閑話:狩人
バタバタと騎獣たちが駆けてゆく。
高価な騎獣は裕福な領地の騎士団もままつかうことはあるが、彼らはそうではない。
その疾駆する騎獣に乗り、駆けている者たちが身に纏うのは白い袖付き外套。肩にはそれぞれの所属を示す徽章がつけられており、戦場においてもその者たちが誰だかは一目でわかる。
街道を、西へまっしぐらにひた向かう彼らは聖騎士。第八位聖騎士団〈孤峰〉である。
先頭で騎獣を駆るのはその団長、〈双生〉のオセロット。地肌しか見えない頭がその存在を主張していた。
敵国ムジカルは東に存在し、彼ら聖騎士団も今朝まではムジカルへ向かうために東進を続けていた。
だが今は一路西へ向かっている。理由はただ一つ。第七位聖騎士団〈露花〉との合流のためである。
一昨日のことだった。砂漠の端で待機していた第十五位聖騎士団が五英将二人の襲撃を受けて壊滅したのは。
昨日のことだった。森の中、順調に進軍していたはずの第六位聖騎士団に第十位聖騎士団が、それぞれ五英将の襲撃を受けて壊滅したのは。
五英将の戦線への参入。
誰しもが、その報を昨日まで甘く見ていた。第十五位聖騎士団が敗れようとも、『仕方ない』という感覚が他の団長の誰にもあった。
それが間違いだったと気付いたのは昨日のことだ。
オセロットすらも、クロード・ベルレアンからの連絡があってようやく。
ようやく全軍に事実は知れ渡った。
聖騎士団一つは、五英将一人に劣る。その事実。
オセロットの手綱を握る手が苛立ちに震える。
聖騎士団は王の下に集った剣、エッセンの武の象徴だ。弛まず鍛錬を積み、この国を支え続ける十七本の強固な柱だ。
文官なくして国が立ちゆかないように、武官たる自分たちがいるからこそ、国が国として形を保っているというのに。
負けてはならないのだ。決して。
自分たちが負けてしまえば、それは即ち国家が揺らぐということである。
それを、『仕方ない』などと片付けていた自分に腹が立つ。
申し訳なく思う。取り立ててくれた王に。副都ロズオンの悪童と恐れられて、燻り腐っていた自分を拾い上げてくれたジョウサイ大公に。
「急ぐぞおらああ!!」
騎乗しているハクの腹を軽く蹴り、かけなくとも良い発破をかける。ハクも心得たもので、文句も言わず足を速める。
オセロットに率いられている一団はつられるように速度を上げ、一塊の風のように森の中を突き進んでいく。
その一団の後方から叫び声が上がり、足が止まったのは、昼の少し前のことだった。
森を睥睨する鳥がいた。
全体的な影は隼に似ていて、広げた羽は三丈に近く、青と黒が混ざり先が赤い羽を持つ。
地に降りれば大人二人分程度の体高。しかし頑強な五本指の爪は、片手で彼よりも遥か巨大な竜を持ち上げることが可能とされている。
その種族の名は失われ、聖教会で通称として伝わっているのは『怪鳥』と、のみ。
しかしムジカルの古い文献では、それは『ジズ』と称される強大な魔物。
古くは魔王に使役され、その青空に映る影だけで人々を恐怖に陥れた種族。今は鳥と岩と天地が混ざる聖領イークスに棲むとされる聖獣の一羽である。
聖領イークスは空にある不定形の球状、直径数千里にも及ぶ重力の不確かな空間だ。日ごと秒ごとに上下が変わるその性質故に、地を這う魔物はほとんど生活できず、鳥たちの天下とされている。
その中での彼らの暮らしは、ただ狩りの日々だった。飛竜や空蛸――数百の細い手を持つ空を飛ぶ蛸のような魔物であるが――などという、人里に現れればそれだけで人は為す術もない魔物たちをその爪と彼らの種族特有の魔法で殺し、細切れにし、自分の背丈と同じほどの大きさに広がる嘴で飲み込む。
イークスの魔物たちには、彼の力に抗う術はない。
