交錯
ネルグ南側は湿潤な気候とはいえ、やはり隣接する地域の気候が影響する。
温くなった空気は僕の魔法によるものではなく、そういう地域ということだろう。ムジカルに近くなり、あの昼夜を問わず吹いている熱風がネルグの木立の中を通り抜けて人々を温めている。
初夏からもう夏になるとはいえ、比較的涼しくなるはずの夜の時間帯。それでも昼と変わらぬ気温。
僕はまだ赤く点々と熱い部分が残る灰を蹴散らして、温くなった空気を吸って空を見上げた。
夜空には燦然と星空が広がり、中には明るい月もある。未だ半月ほどは膨らんでいる、といったところだろうか。
エッセン王都グレーツを出立した頃にはほとんど満月だった月も、今は大分欠けてきている。
ちょうど三十日で欠けて膨らむあの月に、僕は行ったことがある。そう口にしてもほとんどの人間は信じないだろう。あの月には僕をこの世界に連れてきた母がいて、それは古の大妖精アリエルで、そして彼女は今も尚この世界を見下ろして生活している、などとは。
彼女に送った手紙は届いているだろうか。
探索ギルド経由でリドニックに配送され、グーゼルに託して届けてもらった参戦要請は。
もっとも、届いているのであれば既に姿を現してくれているだろう。少なくとも返信はくれるだろう。時間も距離も関係ない月にいるのであれば。
で、あれば。
文を出したのは戦争前夜。しかし、余計なことだったのかもしれない。
まだ戦闘も始まっていない頃だったために、僕も辛く見過ぎていたのかもしれない。
そう細く溜息をついて、僕は今日も灰にしたムジカル軍拠点に目を落とした。
通常、夜は月明かりや星明かりのみとなるこのネルグの中。
葉っぱの茂る木立の中はほとんど完全な暗闇で、光よりも音や臭いのほうが重要となるこの森でも、今は違う。
平原のように広がった広場。開拓村を利用したものではなく、新たに作った拠点だったのだろう。大小様々な天幕が乱立し、砂漠のキャラバンが夜を明かすように皆はしゃいでいた。数百人が一時利用できる共同の寝床だったようだ。
ここには先ほどまでムジカル軍が駐屯していた。
だが今は違う。
明かりは灰の中の火の粉のような燃え残り。風に吹かれて蛍のように舞い上がる橙色の光はすぐに燃え尽きて消えていき、その風で新たに灰の中からまた明かりが姿を見せる。
死体はほぼ残っていない。完全に沈黙し崩壊し、建物も人も蜥蜴も灰と化し地面だった場所と見分けがつかなくなったこの場所に、人がいたとは誰も信じないだろう。
「……相変わらず、容赦ねえな」
遅れてやってきたオセロットが背後から僕に話しかけてくる。
もう見慣れた光景だろう。夜討ちの際にはいつも『こう』なる。もう既に十数の拠点で同じ事を行ってきているのだから。
「焼け残りがいるようです。既に亡くなっておりますが」
「……おう……」
オセロットが僕の言葉に応えて僕の視線の先を見る。
ぽつりぽつりと数名だが、形の残っている人がいる。それでも生の肉はほとんど見えておらず、まさしく『形が残っている』という程度の黒い焼け焦げだったが。
ムジカル兵はやはりもう正規兵が主らしい。民兵は皆死んだのか撤退したのかはわからないが、軍を構成するのは主に正規兵。
だからだろう。木々を灰に変える程度の低温に抑えているとはいえ、形が残る事が増えてきた。
それでも耐えきるような者がまだ現れていないのは僥倖かどうかはわからない。
オセロットがついてきていた騎士団に指示を出し、一応の生き残りや残骸を捜索しにかかる。未だかつて、生きていた人間はいないのだけれども。
味方拠点に引き上げた僕たちは、ほとんど誰の出迎えも受けることなくそれぞれの天幕へと戻った。
既にオセロット隊は聖騎士団の集まりだけを残し、騎士団のほとんどを分散させて周囲に薄く布陣させている。
約二千五百ほど割り当てられていた兵力はたびたびの戦闘ですり減ってはいるものの、ほとんどは既に陣地確保にかかっていると言ってもいいだろうか。
