町長
『そのとき現場では』を全部やる方針
「敵襲ー!!」
ガンガンと叩かれる物見櫓の音を前方上方から浴びて、大男は立っていた。
見た目五十過ぎの大男は、身の丈は八尺に近いほどの恵まれた体格に、身体を纏う筋肉は何もつけずとも鎧のように固い。赤い髭が顔の下半分の輪郭を覆い、まるで獅子の鬣のように人を威圧するのに充分な迫力を持つ。
そしてそれでも威圧などを人に感じさせることはなく、その笑みは温かく人を安心させる。
体躯に似合った大きな拳を誰も怖がることなく、掌を見せれば幼児すらもその指に縋り付くように寄っていく。髭を掴んで遊ぶことすらもある。
クラリセン町長オラヴ・ストゥルソンは、そんな皆に親しまれる男だった。
敵襲の警報を今更、と聞きつつ、背後の兵たちの動揺を音だけで確認する。
オラヴは視線を逸らせなかった。
森の奥から迫る客人。街道の奥、姿を見せたその脅威は、探索者時代に培った感覚の警報を鳴らすのには充分なものだ。
目には見えずとも、紫色に煙るような気配。その中心に立つ女。年齢は四十前後。
鎧を着けず、武器と呼べるようなものも手に持たず、彼女の見た目にはおよそ害意と呼べるものはない。
長い髪はまとめず後ろに垂らし、衣装の胸部は上半分を無防備に曝け出す。およそ清純さや貞淑さなどは見て取れない。
それでもオラヴにはわかる。
『迫ってきている』という情報はあった。襲われるならここ、という予想もあった。
けれどもそれ以上に、見ればわかる。
その漂う『気品』。気位の高さ。背後に連れた『部下たち』。
(これが〈貴婦人〉……!!)
化け物、という言葉をかろうじて飲み込んで、オラヴは気合いを入れ直すべく足を踏みならし大きく息を吸った。
「不細工ねぇ……」
悠然と街道を歩くフラムは、街道の先に立つ男を見て溜息をついた。
大きな男だと思った。匹敵するのはフラムの記憶の中では五英将〈鎮守〉のジェネロくらいだろうか、とも。
その筋肉の鎧に、手に持つ刃のない剣を見て、ただ者ではないとも思った。
けれどもそれだけだ。
その見た目に心浮き立つものはなく、壊したいとすら思えない。ただただ、邪魔。
「行きなさい、貴方たち」
呟くように背後に指示を出す。
単なる毒虫たちでは相手にならないことはわかっている。ならば、と声をかけたのは直属の魔法使いたち。
露払いの魔法使いたちは、返事もせずに駆けてゆく。前に出たのは三人。その顔にある覆面は、その個性を隠すためではない。
魔法使いたちを追うように、毒虫たちも飛び出す。人の子供と同じ程度の大きさを持つ蜻蛉や百足は、それぞれ牙に毒を持つ。
そう間もなく、魔法使いたちはオラヴのもとに辿り着いた。いつかの戦場で喉を焼かれた彼らは、吶喊の声もなくオラヴに躍りかかった。
「戦争じゃあ、手加減は出来んぞ!!」
地の果てまでも届きそうな大きな声を上げながら、オラヴの拳が走る。
握りしめた拳を鉄槌として固め、打つ。闘気の込められた拳はさながら本物の鉄槌のように人体を打ち、そして打たれた人体は粘土細工のように曲がって潰れる。
「ぐぃっ!?」
体躯に似合わない猿のような身のこなしでオラヴが動く。瞬く間に魔法使いたちが肉塊へと変わる。その肉塊を踏み、首と胴を切断する。
オラヴは知っていた。魔法使い、ならば生半可なことでは死なないこと。死なないムジカルの魔法使いは、いつまでも戦闘を続けること。
その程度は、二十余年前の戦闘で経験済みだ。
引きちぎれた胴と首から血が噴き出す。
ぴちゃりと飛沫を上げて流れた血は石畳に吸われ、残ったものが鏡のような血だまりを作る。昼天の明るい日差しがぎらぎらと反射し、濃厚な血の臭いを更に際立たせた。
血溜まりの表面を荒らすように、ざわざわと虫たちが蠢く。
