閑話:分水嶺
この話でしばらくソラリック退場の予定でしたが、お犬様活躍編を次話に回したので次話までかかります。
十数台の騎獣車が、森の中の道を疾走する。二頭立ての馬車に匹敵するほどの大きさの荷台は、騎獣車の名前の如く馬ではなく騎獣ハク一頭によって引かれていた。
ネルグの森の中の道である。もちろん平坦な道などではなく、木々の根が方々へ伸びる悪路とも呼べる道だ。そんな中を疾走する騎獣車は、それでも馬であれば速歩とも呼べる速度で走っている。
当然、乗り心地は、快適と呼べるものではない。
騎獣車の中は椅子などがない乗合馬車と同じ構造。ただの木の床に誰もが座る。
騎獣が起伏を踏む度に、突き上げるように床が動く。
その度に、床に擦れる尻に揺さぶられる身体。ソラリックは乗って一刻もせぬうちに、今夜の全身の筋肉痛を予想した。
ソラリックが乗っている騎獣車は、重傷者専用となっている。眠らされたままの重傷者五名に、誰もやりたがらなかった彼らの世話の名乗りを上げたソラリック、そしてソラリックの護衛としてレシッドが乗り込む。御者は有志の騎士団が務める。
「…………」
「………………」
騎獣車の中で会話はない。
死体が詰め込まれるように並べられた重傷者たちが声を発することもなく、目が覚めている二人も世間話をするような雰囲気ではない。
もっとも、それはその他の車の元捕虜たちも同様だったが。
ハクと違い、馬は蹄の音がする。それぞれの騎獣車の前後を挟むように疾走する護衛の馬の足音だけが、規則的に響き渡り続けていた。
壁により掛かり、騎獣車の天井を眺めてソラリックは知らぬうちに溜息をついていた。
一晩悩み、勇者と話し、それでも答えは出なかった。
そもそも何の問いがあるのか、すらも。
勇者との会話は、きっと自分にとっては大きなものだったのだと思う。
勇者と話し、自覚し、なんとなく実感した。
今自分は神に見放されているのだろうと思う。だから神の像は何も答えてはくれず、先行きもわからず今すべきことすら見失っているのだ。
一心不乱に祈っていれば、それで全てが解決する。
今まではそう思っていたし、実際にそうだった。
けれど、その道は今閉ざされてしまっているのだろう。
ソラリックは両手を組んで目を瞑り、その先を見る。
身体を揺さぶられるような振動が肌に触れる。もう嗅ぎ慣れたはずの森の匂いがする。鳥の囀りや虫の声、それに木々の枝や葉が擦れ合う音が耳に飛び込む。
今までは、その先に何かが見えた気がする。光り輝く温かい何かが、瞼のその先にあって、そして祝詞を唱えて祈れば自身を包んでくれたはずなのに。
声に出さず、祈りの文句を口にする。
だがそれでも、期待していた感覚はやってはこない。温かい光は現れず、ただ冷たい暗闇だけが身体を包んでいる。
それだけでわかる。理解できる。
きっと、神は自分を見放したのだ。
悪いことをしたのだと思う。
《再生》は禁忌の所行だ。ならばそれを他人に強要した自分は異端者で、そして他人を堕落させる魔性なのだろう。
だから神は怒り、そして私を見放した。
無言でソラリックは苦笑する。
カラスに言った。《再生》を今使わなければ、過去に使った事実を告発する、と。
なにが、告発だろう。カラスの告発を出来る身分なのだろうか、この穢れた自分が。
最後まで否定的だったカラスの方が、よほど神の御心に適っている。禁忌の所行を拒み、異端者にはなりたくないと口にしていたカラスの方が、よほど信心深いのではないだろうか。
だからこそ、神は与えたもうた。
彼に、《再生》という人を救える奇跡の力を。
「…………」
思い浮かべた撞着に、ソラリックは誰にもわからぬ程度にかすかに首を横に振る。
違う。カラスは異端者だ。神に愛されておらず、だから《再生》などという禁忌を使う。もしくは、《再生》などという禁忌を使えるから、神に愛されてなどいないはずなのだ。
……なら、何故。
閉じた瞼の裏に、涙が僅かに滲んだ気がする。
何故自分は彼を、羨ましいと思ったのだろうか。《再生》を使い、人を癒やす彼を。
堕落している。そう思った。
