血と歓喜の歌
タイトルからわかるとおりちょっとだけ残虐表現があります。
獣が地を這うように、茂みをガサガサと掻き分けて進む影がある。
その速さは獣を超え、空を飛ぶ鳥の域である。しかし鳥に非ず、その影は羽毛の代わりに悍ましい襤褸切れの包帯を纏う。
枯れ葉のような種の葉の積もる地面を踏みしめて進む。
どんなに拭おうとも染みついた血の臭いが足跡に満ち、そこを通ろうとした狼たちは禍々しさに足を止めた。
微かに歌う鼻歌は歓喜の漂う。
誰にも聞こえず、ただ自分のみに聞かせるための。
誰が愉しむかなど決まったことだ。
男は決めていた。歓喜に歪む笑みは自分のもの。ただただ、慈悲として皆に分け与えてやっているだけのもの。
包帯を僅かに隠す紫色の薄い上着が枝に掛かるが男は気にしない。
ここ戦場では進む道を遮るものはない。
戦場で重要なのは相手がどうするかではない。自分がどう見えるかではない。自分がどう動き、自分がどう楽しめるか、だ。
祖国ムジカルの街では行えぬ愉しみを求めて、男はここに来た。
法と倫理に守られぬ戦場という場所は、彼が自分らしく生きられる唯一の場所。
ガサガサと茂みを掻き分けイグアルは進む。
引っ掛かる枝に包帯を解れさせながら、腐葉土の積もる山を蹴飛ばしながら。
「て」
茂みを飛び出したイグアルと遭遇した二人の不幸な騎士は、異変に気がつくもその影を見る間もなく命を散らす。
斜めに切り裂かれた体はずるりと落ちて森の地面に血溜まりを作る。彼らを裂いた曲刀には一滴の血が残ったが、イグアルはそれを振り払うまでもなく鞘に収めた。
目当てはこんな柔い騎士ではない。触れれば壊れてしまう肉ではない。
もっと上等で、もっと頑丈で、もっともっと引き締まった肉を。
切ろうと叩こうと千切ろうと飽きない肉を。
背後で濃厚な血の臭いを放ち始めた死体に目もくれず、イグアルは走るのを止めない。
目当てはすぐそこにある。彼の狙いはすぐそこに。
ざわざわと周囲に人の気配が増えていく。開けた場所に陣を立てている相手は、その上で森に警戒の人員を割いているらしい。
だが無用で邪魔なものだとイグアルは思う。
有象無象などどうでもいいのだ。弱い者など興味はない。狙うは聖騎士。それも、上等な。
低い体勢から、茂みを越えてイグアルは跳ぶ。
ここはエッセン第七位聖騎士団の陣。こじ開けられたネルグの森は、もはやイグアルの姿を隠す用をなさない。
青臭い森の臭いを胸一杯に吸い込みながら、目の前を見下ろしイグアルは空中で剣を抜き放つ。
血はすでに鞘に拭い取られ、今はもう曇り一つない白刃を掲げ。
イグアルが見つめる先には白い外套、聖騎士団。そしてその中、一際目立つ白色と緑色と金色の間の髪。
テレーズ・タレーラン。僕はおまえを殺しに来たのだ。
楽しませてくれ。どうか、どうか。
着地し、一歩踏み込みイグアルは剣を振るう。
その剣をわずかに抜いた細剣で受け止めたテレーズに、イグアルは歯を剥いて笑った。
一瞬のことだった。
茂みから飛び出してきた男。体中に巻かれた包帯を、紫色の袖の短い胴着がわずかに隠す。およそ騎士にも見受けられず、当然聖騎士ではあり得ない。
腰のあたり、背中に横に差した剣を抜き放ち、鋭い剣閃を走らせる。
油断していたわけではない。一目見れば味方ではないと理解できたし、その殺気も尋常ではない。
戸惑っていたわけでもない。明らかな殺気に抜かれた剣は、自分を傷つけるためのものだと理解していた。
「にぃ!!」
それでも、体をひねりわずかに鞘から抜いただけの細剣をかろうじて合わせるのが精一杯だったことに、テレーズの背筋に冷たいものが走った。
