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捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
私の物語

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思うがままに

残虐?っぽい?表現注意

 



 クロードが開拓村のあばら屋に姿を見せる少し前。

 今はその主イグアルは、倒れ伏したテレーズ・タレーランの顔をじっと見つめていた。


 テレーズの意識はない。激痛のあまり先ほど気を失ったまま、既に一刻以上。端正な顔を苦痛で歪めたまま、夢の中でも呻き、僅かに声を発していた。


 意識と同じく、倒れ伏した彼女の右腕の先は既にない。だがその肘があったはずの少し上、切断された傷口があった場所は今、木綿糸よりも少しだけ細いしなやかな白い糸で縫われて閉じられていた。

 一寸の内に七つの結び目。もはや出血もなく中が見えるようなこともない。皮膚の外反も内反もなく、ましてや丸まりもない。まるで熟練の仕立屋が絹糸で縫い閉じたような精密な業は、彼女を今観察しているイグアルの手によるものである。


(まだまだいけるなぁ……)


 クク、とイグアルは包帯の下で笑みを浮かべる。

 強い身体だ。しなやかな筋肉が玉の肌の下を練り固めるようにうねるように満たし、それを支える骨もまた硬く頑丈。闘気などを用いずとも、常人とは比べものにならない密度の身体。身長に比し、また女性というどちらかというと男性よりも軽い性別にも比し重いが、それもイグアルには頷けた。

 同時に、よほど酷使してきたのだろうと思う。

 脂肪が最低限しか乗っていない鍛え上げられた肉体。これを丹念な修練で作り上げるとしたら、どれほどの時と努力が必要なのだろう。


 だが、まだ壊すべきではない。まだ。

 イグアルはまるで遠足を楽しみにする子供のように、背中の後ろが熱くなる感覚を覚えた。


 これほどの肉体、まだまだ楽しめる。

 それに先ほど『手術』を行うまでのあの強い視線。まだまだ諦めていなかった。出血と痛みにより意識を朦朧とさせながらも、まだ機会があればこの首を掻き取りに来るだろうその気性。一度だけ舌を噛もうとしたが、それはきっと錯乱によるものだろう。

 そして『手術』の間の様子、反応。他の者とも一種変わらない反応ではあったが、その手応えはやはり鍛え上げられた身体故に、イグアルを大いに楽しませた。


 まだまだ楽しめる。

 これほどの肉体、そして気性。

 殺してしまうには惜しい。




 彼の家は、代々伝わる金瘡医だった。生薬を調合して病んだ身体を癒やす薬師とは違い、刀傷を縫い閉じ、また病であれば身体の悪い部分を切り取る外科的手法を用いる癒やしの業を用いる者たち。

 治療師のいないムジカルでは、薬師と並んで重宝される者たちである。


 彼の両親も、とりわけ父も腕が良いと評判の金瘡医だった。身体の構造に生理反応を熟知し、必要なところだけを切り、また繋ぎ、患者の命や人生を救う。

 ムジカルの外科技術は発達しているとはいえ勇者の世界と比べれば劣るものだが、彼はその中でも群を抜いて優秀だった。ムジカルでも数少ない、腱の再建までも行える手技は名人芸。彼の父に救われた人間の数は四桁では足りない。


 幼少期の、まだ肌を晒して生活できていたイグアルも、その評判を聞いて育った。

 両親は立派で、優秀な金瘡医だ。その二人の息子である彼もきっとそうなるのだろう。周囲はそう思っていた。

 彼はその声を聞くたびに、『ああ、そうか』と何故だか納得する思いだった。

 イグアルの腕や身体に巻かれた包帯が何のためのものか、周囲が知らないということを知らず。



 『生きることは知ることだ』。それはイグアルの父の口癖だった。

 イグアルが知りたいと願えば、父は何でも教えてくれた。何故花は咲くのか、何故砂は食べられないのか、何故朝と夜があるのか、国や世界の仕組みとはどういうものか。知識人としても知られていた繋がりを生かし取り寄せた論文などを用いて、最新の説や歴史の話なども交えながら。


