閑話:右往左往
ソラリックの閑話群は終わり
暗闇の中、レシッドは目を覚ます。
夢の中からの覚醒時、人は時々戸惑うものだ。見当識を失い、ここはどこで今はいつかと一瞬戸惑い、そして多くはすぐに気を取り戻す。
レシッドもその例に漏れず暗闇に戸惑い、そして次の瞬間、気付いた。
手遅れだ。
月と星の光を頼りに、レシッドは現在位置を再認識する。
ここは屋外。ネルグの森の中、エッセン軍の後方拠点の一つ。聖騎士団が駐屯するような場所ではないが、救出された元捕虜の移送のために中継地点とされている拠点。
今日はここで一泊し、明日の朝また最終目的地である第九位聖騎士団〈琴弦〉の駐屯地を目指す、という予定だったはずだ。
木の幹から背中を引き剥がし、静かに走り出す。
未だ周囲の森は静かで、獣の気配一つしない。しかしざわめきは止まず、それ故にレシッドはもう既にそこが危険地帯と判断した。
(甘く見てたな……!)
舌打ちの音だけが響く。レシッドが休憩場所として選んだのは、今現在休んでいる拠点の端、拠点の大半を見渡せる離れた木の根元である。当然、治療師団が使う天幕なども監視できるため、ここで充分だと思っていた。
しかし、甘かった、とレシッドは内心また舌打ちをする。強引にでも、ソラリックも屋外で寝かせればよかった。治療師団の天幕でレシッドも寝るという手はあったが、周囲を見ることが出来ないそれは悪手だと今更また思った。
どちらにせよ、ソラリックから離れるべきではなかったのだ。後方に近いといえども、やはりここは戦場、そして魔物の巣窟ネルグの森の中なのだから。
拠点の周囲には歩哨もいる。けれども、レシッドはそこに見つからぬように気を配った。
治療師団の天幕に走り寄り、音もなくそっと扉代わりの幕を押しのける。雑魚寝に近い様子でそれぞれ一枚だけの薄い毛布を被り寝ている治療師たちの中で、目的の少女はすぐに見つかった。
すやすやとよく眠ってら。そう、内心嫌みを吐いてから、他の治療師たちを跨ぎ彼女の傍に寄る。
それからしゃがみ込んで様子を確かめれば、たしかに熟睡しているようで口の端に涎を垂らしてソラリックは身動き一つしなかった。
このままならば、いいだろうか。
そっとレシッドは、ソラリックの肩と膝の下を抱えて持ち上げる。
敏感な人間ならばそれだけでも覚醒するはずの動作だったが、それでも変わらない様子にレシッドは呆れも混ざる安堵の息を吐く。
出来ればこのまま運んでしまいたい、とレシッドは思ったが、そうも言っていられないと渋い顔を作る。
これから待っているであろう荒事の最中、覚醒してしまっては更に迷惑だ。もっと深く眠らせておきたいが、さすがにレシッドは眠り薬の類いは持っていない。それに点穴も魔力使いであるソラリックには効果が出ない。
誰も起こさぬよう、細心の注意を払いながらレシッドは天幕からソラリックを運び出す。
歩哨の目を躱す物陰に置いて、それから毛布ごとソラリックを抱き起こし、口を塞いだまま身体を揺さぶった。
「起きろ」
「ふに……ふへ……?」
何度か揺すり、ようやくソラリックが目を開けるのを確認し、レシッドは空いた片手で自らの唇の前で指を一本立てた。
「静かに、喋るな」
「ふぁ、へ?」
「喋るな」
お願いだから、騒がないでくれ。
そう内心懇願しながら、レシッドは喋るなと繰り返す。見方によっては婦女暴行の現行犯だな、ともどこか冷静に考えつつ。
ソラリックはその顔をようやく認識し、自分がまずどこにいるのかを確認した。
自分は治療師の天幕で寝ていたはずだ。それが今屋外にいる。そして目の前にはレシッドがいる。レシッドは自分の口を塞ぎ、大声を出すことを禁じている。ならばきっと、連れ出した……というよりも運び出したのはレシッドなのだろう。
一瞬、まさか自分の身体を? とソラリックは考えた。ここは暗闇、おそらく周囲に誰もいない場所。そこでレシッドは自分を組み伏せるように拘束し、そして騒ぐなと命令している。
ここまで彼は好色なようには見えなかったが、しかしここは戦場、通常の精神状態でいられる場所ではない。それに、彼も男性だ。魔が差したということもあるかもしれない。そういった経験のないソラリックも、男性にはそういうときがある、と誰かから聞いたことがあった。