自身に罰を与えるように、無言のままソラリックは解いた左手で拳を作り、人差し指の拳頭で額を小突く。軽い痛みを覚えても、何度も何度も。
本当は、決して許してはいけなかった。
カラスに《再生》を使うよう請願することなどありえないし、彼が使っている様を黙って見ていることなど断じて出来なかったはずだ。
止めるべきだった。彼が神に背いて禁忌に触れるのを、たとえ彼が望んだとしても。
でも。
それは確かに、彼らのためになるのだ。
神は仰った。『慈しみと愛を胸に持て』と。
ならば彼らのために施した治療は、慈愛ではないのだろうか。
傷を治し、病を癒やし、人を助けるのが治療師である私の役目だ。
なのに、何故。
何故、してはいけないのだろうか。
彼らの傷を癒やし、手足を取り戻すこと。それは彼らを慈しむことではないのだろうか。
傷を負った者を、病を得た者を助けよと神は仰られたはずだ。それは絶対に正しいはずで、少なくとも今まで自分はそう信じてきていた。
手足を失った彼らを見て、確かにきっと私は心を痛めた。
だから、彼らの手足を取り戻そうとして、禁忌に触れた。
見捨てればよかったのだろうか。神の意に沿い。
パタラや他の治療師が言うように、それは神が彼らに与えた試練だ、と納得すればいいのだろうか。神の意に沿い。
そうすれば、まだ私の隣には神がいたのだろうか。
教えてください、と何度も祈っても、神は答えを与えてはくれない。
当然だろう。今、私は異端者なのだ。聖教会が認めておらずとも、神は全ての人の頭上に座して、全てを見ていて下さっているのだから。
勇者に赦しを請おうとした。もしもあの時自身の罪を口に出来ていれば、この罪は拭い去られていたのだろうか。
もしかしたら、とソラリックは思う。
もしかするとあの勇者との邂逅こそが、神の御心だったのではないだろうか。神は自分に、最後の懺悔の機会を与えてくれたのではないだろうか。
そして自分はその救いの手を振り払ってしまったのではないだろうか。
「……ぅ…ぅ………」
しかし、そうしてしまえば。
もしも救いの手を取っていれば、彼との約束を破ることになる。
口外するなと彼は言った。自分は異端者になりたくないから、と。戦争が終わるまで秘密を守り通せば、彼らを今度は完全に治すからと。
証文も担保もないあやふやな口約束。
所詮彼は人の身だ。聖典を通した神との契約に比べれば、話にもならない塵一粒のようなごく小さな無視しても構わないようなもの。
だがそれを破ってしまえば、また『何か』を失う気がする。
手足を失った彼らの身体がこれ以上《再生》されない、ということではない。それも大事ではあるが、他にもある大事なものが。
ソラリックは鼻を啜る。
いつの間にか鼻水が出ていたらしい。だが鼻孔が腫れたようになり、上手く啜ることが出来なかった。
そしてもう一つ。いつの間にか、目元が熱い。
「ぐ……うぅ……」
無意識に声が出る。その次に感じたのは、頬を伝う水滴、その熱さ。
「……ううぅぅぅぅぅ……」
思わず手の甲で拭えば、拭いきれない量の水分が手の甲に残る。
そこに至って、ソラリックはようやく気付いた。
自分は、泣いているのだ。
「あ……あの、……何?」
僅かに響く嗚咽の声に、御者も何事かと振り返った。
しかし彼以上に面食らったのは、真正面に座っているレシッドである。
荷台の上方に開いている素通しの窓から、森に異変がないか探っていたところ、一番大きな異変がすぐ目の前で起きていたのだから。
「何だ? その、どうした?」
仕事ではない、が、泣く子を放ってはおけない。
なんとなくそう判断したレシッドが、懸命に笑みを浮かべて問いかける。
その脳内は困惑でいっぱいだった。
先ほどまでは何かを祈るようにして手を組み、ソラリックは目を閉じて動かなかった。
しかし今は大粒の涙をぼろぼろとこぼし、目元を真っ赤に腫らしている。森の様子に気をとられて彼女を見ていなかったのは認めるが、それでも何かがあったはずがない。
レシッドからすれば、目の前の女性が突然泣き出した、それだけである。
当然、会話などをしていない以上自分が原因ではないだろう。御者であるはずもない。