 その上で、知りたいと願わずとも教えてくれた。

 特に、医業に関してはとても熱心に、とても親切に教えてくれた。

 他ならぬ、息子であるイグアルの身体を使って。



 医術、もしくは医学が発達したムジカルでも、専門職であるため体系だった『医術』は少ない。

 呼称としては『医術』であるが、その実情は『医能』がより正しい。技術ではなく技能。ムジカルでは医術は学ぶものではなく、身につけるものだ。


 そして専門職ではあるが、誰でも名乗ればそうなれるし、請うた者に対して外科手術を行うことはムジカルでは罪にはならない。

 玉石混淆。素人同然の金瘡医すら大勢いる。もちろんそのような者たちは、すぐに誰からも請われなくなりその業を行うことは出来なくなるが。

 そんな中、イグアルの両親は名人と呼ばれる腕前を身につけた。それは数多くの患者を治してきたから、ということももちろんある。経験とは重要で、特に職人技とも呼べる外科手術は件数が多ければ多いほどよい。


 しかし理由はもう一つ。

 それが息子であるイグアルだった。幼く無垢で、両親のことを信頼し、言い含めれば『協力』を惜しまないという実験体。


 経験とは重要で、特に職人技とも呼べる外科手術は件数が多ければ多いほどよい。




(僕やっぱり上手だよなぁ)


 イグアルはしみじみとテレーズの腕の傷跡を眺める。精密な縫合痕は綺麗に並び、まるで芸術品のような仕上がりだ。

 内部の主要な血管も動静脈を綺麗に繋いであり、血流も再開している。毛細血管も含め細かい血管はさすがに繋いでいないが、虚血になっている様子はない。このまま休養をとり養生すれば何事もなく傷口は塞がるだろう。

 皮膚の縫合に使う糸も結ぶ方法もそれを行う者によって異なるが、イグアルは今テレーズに施したものが最適だとも思っていた。何せ、その効果は自分で実証済みなのだから。


(それに、……ハハハハ)


 そして無言で唇が綻ぶ。

 楽しかった。テレーズの治療は。


 皮膚の表面に作られた刀傷の縫合は、程度にもよるが単純なものだ。筋肉を、皮膚を掻き寄せるようにぴたりとくっつけ治癒を待つ。それが出来れば人間の身体というのは思いの外たやすくそれを癒合させる。化膿止めや保湿の軟膏などを塗り、包帯などで保護できればなおよい。


 しかし切断などであればそうはいかない。

 通常、縫合の目的は切断面を外部から遮断し、治癒を促し痛みや浸出液を少なくすることであるが、そのための皮膚が足りなくなる。くっつけるための皮膚の長さが足りないのだ。


 そのためには、行わなければならないことが一つある。

 切断面を丸めるため。切断面を折り曲げ密着させるために必要なこと。


 骨を、切るのだ。


(あー、本当、楽しかった)


 骨に神経はない。正確にいえば、骨に痛覚は存在しない。

 だがそれはそれは楽しかった。テレーズの『手術』は。


 イグアルは当然、鎮痛剤などを用いることはない。


 上腕骨を鋸で切り落とす感覚が手に残る。

 上腕骨のほんの一部であるが、密度の高い骨。苦痛に歪むテレーズの表情。全身から汗を噴き出させ、美しい髪を振り乱し、そしてそれでもまだ敵意を自分に向けていたあの気性。


 まだまだ楽しめる。

 これほどの肉体、そして気性。更にはまだまだ他にも耐え切るであろう生命力。

 死なせるわけにはいかない。死にたいとも願わないだろう、彼女は。


 殺してくれ、と言わせたい。できれば自分の手で。

 それまでまだまだ死なせるわけにはいかない。


 新しい玩具を手に入れた子供。

 今のイグアルはまさにそれで、これからの計画を練り、テレーズを見下ろす目は爛々と輝いていた。



 ちょうど、その『お楽しみ』の部屋に、大柄な何者かが侵入してくるまでは。





 意識なく転がされているテレーズ。それを見下ろして立っている男、イグアル。

 その両者を見て、クロードはあまりの怒りに逆に冷静になれた気がした。


 二人がいて、そして今クロードが踏み込んだ納屋とも呼ぶべき場所。

 地面は屋内であるが土で、湿り踏み固められている。狭い倉庫のような部屋。そこは本来冬に向けて壺に詰めた保存食を貯蔵するための部屋だったが、保存食は既に全てムジカル軍に配布されてしまっていた。