彼らが親から学び扱う生来の魔法は鳥たちの飛行を妨げる。竜の頑強な身体を内部から破壊し、高熱も極低温も防ぐことが出来る。
その力で、王として君臨してきた。
彼らの種族の力、『空』を意のままにする力で。
しかし、ある日、彼は捕らえられた。
狩り場に侵入してきた二本足。ムジカルの魔物使い、〈鳳皇〉と呼ばれる男に。
「あっ…………!!」
オセロット率いる聖騎士の一団。その最後方にいた聖騎士が、僅かな叫び声を上げる。その瞬間、血飛沫が上がる。すぐ前を走っていた聖騎士は響いた不可思議な声と、吹き荒れるようにして背後から届いた血生臭い突風に振り返り、そこにいたはずの同輩を見た。
不思議な固まりが、吹き飛ぶように転がって動いていた。それは元は聖騎士と彼女を乗せた騎獣の肉だったが、疾走する勢いのままに地面を擦った彼らは既に人と獣の姿をしていなかった。
振りまくような肉片が聖騎士の裾に飛ぶ。埃や血で既に汚れていた白い外套に、また新しい赤い染みがつく。
「……敵襲ー!!」
そうしてようやく事態を悟ったその聖騎士は、まだ生きている同輩に向け脅威を知らせるために叫んだ。
オセロットたちから遥か上空。風に乗り後を追っていたジズは、これでいいか、と自分の背に乗る〈鳳皇〉に問いかける。
黒い頭巾に黒い布で身体を覆い隠した小男は、僅かに首を横に振った。
「全員殺せ。カラスがどれだかわからないが、そいつが死ぬまで」
五英将ラルゴから〈鳳皇〉に与えられた命は、ただ一人を殺すことだ。
即ち、現在彼の思う展開から最も離れ、快進撃を続ける男、〈赭顔〉のカラスを。
簡単な仕事だと思った。
標的は、第八位聖騎士団に帯同しているという。そして第八位聖騎士団は志願兵を囮に進軍速度を上げるというラルゴの策により、第七位聖騎士団から引き離されて現在孤立している。
更に、聖騎士団といえども所詮地を這う獣たち。対してジズは大空を支配する。そのジズを支配する自分には、敵うわけがないとも。
「気分良いなぁ。狩人ってのはこういうもんなんだろうなぁ」
ジズがまた、最後尾の聖騎士を破裂させる。
それを見つつ、〈鳳皇〉は茶色い染みがある黄色い歯を剥き出しにして笑った。
オセロットは敵の正体を知れず、それでも警戒に目を走らせる。
このまま走って逃げるべきだろうか。それとも脅威を片付けるべきだろうか。
周囲を見渡しても、そこは沈黙する森しかない。敵襲、と叫んだ聖騎士すらも、今では腹が破裂して中身が噴き出したような無惨な死体となって転がっている。
「くそったれが!!」
くそったれが。そう叫びたくなり、オセロットは実際に叫んだ。周囲に広がるのはただの森。確かな殺気もなく、ざわざわと揺れる木立の他には敵影はない。
だがたしかに、と感じる。粘り着くような殺気、視線。どこからか見られている、そして自分たちを狙っている。
「バハッ……」
また一人、現在最後尾の聖騎士が死ぬ。今度はオセロット以下、多数の人間がそれを見た。
バチン、という堅い板を曲げて弾いたような音。それと同時に、部下が爆ぜた。外套が自身の染み出る血で赤黒く染まり、乗っていたハクも目が飛び出し、口と肛門から裏返るように内臓を飛び出させる。
何かの攻撃。それもおそらく魔法。
どこだ、と全員が目を巡らせ、そして副団長の大柄の男、トムがようやく見つけ、叫んだ。
「上だ!! 全員木に身を寄せろ!!」
その声を聞いた全員が、ハクを乗り捨てすぐさま木立に身を隠す。
『何かの影が自分たちを覆ったら、見上げるよりも先に何かの下に隠れろ』とは、参道師からも口を酸っぱく何度も注意されたことだ。空を飛ぶ魔物はネルグにも多くいる。もっとも、本来聖騎士たちには不必要な注意だったが。
身を隠した二十名を超える聖騎士たちは、互いに視線で確認し合う。