ギン、と鋭い音と火花が散る。
イグアルは初撃を防がれたことに笑みを浮かべ、包帯の下で唇を歪めた。
だが、もちろんそれでは終わらない。円武の真骨頂は円の動きにより間断なく繰り出される連撃。一撃が止められたからといってそれでは終わらない。
鼻歌を歌うように拍子を取りながら、時計回りから反時計回りに切り替える。体ごと切り返すその動きは隙だらけにも思えるが、熟練した円武使いによってそうではないものに変わる。
ほんの一瞬剣が離れた間を縫い、テレーズもようやく剣を抜く。鍔には翼の意匠があしらわれ、護拳まで金色の見事なもの。闘気で満たしたその魔剣は、一切の重さなくテレーズの手の先で舞うようにイグアルを捉える。
返した二撃目のイグアルの剣を押さえつつ、剣先はイグアルを捉えたまま。滑らせるようにそのまま鋭い突きを放つが、イグアルはその分後ろに跳んで躱した。
躱し、地面を滑りながら着地したイグアルは、しゃがんだまま胸を軽く押さえて驚くように目を開く。
その胸にある包帯に広がるまでもいかないほんのわずかな赤い染み。一部切断された包帯が、その断端をひらひらと見せる。
「やっぱり第十六位とは違うなぁ……、第十九位だっけ?」
「聖騎士団は十七位までしかないな」
おそらく第十五位、〈戦大将〉ノージのことを言っているのだろう、とテレーズは思ったが、訂正も笑い飛ばすことも出来ない。ただ強がりのように思いつくままに言葉を返した。
「第六位はちょっと面白かったよ。好きなだけ切らせてくれた。両手に持ったでっかい剣を、ぶんぶん振り回して僕を威嚇してきた奴」
「……お前はイグアル・ローコだな」
「結局そのまま死んじゃったんですけど。もったいないことをしました」
テレーズの言葉に応えず、イグアルはケタケタと笑う。
まだ蹲ったまま、立ち上がりもせず両手を地面につけたまま。
それでもテレーズは動けなかった。
一般的に、隙とは戦闘状態から離れるほど大きくなるものだ。武器を構えた姿が最も隙がなく、武器を下ろした状態はそれよりも隙がある。さらに武器を持ったままであれども、しゃがみ込んだ状況、というのはどんな達人でも隙だらけといえる状態となるものだ。
だが。
(これで隙がないとはふざけた話だな。クロード、お前みたいだ)
冷や汗をこめかみに垂らしつつ、テレーズは剣をイグアルに向けて構える。余った左掌もイグアルに向けて、首元を隠すように横向きに体の前に。わずかに捻った体は、猫科の動物のように、しなやかにどんな状況にも対応できるもの。
「敵襲ー!! 鐘を鳴らせぇー!!」
テレーズの横、想定外の事態に動けなかった騎士は、ようやく叫んで辺りにそれを知らせる。その隙も惜しかったテレーズは、内心『すまない』と呟いた。
イグアルの姿がテレーズの目からしてもぶれる。次の瞬間、叫んだ騎士の首が落ち、倒れた体の足下にイグアルが立っていた。
「ご苦労様」
イグアルが呟く声をかき消すように、ガンガンと周囲に音が響く。集まってくる騎士や聖騎士たち。その誰もが、何事かはわからずとも敵が来たと緊張した面持ちで。
イグアルの一挙手一投足に目を向けながら、テレーズは考える。
第七位聖騎士団が作り上げた拠点は、無防備なものではない。常に周囲を警戒する哨戒を行い、異変を察知するべく周囲に見張りを立てている。
しかしそのどれもが今の今まで機能することなく、目の前のイグアルに外縁部とはいえ拠点内部への侵入を許してしまっている状況。
不可解だ。いくら五英将が有能とはいえ、軍の接近を無防備に許すはずがない。
ならば、哨戒の者たちは。見張りの者たちは既にすべて死んでいるのか、もしくは彼らをすり抜けられる少人数だったのか……。