 塩のような何かと、葉野菜が発酵したような臭いが僅かに漂うがらんとした空間。


 床に転がるテレーズを見て、クロードは間に合ったとは思わない。許されざることだ。

「…………」

 両者が一瞬無言になる。


 舌打ちをしてイグアルが背中の剣に手をかける。腰の少し上に交差させて曲刀を佩くのは、円武の伝統的な形だ。

 その刀をぶらりと下げ、一歩踏み出そうとする。睨む先は当然名も知らぬクロード。この痴れ者を追い出さなければ。もしくは殺さなければ。

 もしくは。


 そこでイグアルは初めて気が付いた。

 目の前の大柄な男。銀色の鎧を身につけたおそらく騎士だろう男。

 その絞り込まれた肉体に。虎のようにしなやかで、竜のような力強さを持つ身体に。


「……誰です?」


 今の今まで苛立ちに歪んでいた顔をニヤリと笑みに塗り替え、イグアルは立ち止まる。

 獲物だ、と思った。そもそもここはイグアル含むムジカル軍が襲撃、駐屯する開拓村の拠点。相手は、その内部に位置するこのイグアルのお楽しみの場まで踏み込んでこられるほどの強者だ。

 背筋を伸ばすその姿には、傭兵という印象はない。ならばさぞ名がある騎士なのだろう。少なくとも、直属兵や正規兵を何人も打ち倒し進んできているはずだ。その白銀の鎧についている血痕や、腕や足に負っているいくらかの深手に近い傷を見れば。


 目の前の男を見て、得がたい獲物だ、と思った。

 テレーズ・タレーランすらもまたとない獲物だったが、この目の前の男も。今日はなんて良い日なのだろうか。



 クロードは答えずに一歩踏み出す。構えずに携えた魔槍は大柄なクロードの身長程度の長さであるが、まだイグアルはその間合いに入っていない。

 値踏みするような視線に晒されながらも、一歩、また一歩とゆっくりとイグアルに近づいていく。


 イグアルを見て、嫌な顔だ、と思った。

 まるでこちらを脅威としては感じていない。ただ玩具が現れたというだけの危機感のない顔。包帯の下の顔はきっと醜く歪み、それは作りに関係もないものだろう、と。



 また一歩近づくクロードに、イグアルがはたと気が付く。

 どこかで見たことがある。実物ではない。ムジカル軍が戦闘を行う際に、必ず一度は目を通す人相書き。敵軍の重要人物、そしてその中の、最重要人物。

 イグアルが意外さに目を見開く。


 まさか。


「第二位聖騎士団長、クロー……っ!」



 言いかけたイグアルの言葉が止まる。

 同時に、残像を残しイグアルが一歩下がる。今の今までイグアルの首があった場所には同時に銀色の線が走り、遅れて聞こえた風切り音と、首の下から感じる生温かさに、『斬られた』と気づいたのは更に次の瞬間だった。


 胸骨の上を真一文字に走る傷。押さえた指の包帯が赤黒く染まり、それが動脈まで達していないことを確認する。

「…………」

 しかし眉一つ動かさず、イグアルは懐から一つの薄い箱を取り出す。中に仕込まれている軟膏を、包帯をかき分けぬるりと傷口に塗り込んだ。その血止めと抗瘴気(消毒)の軟膏は動脈さえ切れていなければ止血を保証する。

 それから箱の中に入っていたのは、束ねた糸と細く曲がった針。


「痛いです。お話もできませんか」


 軽口を叩きつつ、瞬く間にイグアルが自身の傷を縫合する。

 今まさに凶器を携えている暴漢が目の前にいようともその手は狂わない。傷口に対し斜めに縫合してしまえば皮膚は引き攣れ、後々の運動障害の一因にもなり得るものである。それを避けるということは、基本中の基本だ。



