にある。リレイドルやタレーランの奮戦が大きかった」
聖騎士団長二人へと言及したフィエスタがわずかに目を伏せる。まただ、と心のどこかで声が聞こえていた。
「敵の攻勢は確実に弱まる。五英将三人はたしかに脅威ですが、イラインで持ちこたえれば援軍も期待できます。それに、私たち、……そう、そこにはベルレアンがいる。そうでなくとも聖騎士団長が四人もいれば、協力できれば撃退も出来るかもしれない」
もちろん、そうはならないとフィエスタは思っていた。負けるというわけではない。そういう事態からして、起こるとは思えないのだ。
「聖騎士団長四人? ……え?」
そして、ヨウイチはフィエスタの言葉にようやく何か違和感を覚えた。弱まった口調に、それに人数は……。
「六人残っている、って?」
今朝聞いた話では、そのはずだった。
だが、四人? ヨウイチは、内心指折り数えていく。指を折るまでもないごく少数の足し算が、酷く難しいことに思えた。
後方にいるのは、司令官である第二位聖騎士団長クロード・ベルレアンとその補佐の第十四位聖騎士団長ガウス・ライン。ここ、ヨウイチがいる拠点には第九位聖騎士団長フィエスタ・グラディエントと第十一位聖騎士団長。
それで都合四人になる。確実にまだ生きている四人は、ヨウイチは把握している。
しかしフィエスタは四人と言った。
ならば、ヨウイチがその安全を知らない二人、第七位聖騎士団長テレーズ・タレーランと、第八位聖騎士団長オセロット・リレイドルは、つまり。
ヨウイチの反応に、『気づかれた』とフィエスタは思った。失言をしたと思った。
真実を言おうか言うまいか、フィエスタは迷う。だが、それももう遅いと感じ、僅かにため息をつく。
どうせ知られることだ、と開き直りも交えつつ。
フィエスタの言おうとしている言葉を予想し青ざめたヨウイチに、フィエスタは鋭い目を向けた。
「……第八位聖騎士団長オセロット・リレイドルは、同団員とともに本日昼前、消息を絶ちました。同じく昼、第七位聖騎士団はイグアル・ローコの襲撃を受けて壊滅、団長テレーズ・タレーランもその際死亡したと予想されます」
タレーランに関しては、捕虜となったという噂もある、とフィエスタは内心付け加えた。しかしどちらにせよ同じ事だ。無力な民間人ならば生き残る目もあるが、イグアル隊の捕虜になった強者は、移送などの最中に反乱を起こすことを危惧され処分されることが多い。
それに、テレーズ・タレーランは美しかった。ならばあの野蛮なムジカル兵が、放っておくことなど考えられない。
「死亡……」
ヨウイチが、その言葉にグラリと揺れる。
十七名の聖騎士団長。その十七名は、ヨウイチは会ったことのない者の方が多い。けれどもテレーズは違う。
ヨウイチも何度も話した。そもそもテレーズはヨウイチの調練を行っていた人物だ。親しい仲とはいえないまでも、親しみを持つのに充分な長い期間を顔を合わせた人物だった。
それが……。
「はっきり言ってやるよ」
頭の端が痺れるような感覚に襲われたヨウイチに、フィエスタはぼそりと畳みかける。その一言が雑音にしか聞こえず、ヨウイチはなんとか続きを聞こうとフィエスタを見据えて唇を噛みしめる。
「テレーズ・タレーラン、オセロット・リレイドルは死にました。彼らの働きを無駄にしないためにも、私たちは今すぐ撤退します」
「そんなっ!」
衝撃に、ヨウイチは反射的に反論しようとする。彼らの死を、淡々と片付けるフィエスタの姿が不気味に見えた。
「そんな……っ、……それで、なんで撤退、なんですか?」
その不気味な少女の言葉が、どうしても納得出来なかった。納得してはいけないと思った。
「今までの話を聞いていなかったんですか?」
「聞いてました、聞いてましたけど……! だってそのイグアルとか、そいつらを放置して俺たちは逃げるんですか……!?」
「放置ではありません。下がりつつ警戒は続けます」
「だってそれじゃ……っ」
それでは、彼らの。
「……仇が、討てないじゃないっすか」
テレーズの。あの、厳しく自分を叱ってくれた彼女の。
弱々しく視線を逸らし、力なく腕を落とすヨウイチを見て、フィエスタはまた溜息をつく。僅かに苛ついた。話を聞いていなかったのか、と。
そして、それとも察しがついているのか、とも感じなんとなく居心地が悪くなった。
「…………勇者様は、仇討ちがしたいのですか?」
フィエスタは冷たくヨウイチを見る。その答えを口に出そうとして、ヨウイチが言葉を詰まらせたのを見て唇の端を歪めた。
「仇討ち、それが『まだ』だと?」
「…………」
先ほどの話の続きだ、とヨウイチは察する。自分が何かを言いかけたということ。そしてその自分が、その言葉を何も考えずに発してしまったということが咎められているのだ。
もちろん、今の問いには答えられる。答えられるはずなのに、ヨウイチは躊躇した。
「……違います」
先ほどはまだ、テレーズの死は聞いていなかった。ならば仇討ちなど、自分が考えていたはずがない。
けれども、『それだ』と口にしたい気がした。そうだ、自分はそれをするためにここにいて、それが出来ない現状が不満なのだと思いたい気がした。それが願望とわかっていても。
わかっている。この戦場において、自分は役立たずだ。
勇者という治療師に崇められる身にも関わらず、人を癒やす術を持たない。看護や介護など出来ることはない。
勇者という戦士に似た身にも関わらず、『本物』が出てきたら自分は引き下がるしかない。
だからなのだろう。この無力感は。だから。
「じゃあ、何が納得いかないんですか?」
「……わかりません」