だが、それでも納得は出来ないし、もちろん意中の男性でもない彼の相手で純潔を散らしたくもない。
「んー! んむー!!」
「騒ぐなって。騒がねえならすぐに手を離すし事情も説明するから」
くぐもった声は周囲に響いていないが、それでも歩哨の騎士は気付くかもしれない。もう、そうなってもいいのかもしれないとレシッドは思い始めたが、それでもこの『優位』を消したくはなかった。
囁くようにレシッドは懇願する。やはり点穴などではなくとも、強引に気絶でもさせておくべきだったか、と思いつつ。
「静かにしろ。カラスに言われたこと覚えてんだろ。非常時は、俺の言うことに従えって」
「んー……?」
未だ理解していなかったソラリックだったが、その言葉にようやく気がつく。レシッドの顔が、緊張を湛えていることに。
そして、数日を共に過ごした彼への信用が、一応と首をもたげる。
最後に、非常時、その言葉が彼女に『それ』を思い出させた。
身動きを止め、コクコクと頷くソラリックにようやくレシッドは軽い拘束を解く。拘束といっても、ただ口を塞いでいただけなのだが。
身体を起こしたソラリックに彼女の荷物を手渡し、立ち上がるように促す。
「急いでここを離れる。済まねえがここからは騎獣も連れていけねえ」
「……どういうことですか?」
騎獣車の運搬用に、騎獣は騎獣車の車体の近くに繋げられている。それを取りにいくことが出来ないわけではないが、その強奪に近い動きは騒ぎになる。そういった騒ぎにすることもレシッドには憚られた。
何せ、今は絶好の機会なのだ。
不意を突いて脱出できる、きっと最後の。
「包囲されてら。二百か? 三百か? 数もわかんねえけど大勢に」
レシッドは近くの森を睨む。暗闇の中に、ちらりと光る目が見えた気がする。人間ではなく獣、それも魔物だろう。しかしその中に混じる『臭い』は、人間のものでもある。
「どうして……?」
「勘」
ソラリックに問われ、それ以上の説明が出来ずにレシッドは口を噤む。実際、そうとしか言い様がない。森に満ちる殺気に、ざわめき。この全身の毛が逆立つような感覚。探索者として生き延びるために鍛え上げられた危険察知能力を、レシッド自身は完璧に信頼している。
そして、ここまで自分に気付かれなかった。それがまた恐怖を呼ぶ。
レシッドとて素人ではない。たとえ敵兵でも、魔物でも、警戒網に触れた拠点包囲の動きを察知する能力はある。それを躱してここまで包囲した敵。明らかに『知恵』という強さがある。
(魔物の群れならいいんだが……人間がいそうってところも引っ掛かる)
まだ不確定情報であるが故に、ソラリックには伝えずにレシッドは考える。
魔物の群れならばいい。脅威は脅威だが、所詮は習性に従うだけの強い獣。逃げるというだけならば、レシッドからすればどうということはない。
敵兵の群れ、としても同様だ。人間の能力にはどんな人間でも限界がある。ニクスキーやスヴェン相手でもなければ逃げ切れる自信はあった。
しかし、相手が魔物と人間、その二つが混じっているようなものであれば。
通常、人間と魔物は共に群れを作ることはない。
しかし今それを、強制的に作らされているとすれば。
最悪の想定に手が伸びて、レシッドの頬に冷や汗が垂れる。
厳しい顔で一瞬黙り込んだソラリックは、ようやく自体の重大さを悟る。
でも、だったら。
「患者を起こしてきます」
「駄目だ」
走り出そうとするソラリックの肩を後ろから掴んで、レシッドは止める。足手まといは一人で充分だ。それ以上を増やしたくはない。
「でも……!」
「うわあああああああ!!」
遠くで叫び声が聞こえる。歩哨をしていた騎士の声。
「ちっ……!!」
ソラリックに聞こえるのも気にせず舌打ちをして、レシッドはソラリックを横抱きに抱える。行き先は声と逆方向。そのまま自慢の足に力を込めて跳べば、瞬く間に天幕が遠くへ去った。
「待って! まだ……!!」
「黙ってろ舌噛むぞ!」
もがくようにソラリックは手を伸ばす。
だって向こうにまだ、助けられる人がいるのに……!