 そしてイグアルの言葉に、『するわけがない』と態度で答え、クロードは無言で槍を振り下ろす。救急箱を投げ捨て、その槍もまた下がって躱したイグアルだった。しかし。


「ん?」


 とん、と背中に何かが触れた。触れたのは単なる部屋の壁だったが、更に突きに転じたクロードの槍を、もう下がって躱すことは出来ない、と思うには充分なものだった。


 だがそれも常人になら、である。


 イグアルがまた一歩下がる。しかし今度は壁を無視し、くるりと回りながら。

 円武の斬撃の間合いに前後の区別はなく、また遠近もない。


 壁を切り開きながらイグアルが下がる。それを追ってくるようなクロードの突きを、隣の部屋にまで逃げながらイグアルは横合いから払って受け止めた。



「……テレーズの右腕はどうした」

「右腕? ……、ああ」

 震えるような声を発し、クロードはイグアルに問う。どういう答えであっても気に入らず、どういう答えであっても更に怒りが増すであろう質問だ、と自身でも理解しながら。

 ギリギリと合わせた刃が鳴る。片手と片手、刀と槍という武器の差もあったが、イグアルに突きつけられた刃は拮抗しつつゆらゆらと動いていた。

「腕の先なら……どうしたんですかね? その辺にほっぽらかしてきたので、今頃犬にでも食われてるんじゃないですか」

「そうか」


 イグアルは、切り離された方の肉体に興味はない。魔剣はおそらく誰かが回収しただろうが、多分、と曖昧な記憶を辿る。

 そしてやはり、無関心なその態度に、クロードの苛立ちが増した。


「あの、この世で最も美しい手を、かっ!!」


 イグアルの剣の切断は諦め、クロードは槍を更に振る。重心を動かし弾き飛ばすような豪快な槍は、イグアルの身体を突き飛ばし、受け身も壁の解体も間に合わせずに壁へと叩きつけた。


「ぉぐっ……!」


 木の壁が背中で散る。穴の中に尻から引きずり込まれるように、尻餅をついたように倒れたイグアルは、内心それでも剣から手を離さなかった自分を褒め称えた。

 ゲホゲホと咳が出る。今回の衝撃程度で傷を負ったというようなことはないが、それでもテレーズの与えていたいくつかの傷が体内で開いて熱感を覚えさせた。


「いやまあ、案外気にしてもないかもな? あいつは自分の硬い掌を気にしてたからな」

 作り笑顔を浮かべつつ、クロードはイグアルに歩み寄る。

 だがその隙を逃すイグアルではない。


 身体を捻る動きで地面を跳ね、クロードに奇襲をかける。跳ねた動きはそのまま空中で自分の身体を回転させる動きと変わり、更に刀を振りかぶる動作へと変化する。


 そこから始まるのは回転による連続攻撃。刀と足と拳による鉄槌と。

 踏ん張りもなく、更に咄嗟の行動に近い攻撃。本来充分な攻撃能力を持たないはずの攻撃だったが、それでもイグアルは達人の域にある。


 刀は槍で払い、蹴りと鉄槌は肘や膝で迎え撃ったクロード。

 しかしその手足は鈍い痛みと痺れに襲われ、怒りに痛覚が半ば麻痺しているはずのクロードの顔を歪めた。



 頬を掠めた足を払いのけるようにいなす。その力で更に回転の勢いを増したイグアルの蹴りを避けそこなり、クロードの頭部にまともに蹴りが当たる。

「っ!」

 イグアルの鬼の頭蓋を砕ける蹴り。それが叩きつけられ、咄嗟に挟んだ腕が軋み、クロードの視界が揺れた。


 円武では、一発で終わる攻撃はほとんどない。

 攻撃が当たれば続けるべきであるし、終わるのは相手が防ぐか戦闘不能になるかの二択である。

 イグアルはクロードに当てた攻撃を足場とし、さらに空中に舞い上がって攻撃を続ける。蹴り、鉄槌、そして刀。連撃とも呼ぶが、彼にとってはそれは一連の、まとめてただ一つの攻撃である。

 蹴りが当たった位置へ、続けざまに入るのは曲刀の一撃。


 槍の間合いは無手や刀よりも広く、そして狭くない。至近距離からのイグアルの攻撃は槍で防ぐことも敵わず、クロードの腕に骨まで達する一撃を与えた。


(高度な重心移動……! 空間把握能力……っ!!)

 防ぎきれず、躱しきれなかったクロードの内心に、ふと武術家としての感嘆が浮かぶ。憎い相手であっても褒め称えてしまうのはもはや性である。

 だが、それ以外は、ない。


 着地し、イグアルが隣の部屋まで待避する。そこはその家屋の居間のような部屋で、大きな机が置いてあった。既に誰かが遊び半分に壊していたが。

 更に距離をとるべくクロードを見据えて跳ねる。


 そして距離をとるのは、熟練の槍使いに対しては悪手である。


 追うように躍りかかったクロードの槍がイグアルを襲う。

 槍の間合いは無手や刀よりも狭くなく、そして広い。至近距離ならば拳足で……特に膝や肘で応戦することの多いクロードも、距離があれば存分にその槍を使う事が出来る。

 天下無双。エッセン王国で最高と謳われた槍の腕を。


 着地の瞬間を狙ったクロードの槍。神速の一撃がイグアルに届く。一度は刀で押さえようとしたイグアルだったが、その豪槍の気配に無理を悟り、身を翻しつつ屈めて避ける。


 頭部を擦るようにして去っていった槍。しかしそれとほぼ同時に爆発するような衝撃波が広がり、穂先の周囲を破壊していく。イグアルもまた、上から凄まじい力で押し潰されたようによろめいた。