いいや、それならばむしろ。
「お前、一人か」
ぽつりとテレーズは当てずっぽうに近い言葉を口に出す。
だがイグアルは無言で、彼に対しじりじりと距離を詰めていた聖騎士の頭が一つ飛んだ。
イグアルを囲む兵の数は瞬く間に膨れあがっていく。
元々非戦闘員を含めて千二百以上がいる拠点である。イグアルの侵入を知らせる鐘は彼らの防備を万全にさせ、持ち場を持つ者たちは指示を待ち、持ち場のない者たちは侵入者の元へと集う。
自分が今まさに作り上げた死体の背中を踏み、肋骨を砕く感触を楽しみつつイグアルは周囲を見渡し、「へえ」と賞賛の声を上げた。
「対応が早い」
百名を下らぬ数の兵が、槍や剣をイグアルに向けて威嚇する。魔術師が人波の外で意識を集中させる。
槍衾の半径はおよそ五間。隙間一つない壁のように。
しかしその誰しもが、何故だかそれ以上を踏み込めなかった。
魔術師は詠唱の一声を発せず、最前列の兵はイグアルに向けて槍を突き出せない。本来ならば誰の指示も受けず、もしくはそれぞれの隊長の指示に従い然るべき対応を即座に行うはずの兵たちが。
皆が緊張のまま、待たなくともいいはずのテレーズの声を待つ。テレーズが何も言わないから、だから自分たちは動かないのだ、と心のどこかで言い訳をしつつ。
内心怯む兵たちの心根を読み取ったように、イグアルはニイと笑う。それからほんのわずかに膝に力を溜めて、後ろに跳んだ。
ただ下がるときさえ体をくるりと回転させる円武の動き。華麗ともいえる基本の動作。その基本は、集団戦のためのものだ。
イグアルを囲んでいた槍衾の壁。背後、突き出されていた槍の穂先が切り飛ばされる。
一瞬のことだった。
紫の外套と包帯の残す残像が囲みを切り裂き、槍衾の外縁部にいた魔術師までの道を血飛沫で染める。
「うおおっ!?」
誰かの声が上がり、その声が途中で途切れる。
極めた円武の使い手に、『背後をとられる』もしくは『囲まれる』という概念はない。
前後左右、どの方向であろうとも等しくそれは間合いの内。槍衾に取り囲まれたそのときでも、イグアルにとっては前方で一塊になった敵の一団に過ぎない。
「ハハハッ!」
笑いながらイグアルは集団を切り裂き続ける。
いくつかの槍が彼の肌を引っ掻くが、碌な闘気も込められていない槍は包帯に傷をつけるに留まる。逆に切り裂かれた者たちは、一つでいい致命傷を二つ、三つと受けて散っていく。
すぐに恐慌状態となった兵たちが散開していく。戦術的なものではなく、ただの怯懦から。
所々でイグアルに無関係な悲鳴すら上がる。どこかで誰かに衝突し、蹴り飛ばされた兵たちの。
わずかな攻撃のみで戦線は乱れ、臨戦状態を保ち残っているのは駆けつけた五名の聖騎士とテレーズのみ。それでもテレーズは逃げた者たちを叱ることは出来なかった。怒りはあれど、その隙を見せることは。
背を向けた騎士の首を、イグアルは無造作に背後から斬る。首の後ろ半分を切断された兵はわずかな悲鳴を上げて、走る勢いのままに地面を倒れて滑った。
隙だ。
そう考えた一人の聖騎士が、イグアルの背、胴を狙い槍を突く。決して避けられるわけも、防ぐことも出来ないはずの体勢に向けて。
「カーボス!!」
その聖騎士を止めるべくテレーズは声を上げる。テレーズにはわかっていた、部下の聖騎士が、イグアルの隙を見つけたのも。先ほど殺された聖騎士の敵をとろうとしていることも。
けれどもそれは無駄で。
振り返ったイグアルが聖騎士の憎しみの槍を斬り飛ばし、加えて腕を蹴る。折れた、と蹴られた本人が確認するよりも先にもう一回転したイグアルの剣が、彼女の胴を両断する。