追いついてきた百足は血溜まりの中に飛び込み、水遊びでもするかのようにその百を超える節足をばたつかせた。
毒の羽虫がオラヴを囲む。その一部を構成する蚊のような虫たちは一匹ではそう強い毒は持たないが、集団で刺されれば常人ならば簡単に意識を失うものだ。
同じように、地を這いオラヴへと飛びかかろうとする毒蛇の牙も、蚊に混じって大きな羽音を立てる蜂たちも。
しかしそれでもオラヴは動じず息を吸う。上半身が風船のように膨らんだようにフラムは錯覚し、その次の瞬間。
「ぉおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
フラムが、吐き出されたオラヴの大きな声に思わず耳を塞いで顔を顰める。
声というよりも衝撃波。
広がる波に押し潰されるように虫がバタバタと地面に落ちて、蛇たちが苦しみのたうち回る。
フラムの隣にいた部下が、耳から血を垂らして倒れ伏す。まだ二十間はあった距離に油断し。
オラヴの背後に駆けつけつつあった騎士たちも耳を塞いで立ち止まり、防御姿勢に遅れた者たちは泡を吹いて気絶してゆく。本来ならば加減し方向にを気をつけ、そして事実今回も気を遣ったオラヴだったが、倒れた数名の気配に心の中で頭を下げた。
こうしてはいられないのだ。
背後で戦闘不能になった味方を、また別の騎士が引きずるようにして離していく。
加減などしてはいられない。目の前にいる怪物から目を離すわけにはいかない。
魅入られたようにオラヴはフラムから目を離さない。目を離した瞬間に、クラリセンが壊滅する何かをされそうで。目を離した瞬間に、自分の命が終わりそうで。
刃のない剣の柄を持つ。その鍔を血溜まりに押し当てるようにしてから闘気を込める。
白い光が収束するように剣に吸い込まれていく。まるで地面から剣を引き抜くようにオラヴが剣を持ち上げれば、その柄の先には血が結晶化したような刃が形作られていた。
それはオラヴが先の大戦で振るった魔剣。今はイラインの貴族サーベラス家に所蔵された魔道具であるが、エーミール・マグナの嘆願により貸与された逸品である。
血の臭いを漂わせる剣を構え、今度はオラヴが突進をはじめる。
「ぉおおおらああああああぁぁぁぁ!!!!」
叫び声は音響兵器と化し、立ち塞がる毒虫たちを無力化してゆく。不快さに眉を顰めるフラムを残し、彼女の周囲も同様に。
「フ、フラム様……!」
「ああもう、うるさい」
指示を求める部下を無視し、フラムが腕を振る。その腕に合わせて巻き起こる突風は毒の息が混ざり、通り過ぎる石畳を日の出が迫るように変色させていった。
竜巻のような突風に押されオラヴは一瞬止まりかけるが、それでも止まらない。ただ目に入った空気に、視界が僅かに白く濁った気がした。
「あなたたちじゃ無理みたい。あの男は無視してあなたたちは街の中を制圧しなさい」
「了解しました!!」
迫るオラヴのことなど気にしない素振りでフラムは言って、散開するように駆けてゆく部下たちを見守る。動ける虫たちも左右に分かれて、一部は森の中に分け入り街を目指して蠢きはじめる。
横を駆け抜けていく魔法使いに毒虫たち。
それを無視するのはオラヴも同様だった。
「おらあああ!!!」
駆け引きも何もなく、オラヴはフラムに飛びかかり、剣を真っ直ぐ振り下ろす。三人分の血、それも石畳に吸われずに僅かに残った分を使った刃の大きさは、未だ大剣とも呼べない程度の大きさだ。
その切っ先が触れる前に、フラムが手を突き出す。目の前の男の素性はわからないまでも、闘気使いだということはわかっている。故に障壁は役に立たない、ということも。
故に。
「ふ、お……!!」
巻き起こすのは風。
闘気は風を起こすことは防げても、起きた風を消すことは出来ない。