横で寝ている元捕虜たちだろうか。彼らなら喋らずとも、と思うがそれも今更な感がある。
「わた、私……私は、どうじだら……」
懸命に頭を回しているレシッドの方を見ずに、泣きながらソラリックは言葉を発する。横隔膜の痙攣に合わせ、小さく喉の奥から音がしていた。
「……わだじっどうじたらっいいんでずかぁぁ……」
「…………」
何の話だ、とレシッドは内心呟く。言ってはいけないのだろう、と直感はしていた。
「……知らねえよ」
だが堪えきれずに一部の本音がレシッドの口から溢れ出る。
どうしたらいい、とはむしろ自分が聞きたい。目の前で泣いているソラリックへの対応がまったくわからず、周囲の警戒も忘れて呆れるようにレシッドは彼女を見つめた。
しばらく経ち、関わりを避けようと御者が素知らぬふりをするのに慣れてきた頃。
鼻を啜る頻度も落ち、涙もようやく落ち着いてきたソラリックにレシッドは向き直る。あぐらをかいて、髪の毛を掻きながら。
「で、……何があったんだ?」
事情がさっぱりわからない。レシッドにそのような感傷があって知っているわけではないが、不意にこぼれた涙、という量には思えなかった。
そのままなかったことにすることも出来るだろうが、さすがにそれは出来まいと内心溜息をついた。
最後に、とソラリックは鼻水を啜り、詰まりつつある喉からくぐもった声を絞り出す。
「…………何も」
「何もねえわけねえだろうがよ」
そうであれば突然泣くなどほぼあり得ない。それに、先ほどのような言葉は吐かない。
面倒くさい、という言葉が内心溢れたが、レシッドはそれを今度は外に出さぬよう懸命に堪えた。
立てた膝に顔を埋めながら、ソラリックがレシッドをちらちらと見る。
何か話したい、しかし話せない。ソラリックにはそんな様子が見て取れたが、それ以上をレシッドは聞きたくない。
仕事中でもなければ、そっとこの場を離れたのに。
レシッドは助けを求めて御者を見たが、もはや御者は知らぬふりを完璧にこなしていた。
放っておきたい。しかし放っておけない。
彼女のお悩み相談は契約外だ。レシッドはそのような仕事を請け負った覚えはない。
しかし契約外だからこそ、放っておけない。
「何か、悩みか?」
軽い口調でレシッドは尋ねる。ソラリックから視線を外し、外の景色を眺めながら。
「…………」
それから待っても、ソラリックは口を開かない。騎獣車の揺れに身を任せているように。
しばらく待って、レシッドは大げさに溜息をついて顔を顰める。
「いい加減にしろよ。この空気で明日まで過ごさせる気かよ」
呼び水だが半分本心だ。仕事が楽しいものでなければならないとはレシッドも思わないが、殊更に辛く苦しいものを選びたくもない。辛く厳しいのは仕事だけで充分だ。特に、戦争参加という最大級に辛く苦しい仕事の最中であっては。
そんな中、すぐ目の前の女性が常に情緒不安定でいることに耐えられるほど、レシッドの心は強くない。
「……ごめんなさい」
謝るならば事情を話せ。大抵のことならなんとかしてやるから。
そう口にしたかったが、代わりにレシッドは目を細める。
それはいけないと酒場で口説いた女に何度も説教されたことがある。泣いている女は、事態を解決してほしいわけではない。ただ話を聞いてほしいのだから、と。
学んだとおり、レシッドは懸命に笑顔を作る。口説いているわけでもないのに、こんなことをしなければいけないとは。
恨むぞ雇い主、と本来雇い主ではない魔法使いに恨みの矛先がわずかに向いた。
「話してみろよ。聞くだけ聞いてやる」
「…………」
これだけ言ってやはり駄目か。
ならばもう一押し、とレシッドが口を開こうとする。
だがその一瞬後に俯いたソラリックが口を開き、レシッドは慌てて自分の声を止めた。
「どっちを選べばよかったのか、わからないんです」
ぽつぽつと話し始めたソラリックに、レシッドは僅かに頷いて応える。
だが、そのレシッドをソラリックはまっすぐに見つめた。
「レシッドさんなら、どうしますか?」
「何を?」
間髪を容れずにレシッドは聞き返す。