 魔法でも魔術でも魔槍の力でもない。

 単なる槍の扱い。込められた膂力と速度の力である。


 そしてそれは、魔法でも魔術でも魔槍の力でもない。単なる槍の才能と鍛錬の末の力。

 故に。


(うわああああ!?)


 舞いの流派とも形容される水天流の美しい動きから、嵐のように槍撃が繰り返される。

 振り切られる度に響く轟音が重なり、滝の落ちるような音が周囲に響き渡る。

 それをかろうじて避けるイグアル。だが、払う刀も腕も、足も、直撃を避けつつも全てに少しずつ罅が入っていった。



 槍を振るいつつクロードは、身体が軽い、と感じていた。

 そういった機能もない魔槍の重みを感じない。少し前まで肩に、足に、背中にかかっていた重みが今はまるで感じない。

 それはきっと聖騎士の外套を脱いだからというわけではなく、そして聖騎士の外套を脱いだから、ということだろう。


(……楽しいな)


 ふと、クロードはそう内心呟いた。

 いつぶりだろうか。心のままに槍を振るうのは。誰からの命令でもなく、ただ自分のために槍を振るうのは。

 少し前にカラスを相手に槍を振るった。きっと不完全ながらもそれが最後で、きっとそれすらも十数年かに一度のことだったのだろう。



 楽しい。そう自覚したクロードの所作が、更に鋭さと美しさを増していく。

 余人がここにいれば、これは何かの芸だとも思ったかもしれない。

 舞うような動き。大げさに拍子を取りながらも、相手の拍子を外して捌く。イグアルからの反撃すらも踊りの演目の一部であり、単なる合いの手にしか見えない。


「がっ……!!」


 クロードの石突きがイグアルの顎を捉える。折れはしなかったものの、顎関節を痛めたその一撃は衝撃波を伝えてイグアルの脳を揺らした。



 水天流は、千年の昔、武道家ジャン・ラザフォードにより創始された槍の流派である。

 当時ジャンが考案したのは三つの基本的な動作。相手の攻撃が当たらないように常に立ち位置を変え続ける《風林の型》に、相手をその武器や防具ごと叩き切る《大火の型》、そして無駄な動きを極限まで減らし相手の攻撃に対応する《六花の型》。

 その三つの柱は水天流の基本として今でも連綿と受け継がれている。その所作の美しさとともに。


 エッセン国イラインには、〈無難〉とあだ名される男がいる。水天流を修めながらも、基本的な、基礎的な動作を極限まで高めている者。基礎的な動作しかしないため、派手さはなく、侮蔑を込めて作られた通り名だとも。それ故に、一部の者からは不相応な低い評価を受けているとも。

 クロードも彼は知っている。師弟である〈爆水泡〉カソク、もしくは〈天津風〉シウムの弟子。〈無難〉のキーチ・シミング。

 しかし、不相応な低い評価というのは、クロードは承服できない。クロードに言わせればそうではない。


 水天流の三つの型は、たしかにどれもが基本で、たしかにどれもが大事なものだ。

 そして、ただの基本なのだ。水天流だけではない。他の流派でも、必ず学ぶ基本の動きなのだ。

 間合いや立ち位置を考え、力を集約した強力な攻撃を放ち、相手をきちんと見て自分の動きの無駄をなくす。どれも武術の基本であり、創始者ジャンが開眼したとされる三つの型は、それをただ難しく言っているだけに過ぎない。