ここで隠れているだけでは埒があかない。攻撃にせよ逃走にせよ、規律正しい行動には指揮を執る人間が必要だ。そして今、それを執るのに最適な人間がいる。
団長であるオセロットに視線が集まる。
オセロットもうんと頷く。魔物など、対空戦力の基本、それは決まっている。
「分銅鎖用意!!」
聖騎士たちが、一斉に外套の背側の裾を探る。そこには各々一本ずつ、およそ手を広げた幅の三倍ほどの長さ鎖がくくりつけられている。
投げれば騎獣の足を絡め取り、ときには外套に仕込んだままのそれで攻撃を凌ぐ。聖騎士の標準装備の一つだった。
投げてそのまま鳥への攻撃手段として用いられることもあるが、今回は違う。
通常の鳥であればまだしも、おそらく相手は魔法を使う魔物。矢や投げ槍などの投擲武器は効かず、それで殺せるわけがない。
ただし、鎖程度であっても絡みつけば羽ばたきの邪魔にはなる。上手くすればそれで落ちてくるし、落とせずとも高度が落ちれば聖騎士ならば跳んで叩き落とすことが出来る。
大きさは、とオセロットが見た先。青空に浮かぶ鳥は自分たちよりも大きく巨大に見えた。
どういう魔物なのかはわからない。幾度も戦場に出たオセロットも見たことがない魔物。
けれどもその強さは既にわかった。既に仲間が三人死んでいる。鍛え上げられ闘気を帯び、頑強な身体を持つはずの部下たちが三人も。
これで落とせれば良い。落とせなければ退却し、どこかで魔術師に頼るしかない。もしくは振り切れればそれで。
皆、分銅鎖を振り回し、遠心力を溜めながら待機する。
ビュンビュンと空気を切り裂く音が響く中、オセロットが唾を飲む。
これで落とせれば良い。落とせなければ……。
(落とせなければ、……逃げる?)
そして自分の考えていた言葉を反芻し、寄りかかっていた木を叩いた。
木の幹が鈍い音を立てる。オセロットたちの身長よりも高く胴よりも太い木が揺れ、木の葉ががさがさと落ちてくる。
(仲間を殺した相手を置いて……逃げるのか俺は?)
オセロットが考えていたのは定石で、この場においては正しいことだ。
戦場で、相手に対し攻撃手段もなく留まるのは愚策。攻撃を防ぐことも敵わない以上、退却をするしかない。
だが。
(んなわけねえだろ。あいつはここで殺す)
ビキ、とオセロットの額が音を立てる。仲間を殺した相手を殺す。それ以上に正しいことを、彼は知らない。
副都ロズオンで酒と喧嘩に明け暮れた日々。その中で仲間を傷つけた相手を許したことなど一度もない。誇り、意地。
木立から抜け出し、オセロットは空を見上げる。
遥か上空、米粒のように見える鳥の影、そこを見遣って足を踏み鳴らした。
「全員! 用意!!」
オセロットの声に応えて、皆の分銅鎖が立てる音が高くか細くなる。風を切る音すらなく、細い管から風を噴き出すような音に変わる。
ざ、と皆が開けた場所へと姿を見せる。遥か上空、そこへ狙いを定めて。
「放てっ!!!」
オセロットの声に応え、一斉に放たれた鉄球が、巨鳥へ向けて駆け上るように殺到した。
号令と共に、何かが飛んでくる。
それを察知したジズは、滞空のための羽ばたきを一度だけ強めて風を巻き起こす。吹き荒れるような強い風が、背に乗る〈鳳皇〉の服を膨らませるようにばたつかせた。
聖騎士たちの投擲した分銅は、投擲された瞬間は音よりも早い。その速さは上空に至るにつれて徐々に落ちるが、それでも巨鳥に迫るそのときにはまだ音に近い速さを持っていた。
鎖という風を受けやすい要素はあるが、分銅という錘は風で曲げられるほどやわではない。
しかし。
下で鎖を見送ったオセロットたちの場所まで風が届く。本来上空の鳥が起こした風が地上まで届くわけもなく、オセロットたちはそれが魔法を込められた風であることを知った。