いくつもの天幕を越え、下草も刈られていない木々の中に駆け込もうとしたレシッドは、空中で更に身を翻す。
ソラリックから手を離せない。しかし、このままでは。
慌てて反転させた身体。闘気を賦活させ、身体を強化し備えれば、背中にいくつも鋭い衝撃があった。防刃性のある服とレシッドの身体に阻まれ突き通らなかったそれは、数本の矢。
こちらも既にか、と着地したレシッドは、暗闇の中を睨んで立ち止まる。
ソラリックを立たせて、腰の小剣を抜く。
地面に落ちた矢を見れば鏃は黒く塗られていた。用心深いことだ、と感心しながら暗闇の中を見つめれば、また風切り音が響く。
今度は明らかにソラリックに向けて放たれた矢をまとめて片手で切り払えば、暗闇の中の兵士が舌打ちをした音が響いた。
「おい! お前ら……!」
背後から声が響く。明らかに自分に向けられているものだとレシッドは感じたが、今振り返ることは出来なかった。
暗闇の中に何かが見えた。木々に遮られ星の光も届かない奥に、人間と、確かに獣の姿が。
前を向いたままのレシッドに代わり、ソラリックが振り返る。松明を持ち、銀の鎧を輝かせている騎士は、確かにエッセン軍だ、とも確認した。
「味方……みたいです」
「ああ、そっちはな」
『そっち』? とレシッドの言葉にソラリックは騎士に視線を戻して見て気付いた。
その騎士に後ろから走り寄る影もある。
武装している風ではない。両手には何も持たず、そして影は鎧の形をしていない。
だが、ソラリックは不思議に思った。
やけに頭部が大きく見える。まるで頭だけが風船のように大きく膨らんでいるようで、肩幅とほぼ同じような幅の頭部が身体に乗っていた。
それに、頭部の形もおかしい。妙に凹凸がある。まるで、耳が上についているような。まるで、鼻から口元にかけてが前方に突き出しているような。まるで舌を出して、ハアハアと荒い息を吐いているような。
「そこで何を……ぐぁ!?」
そしてその奇妙な人型の影が騎士に後ろから襲いかかる。
「やめ……貴様あぁぁ、この……!」
騎士の松明に照らされて、ソラリックはようやくその襲いかかった『怪物』の姿を見た。
身体は裸の人間そのもの。筋骨隆々とし、おそらく男性の形。外性器もそのままで。
しかしその頭が。
「……ひっ……!?」
ソラリックは悲鳴を上げそうになり、両手で口を押さえた。
その頭は大きな犬の顔。鼻は潰れ、皮膚はたるみ、毛もないがたしかに。
「ぐわぁぁぁ!!」
ガウガウと声を上げつつ、その生物が騎士の頭を兜ごと噛み砕く。それから一度口を離して兜だけを吐き出すと、抵抗のなくなった騎士の胴体を掴んで、しゃぶるように頭を口に含んだ。
手が届かない遠くにいるにもかかわらず、じゅるじゅると何かを啜る音がする。
レシッドは一瞬だけ身体を揺らし背後を確認し、そして音を聞いて嫌悪感に顔を歪めた。
(野狗子かよ。こりゃ、まじでやべえな)
野狗子。それはネルグ中層で目撃されることが多い魔物。
人間の身体を持ち、犬の頭部を持つ獣。群れで狩りをし、死体の脳髄を啜る。
その偏食に近い習性の理由はわかってはいない。けれども、誰かは言った。彼らは脳髄に宿る知恵を求めてそれを啜るのだと。知恵なきが故に。
レシッドの身体に背中をつけ、ソラリックがへたり込む。残忍な目の前の光景から、目も逸らせず。
そして足下に邪魔な物体があるレシッドの状況。故に動きづらく隙となるそれを、逃すムジカル兵ではない。
暗闇の中から躍り出る影がある。黒ずくめでもないが、全身を黒に近い服で包んだその男は、ムジカル特有の幅の広い曲刀を携えていた。
レシッドは短剣を改めて構え、一歩前に出る。その後ろでソラリックが支えを失い倒れそうになったが、それを気にすることは出来なかった。
回るようにして繰り出される連撃。一瞬で銀色の線をいくつも描くような見事な鋭い剣閃をすんでの所で躱し、その剣を払う。
下がるわけにはいかない。ソラリックの安全を考えれば。
そう下がろうとする自身の足を戒めつつ、代わりにとその足を振り上げる。暴風のような剣撃の隙間の一瞬。そこを突き、蹴り上げた先にあった顎が跳ね上がる。
相手の剣がまだ届く前に、足が振り下ろされ、それと同時に、更にレシッドが振るうのは神速の剣。
勢い残る相手の剣を躱しきれず、レシッドの胸にごく小さく切り傷が走る。
だがその代わりに、次の瞬間には敵兵の喉が一文字に切り裂かれていた。
暗闇の中で、ピュウ、と誰かの口笛が鳴らされる。称えているようなものではなく、軽口のようなものでもない、単なる連絡のための鋭い音。
森がざわりと音を立てる。
そして、また。
「……まじかよ」
レシッドもソラリックのようにへたり込みたくなる。