そして飛びかかる最中というのは踏ん張りもきかず、ただ風に流されるのみであるからにして。
オラヴの重たい身体が押し戻される。ほんの僅かにフラムから遠ざかった結果、振り下ろされた剣はフラムに届かずに空気を裂いた。
「やっぱり近くで見ても不っ細工な顔ねぇ」
フラムは嘲笑うようにして唇を歪めつつ、剣をまた振り上げるオラヴを見る。世の人がみんな『こう』ならば、自分はもっと人に優しく出来るのだろうかなどと考えながら。
今度は踏ん張りながらオラヴは袈裟がけに剣を振り下ろす。
フラムはそれに応え、音の速さを超える剣を今度は下がって躱し、身を翻して人の身では到底出せない速度で掌底を振るう。
響く炸裂音。
その程度でオラヴを怯ませるには至らなかったが、その手に込められた毒気はオラヴの胴巻きを瞬時に腐食させ、腹部の布地を裂く大きな爪痕を残した。
「お、おおおぉ!!」
露出した腹を無視し、もう一撃、と雄叫びを上げながらオラヴが剣を振る。だがその剣も、同じように下がったフラムには当たらずに空を切った。
「身体は頑丈。ちょっと、こういうのはイグアルの担当じゃないのぉ?」
フラムはここにいないラルゴへ向けての苦情を吐く。目の前の男の未だ倒れない頑丈な身体。イグアルがここにいれば、さぞかし喜んだだろうと考えて。
二、三、とフラムは鞭のように腕を振り、突風を飛ばす。その度に少しずつ後退するオラヴは、内心焦りが募っていた。
(この女を倒さんといかん。なんとしても、ここで)
見た目は普通の女。けれども身に纏う雰囲気は、先ほど殺した兵たちとは段違いの存在感がある。もちろん手加減する気はない自分の剣を、簡単に凌いでいる。
今も地面すら見えない夥しい量で周囲を蠢き、街中へ殺到している毒虫たちはもちろん脅威だ。騎士団ならばまだしも、今この街では避難中の一般人がいる。毒蛇一匹が致命的な彼らにとっては、その一匹すら通すのは憚られる。
目の前の女の部下たち、魔法使い隊も脅威だ。騎士団では相手にならず、聖騎士団もいないこの街では魔法使いたちを防ぐ手段は限られている。
そんな脅威たちを無視してでも、たとえこの身が果てようとも目の前の女を止めなければならない。フラム・ビスクローマに対抗できるとしたら自分か、それかあと一人……。
背後で逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。
混ざり合う中で、途切れた悲鳴。それは誰かの尊い命が奪われた証拠だろう。
それでもオラヴは引けなかった。
血の大剣を構えて、もう一度、と息を吸う。彼が〈叫声〉と呼ばれる由縁、その兵器とも成る大きな声と、一時戻ってきた愛剣に信頼を込めて。
「だあああぁぁ!!!」
「うざい」
またフラムが風を巻き起こす。同じようにオラヴを吹き飛ばそうと。
けれど、そうはならない。
(風を?)
オラヴが一度剣を振る。空振りのようなそれは確かに風を切るだけに留まった。
ただ風を切り、吹き飛ばされるのを防ぐだけに。
(面倒ね)
溜息をつきながら、フラムはまた一歩身を引く。
彼女は高位の魔法使い。当然肉体も変質し、その感覚器官も人並み外れている。突き進んでくるオラヴの、常人では見ることすら出来ない速さの剣を、やすやすと視認できる程度には。
彼女に武の素養はない。ムジカルでは一般的な円武はおろか、武器を取ろうなどと思ったこともない。
けれどその並外れた動体視力は、剣の切っ先を視認させ、あたかも達人のように見切ることを可能にさせた。
(一歩下がれば、はい、外……)
だが彼女の心に動揺が走る。
剣先が想像よりも近い。先ほどまでの動作では追いつかぬほど。
踏み込みが違う? とフラムは一瞬考えたが、そうではないらしい。
その原因を確認し、フラムの目がわずかに見開かれる。
(剣が……!)