風で弾かれるように、分銅が逸れてジズには当たらず森に散って落ちていく。その程度、指示されるまでもなく行うジズに、〈鳳皇〉は背を軽く撫でて応えた。
「やれ」
そして、一言呟く。
何をするかと見ていたが、その程度か、と考えて。
魔法が飛んでくる、程度は〈鳳皇〉も想定していた。カラスは魔法使いだという。それも、高熱や毒を発し、村一つを簡単に潰せるほどの。
ならばその魔法が飛んでくると思っていた。反撃のため、攻撃のため、容赦のない魔法攻撃が来ると思っていた。
だがそうではないらしい。魔法使いらしき人物は姿を見せず、目を凝らしてよく見ても、そこには聖騎士の外套を纏った人間以外は随伴していない。
カラスはここにはいないらしい。唯一警戒すべき魔法使いの彼は。
ならばもう用はない。
〈鳳皇〉は信じている。
この『怪鳥』は、四体の聖獣の内最強であったのだ、と。
ジズの魔法は『空』を支配する。
飛ぶ鳥は落とし、自らを軽い羽ばたきで空へと舞い上げる。
〈鳳皇〉もジズ本鳥も知らないその正体は、気圧の操作。
下げれば真空、上げれば地上の百倍以上の高圧にすら瞬時に変化させる魔法。
人間の魔法使いには、片腕や指に例える魔力圏の指標がある。
そして、ジズは信じている。自分は空を支配しているのだと。
その認識のままに、彼の魔力波は広がり、『空』は視界の中全てに及んでいる。
気圧を上げて、流体となった空気を対象に流し込む。その後、真空を作り、破裂させる。
原理は理解していないまでも、親鳥から学び受け継いできたその攻撃は、彼にとって呼吸をするかのような自然なもの。竜すらも内部から破壊するその威力は計り知れず、同じ聖獣〈焦熱鬼〉の熱波や〈茸牛〉の胞子に劣るものではない。
聖獣〈海蛇〉の水鉄砲は空には届かず、〈茸牛〉の胞子は風に飛ばされる。
更に〈焦熱鬼〉の熱波もジズの風には押し負ける。
……正確には主な要因は真空による断熱作用であるが、それを彼が知る術はない。
〈鳳皇〉は改めて思う。聖獣の攻撃すら防ぎ、一方的に攻撃出来る。
だからこそ、ジズは聖獣の中で最強なのだ、と。
ジズが、視界の中の『空』を操作する。
狙うは眼下でこちらを見つめる人間たち。その周囲の空。
オセロットたちは、その奇妙な感覚に違和感を覚えるよりも先に、まずい、と思った。吸った空気がどろりと重い。粘り着くような空気に、舞い落ちる木の葉が地面に辿り着かない。
とぷん、と音がするように、まるで水に落ちたように空中で分銅の落ちる速度がゆっくりとなる。それを視認し、オセロットはようやく決断する。
吐き出しづらい息を無理矢理吐いて叫んだ。
「全員……っ!」
出た声が低く、野太い。普段であれば笑ってしまうであろうその異様な出来事も、焦りしか呼ばない。
息を吸っているのに息苦しい。
それでも。
「全員、散っ……」
逃げろ。そして態勢を整えろ。
そう叫ぼうとして、胸が張り裂けそうな痛みを感じた。
耳の奥が痛い。キン、という音が響いたと思えば、何かが破けた音がして音が聞こえなくなる。
そして次の瞬間には。
青空に、パン、と音が響いた。
「……あーあ」
見下ろした地面に散った赤い花のようなものを見て、〈鳳皇〉は呟く。
そして笑う。森に入った数人を残し、全てが肉片と化した聖騎士団の姿を見て。
「カラスがいれば違ったろうに」
もうここには用はない。そう感じた〈鳳皇〉は、ジズを西へ向かわせる。ラルゴの指示を受ける前に、まだ自由なうちにいくらかまだ手柄を得ておきたかった。
飛行中にもケタケタと笑い声が響く。〈鳳皇〉の笑い声を聞いているのは、彼を背に乗せたジズのみ。
だが、確信できた。
これで、自分はムジカルでも最強に近い。五英将に至れる器、とそこかしこで囁かれてきた。それを証明できたと感じ嬉しくなった。