木々の隙間、暗闇の奥。立ち並ぶ木々の一本一本から、ひょこりと顔を出す頭があった。視界の中に見えて立ち並ぶ数十本の木々一本一本に、数頭ずつの猿の顔。
朱厭。赤い猿。ネルグ浅層から中層にかけて暮らす魔物。一頭でも殺されれば、その群れ全てが執拗に犯人を追いかけ復讐を成し遂げるという情深き者ども。
それが、総勢数百頭も光る目でこちらを見ている。
こちらを見て、笑った。
泣きそうになりながらレシッドは振り返り、ソラリックに手を伸ばす。今度は掴む位置は胴。まるで猫を拾い上げるように掬い上げたまま、また拠点の中央部に向けて走り出す。
こちらは駄目だ、なら、どこから。
「レシッドさん! 戻るなら、……戻って患者の人たちを……!」
「うるせえそんな暇あるかよ畜生! 文句言うなら置いてくぞこのやろう!!」
涙目になりながら、そして実際に涙を流しながらレシッドは駆ける。すぐさま心を立て直し、涙を拭かずに堪えて止める。いけない、涙は視界を塞いでしまう。
もう本当にこのソラリックも置いていってしまおうか、などという考えまで浮かぶ。
最悪の場合は、それでもいいと言われているのだから。
食事を終えた野狗子とすれ違いざまに、レシッドは空いた片手で剣を振る。
鮮血が飛び、辺りに散る。ソラリックが見たときには、遥か後方で先ほどの怪物の死体が血を噴き出しながら倒れていた。
先ほど聞いた叫び声に、ようやく皆起き出してきた頃。
眠気眼を擦りつつ天幕を這い出てきた騎士がこちらを見咎めたのがレシッドにはよくわかる。
「おい、お前……!」
「…………!!」
皆の安眠を妨害する争乱。それはお前が起こしたのか、という詰問する視線をいくつも浴びながらレシッドは無視して駆けていく。
今はそんなことに構っていられない。こんなことならば最初から歩哨に警戒を告げて皆を起こせば良かった、などとも考えたが、まだ遅くないと気を取り直す。
包囲に穴はあるか、と考えつつレシッドは高く跳んだ。
夜の中空。見下ろせば一里四方もない拠点が眼下に見えて、周囲は漆黒の闇に近い森。周囲に火の明かりなど人間の痕跡を示すものは見つからなかったが、木々の揺れがそこに『何か』がいることを示している。
(……くそがぁ! せっかく新しく買ったってのに!!)
腰の隠しから取り出したのは、胡桃よりも大きな玉。硝子に似た透明な殻を持つそれは、以前使い切り、そして今回参戦するために念のために新しく求めておいた懐かしの魔道具。本来は懐炉という長閑な使い方がされるはずの。
それを二つ指の間に持ち、過剰に闘気を込める。ピキ、と弦が引き攣れたような音を放つのを聞いたか聞かないかわからぬ間に、球体をそれぞれ正反対の森へと投げ込めば、次の瞬間強烈な音と光を放った。
(西側、大量! 南東側、ほぼ大量……! 北東……いけるか!?)
一瞬の閃光に照らし出された魔物や人間の数をレシッドは大まかに数える。人間はそう多くはないが、祭りの日の雑踏のように獣たちがひしめき合う影を見て、またレシッドは泣きそうになった。
「襲撃だぁ!!」
騎士たちの手でガンガンと鐘が鳴らされる。
どちらかといえば包囲している魔物たちに反応してではなく、自分の行動によるものだとレシッドは薄々感づいていたがそれも無視した。
「ひぇ……!」
体重移動だけで空中で身を翻す。腕の先のソラリックが小さく声を上げたが、もはやそれを妨げる気もない。
静かに自分たちだけで脱出するという案は潰えた。
ならば多少騒がしくとも問題はない。
着地したレシッドたちに飛びかかってくる影がある。牙と角が三本ずつの小さな猪。育てば彼らは大地を揺るがし地盤を崩すという。
その猪は、ソラリックの瞬きの間にレシッドの手で両断される。
辺りが騒がしくなる。魔物の襲来、それに何かしらの破裂音。それでも皆戸惑うばかりではない。辺りは騒然とし、野狗子や朱厭たちが騎士を引き裂き、また返り討ちに遭い引き裂かれる。
レシッドはその様を見つめて、包囲の手薄な北東へと急ぎ歩を進める。
静かに自分たちだけで脱出は出来なくなった。
ならば精々、皆混乱に陥って注目を引きつけてくれれば幸いだ。彼ら騎士たちはレシッドの中で警護の優先順位すらつかない最下位以下で、守らなくてもよい対象なのだから。
「グオォォォォ……!」
走りつつ、寄ってくる魔物をレシッドは切り払い続ける。
殺すよりは急ぐ方を優先させ、取りこぼしを多数出しつつ。
いつの頃からか、ソラリックはただ黙っていた。走る衝撃に腹を押されてたまに呻くことはあるものの、基本的には静かに。それがレシッドには僅かに不気味にも思えたが、都合も良いことであるし、と気にもしなかった。
「ぎゃあああ!!」
