閑話:夢見る君に
五英将ですけどこれは閑話
軽功。
極めれば縮地とも呼ばれるそれは、身体を鍛えて発達した膂力を用い、またそれ以外の『力』を用いて自らの身体を高速で移動させる歩行術だ。
本来名前すらつかない体術の一種でもあり、熟達した闘気使いや一部の魔法使いが自然と学ぶものである。
闘気使いの軽功は大まかに二つに分かれる。
一つは身体を前に倒し、頭部を腰と同程度の高さに、ことによっては腰よりも下に落とした状態で足を踏み出す走法。どうしても小股になり、更に自身が前に倒れる重心の変化を利用するという少々のコツがいるために、こちらを用いる者はほとんどいないが。
多く使われるのはもう一つ。一歩を力強く踏み、跳ねるように地面を蹴って進む走法である。障害物も飛び越え、また足場にして移動することが可能となるため上下の動きに強い。技術も必要ないため、膂力に勝る闘気使いの多くは自然とこちらを身につけることが多かった。
そして今、サンギエを越えるために乾いた平らな岩山をふわりふわりと駆けている〈眠り姫〉トリステ・スモルツァンドの軽功は、魔法使いらしく闘気使いの用いる軽功とは異なるものだ。
身体は前屈み気味の直立。ほとんどの人間が走る際に振る腕もただ力なくだらりと下げ、靡かれるに任せている。
足はやや大股。しかし走るように膝を曲げて力を溜めることはほとんどなく、前に伸ばした足を、股関節の動きだけで引き寄せて身体を前に進める。
踏ん張ることもせず、ぴょんぴょんと跳ねる動作も小さく上下動も同じく小さい。
通常の人間ならば、同じ動作で走行以上の速度を出すなど非常に困難だ。どうしても空気抵抗が邪魔となり、重心の移動という観点からも力学的におかしい。現実的には、出来るはずがない。
けれど彼女は出来る。夢の中に生きている彼女は。
トリステの華奢な背中を見ながら、一人の中年男性が駆けていく。
乾いた岩山に衝撃を与えないよう。脆い岩山を崩さぬよう、できる限り静かに丁寧に。それでいて、五英将であり主であるトリステに遅れないように。
彼の名はアルペッジョ。トリステが持つ唯一の直属兵だ。
騎爬は岩山の前で乗り捨てた。頼れるのは自分の足。
闘気を帯びて白く薄い光を立ち上らせながら、どうにかして追い縋る。彼も無能というわけではない。三十年以上前、幼い日のトリステに仕えるため、急遽身につけた闘気。今となっては使い慣れたものだ。
しかし一歩足を踏み出し地面を蹴る度に、背負った重たい荷物がガチャガチャと鳴る。加重をした上での高速移動はもちろん常人以上の力を使う彼にとっても厳しいものがあり、トリステという国家最高位の魔力の使い手と同程度の速度を出すのはかなりの無理をしてのことである。
五十歳を目前と迎えた身は衰えを感じ、日々重さがのし掛かる。
それなりに鍛えて動いているはずの身体は緩く垂れ始め、腹回りの膨らみに青年だった頃の下衣が穿けなくなった。額は大きくなり、最近は日の光で頭頂部がやけに熱い。
昔はそこそこの苦労でついていけたはずのトリステの背中が遠い。今では大分苦労をして、息を上げないように意識して、懸命に大きく手足を動かさなければならない。
滴る汗が目に入り視界が霞む。
袖で目を拭い視界を晴らして、昔はよかったな、とふと思ってアルペッジョは笑みを浮かべた。
トリステは半ば焦っていた。
早く、速く。そう願って進める足は更に速くなる。
景色が飛ぶように後ろに流れてゆく。それでもほとんど風を感じていないのは、彼女がそれを意識していないからだ。
そんな彼女が、ふと後ろを振り返る。何かを言われた気がして、従順な従者に何事かを話しかけられた気がして。
いつも後ろをついてくる彼。しかし、その時は誰も後ろにいなかった。
歩を緩めつつ目をこらして探してみれば、遥か後方、米粒のような小ささで、彼が懸命に走っているのが見えた。
何をしているのだ、とトリステは舌打ちをする。自分は早くミールマンへと行かなければいけないのだ。
こうしている間にも、苦痛は襲い来ている。
目の周囲は灼けるように痛み、瞬きの度に瞼が張り付いたかのように開かれることに抵抗する。全身を覆う悪寒は、髪の毛よりも細い針がついた葉の裏で全身を擦られているかのよう。視界の中に縞模様の線が数え切れないほど蠢いている。時折焦点の合わなくなりぶれる視界が鮮やかさを失い白と黒の無機質なものとなる。また逆に、極彩色の塊になる。
完全に立ち止まり、アルペッジョを待つ。
そうしている間にも、誰かがひそひそと耳元で囁いている。耳を閉じても聞こえてくるそれは、幻聴だとも知っていたが。