ここまで戦線を押し上げたとして、後方からの援護を待つ段階だ。明日には後方の聖騎士団も移動することになり、じりじりとエッセン軍は全体的にまた前進する。
そのおかげというのも変だが、味方拠点は数日前と比べてもこじんまりとしたものとなり、天幕も数は少ない。
既に捕虜を持つ敵拠点も少なくなってきている。事実、今日潰した三つ共にエッセン人の捕虜は存在しなかった。
よって天幕は聖騎士団用のものが二つ、それにまだ帯同中の騎士団用が三つ程度。
人員の補充を受けた上でまたオセロット隊に残った参道師も、随分と仕事が楽になったと溜息をついていた。
そして僕も、自陣に戻る。
もっとも僕が寝泊まりする場所は変わらず天幕のない場所で、そしてその場所には招かれざるわけではないが招いていない客がいたが。
拠点から少しだけ離れた木立の中。
燻らせたままの火の明かりがぼんやりと照らす空間。その焚き火を囲んでいるのは三人。
そのうちの一人スヴェンは僕に気がつくと視線を向けて、その視線に気がついてもう一人のパタラは暗闇の中に目をこらした。
そして最後の一人、金髪の男性は、こちらに背を向けたまま枯れ枝を燻る火に投げ込んで、呟くように口を開いた。
「やあ、今日もお手柄だったみたいだね」
「……来てたんですか」
明かりの範囲に僕が入ると、パタラが軽く会釈する。そしてようやくレイトンはこちらを振り返り、頷きもせずに目を細めて笑った。
「カラス殿の古いご友人とお伺いしましたが」
僕が騎獣にくくりつけてある枯れ枝の束の数を数えていると、パタラが恐る恐ると尋ねてくる。
僕はその質問に思案する。古い、はまあ正しいかもしれないが、友人というのはなんだろう、ちょっと違う気がする。
まあ、本人の前で殊更に否定はしまい。
「自己紹介などはもうされたでしょう?」
「はい。探索者の方だとか」
「〈血煙〉のレイトン・ドルグワント。それなりに有名ですよ」
僕が肯定して、そして情報を付け足すと、パタラの横にいたスヴェンが噴き出すように笑う。頬をつり上げた楽しげな笑みで。
「なるほどなるほど。本物だったか」
「レイトンさんには紹介はいりますか?」
「いらないよ。さっき本人たちから聞いたからね」
「そうですか」
とりあえず、明日の分の燃料は足りそうだ。最近はパタラも心得ているのだろう、自主的に補充をしてくれているようだし。
「それで、何の用です?」
「この戦争が始まる前に言っただろう? 一つ頼みがあるって」
「…………ああ」
ここでか。僕はそう頷くように納得する。また良いようにこき使われている気もするが、しかしこれも取引だ。王城、王の演説の時に交わしたほんの小さな口約束で。
「ここから少しだけ進んだ場所に、いい岩山があるんだ。協力してほしいのはそこさ」
言いながらレイトンは一枚の折りたたまれた紙を腰の隠しから取り出し差し出してくる。
もう片手で自分の唇の前に人差し指を立てるのは、『内緒』もしくは『喋るな』ということだろうか。
僕は歩み寄り黙ってそれを受け取り開く。
そこには、いつか見た彼の姉と同じような達筆の文字で、詳細な指示が記されていた。
「簡単だろう?」
「出来なくはないと思いますが」
そこに書かれていたのは、本当に単なる指示。
「《山徹し》でいいんですか?」
「いいと思うよ。別に違う魔法でもぼくは構わないけれど、その辺りはきみが考えてくれてもいい」
図示され、文章でも指示された場所で《山徹し》を使えというごく簡単なものだ。
事後、細々とした問題は起こらない……と思う。所詮無人の場所にいくらかの魔法を放つだけだ。確かに以前言っていたとおり、誰も傷つけない……のではないかと思う。
「わかりました」
そしてまあ、約束は約束だ。僕は紙を畳み直し、指先で火をつける。元々そういう細工がしてあったのだろう、一瞬で燃え上がった紙は灰も残さず瞬いて消えた。
「ぼくの用事はそれだけかな。これでもう、しばらくはきみと会うこともないだろう」
「そうですか」