やがて、怒号に悲鳴が多く混じり始める。それは人間と魔物たちの趨勢が決した合図であり、人間たちが晩餐に変わり始めたという徴だ。
「助けっ……!」
そして晩餐となる人間は、騎士たちばかりではない。
まるで戦う術を持たない民間人。開拓村にいた元捕虜たちは、腕っ節が強い者もいないわけではないが、この場では無力だ。
走り去るレシッドの横で、天幕が派手に破かれる。朱厭の手により引きずり出された若い男は、その爪に腹を破かれ叫び声を上げた。
レシッドは立ち止まらない。自分の命を守るために。
立ち止まれない。今手の先にある小さな命を一つ守るために。
その手の先で、ソラリックは耳を塞ぎたい気持ちになる。
胸を満たすのは無力感。ここは戦場で、ソラリックたち治療師は介入できるような力を持たない。
視界の端で、少女が苦悶の表情を浮かべる。その後頭部に齧り付く狗の顔は、無表情で何かをじゅるじゅると啜っていた。
酷い、と思った。
助けたい、と思った。
今はレシッドの手により運搬されている身。だがこの手を振り払い、彼らに手を差し伸べられたらどんなにいいことだろうか、と思った。
彼らはここで死ぬべきではない。いいや、誰だって、望まない死を与えられるべきではないのだ。それなのに。
情けなさにソラリックの目に涙が浮かぶ。
自分は無力だ。助けるための手を伸ばせない。
わかっている、今この手を伸ばすわけにはいかない。この森に入って、カラスに、そしてレシッドに何度も言い含められた。ここは人外の森。生き残りたければ自分たちに必ず従わなければいけない、と。そうでないと守れないから、と何度も。
理解している。それでも。
またなのか、という言葉が喉まで出かける。
また助けられない。今目の前で苦しむ人々を。そして責めるのは、助ける術を持たない無力な自分。
せめて、眠らせている彼らを覚醒させてあげたい。そうすれば、もしかしたら逃げられるかもしれない。手も足も、完全ではないが機能は戻っているのだ。ならば。
だがそんなわがままが、言えないことも理解している。
揺られながらも見上げる先には真剣なレシッドの顔。小柄といえども成人の自分を不安定ながらも持ち上げて、落とさず運んでくれている彼。
その気遣いを裏切るわけにはいかない。所詮自分は守られている側なのだ。
目の前で飛びかかってきた人間の頭をレシッドが割る。
その血はソラリックにはかからなかったが、それでも身体のどこかに飛んだ気がしてソラリックは不快感を覚えた。
そして、レシッドの足が止まり、ソラリックに「立て」と声がかけられる。
不思議に思ったソラリックが支えを失った身体を立て直すと、レシッドは固い声で「下がれ」と短く口にした。
包囲を抜けられそうだ。そう安心していたレシッドは、森に駆け込んでいくらかの時間の後、立ち塞がった集団に足を止められた。
「イグアル様に献上できそうな獲物だ! 収穫にかかれ!!」
目の前にいるのは八人。それぞれが先ほどの兵士と同じような装いで固めており、黒い服はやはり夜襲用か、とどこかレシッドを安心させた。
そして一際目立つ中央の男は、片目が大きな傷跡共に潰れている。その男が命令を下しているということは、おそらくその集団の頭目なのだろう、とレシッドは目測を立てる。
「殺すな! 男はイグアル様に、女は俺たちで使うとしよう!!」
部下たちは誰も返事をしなかったが、それでも同意したことは空気でわかった。
「……そりゃごめんだ」
レシッドは自信を奮い立たせるために軽口じみた独り言を呟き、短剣を構え直す。それにも構わず剣と同じ長さの短棍を手に襲いかかる一人目の男の指を切り落とし、流れるように首元を搔き切った。
元よりレシッドも探索ギルドが誇る色付きの一人である。簡単に負けるような腕前ではない。
一つ、二つ、と切り結び、男たちの攻撃を凌ぎ反撃を加える。
男たちも尋常の腕ではなかったが、それでもレシッドに一太刀浴びせるまでに三つの傷を受け、そしてその傷のうち一つは急所を抉られる。
闘気の込められた鉄の棍棒に打たれて、レシッドの腕の骨が軋む。久方ぶりに感じた痛みに、僅かにレシッドの息が上がった。
それでも目の前の男たちは一人二人と減り、打ち倒したのは五人。残りは二人。骨の痛みを堪えながら剣を向ければ、二人共が視線を交わして頷きあった。
(何を……)
一瞬レシッドは不審に思うが、それも束の間。男たちが森の奥へと駆けていく。
逃げたか、と考えたレシッドは軽く跳んでそれを追う。
後顧の憂いを残すわけにはいかない。自分の足ならば容易に追いつけるし、逃げる相手ならば簡単に殺せる。それからソラリックを連れて逃げれば……。
だがそれも数歩。すぐに違和感が心の内に顔を出し、その結論を導き出す。
(……馬鹿! 一人足んねえ!!)