醜い容姿、低く曲がった背。その見た目から、幼い日のごっこあそびでは魔物の役しか選べなかった。
醜い魔物の自分が、英雄に至れる。
夢物語が今成った。
もはやここからは、戦いではない。ただの狩りだ。
〈鳳皇〉は、少年時代の自分を思いだし思いを馳せる。
見ていてほしい。あの日の自分にも。稚児組での仲間内、子供同士の微笑ましい『勇者ごっこ』の一幕のうち。
自分は魔物役にしかなれなかった。
差別のない国ともいわれるムジカル内でも、評価というものはある。子供のなかでのごっこ遊びでも、容姿の良い人気者は英雄役で、醜い子供は魔物や敵役を押し付けられるということもしばしばだ。
だが、これからはそうではない。
見ていろ、と〈鳳皇〉は思いを馳せる。
自分はこのエッセンとの戦で活躍し、次代の五英将の座を勝ち取るのだ。
見ていろ、稚児組の容姿に優れない子供達。見ていろ、国中の醜い同輩たち。
自分は夢を叶えてやる。お前たちにも、英雄の役をさせてやる。存分に演じ、眉目優れたエッセン軍役の子供を打ち負かすがいい。
存分に演じるがいい。戦場で華々しく活躍する五英将〈鳳皇〉の役を。
感慨に浸る〈鳳皇〉は気付かない。
知ることもない。ラルゴが自分の名前を覚えていないことを。
「…………うし」
小さく呟き、夢を叶えるために〈鳳皇〉は眼下を見て回る。
一人でも多く殺そう。一人でも多くエッセン兵を減らそう。全ては全ては自分が五英将に至るため。
そして芽生えた楽しみのため。
戦いではない一方的な狩りの楽しみに。
ネルグの中には所々岩山が存在する。全ては聖領イークスから飛来した大岩が年月を経ても朽ちずに残ったものであるが、それを知るものは少ない。
その岩山。鬱蒼と繁る森の中からちょこんと付き出したほんの小さな一つ。平地であれば丘か小山か、程度の大きさのそこに、〈鳳皇〉は目を留めた。
誰かがいる。弓を携え、赤と黒の複雑に混じった頭巾と外套を羽織る男。
魔力による強化無しでは人一人が砂粒のようにしか見えない遠く離れた距離だったが、〈鳳皇〉はその異様さに首を傾げた。
ここはネルグの中層ともいえる場所。常人ならば一人で立ち寄ることなど出来るわけがない。
つまりそこにいる男は探索者か参道師か、その辺りだろうと当たりをつけ、〈鳳皇〉はジズに向け、その男を指し示す。
あれを殺せ。
そう端的に発せられた命令に、ジズは是と応える。
〈鳳皇〉には特に理由はなかった。ただそこに誰かがいると思っただけで。ただそこにいる誰かに、自分の力を誇示したいだけで。
ただそこにいる誰かが、抵抗できぬ力で死ぬということが面白くて。
「や」
やれ、と〈鳳皇〉は促そうとする。
しかし〈鳳皇〉の視界はその瞬間真っ白に染まった。
「あー、死ぬところでしたー」
弁明するように、岩山にいた『誰か』が口にして伸びをする。
彼としては本音だったが、彼を知る大勢はその言葉を聞いて馬鹿げていると思うだろう。聖獣に狙われ、今まさに命を奪われる刹那の出来事だったといわれても、何ら変わらず。
頭巾の下には黄色く短い髪。痩せもせず、太りもせぬ三十歳前後の素朴な青年。
光が晴れ、視界の青空が戻る。
その青空の先、先ほど自分に向けて殺気を放っていた聖獣のいた場所を彼は見つめたが、当然そこには何も残らずその影もない。
《山徹し》に貫けぬもの無し。
「誘導してるみたいだったから乗ってはみたけどー」
ヘラヘラと笑いつつ、彼はしゃがみ、足元の岩の隙間に指をいれる。
「レイトンさん。これも君の仕込みだったらさすがに俺も怒りますよー」
そこからつまみ出した指先よりも小さな小柴を潰し、カリと小気味の良い音をさせ、〈山徹し〉デンアは小さく呟いた。