それでも、何か出来るはず。そんな願望が消えない。
拳を握りしめ、俯いたヨウイチを見てフィエスタは大きく溜息をつく。
その音にヨウイチは叱られている感触を覚え、ビクリと肩を震わせた。
「…………ガキが」
ぼそりとフィエスタが呟く。先ほどまでの口調からは窺い知れない一言に、ヨウイチはそれが聞き間違いで、それでもフィエスタが何かを言ったのかと思った。
聞き返そうと顔を上げ、フィエスタを見れば、彼女が冷たい顔で自分がこちらを見るのを待っていたのだと感じた。
「私は今の聖騎士団長で一番の古株です。つまりそれはどういうことかわかりますか?」
「……いえ」
実際には多くのことが予想できる。一番の年長者……この十代中盤、幼い少女にも見える彼女が。古強者……第九位聖騎士団長という身ながらも、生き残る術を持っている。死んでいった者を大勢見てきた……だからこんなに冷淡なのだろうか。
様々なことを薄々予想しながらも、ヨウイチはその意図がつかめずにただ否定を返した。
「最も多く、戦争に出ているということです」
「ああ」
「戦争というのはいつもこうです。王陛下が号令をかけ、私たちや騎士団はそれに従い命をかける。命をかけて戦い、そしてみんな死んでいく。タレーランもその一人になった」
「だから、……だからなんとも思わないって……?」
「思いますよ。別れというのはいつだって悲しい」
フィエスタは遠い目をして思い出す。
テレーズやオセロットのことだけではない。今までの戦場で肩を並べ、そして散っていった先輩や同輩、それに後輩たち。
実際には最も多くの戦場に出ているわけではない。けれども、最も多くの仲間を見送ってきたのは彼女だと自負しているとおりだった。
「けれども、無意味なんです。別れを悲しむことも、……この戦争も」
「無意味って」
「この戦争は終わります。おそらく私たちがイラインへ戻ってすぐ。ムジカルから講和の申し込みがあるでしょう。それでムジカル軍が撤退して、第三国を交えた調印をして、ネルグの中の国境をいくらか移動して、それでおしまい」
そして最も多くではないが、数多くの戦場を見てきたというのも本当だ。
特にムジカルの戦は、そうやって終わるというのが経験談で。
「全部無意味なんですよ。戦争というものはそういうものです」
「そんな、……それの、何の意味が……」
「だから無意味だっつってんだろ」
ヨウイチの疑問は、既にフィエスタが百年以上前に経験したものだ。
経験し、そして諦めたものだ。
そして、ヨウイチはまだ、その経験の真っ最中だ。
「だって、人が傷ついているんですよ!? 死んだ人だって大勢いる! それが無意味だなんて!!」
「王陛下やネルグの外で暮らす人間に、死人はいません。傷ついてすらいない」
「だ、だから、俺たちは」
「王陛下やネルグの外で暮らす人間にとっては、私たちの生き死にも書状に載る数字や噂話で聞いて一時楽しむ英雄譚に過ぎません。もちろん王様にとってはそのことに何か意味があるんでしょう。私たちが命を賭けて戦い、そして命を散らすことに意味が」
しかし、自分たちにとっては。
「でも、私たちには無意味な戦争です。これは」
それが、百年以上前にフィエスタが出した結論。
「『まだ』『まだ』と思うかもしれません。特に勇者様はこれが初めての出陣。何か足りないことがある、とも思うでしょう。私もそうでしたからよくわかります」
懐かしい新兵だった頃。二百年以上前に聖騎士団に入団して、憧れだった先輩を目指し精進していた頃。戦場で戦い続ければ、きっと民のためになると思えていた頃。
だが、そんなものはなかった。
「しかしそれは違います。少なくともこの国では、戦争は生き残れば勝ちです。生き残れば仕事は果たされているし、勇者様も立派に仕事をこなされたということでしょう」
少なくとも、王陛下はこれで満足だろう、とフィエスタは思う。
満足していない者が、目の前に一人いることを除けば。
「……じゃあ」
ヨウイチの目に、涙の薄い膜が張る。それが光を反射し、輝いているように見えた。
若者の目の輝き。それこそが、とフィエスタは思いつつ、その言葉の続きを予想しその輝きを消すことに躊躇いを覚えた。
「じゃあ、俺は、なんでこの世界に呼び出されたんですか……!!」
ヨウイチの声に、自分でもわからない怨嗟のようなものが混じる。
この世界に呼び出されて、『助けてくれ』と言われた。それから勇者という身を受け入れ、もう日本には帰れないということも受け入れ、戦うことを決意した。
その決意は、そのための訓練は、そのために自分が、人を殺したのは……。
「私にはわかりません。王陛下の思惑や、貴族たちには関わらない。それが私の選択で、この国で生き残る賢い選択だったのだと思います。だから私はこうして生き残っている」
貴族たちに関われば、甘い汁を吸うことも出来ただろう。
王の思惑を慮り、王の歓心を買うことを考えればもう少し出世できたかもしれない。
だがフィエスタはそれを放棄した。政治に関心を持たず、ただ何も考えずに一心不乱に王の剣であり続けた。だから今ここで生きていられる。この戦場で死んだノージやオセロット、その他今まで死んできた同輩たちとは違い。
「……撤退します。イラインまで落ち延びれば、私たちの生き残りはおそらく確定する」
フィエスタは机から離れ、ヨウイチに歩み寄る。
それから、怒りか、それとも他の何かしらの感情で震えているヨウイチの肩を、ポンと叩いた。
「私たちは生き残る。それをまず喜びましょう」
ヨウイチは無言で、鼻を啜ってそれに応えた。