視界の端で誰かが飛んでいる。羽の生えた不思議な生物が。小石たちが口々に世間話をする。その言語は理解出来ない。
風に吹かれて身体が揺れる。風に任せて倒れそうになる。
眠い、とトリステは叫びそうになった。物心ついてから常に味わってきた、叫んでも叫び足りない酷い苦痛。眠気。
断眠による身体的苦痛。悪寒に思考の曇り。普段意識しないように、そう考えもしないようにしていた訴えが不意に頭を駆け巡る。
眠い、寝たい。
このまま力を抜いて、全身を地面に投げ出して眠ってしまいたい。
数日は寝たい。数ヶ月は寝たい。数年寝て、眠気を身体から追い払ってしまいたい。
しかし、駄目だ。
数年など寝ることは出来ない。数ヶ月も寝るのは耐えられない。数日だって、数瞬だって寝たくなどない。
眠気覚ましの瓶を鼻の下にあてがい、思い切り息を吸えば刺激ある芳香が胸に満ちる。
それから膝に手を当て俯いて、全てを吐き出すように息を吐き出す。
これで、寝ずに済む。深呼吸をして自分の影を見つめて懸命に目をこじ開けて耐えた。
日陰が暗く黒く見える。日向が明るく白く見える。滲むような視界の中で、明暗だけがはっきりと分かれていく。
寝たくない。寝るのは嫌だ。眠るのだけは、死んでも嫌だ。
見慣れた奇妙な視界を無視し、息を荒くしつつ、トリステはアルペッジョを待つ。それからしばらくして、俯いたままに、ようやくアルペッジョが追いついてきたのがわかった。
「トリステ、……大丈夫?」
「…………」
心配そうな声に顔を上げられず、トリステは頷いて答える。それでも辛そうな様子に、もしかして眠気覚ましが切れたのかとアルペッジョは心配になった。
「待って、今薄荷を……」
そして荷物を下ろそうとしたアルペッジョだったが、すぐにその動作は止められる。
トリステの枯れ枝のような手が伸びる。アルペッジョの服の裾を掴むように、ちょこんとだけ摘まむように。
「アル」
それから響くのは怨嗟のような唸る声。譫言のような。
「……あたしから、離れないでって言ったでしょ」
腰を折り曲げたまま、頭だけを上げる。血走り睨むような目がアルペッジョを射貫く。
その瞳に気圧されるわけでもなく、ただ申し訳なく思ったアルペッジョは、「ごめん」と呟いた。
文明や文化とは、その土地の気候、その地方の風土によって最適化されるものだ。
海がある地方では海を利用した生活が発達し、麦や蕎麦などが育てやすい地方なら麦食や蕎麦食の文化が発展する。無意味なことなどそうそうはない。
そしてここサンギエの民族は、平らで崩れやすい岩山の上ではなく、その岩山のひび割れの隙間に家を作り生活するという文明を発展させてきた。
崩れやすいとはいえ平らな土地と、暗く圧迫感のある岩窟のような場所。その二つで後者を選んだのは、第一に水を得るためだ。土中の水分を植物が根を張り吸うように吸い上げて、ひび割れの中に湿った地面を作るというこの地域特有の岩山の機能を最大限に使うため。
そしてもう一つが。
トリステが、自身らに差す巨大な影に気付く。
その正体を見るために顔を振り上げれば、その先には青空の中急降下してくる翼のある影。
もう一つの理由として挙げられるのが、この地域には妖鳥が住んでいるということだ。
ほぼ平らな岩山の上部に立っていれば、間違いなく襲いくる巨大な魔物が。ごくたまにストラリムに足を伸ばし、象すらもその足で持ち上げて連れ去るという巨鳥が。
先ほどまでは移動していた二人も、今は立ち止まり動かない。常に上空を旋回している鳥たちが、その隙を逃さないわけがない。
遅れて気付いたアルペッジョが息を漏らす。
点のような小さな影が、いくつも急激に大きくなる。ムジカルの鷹よりも速い速度で、自由落下よりも速い速度で迫り来るそれを見て、怯むように半歩下がって反射的に懐の短剣を握りしめた。
「……下がってて」
トリステはアルペッジョを励ますように声をかけてから妖鳥を見る。
それから踏み出した足はふわりふわりと宙を踏み、階段を上がるように自身の身体を空中へと持ち上げた。
アルペッジョは戦えない。闘気を扱えるとはいえ、戦闘はほぼ素人だ。
そしてトリステはいつものように心中で自身を奮い立たせる。
自分は五英将。彼らを守れるムジカル最高位の兵士。
だから、戦わなければ。
音とほとんど同じ速度で鳥たちが舞い降りる。
広げた翼は三丈を越え、腹は白く、背は黒い鳥。目の上にある飾り羽は緑と青と黄色の混じる長いもの。嘴は黄色で、そしてどこかの獲物の血で黒く汚れていた。
疾風のような翼がトリステの下衣の裾をかすめた。狙うはアルペッジョ。空を飛ぶ同胞に近いトリステではなく、地を這う獣。