 水天流の真髄は、『綺麗に格好良く』といわれる。洗練された動きは美しく、そして結果強くなれる、ということである。

 故に学習者はそれを目指し、水天流を使う者は皆美しい動きを目指す。


 そしてクロードたち、水天流の本家と高弟に伝えられるものがもう一つある。

 それは、水天流の真骨頂。『思うがままに』。



 イグアルのお株を奪うように、イグアルの切り下ろしに合わせてクロードがくるりと身を翻して避ける。残った長い後ろ髪が尾を引いて、飾りのように靡いた。



 水天流で学ぶのは三つの基本。そして三つの基本、その初歩に当たる基礎は地味なものだ。決して派手ではなく、人の目を引くこともない。

 けれどもそれでいいのだ。


 機能美、という言葉がある。

 人を斬るという機能一点を極めた刀が美しいように、人を座らせるという機能一点を極めた椅子が美しいように、無駄を削ぎ落とし洗練することで生まれる美。


 水天流の美しさは、求めるものではなく、自然と生まれるもの。

 三つの型、基本を学び、極め、そしてそれを『思うがままに』使うだけで生まれる美。


 エッセン国イラインには、〈無難〉とあだ名される男がいる。彼は、不相応な低い評価を受けていると。

 確かに、仕事の上では分相応だろう。任務を成功させ、仕事をこなす彼の姿を侮蔑するのは間違っている、とクロードは思う。

 才能もある。一度シウムの紹介で会ったことがあるが、少なくとも自分の弟子たちと比べても屈指の才能があるとも感じた。シウムとカソクの指導で更に伸びるとも。

 けれどその上で、クロードは思う。


 クロードに言わせれば、彼の動きに美しさがないのは基本に忠実だからではない。

 ただその基本の練度が、まだ低いだけなのだろう、と。



「あーもう!!」


 脛を浅く切り裂かれ、イグアルは苛立ち叫ぶ。急所は避けている、しかし増えていく傷に怪我。命に関わらずとも限度があり、出血も問題だ。

 テレーズとの戦闘の後に巻き直した包帯は既に血みどろで、赤黒くない場所の方が少ない。更に切り裂かれたせいでひらひらと断端が舞い、傷跡のみで作られた肌が露出していた。


「うざいな!」

「それは性分だ」


 長引かせるとまずい。そう感じ始めたイグアルが、少しだけ速度を上げる。舞いの流派と呼ばれる水天流と同じく、舞踊の流派とも呼ばれる円武の歩法を、更に。

 一撃の回転速度が上がり、イグアルの双刀が描く曲線が更に多く速くなる。そしてイグアルが背後の壁に駆け上がるように足をかけた。

 クロードは追うため一歩踏み出す。壁を蹴り、反対方向へ跳ぼうというのだろうという目測。しかし。


 改めて大きな金属音が鳴る。予想外の方向から向けられたイグアルの攻撃に、間に合わずクロードの肩に大きな傷が走った。

(……壁を、足場に?)


 そして気づく。イグアルが立っているのは、壁。物理法則など無視しているように、まるで重力の方向が変わっているかのように。



 ムジカルの砂漠で発達した武術である円武。その動作のほとんどが、円を旨とし振るわれる。身体を翻しながらの刀術に打撃、それは戦争の多いムジカル故に、集団戦に主眼を据えて発達したからともされている。

 そして更に円武には、端から見てもわからない一つの特徴があった。

 地面の不安定な砂漠地方で発達した武術故、地面を踏みしめる動作がないのだ。


 前後左右の移動に際してすらほぼ必ず身を翻す動作を加えるのは、自重が大地にかかり足を取られることを防ぐため。遠心力と体幹の力で下向きの重みを完全に殺し横向きへと変換、その重み全てを攻撃に加える。それ故、足場に左右されず、また空中でも凄まじい威力の攻撃が放てる。


 熟練した者ほど地面にかかる力は少なくなり、そしてその結果、極めた者はある境地に至る。



 イグアルが、壁に立ったままクロードに切りつける。それを避けられると、更には、天井へと駆け上がる。

(……すっげぇ。さすがに、これは初体験)

 内心クロードは呟き、未体験の角度から振るわれる刀を槍で弾いた。


 円武を極めた者。彼らには、足場という概念もない。足場を地面を踏みしめるという動作もなく、更には回転により自分へとかかる重力までも完全に制御し、壁や天井などを中心として動くことが出来る。