すぐにレシッドは思い直し踵を返すが、その視線の先、おおよそ十歩程度の距離の先には、レシッドの判断の失敗を表す光景があった。
「くく……この娘が大事と見える。お前の女か?」
「…………ぇ……」
そこには、背後から手を回し、抱きつかれるようにして拘束されたソラリック。そして拘束しているのは、先ほど見失った頭目らしき男。
レシッドは歯噛みする。最初から後手に回ってしまったとはいえ、今日は失敗続きだ、と後悔した。
追うべきではなかったのだ。それはただ、自身とソラリックの距離を離すための陽動だったのに、と。
「私はムジカル軍千人長のマルッチアーレ。投降しろ、この女の命が惜しくば」
「…………」
「断れば、私たちが楽しんだ後、私のかわいい部下たちにこの女をくれてやることになる。生きたまま脳髄を啜られるか、生きたままちみちみと腹を引き裂かれ囓られるか、好きな方を選ばせてやる」
「……魔物使いか」
やはり、とレシッドは思う。
現れた魔物は複数の種類で、そして人間たちまで混ざっている。だが通常は、同じ獲物を別々の魔物が争い襲うことはあっても、ここまで統制の取れた集団を作ることはない。
やはり、統制をとる誰かがいた。そしてそれは、目の前の。
レシッドは内心、最悪の展開だ、と呟いた。
魔物相手ならば逃げられる自信があった。奴らには知恵がないから。人間相手ならば逃げられる自信があった。奴らには力がないから。
だが、魔物使いが統制している以上、彼らには知恵がある。もちろん個々としては変わらないかもしれないが、群れとしては、人間の知恵を持ち魔物の力を持つ集団へと変貌している。
魔物使い。魔物を操りその力を使う、魔王の片鱗。
故に彼らは、魔法使いの中でも一目置かれる存在だ。ムジカルでも二十人に満たない彼らは、一人一人が軍勢を統べるのと変わらない。
「……んで、当然、魔法使い」
レシッドは構えを解き、短剣を指先で弄ぶ。
魔物使いは必ず魔法使いだ。そして魔法使いの恐怖は、味方にいる二人で充分過ぎるほどに知っている。
魔法使いは人知を越えた存在。それぞれが独特の世界観を持ち、それぞれがその世界の中の規則で振る舞う。魔物と話し、鉄を食べ、世界を滅ぼす熱波を放つ。
どうする? と、誰かから尋ねられた気がした。
目の前の拘束されたソラリック。彼女の命を救うべく、投降すべきだろうか。投降しないまでも、彼女の命を救うべくそんな人外の者と戦うべきだろうか。
ちらりとレシッドは背後を窺う。レシッドが追ってこなかったことに当然気付いている逃げた男たちは、森の中で機会を窺っている。レシッドに正面では適わないまでも、不意を突くために。
しかし、その男たちだけならば撒くことも撃退することも簡単だ。
要は、簡単に逃げられるのだ、今ならば。ソラリックを捨てて、一人身軽になれば。
それもいい、とカラスは言った。
護衛任務ではあるが、一番優先すべきはレシッド自身だと。もちろん全員を守るべく努力はしてほしいが、切り捨てるならばまず重症患者、そしてソラリックの順番だとも。
レシッドは魔物使いとソラリックの向こう側を見る。
天幕にどこからから火が燃え移り、明るくなった拠点。大きな炎と煙が上がり、そしてまだ悲鳴が聞こえてくる。獣と、そして人間のものが。
あの魔物蠢く危険地帯からは既に脱した。後は目の前の魔物使いを振り切り、森の中に逃げ込めば問題はなくなる。
参道師ほどではなくとも、レシッドももちろんネルグ内での生存は可能な知識を持っている。一人でならば逃げ帰ることも、カラスの元へ再度参じることも容易だろう。
彼女を見捨てればいいのだ。そうすれば、カラスの注文通りに生き残ることが出来る。
ここネルグでは、自分自身を助けることは人一人の命を助けることに等しい。
「悩むことはない。答えは一つだろう?」
魔物使いは煽るようにレシッドに言う。
彼としては、逃げることなどないだろう、と高を括っていた。あまりにも目の前の男たちの対応が早すぎるのだ。本来ならば、魔物の襲撃までに誰一人として逃がすつもりはなかった。魔物の襲撃に気がついたとしても、防戦で手一杯になるはずだった。
おそらく目の前の男には、そういった襲撃に気付くだけの能力があるのだろう。傭兵か、それとも探索者か、騎士にも見えないこの男には。
しかし、そうなると行動がおかしい。普通ならば、まだ拠点の中で戦っているはずだ。それほどの技量があるならば当然のこと。