「つれないなぁ。七年来の付き合いじゃないか」
ひひひ、と楽しげにレイトンは笑う。しばらくは会わない、というだけでこちらとしては心安らかなのは本当だし、その言葉を否定する気もなかった。
「でもまあ、楽しかったよ」
「それはどうも」
「…………じゃあ、最後に一つだけ、老婆心をやいておこうかな」
僕の反応が思ったとおりだったのか、それとも思ったものではなかったのか、それはわからないが、レイトンが真顔になり立ち上がる。
そして僕に身体を向けて、歩み寄って視線を交わす。
「この戦争、ぼくが思った以上にプリシラの干渉が少ない。あいつがちょっかいを出しているのは、きみの麾下のコルネア・ソラリックを入れても数人ってところさ」
「……あの人にも、ですか」
レイトンの言葉に僕は悩む。別にプリシラに悪感情があるわけでもないし、その意図がわからない以上どうともいえないのだが。
未だに彼女の評価は僕の中では定まらない。
スティーブンや僕に彼女が与えた影響は、きっと良いものだったと未だに思っている。リドニックで彼女をスティーブンが褒めていたのは本心だろう。だが、同時期聖騎士プロンデを殺した彼女を良い人間だとも思えない。
王城でのジュリアンの横暴さに眉を顰めていたのは本心だろうと思う。そんな良識は僕の基準にも合致する。
ならばソラリックとの接触があったとして、その結果はどうなるのだろうか。
……もう少し、わかりやすければいいのに。
ソラリックとプリシラの接触の意味を考えていた僕を気にする様子もなく、レイトンは僕の顔を覗き込むように身体ごと首を傾げた。
「でも、手出しをしていない。エッセンにもムジカルにも肩入れをせずに、ただ見ている。その意味がわかるかな?」
「…………なんとなくは」
僕は目を逸らし回答する。
この問答からではない。以前レイトンに聞いた彼女の行動原理からすると、だが。
彼女は弱い者を助け、強い者に敵対する。だから『強い者』であるプロンデを殺したのだ、とも。
そしてエッセンもムジカルも、『強者』でもなければ『弱者』でもない。
つまりまだ、この戦争の勝敗は決まっていないのだ。……いつも通り回りくどいことを。
「きみはここまで快進撃で来た。碌な手傷も負わず、帯同する第八位聖騎士団〈孤峰〉は第六第七と違って一人の死者も出さずに。ムジカル軍に対し、一方的な鏖殺を繰り広げてきた」
「結構な言われようですけれども」
鏖殺、とまで言われるようなことはしていないと思う。ここ数日は何人か襲撃前に撤退を許してもいるようだし。
僕が抗議に唇を尖らせても、レイトンは笑って流す。
「普通に考えれば、勝敗は明白だよね。きみの働きは多大な戦果を叩き出し、この勢いならばムジカルの王城を落とす事すら出来るはずさ」
「……でも、そうはならない」
「そう」
僕の予測に、レイトンは頷く。そう言わせたかったのだろうと僕が口にした言葉を一切否定せず。
だが、言われてみればそんな気もする。そう思っているのだろう、少なくとも、プリシラは。
「そうはならない。少なくとも、今のままでは」
「やはり五英将ですか?」
「だろうね。あと二日くらいで全員の居場所がわかるだろう」
「二日」とスヴェンが小さく呟く。弾んだ声で。
そして他の声もかかる。
「ドルグワント殿は……」
ん、と僕とレイトンは揃って声の方を向いた。
座ったまま、声を上げる人間がいる。パタラは膝に手を置いた行儀の良い姿勢のまま、レイトンに向けて口を開く。
「ムジカルの情勢にお詳しいのですか? 特に五英将の動向など……」
「……いいや。憶測だよ」
笑顔で首を横に振ったレイトンを見てから、不思議そうな顔をしてパタラは僕を見る。
先ほど僕がいないときにも談笑していたようにも見えたが、今ここで疑問に思ったということはその類いの事は話していなかったのだろうか。
「気を抜かないでね、ってことさ」
誤魔化すように、何も返事になっていない言葉をレイトンが吐く。ひひ、と含み笑いをしながら。
「話は終わったか?」