風もほとんどない戦場に、血の臭いが満ちていく。
「っ……!」
舌打ちをしつつテレーズがイグアルに飛びかかる。
神速の突きと薙ぎの混合の剣。だが当然のようにその剣は切り結ばれる。
イグアルの剣はテレーズの剣の鍔のところで止まり、テレーズの剣先はそれでもイグアルの側頭部にかかった。
「おお、痛い痛い」
頭の包帯が一部切断され、はらりと落ちる。そこから滲む血を押さえることもなく、イグアルは笑う。
「やっぱり団長級じゃないと楽しめないな。他の人たちはどっかいっていいですよ」
「…………」
ギリギリと剣が押し返され、テレーズはまた内心舌打ちをする。
元よりテレーズは鍔迫り合いなどをするような種の剣士ではない。故に膂力はほとんど変わらないはずのイグアルの剣がテレーズに迫り、両者の顔も近づいていく。
「テレーズ・タレーラン。わかんないな。どうしてここまで出来るのに、第七位なんて所にいるんです?」
「さあな、私にも……わからんっ!!」
両手で剣を思い切り前に押し、イグアルを突き放す。
ついでとばかりに入れられた前蹴りが、イグアルに回避をさせぬまま腹筋を貫いた。
「おぇ……!」
イグアルは僅かな苦しさに跳び退る。
フッと短く息を吐き、跳んだイグアルをテレーズが追う。そこから繰り出される一撃は、テレーズの極めた青星流《燕返し》。
「ぬおっ!?」
追いかけてきた剣をイグアルは払う。しかし、テレーズの剣に込められた重さに、闘気により剛性が増したイグアルの曲剣が震えるように撓った。
弾かれた剣を引きもせず振りかぶりもせずテレーズはそのまま二撃目に移る。まるで燕がイグアルの体に纏わり付き遊ぶように。
襲いかかる燕は『見切り』を無効化し、その隙を見つけて肉を断つ。
舌打ちをしつつ、達人殺しの連撃をイグアルは捌いていく。
金属を打ち合わせる音が何度も戦場に響き、聖騎士たちがそれを固唾を飲んで見守る。
もはやイグアルは完全にテレーズの手中に収められている、とテレーズ以外の皆が思った。
だが、そうではないとも何故だか思える。理由がわからずとも打ち合っているテレーズははっきりとその違和感を覚えており、見守っている聖騎士たちも薄々と。
そして理由を知っているイグアルは、空いている片手を背中に回した。
「…………っ!」
イグアルが携えているのは双曲剣。
今までは右手で片方の剣を使っていただけに過ぎない。
しかしその動作も『隙』だ。イグアルが剣をとるため背中に手を回すと同時に、テレーズの燕がイグアルの肩の肉を裂く。
(固い)
テレーズが眉をひそめて剣を引き、連撃を続けるべく剣を振るう。一刀両断に出来ればよかった、だが闘気を帯びたイグアルの肉体を断つことは出来ず、分厚い筋肉で覆われた肩は抉るだけが精々だった。
噴き出る血。それに痛み。
そんな快楽に、性的機能を失っているはずの股間が疼く感覚を覚えながら、イグアルは遅ばせながらと左手の剣を振る。意表を突いたわけでもないその剣をテレーズは躱しきれず、袖口に浅い切り傷が走った。
二本の曲刀と一本の細剣。鍔迫り合いならばともかく、剣の差し合いならば一本は二本に対し絶対的に不利だろう。剣とは、人を傷つけるための武器。片手で扱おうとも人を容易に傷つけられる武器で、その一本を一本で抑えれば、双剣側はもう一本が無防備な相手を襲うことが出来る。
二倍に増えたイグアルの手数。
しかしそれでも、テレーズは屈しない。
また短く息を吐き、テレーズが腕の速度を上げる。筋肉が軋む音が自分の耳に入り、自身で動かしているだけなのに覚える軽い疼痛。そのすべてを無視して地面を蹴りイグアルの急所を追う。
(追いつけない……?)