仮に襲撃に気付くだけの能力があるのならば、騎士団を促し防戦に加わるのが自然なのに。
なのに目の前の男は、既にここまで逃げている。
ならば、彼には彼女を守る理由があるのだ。
他の誰を見捨てても、彼女だけを。
問いかけに、レシッドはクスと笑う。
不気味な笑み。真正面からそれを見たソラリックは、魔物使いに拘束がてら胸を揉まれる不快感に耐えながらも、そのレシッドの笑みが不思議でならなかった。
「ああ、一つだな!」
言葉と共に、短剣が投擲される。闘気なしでも三十歩離れた石壁を穿つ飛刀の一撃。
それが正確に魔物使いの顔面に向けて放たれた。それが答えと言わんばかりに。
ガキン、と固い音が響く。ソラリックは、斜め後ろの魔物使いの顔に、剣が突き刺さったかと思った。
しかし、懸命に目と顔を向けてみるが、その効果は芳しくはない。
魔物使いは、刃を受け止めていた。闘気などを帯びていなければ、鉄の剣すら叩き折り対象を貫く刃を、前歯で噛むようにして。
ソラリックはぞっと震えた。至近距離の異様な光景に。まるで曲芸のような出来事に。
レシッドはそれを見て、また笑みを強める。
「さっすが魔法使い!」
はは、と笑うように言って、ソラリックには少しだけ身体が沈んだように見えた。
レシッドが、両手を開く。それは彼の使う流派の一つ、黒々流における構えの一つ。
黒々流の基本にして究極。体感時間を引き延ばすための自己暗示のような儀式。
レシッドは、黒々流を極めてなどいない。彼がそれを修めようと修行した年数は僅か二年。反射神経を強化し、体感時間を引き延ばす修行の過程で、飽きてやめてしまった。
しかしそれでも彼の生きる時間は常人よりも遅く流れ、そして彼の自慢の足を組み合わせれば、常軌ならざる効果を生み出す。
「で、所詮魔法使い」
ソラリックには、レシッドの動く軌跡が全く見えなかった。
十歩以上離れた距離を瞬時に詰める、空間転移と見紛う速度。
ただ気付いたときには、目の前に現れた彼の振るう足が、自分の顔の横、魔物使いの顔に吸い込まれるようにめり込んでいるのを確認するのが精々だった。
「お、ご……」
「お母さんに習わなかったか? んな危ねえもん、口に含むなよ」
ずる、とソラリックの拘束が解かれる。レシッドにより蹴り込まれた短剣は、魔物使いの口の中を通り、延髄を正確に切断して首の後ろから突き出して輝く。
呆気なく死に至った魔物使い。それを冷たく見遣ってから、レシッドは拠点の方をしばし眺める。
先ほどと変わらない騒乱の音。魔物使いは死んだが、魔物の行動は変化していないのだろうか。支配から解き放たれた魔物は、今どういう状態なのか。それを確認したいと思い。
だが、見ている中では何も変わらない。
まだ拠点の中では魔物たちが踊り狂い、人を殺し回っている。あの中に戻るのは、当然愚策だろう。
ならば、ここからすぐに離れるべきだ。
確信したレシッドはソラリックに向けて「行くぞ」と口にし、返答も聞かずにまた横抱きにして走り出した。
夜が明けた後、拠点だった場所には二人の姿があった。
天幕だった場所。焼け落ちた布に、焦げた毛布の灰が積み重なる。そこはソラリックが受け持っていた重傷患者の寝所だった場所。
生き残りはいなかった。一応生存者がいれば助けたい、とソラリックはレシッドに願い、レシッドも了承し恐る恐る現場へと舞い戻ったが、既に拠点の中は魔物と人間の死体で溢れていた。
焦げた木材とも人ともつかない物体を見て、また食い散らかされた人間や魔物の肉片を見て、ソラリックは顔を顰める。
「やっぱ魔物使いが死んだら野生に戻んのな」
独り言のようにレシッドはぼやく。どうやら魔物たちは、あの後魔物同士でも争ったらしい。逃げて正解だった、と内心呟いた。
生き残りの魔物も方々へ散ったらしい。魔物たちは血の臭いが漂う場所を好み、死体のある場所を目指すものだが、それでも同族の死体は別だ。
彼らは一目散に逃げ出したのだろう、とレシッドは思う。目の前に転がる同族の死体。次は自分がそうなるかもしれない、と予感して、恐怖に逃げ出したのだろう。
焼け焦げ、所々魔物に食われ、鳥や鼠などにも既に囓られている重傷者の遺体。
灰に変わった包帯の内側には、まだ焼け残った肉があった。彼らが失ったはずの、指も。
「……ごめんなさい」
ぽつりとソラリックが呟く。それは彼らを前にして、ようやく呟けた、明確な意味のある謝罪。
申し訳なかった。指や目や耳を失った彼らをどうにかする力を知っているのに、それをきちんと使ってあげられなかったことが。申し訳なかった。彼らに、元気になった彼ら自身を見せてあげられなかったことが。