そしてもう一人、口を挟む者がいる。
スヴェンが腕をだらりと垂らしたまま、ゆらりと立ち上がる。力の抜けた身体が、直立しているのに波打つように曲がって見えた。
牙が並んだようなその口が、ニイと歪む。
「〈血煙〉〈鈍色〉のドルグワントと確証が取れた。不意に殺してしまってはいけないと思っていたが、もはや遠慮はいるまい」
「さすがにいると思うけど。ぼくは敵じゃないよ」
愉悦の笑みを浮かべたスヴェンと、苦笑するレイトン。スヴェンは何をするとも言っていないが、二人の間でもう話はついているらしい。
交わされた一言二言で、もう事情の察しはついたけれども。
だが、あまり望ましくはない。
「やめたほうが……」
「いいよ、カラス君。少しだけ付き合うから」
僕に顔を向けず、レイトンが手をひらひらとさせて僕の言葉を遮る。……なんとなくこの動作、自分がやっている気がする。
僕は感じた面倒くささに眉を顰めつつ、パタラの側に寄る。そして未だ何の話をしているのかわからないパタラの前と、周囲へ耐衝撃と防音のための障壁を張った。
「腕試しといきたい。付き合え」
「…………」
薄ら笑いを浮かべたまま直立するレイトン。
そこに、一足飛びにスヴェンが飛びかかる。一拍遅れて周囲に響き渡った破裂音に、焚き火が吹き飛ぶように火の粉を散らした。
いつの間にか刃物と化していたスヴェンの手がレイトンの首に突き刺さるように伸びる。
だが。
風切り音と移動に伴う衝撃波の音に混じり、ピシ、と音がした気がする。スヴェンの腕から。
そして派手に動かしたスヴェンの腕は身体の動きについてこず、その腕の断面をレイトンに向ける結果となった。
スヴェンの二の腕から先が空中に残る。
一瞬驚いたようにも見えた。銀髪が揺れて、その額に汗までも見えた気がした。
けれど次の瞬間には、その断面から新たな銀色が見える。
杭を打つように尖った先端が現れ、改めてレイトンの喉へと伸びる。
そしてその杭はレイトンの持つ白い光を帯びた木の枝にぶつかり音を立てる。
衝撃波が周囲に放たれビリビリと空気が揺れる。
ドサリと音を立て、切り落とされたスヴェンの腕が地面に落ちる。木の枝に裂かれ、二股に分かれ止められたスヴェンの杭。後に残るは静寂。一瞬の交錯。パタラには何も見えなかったのではないだろうか。
傍から見ていた僕も自信がない。いつレイトンはスヴェンの腕を切り落としたのだろうか。木の枝をいつ拾って構えていたのだろうか。どちらも『おそらくこの瞬間』というのはあっても、はっきりとは。
音も空気の流れも届いていないはずだが、不審な気配が届いてしまったのだろう。
いくつかの天幕で灯りが揺れる。
そして、明かりのなくなったこの場所で何かが起きていることを見つけられず、幾人かが見張りの下へと走っていった。
スヴェンとレイトンは動きを止めて、お互いに笑い合う。
「楽しいな」
「気は済んだだろ?」
「いいや、是非とも最後までやりたい。最後まで、最期までな」
「それはお気の毒。葉雨流暗殺師は私闘で命を奪うことを禁じられているんだよね」
不満げにスヴェンは腕を引き抜く。シュルシュルと触手状に分裂した金属製の杭が、すぐに腕の形に作り替えられていく。
木の枝の光が止まり、レイトンはそれを投げ捨てた。枯れ枝が草の上にほとんど音なく落ちた。
「では依頼すればいいのだな? このスヴェン・ベンディクス・ニールグラントを殺せと」
「この仕事が終わったら改めて依頼してよ。それまでは他の仕事は考えられないからさ」
ひひひ、とまたレイトンは笑う。どことなく楽しげに、寂しそうに。
それからその顔を僕らに向ける。
「じゃあね、カラス君、後は頼んだ。ニールグラント君にパタラ君、さようなら」
「……どこで寝泊まりを?」
「適当なところさ」
踵を返し一歩踏み出したレイトンはこちらを振り返らず、手だけ振って歩き続ける。
それから暗闇の中に白い服が消えてなくなるまで、僕ら三人は彼から目を離さなかった。