「おおおお!!!」
雄叫びを上げるオラヴの剣。それが先ほどよりも大きくなっている。先ほどまでは、大剣、とはいえない程度の程度の大きな剣だった。
しかし今は特大剣とも呼べる大きさ。それをまったく同じ動作で軽々と振るうオラヴに、騙された、とフラムは感じた。
近くに落ちている蛇の死体。それを視界の中に収めて、その原因に思い至りながら。
ダン、とフラムの肩口で刃が止まる。
フラムの肩口で弾かれそうになった刃はオラヴの怪力で押し込まれそうになったものの、フラムがその刃を下から掴む。
鎖骨が割れそうな衝撃を感じて、フラムの顔が歪んだ。
「……顔に似合わず策師ね、あなた」
「何のことだかわからんな……!!」
片方は剣を思い切り押し当て、片方は刃を掴んで押し戻そうとする。鍔迫り合いともいえない押し合い。
そのうちに、刃を押し当てられたフラムの掌に傷が走る。
「名前を、聞いて、おきましょうか」
「人に、名前を聞くんなら、先に名乗ったらどうじゃい」
押し戻そうとするフラムの手に刃が更に食い込んでいく。
(また大きく……)
徐々に大きくなる剣。その膨らむ力はオラヴの怪力に加算され、徐々にフラムの肉体を裂いていく。
面倒さに顔を顰めつつも、フラムは無理に、優雅に笑みを浮かべた。
「あら、申し訳ないわね。私はフラム・ビスクローマ」
「そうかの。儂はオラヴ・ストゥルソン。この街の町長をやらせてもらっとる」
にこやかな挨拶。だが共にその声音に優しさなどはない。
「あなたがもっと美しければ、勧誘くらいしてもいいんだけど……そうはいかないみたいね」
「当然じゃな」
声を震わせてオラヴが手に力を込める。フラム自身の血を吸い大きくなってゆく刃が、彼女に食い込むのを止めないように。
手に力を込めなおす。諦めるわけにはいかず、そして許すわけにもいかない。
「この街はのう、昔、魔物に一度やられたんじゃ」
「へえ?」
興味はないが、フラムは片眉を上げて先を促す。その声音に興味のなさは理解していたが、オラヴはそれを無視した。
「ちょうど今の……こんな具合にの。ありゃあ酷いもんじゃった」
しみじみとオラヴは思い返す。探索ギルドに呼び出され、魔物の殲滅を依頼された街、クラリセン。そこでの戦い。肉塊に塗れた街。魔物の餌箱となってしまった街。
それはちょうど、今のような。
「ようやく息を吹き返してきた。栄えていた街までは戻せぬまでも、人が安らかに暮らせる街に、皆が力を合わせて。それをこんな……」
〈貴婦人〉襲来の予想と、彼女の噂を聞いたオラヴは何かの運命を感じた。またもこの街が魔物に襲われるのかと。またもこの街が惨劇の舞台になるのかと。
だが、させない。あの時は所詮余所事だった。
けれど今は、ここは自分の治める街だ。
「こんな風にする輩に仕えるなど、生まれ変わってもありえんわな」
「そう」
剣を持つ力を入れ直す。お互いに。
刃が震え、フラムの肩口から離れ、また押し返されて肩に触れる。その繰り返しを二度ほど続け、オラヴがまた意を決する。
大きく息を吸う。
ただ大きな声を出せるように。目の前の女の鼓膜を破り、全身を砕けるように。
ただしそこまで出来ずとも構わない。ただ刃を握る手が、一瞬だけでも緩んでくれれば構わない。一瞬だけでも、刃を持っていることを忘れてくれれば。
「やめたほうがいいわよ?」
涼しい顔でフラムが止めるが、そんなことは関係なかった。
オラヴは吸いきった息を止めて喉を開く。横隔膜を強く収縮させ、ただ、大きな声を……。
「…………」
ずる、と剣を持つ力が抜ける。それと同時に刃が解けるように消えていき、ただの血へと変わって滴っていく。
「ほらぁ」
それ見たことか、とフラムはオラヴを見下ろして肩を手で払う。肩と服に滴った血は砂のように変わり、砂埃のように払い落とされていった。
「やっぱりすごく丈夫ね、あなた。私の毒にここまで耐えるんだもの」