イグアルは驚愕に目を開く。
目を狙ったテレーズの突きを避け、避けきれずイグアルの耳が半分裂かれる。
耳介、その形状により、音を外耳道へと集める機能を持つ肉。失われようともそう大事はない。
突きが変化し切り払いに変わる。僧帽筋の一部が裂かれて包帯がまた一部ほどけた。
白い外套を翻しつつ、テレーズはイグアルを追う。
防戦一方というわけでもないイグアルの剣をかろうじて捌き、交差法で逆にイグアルの肉を裂く。
「ちぃっ……!」
急所は防いでいるものの、このままではじり貧だ。
そう判断したイグアルが、大きく体を沈めて蹴りを放つ。分厚い光で覆われるほどの闘気を込められた一撃は、剣に劣るものではない。
意表を突いた攻撃。テレーズの脛を砕くはずの。
そしてテレーズはその蹴りまでも見えていた。
狙われた片足を上げて蹴りを透かす。そのまま振り下ろし足を踏み砕こうとするが、それはイグアルが反応し膝を曲げて足を引いて回避した。ならば。
テレーズの修める青星流の極意は、『力の流れの制御』にある。己の体の中に流れる力の方向を制御し、単なる斬り下げ斬り払いを曲げてみせる。己の体の中に流れる力を集約し、束ねて、密着した状態からでも強力な打撃を放つ。
そしてその制御は、他人の体においても同様だ。
振り下ろし、地面に激突する寸前の己の足の進む方向を曲げる。
向かうのは引かれつつあるイグアルの足。およそ体重などかかっておらず、仮に蹴り飛ばされようとも僅かに体勢を崩すだけのはずの足。
だがテレーズの手、もしくは足にかかればそうではない。
「うわっ!?」
瞬間、足先に何かがコツンと軽く当たったようにイグアルは感じた。
しかしその軽さに反し、天地が逆転したように重力の方向が変わる。空中に投げ出されたと知ったのはまた次の瞬間だった。
「……おおお!!」
雄叫びを上げたテレーズが、踏み込みイグアルの体に剣を突き出す。
いくつかを弾かれながらも、急所を捉えたいくつもの突きが、空中にあるイグアルの体を貫通する。
最後に、と思い切り振り切られた首を狙う剣を、イグアルは双刀で押さえるように防ぐ。
一本の剣はふつりと断たれ、もう一本の剣は中程まで入る罅を受けた。
(やば)
受け身もとれずに地面に落下したイグアルは、這いずるようにして必死でテレーズとの距離をとる。口からは血が溢れ、胴の包帯はもはや体を覆う用をなしていなかった。
もんどり打つように体勢を整え、残心を止めないテレーズを見やる。睨むでもなく観察するように。
いくつもの致命傷のはずの傷を受け、もはやイグアルは死に体。それを警戒して構えを止めないテレーズを。
冷静だ、と褒めつつイグアルは死が近づく自身の体を確認する。
(大動脈は無事。肝臓も一部貫通しているが……、膵臓に傷がついていないようで何よりだ)
腹部や胸部にはいくつもの刺し傷。どれも甘美な快楽を放っている。
だがどれも、重傷ではあるが致命的な急所は捉えられていない。外して耐えた。
(だけど傷口が多すぎる。手当てしなきゃまずい)
腹から噴き出すはずの血を固めた腹筋で抑える。その代わりに穴が開いた胃に満ちていく血液の感触とその重さに辟易した。
刃がほとんど残っていない左手の曲剣を手放し、首を押さえて呻く。抑えてもなおどくどくと噴水のように湧き出す血が、手の包帯を真っ赤に染めた。
(特にやばいのがこれだな。左外頸動脈が完全に千切れてる)
頸動脈。首を流れる血管の内、もっとも血液量の多い血管である。
その他の血管による血液の供給がないわけでもないが、二本ともが遮断されれば脳への血液流入が止まり、七つ数える内に意識を失うほどの。