「助けてあげたかった」
ぽつり、ぽつりと呟かれる言葉に、レシッドは応えない。周囲への警戒という大事な仕事に追われ。ソラリックには出来ない、彼の仕事に追われて。
顔を上げ、そんなレシッドをじっと見つめ、ソラリックは考える。それは昨日聞いた占い師の言葉。
『きみは自分を見つめ直すだろう』、と言っていた。その機会がすぐに訪れるから、とも。
そして昨日、事は起こった。それをなんと呼べばいいかソラリックにはわからないが、人が、大勢自分の前で死んだ。ならばきっと、それが『機会』で、そしてそこで見つめ直したのが本当の自分なのだろう。
ソラリックは思い返す。レシッドが剣を振るう姿を。自分を守るために躊躇なく敵兵を殺し、命を奪うその姿を。
レシッドを責める気はない。責めるべきではない。彼がいなければ今自分はムジカル軍の慰み者か、もしくは今周囲に転がっている死体と同じ姿になっているのだろう。
感謝すべきだと思うし、実際感謝をしている。それは揺るぎない、自分の一つ。
けれども。
ソラリックは森へと視線を向ける。自分が捕まったあの森の中。
魔物使いはレシッドの手により殺された。下卑たことを口走り、そして自分の身体をまさぐっていたあの気持ち悪い男は、為す術なく殺された。
今思い出しても気持ちが悪い。あんな男、死んで当然とも思うし、そう思うのは間違いではないとも思っている。
けれども。
そんな気持ちが悪い人間すらも、目の前で死なれたときにはなんとなく心が動いた。
死んでほしくなかった、という感情。これはきっと、そういうことなのだろう。
占い師の言っていた、『自分』。それはきっとそういうものなのだろう。
私はきっと、誰にも死んでほしくないのだ。目の前で誰かが死ぬのは、誰が死ぬのもまっぴらごめんだ。
私は誰をも助けたい。この世に生きる全ての人間を。
神は仰った。聖典の一番最初の聖句。『全ての祈りは隣人のために』と。
助かるべきではない人間などいないのだ、とソラリックは改めて思う。
どんな人間も救いを求める権利はある。そして私は与えたい。求められた救いを。
指や目を失った彼らを助けたかった。
そして、途中までは上手くいった。あとは、彼らを守り通せば、彼らは確かに助かったのに。
たしかに、とソラリックは思う。
たしかに自分を見つめ直したのだと思う。昨日の騒動は、そのためにあったのだと思う。
『謝るべき相手はわかったよね』と、占い師は言った。
あの時は何も言えなかった。まだわかっていない、と言いたかった。きっとその相手がカラスだと、あの時自分は思い浮かべたのだと思う。
けれども違う。
きっと私が謝るべき相手はカラスではない。
謝るべきは、助けたい彼らを助けられない自分自身に向けて。
まだ無力でまだ何も出来ない自分から、私の理想の自分に向けて。
ソラリックは目の前が開けたように感じた。
手段も目的も些細なことだ。どうやって救う、などと考えるだけ無駄なことだ。この身は既に神に捧げている。ならば、力の限り目の前の人を救おうとするのが、きっと神の御心に適う正しいことなのだ。
「レシッドさん」
「ん?」
レシッドはソラリックの声に、思考の焦点を近くへと戻す。
何かしらの祈りを捧げていたようにレシッドには見えていたが、終わったのだろうか、などと考えつつ。
ソラリックの声が、やけに力強い。
「この拠点に、占い師の方っていらっしゃいましたか?」
「占い師……?」
んー? とレシッドは一瞬悩むが、その答えはわからず首を傾げた。
「聞いたことねえけど……なんで?」
「いいえ、いないといいなぁ、って思って」
ソラリックは頬を綻ばせる。
そうだろう、ここに占い師などいないのだ。
『あれ』が誰だったのかはわからない。本当に『人』だったのかも。
けれども、その人は確かに私の悩みを取り払ってくれた。きっとそれが、神が遣わしてくれた『答え』なのだろう。
「で? そろそろいいか?」
「……はい」
レシッドに促され、ソラリックは荷物を担ぎ直す。カラスの作った聖領踏破用の荷は、もはや重くない。
患者はいなくなった、けれども、この戦場にはどこにでも助けを求める人はいる。とりあえずは予定通り第九位聖騎士団の拠点に向かい、そこから青鳥でカラスの指示を仰がなければ。
憑き物が落ちたように明るくなったソラリックの顔に、レシッドは何故だか胸騒ぎを覚えた。