だがそれをトリステは許さない。すれ違いざまに目で追い、空想の手を伸ばす。
夢の中で人が空を飛ぶとき、多くの人間はその飛行に『頼りなさ』を覚えるという。高さを出せず低空をふわふわと飛ぶ、もしくは進めず空中でもがく、など。
夢の中で生きるトリステはそれを熟知しており、そしてその認識は現実世界をも歪める。
まるで無重力空間で浮かぶように、妖鳥がその落下を止める。しゃぼんの玉のように揺れつつゆっくりと落ちるその鳥は、戸惑いに小さく鳴き声を上げた。
それから彼を襲うのは悪夢の手。
「――――――!!」
声にならない声を妖鳥が上げる。その羽が、翼が、肉が小さく抉り取られていく。その度に一瞬空気が揺らいで見えるのは、人の口。透けるように現れた唇と歯、のみ。それはいつもはトリステを貪る飢えた者ども。
全身から血を噴き出し、空中で妖鳥は藻掻く。そうしている間にも肉は抉られ続け、どこともいえないどこかへと消えていく。
やがて妖鳥は姿を消し、アルペッジョの下に、僅かな血の滴りと僅かに残った白と黒の羽がはらはらと落ちてくる。
足下のひび割れに吸い込まれるように消えていくのを、アルペッジョはただ見送った。
一羽が死んだ。同胞が死んだ。
それを察した残りの妖鳥たちはトリステらの上空で旋回するようにして躊躇する。
しかしトリステは見逃さない。彼らは襲いきたのだ。自分だけならば構わない。けれどもその嘴は、アルペッジョを狙うかもしれない。もし守り切れずにその爪がアルペッジョに掛かってしまえば、と考えれば。
干涸らびた腕を伸ばし、鳥たちの影を追う。
見上げた空は青く、雲のほとんどない快晴。そこには鳥たちと、そしてごく小さな太陽が浮かんでいた。
まるで小さな羽虫のように見える鳥たち。実際は大きかろうが、遠いトリステたちには。
本来手が届かない距離。片肘程度の魔法使いであるトリステからしても遠い。
だが目の前にいる。羽虫のようなその鳥たちは。
実際の手も、魔力の手も届かない距離だとトリステは思う。けれども、届かないわけがない。
だって今、彼らは目の前にいる。
眠気で歪んだトリステの視界の中では遠近感が消失している。青空が斑点模様のついた茶色や緑に歪む。砂嵐の中のような不鮮明な視界の中で、鳥たちが白に縁取られた黒い点として動いている。
懸命に力を込めて、手を伸ばして払うように掴む。
現実の手は届かない。トリステの手は伸びるわけではない。
だが遠い近いなど些細なことで、そんなものは関係がない。だって今、彼らは目の前にいる。
遠い近いなど些細なこと。大きさも小ささも不確かで、何一つ確かなものなど存在しない場所、夢。
夢。そこで生きている彼女には。
アルペッジョはいつものことだという諦めのような驚きと、畏怖畏敬を持ってその様を見つめていた。
仰向けに近い姿勢で空中に浮かんだトリステが手を伸ばす。その手の先、遥か上空にいた妖鳥たちが、まとめてグチャリと潰れたように見えた。
握りしめたトリステの手から血が滴る。その血の出所まではアルペッジョにはわからなかったが、遅れて降り注いできた臓物や半壊した死体に、手の中の生命が絶命しているのを感じた。
トリステの手からこぼれ落ちた血は、空中で透明な水滴に変わる。
その水滴から逃れるように、支えを失った身体が地面へと落ちていく。
思わず走り寄り、そっと抱き留めるように受け止めると、トリステは焦点の定まらぬ目で虚空を見つめていた。
アルペッジョの手には、枕を抱えた程度の重みしかかかっていない。
軽い、と思った。それは三十年前から変わらずに。
受け止められたことに今気がついたかのようにトリステは瞬きを繰り返し、アルペッジョを見る。深く刻まれた隈と痩せこけた頬は病人の様相に近い。
「大丈夫?」
「……アルは心配しすぎよ……ええ」
トリステは抗議をしてから答え、そっと地面に下ろされた足に力を込める。大丈夫、まだいける。まだ倒れるまではしない。
地平線がぐにゃりと歪む。焦点が合わず風景全てが二重に見えて、斜めになったところでようやく自分が身体の平衡を取れていない事に気がついて慌てて戻す。
「行きましょ。離れないで、ついてきて」
答えを聞かずに、またトリステは走り出し、アルペッジョは後を追う。
どちらともなく血生臭さから逃れるように急いで。
アルペッジョは、今度は遅れないように、と気合いを入れる。
けれども疲労で縺れたように進まない足に、そして出会った頃から変わらない幼馴染みの小さな背中に、この頃強くなりつつある焦りが更に強くなったのを感じた。
大丈夫、ついていける。
まだ今は。