(しょうがない。久しぶりだけど)
ふう、とため息をついてイグアルが手を離す。
溢れる血がいっそう勢いを増したが、その勢いを止めるように、今度は自身の指を首に突き入れた。
聖騎士たちがざわと驚愕の声を上げる。
先ほどまで、テレーズとの戦いの最中には、イグアルにまったく隙が見えずに参戦できなかった彼ら。
だが今は、その光景の異様さに動けなかった。
テレーズはその光景に唾を飲む。
(血が……)
空気が途切れた場を繋ぐため、イグアルはぼそりと呟く。
「とんでもない女」
「……かわいい猫だろう?」
「…………。…………猫?」
「最近気に入ってるんだ。笑えなかったら流してくれよ」
テレーズは自分の心を落ち着かせるため、慣れない冗談を口にしつつ息を整える。
首を断つ。もしくは首を断てないまでも、そこにある大きな血管を断つ。それは致命傷ともいえるもののはずで、だからこそ首は、鎧の隙間も兼ねた脇や股関節とともに狙うべき急所であるはずなのに。
イグアルの手の先から、一滴血が垂れる。
(血が止まったな)
それを最後に、首からの出血はなくなっていた。
(さて、どうしますか)
イグアルが内心ため息をつく。
血管をつまみ、止血する。やったことは簡単なことで、この場で命を繋ぐには絶大な効果がある。
しかし、片手は塞がり続けている。今この左手を離せば即座に出血は再開し、そう遠くないうちに意識を失い命も失うだろう。
そして並の聖騎士相手ならばまだしも、片手のまま目の前のテレーズに敵う気がしない。
イグアルはまだ五英将となり三十年は経っていない。そんな若輩者ながら、かつてないほどの窮地だ、と感じた。
(他の聖騎士とは全然違うなぁ……。他が弱かったんでしょうか、それともこの女が強いんでしょうか)
内心ぼやき、じりじりと距離を詰めてくるテレーズを見つめる。
そのほかの聖騎士もまた、槍を携えこちらを向けていた。
満ちる殺意に、ミシミシという音までも聞こえてきた気がする。
(本当に…………、いい収穫だ)
そして、イグアルの目が愉悦に歪んだ。
「団長!」
イグアルが覚悟を決めると同時に、見つめていた聖騎士の一人もまた覚悟を決める。
テレーズに呼びかけつつ、立てた槍の柄で、自身の額を三度叩く。その合図を目の端で捉え、テレーズは僅かに目を見開いた。
それから出来る限り表情を変えず、それでも背中から刃を突き立てられたような感覚に喉を震わせた。
「……許せ……いや、決して許すな」
応、という言葉も吐かずに、合図をした聖騎士がイグアルに飛びかかる。当然のようにイグアルは飛びかかる影に応じ剣を振るうが、聖騎士の槍はイグアルに向かわずただ己の身を守るために立てて構えられていた。
鉄筋を束ねた槍に、イグアルの剣が食い込む。聖騎士の手により全力で闘気が込められ、そもそも頑丈な槍であっても、五英将にとってはその程度木の枝と変わらない。
だが木の枝といえども、一瞬の隙を作ることは出来る。
槍を断ち切るため、ほんの一瞬イグアルの回転が止まり、晒すのは無防備な胴体。
テレーズの剣がイグアルに迫り、さすがにイグアルも焦りを見せた。
「まず」
自身の腹に食い込む刃が見える。
手の先、槍を断ち、聖騎士の肉が裂ける感触が感じられる。
避けつつも差し込まれるのは左腹部、やや斜め後ろ。これは腎臓が避けられない。腎動脈断裂からの大量出血。さすがに自分も、何の機材もなしにその手当は出来ないだろう。
掠った肋骨が割られる感触。自分の肉を滑り通る刃の感触。
手の先でようやく聖騎士の肉が両断できた。首、青竹と同じ堅さの脊椎、それから肉。
間に合え。