 まさしく縦横無尽。クロードの腕に、二つ目の大きな切り傷が走った。



 しかし、その意表を突いた動きも。



「がぐっ……!?」


 天井から刀を振るうイグアルの側腹部をクロードの槍が捉える。肋骨が割れ、更にクロードが傷口を広げるように槍を振ったことで完全に肝臓が断裂した。

 噴き出す血、それに止められた動きでイグアルが地に落ちる。空中で身を翻し受け身をとったが、その腹からは溢れる血と、鮮紅色の肉の塊が僅かにはみ出していた。


「軸をぶれさせず回転するのが基本なのだろうが、軸が動いていなさすぎる。それでは体幹部への攻撃を凌ぎきれんぞ」

(……貴方の槍が異常なんですよ)

 舌打ちをしつつ、イグアルは肝臓を押し込んで腹筋を固める。血が溢れ、内臓までも飛び出しかけているが手当をする余裕はないと判断して。

 それからまた動き出す。今度はまだ地面に乗ったまま、滑るように。剣が振るわれる、瞬くだけの間に、十六。その速度は、今まで殺した聖騎士団長にも通じるもの。

 だがその攻撃も、クロードは槍で容易く弾いた。


 弾かれた手を追って、クロードが石突きで手から刀を叩き落とす。

「右手を庇っているな。指が折れている、のだろう? 少しは隠す努力をしろ」

「…………」


 表情を変えずに、イグアルが蹴りをいれるべく重心を変える。

 だが、それも。


「大きな動きは相手に合わせて行え。単発で出すな」


 即座に振るわれた槍に中断させられ、そして槍はイグアルの顔を切り裂く。避けつつも左目を通り顔一面に上下に入った傷に、イグアルの視界の左半分が真っ白に変わった。


 そして左から、頭部に大きな衝撃が走る。まるで何をされたのかわからなかったイグアルは、吹き飛び、壁に叩きつけられてから初めて自分が蹴り飛ばされたのだと知った。

 右半分の景色がどろどろと歪む。立っていられず、そして今自分がどのような角度でいるのかわからずに手を突いて転がった。


「悪いが、意表を突くだけの攻撃は俺には通じん。門下生の指導で慣れてる」

 相手がこちらを攻略するため、意表をついた最高の動きをする。指導者はその弱点を見極め、突き、修正させる。

 指導とはそういうものだ。


 どろどろの景色の先、クロードがいるであろう不可思議な模様から声が聞こえた。

 なるほど、そうなのか、とどこか腑に落ちる感覚を覚えながら、それでもとイグアルは気を取り直す。


 逃げなければ。さすがに勝てない、このままでは、目の前の恐ろしい聖騎士団長には。

 ならば、一度体勢を整え直すしかない。今ならば、自分は槍の間合いに外にいる。ならば、走って逃げて、……そうだ、相手は一人だ。逃げて、部下たちに任せれば捕縛出来るかもしれない。


 内臓がこぼれ落ちそうな傷口を押さえて、地面を掻き毟るように立ち上がる。

 視界はだいぶ戻ったが、ゆらゆらと揺れる自分の身体に、地面までも揺れている気がした。


 床に落ちている刀を拾い上げてクロードに向ければ、それでも警戒はしてくれているらしい。喘ぐ息に合わせて揺れる刀の先が、自分でも制御不能なのが少しだけ可笑しかった。


 クロードが、ゆっくりと歩き出す。

「お前がテレーズにしたこと、……何をしたかも知りたくはないが、見えるものだけでも許せない。テレーズは、……俺の……」

 呟きの最後は言葉にならず消えていく。幼馴染み、目標、憧れ、……そのどれもが正しくて、どれもが間違っている気がする。


 そしてイグアルには興味がない。彼の今の興味はただ一点、どうすれば生き残れるか、だ。

 顔の左側に、何か粘性のあるものが伝わっていく感触がある。左眼窩に指を突き入れ、抉り出すように捨てれば、その原因がびちゃりと床で音を立てた。


 それからふうと鼻から息を吐き、もはや全身に走る痛みを僅かに紛らわしてクロードへ告げる。

「知りませんが」

「そうか。お前はそういう奴なんだな」


 クロードが槍に力を込めて一歩踏み出す。

 それに合わせるよう、イグアルも刀を持つ左手に力を込める。


 だがイグアルが刀を振るう先は、クロードではない。


 瞬く間に壁が切り裂かれ、蹴り飛ばせば大きな穴が開く。その穴から廊下に出れば、廊下の先からはすぐに外に出る道があった。



「誰かあぁぁぁ!! 来てくれえええ!!!」


 廊下へと身を翻し、走りながらイグアルが叫ぶ。直属兵や正規兵、味方を呼ぶために。

 誰かが来ればまだ助かる。直属兵が二人もいれば並の聖騎士団長程度なら倒せるだろうという目算がイグアルにはある。さらにテレーズ・タレーランやクロード・ベルレアンはもう少し人数が必要だろうが、それでもこの拠点には、百名を超える自分の直属兵の大半がまだ残っているはずだ。