刃が進む方向と同じ方向に体を回転させ、凌ぐべく刃を遠ざける。けれども自身の速度を上回る刃は刻一刻と肉を裂き始め、そろそろ内臓へと到達する。
これは、だ……。
イグアルの耳に、風を切る音が聞こえた。
それは闘気使いや魔力使いのほとんどに意味をなさない矢羽根の音。それと同時に刃が引き抜かれ、テレーズが下がっていった。
間に合ったか。
舌打ちをするテレーズを見送り、だくだくと血が漏れ始めた腹の温かさを感じつつ、イグアルはすぐ横にあった天幕の上を見上げた。
そこに立っていたのは、イグアル直属兵の一人。〈矢文〉と呼ばれる魔法使い。投擲物を風に乗せ、どんな者も貫くという。
「……終わった?」
「完了しました。殲滅にかかっても?」
「うん」
何を、とテレーズは一瞬戸惑い、それから突然聞こえ始めた悲鳴や怒号に事態を把握した。
「まさか」
「僕一人で来るわけないじゃないですか」
イグアルの言葉に、サア、とテレーズの血の気が引く。その言葉は先ほどの自分の問いへの答えだろう。
単騎でここに来たと思った。哨戒をくぐり抜け、見張りの目を盗むため、少人数でと。
確かにその通りだったのだろう。一時は。
自分の首を狙いに来たのだと思った。この拠点の最高指揮官である自分を始末できれば、後の始末は簡単だからだ、と。
確かにその通りだったのだろう。一部は。
「……陽動だったのか……」
腰の包帯を一部解いてからきつく縛り直し、イグアルはニ、と笑う。今度の笑みは、確かに答え。
テレーズは戸惑いながらも、どこか冷静に周囲の状態を把握していく。五英将の一人を陽動として使い、見張りや哨戒の機能を一時麻痺させる。それから、直属兵たちが……。
イグアルがまたテレーズに飛びかかる。
今度は片手が塞がったまま。到底勝てるとは思えない。
だが、イグアルは何故だか感じていた。
先ほどまでの武威が、テレーズには、ない。
堅い金属音が鳴り響く。
かろうじて防いだ首元の剣を押し返せず、テレーズは体ごと下がってそれを凌いだ。
イグアルは不思議だ、と思う。けれども肩で息をしてまた剣を構え直すテレーズに、それもどうでもいいことだと思った。
「団長……」
「ピエール、お前は戦える者を集め、撤退させろ。避難は非戦闘員を優先、治療師や参道師の方々を特に優先だ」
テレーズはイグアルに剣と視線を向けたまま、滔々と指示を出す。テレーズも覚えていた。自身の体の違和感を。そして、いつものことだとも思っていた。
いつもこうだ。
聖騎士団の位階を決める上欄試合。そこで、試合中に覚える不調は。
そして、いつも、そうやって負けるのだ。
「しかし」
テレーズに指示を仰ぎ、返された髭の副団長は、反駁しようとする。
けれどテレーズは副団長へと視線を返さない。ただ緊張に、唾を飲み込んだ。
「早くしろ。こうしている間にも事態は動いている。私がいなければ、お前がこの拠点の最高指揮官だ。そして残っている者全員で事態を乗りきってくれ」
「なら、私がイグアルを抑え……」
「早くしろぉっ!!」
悲鳴にも聞こえる怒号。
これが最後の命令だと、テレーズが覚悟しているからこその。
名残惜しく、それでも振り返らず、副団長が走り出す。それでも残った聖騎士たちは、テレーズの命令を無視するように槍を構え直した。
「お前たちもだ」
「もう一回やりましょう、団長」
テレーズと並び立った二人の聖騎士の一人が、自分の額を拳で軽く叩く。それはテレーズの団にだけ伝わる合図。自分の身を犠牲にして、相手を足止めするという。
自分が捨て駒になるという、合図。
「……バレてるさ」
だが今度はテレーズも許可しない。先ほどの一度が最初で最後の機会だったのだ。その一回を成功できず、協力してくれた勇敢な聖騎士は今地面で頭と胴を分けて倒れている。
「お前たちもここを離れろ。私が足止めする、一人でも多く……」
一人でも多く敵を倒せ。一人でも多く生き残らせろ。そのどちらを自分が吐こうとしたのかはわからない。
けれども、その言葉が、イグアルの動きで止められたのがわかった。
イグアルがテレーズたちに躍りかかる。片手は自身の首に突き入れたまま、それでもその動きは些かも衰えず、聖騎士たちの身を切り裂く。
「…………!!」
横で倒れた死体から目を逸らし、くそ、と悪態をつきながらテレーズはイグアルに反撃する。
しかしそこには先ほどまでの鋭さはない。
イグアルは数合を片手で軽く捌き、身を翻して遊ぶように距離をとる。
それからまた距離を詰めて、一閃し、それからまた下がる。
鮮血が上がった。
「ぐぅっ!!?」
テレーズの剣が地面に落ちる。
地面に落ちたのは剣だけではない。その手、その腕、肘から先が、綺麗な断端を覗かせて。
勢い余ったイグアルの斬撃は、テレーズの胴までも危うく達し、下に着込んだ鎖を砕いてテレーズの右の乳房を僅かに切り開いていた。
びちゃびちゃと血が滴る。発達したテレーズの筋肉は引き絞るだけでそれなりの止血を為すが、それでも勢いは止まらない。
「は、あっははっはははは!!」
怯んだテレーズの胴をイグアルが蹴り飛ばす。突然弱くなった聖騎士団長に。突然『やりやすく』なった目の前の肉に。
受け身をとり、膝立ちのようになったテレーズの首に、刃が突きつけられる。
「心配しなくても、はは、大丈夫。止血してあげますよ。少し養生もしてもらいましょう。あなたは今から僕のおもちゃだ。簡単に壊してたまるもんか」
「ふっ……身体を求められるなら……もう少しいい男のほうが嬉しいな……」
「それはごめんね」
痛みと緊張に、テレーズの額から玉の汗が流れ落ちる。
ここからまだ逆転の目があるならば、と思考を重ねつつ。
すた、とテレーズの横に〈矢文〉の魔法使いが降り立つ。
「では、イグアル様、このおん……っ!!」
そしてテレーズの残った左腕の脇に手を差し込み、引っ張り上げようとしたその瞬間、また鮮血が散った。
温かい血が、パシャリとテレーズの身体に降り注ぐ。
「触んなあぁぁ!」
剣を振るったのはイグアル。倒れた魔法使いは左右に真っ二つに切り裂かれ、内臓や脳をどろんと地面にぶちまけた。
イグアルとしては反射的なものだった。
部下の魔法使いたちは『味見』と称して、よく戦乱の最中でも捕虜への虐待を行う。その結果死ぬ者もいる。通常時ならばそれも見逃すイグアルだが、今それをされてはたまらない。このテレーズは大事な玩具だ。このまま弱って死なれては困る。
大事な大事な頑丈な肉。
ラルゴはすぐに殺せと言った。けれども、そんなことをしてたまるものか。
そんなもったいないことが出来るものか。
ラルゴは、すぐに殺せと言ったのに。
イグアルの噂、悪癖はもちろんテレーズも知っている。
おそらくもう、五体満足で死ぬことは出来ないだろう。
舌を噛もうと力を入れる。
しかしそれを察したイグアルはすぐにテレーズの口に手を突き入れ、指を噛み砕かれながら、歯を折りながらそれを防いだ。
それからテレーズに施されたのはもう一方の手での点穴。止血を外し、首から血が漏れることも気にせずの。
身体に巻かれた包帯を一部解き、イグアルはテレーズの腋窩を縛り上げる。
喉奥への刺激で嘔吐きつつ、イグアルが自分の手当を嬉々として行う様を見て、そして自分が今塗れている鮮血の臭いを嗅いで、テレーズは視界が絶望に塗りつぶされていく感覚を覚えた。