 口から血を吐き出しながら、イグアルが走る。


 廊下には血の足跡がある。クロードがここへ来るときについたもの。イグアルはそれを辿った。

 だがそこで初めてイグアルは、おかしい、と気が付いた。

 クロードは一人で潜入してきている。それはそうだろう、そうでなければ自分の前にそれ以外の者が現れないのはおかしい。

 クロードは誰かと、おそらくこの拠点の兵と交戦をした後に自分と遭遇したのだろう。自分と遭遇したときにはクロードは既に手傷を負っており、更に明らかにクロードではない誰かの血がついた鎧からもそれは明らかだ。


 だが、ならば。


 潜入だ。すぐに騒ぎにならないのは頷ける。

 乱入だ。拠点の誰かと交戦したのも頷ける。


 だが、ならば何故?


 何故自分と戦っている最中に、騒ぎは起こらなかったのだろうか?



 イグアルは、嫌な予感がした。

 血の臭いが漂う。けれどもそれが、建物の中よりもむしろ外から漂っている気がした。


 飛び出すように扉を蹴破り外へ出る。瞬間、青臭いネルグ特有の臭気が温い風に混じって鼻につく。

 しかし、目に飛び込んできたのはネルグの緑ではなく、むしろ、赤。



「……これ……」


 へたり込むようにして膝を突き、イグアルは目を見開いた。

 目の前にあるのは凄惨な光景。死体が数十と転がり、そこから怨嗟のように血と臓物の臭いを漂わせている。

 もちろんイグアルは、凄惨な光景などでは驚かない。たとえ死体の前であっても平然と食事をとることも出来るし、出来ない感覚を理解も出来ない。


 しかしそれでも目の前の光景は衝撃だった。

 明らかに、目の前で死んでいるのは、部下と友軍の者たち。


 これはまさか、クロードが、一人で……。



 どす、どす、と背後から足音が迫る。


「言ってなかったな。お前の部下は既に全滅させた。助けは来ない」


 イグアルは振り向けず、そして自分の心に湧いた『何か』が不思議だった。

 寒気がした気がする。カタカタと指先が震えた。振り返ることが出来ない。まるでいつもは誰かを固定するための万力が、自分の頭にかけられたように。


 何かが日の光を反射して、イグアルの見つめた地面を白い光が走る。


「聖騎士ならば、お前の首を落として名誉の死でもくれてやるべきだと思うが、悪いな。俺は今、聖騎士じゃないんだ」


「…………」

 振り返れない。身体全てが凍り付いたように。


 ざく、と脊柱を割られる感触がして、イグアルは目を剥く。

 それから飛び出した刃は、心臓を貫き、胸骨までも割っている、と分析まで行う。なるほど、これは助からない傷だ、と父親の声が聞こえた気がする。


 胸から広がっていく快楽。じわじわと冷たさを伴って。


「……へ、へへ……」


 最後に何かを言おうとした。けれども口から出た音は広がっていく甘い愉悦に染まり言葉にならない。


 父さん、母さん、貴方がたもこんな気持ちだったのでしょうか。


(……楽しかったなぁ……)


 イグアルは自分が昔突き立てた刃の感触を鮮明に思い出しながら、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。





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― 新着の感想 ―
[一言] この世界の武術系と二つ名、あれっすね。ジャンプ味感じます。 テニプリみたいな。 はじめスポーツ漫画読んでるつもりだったのにファンタジーバトル漫画だったみたいな。 ダーク系なろう転生小説読んで…
[一言] テレーズの手をカラスに治してもらってプロポーズですね。 決め台詞は 「お前のぷにぷにの手を俺と一緒にカチカチにしないか?」 これですね
[良い点] 読者的には手の再生が頭をよぎるけど、 クロードの言う『美しい手』はもう戻らないと分かって切なくなる。 クロード特有の強みは門下生からのいろんな搦手を初見で対応してきた対応力なんかな
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