多少のわからない点は徐々に理解していくつもりだった。まだまだわからない情報はあるだろうが、きっと話を聞いていけば全容はいずれ見えると甘く見ていた。だが、まだ何もわからないままに尋ねられた質問。
ソラリックも、一瞬「あ」と何かに気付いた表情を見せ、更に一瞬悩んで言葉をまとめていった。
「ええと……たとえば、探索ギルドの……探索ギルドの規則があるとします」
「あ、ああ」
よかった、とレシッドは内心安堵する。どうやら何かに喩えてきちんと質問はしてくれるらしい。
レシッドには経験がある。酒場で口喧嘩中の相手が吐いた曖昧な質問。『あれ』や『それ』などの指示語しか使わない曖昧な質問に答えたが、その答えが相手の気に入らなかったようで頬を平手で叩かれた経験。なんと答えたかも覚えていないが、その質問自体がレシッドにとっては嫌な記憶だ。
「でも、…………失礼な話なんですけど、探索者ってお金第一ですよね?」
「まあ、そりゃあな」
失礼なのもその通りだが、たしかに、とレシッドは噴き出す。それが第一という者ばかりではないが、たしかにそういう者が多いだろう。もちろん、自分もそのつもりだ。
「探索ギルドの規則で、……たとえば、赤い花を採っちゃいけない、って書いてあったとして、でもその赤いお花はお花の中で一番高く売れるんです」
「なるほど」
「それがレシッドさんにしか知らない場所に、採りきれないほど生えています。レシッドさんなら、採りますか?」
おずおずともう一度尋ねられて、レシッドは「ん」と一瞬言い淀む。
ソラリックはどちらと答えてほしいのだろうか。彼女は、どちらを望んでいるのだろうか。
悩んだが、もちろんそちらは答えが出ない。
レシッドはそちらを考えないことにして、自分の素直な回答を口に出す。
「採らねえな」
レシッドはその様を思い浮かべる。一時は儲かるだろう。その『赤い花』とやらは、花の中で一番高く売れる。それを簡単に採取出来るともなれば、大儲け出来る……という想定でいいのだろう。
だがその場合は。
「んなことしちゃ、ギルドに睨まれっから。他の仕事が出来なくなるんならそれは大損だ」
「じゃあ、それを売ったのがレシッドさんだとギルドにも知られない場合は?」
「んー……」
膝に肘を当て頬杖をつき、レシッドは悩む。それもほんの一瞬だが。
「やらね」
「何故です?」
「俺は探索ギルドに所属している探索者だからな」
答えになっていない、とレシッドは思う。けれども、自分にはそれしか答えがないとも思う。
仮に探索者ではなく、ただの町人ならば間違いなく採るだろう。大儲けできる種を逃さない。そもそも、それを禁じられてもいないのだから問題はない。
だが、自分は金銭第一主義の探索者だから。
だから、採らない。自分でもその撞着はわかっていた。
その撞着を感じながらも、ソラリックを見返せばソラリックの表情はまた変化していた。
落ち込むようにも安堵しているようにも見えるその様がレシッドにはよくわからなかったが、それでもきっと『間違えて』はいないと思った。正しいとも思えないが。
ソラリックもその答えに確かに安堵していた。
やはり、とも思えて安心した。目の前の男性も、きっと同じ問題が起きるのだと。
でも。ならば。
「そう思っていたレシッドさんですけど、ある日魔が差して、お金ほしさに赤い花を採ってしまったんです」
「あー、まあ、仮に、な? 仮にの話だよな?」
冗談交じりにレシッドは言うが、ソラリックは深刻な顔をして頷く。
「今すぐそれをギルドに届け出れば、許してもらえるかもしれません。それどころか、赤い花を今後は自由に採って売っていいと言われるかもしれません。レシッドさんなら、隠し通しますか? それとも、ギルドに許しを請いますか?」
「…………」
レシッドはまた言葉に詰まる。答えに窮したのではない。その質問の意図がわかった気がした。
彼女の悩み、それは何かしらの『秘密』に関わること。
秘密。それがあることはレシッドも知っている。ソラリックは、密命を帯びて後方へ戻ると。その密命の内容はレシッドも教えてはもらえなかった。情報漏洩を防ぐために、と、あとはレシッドに迷惑をかけないためにと。
レシッドとしては文句はなかった、聞かない方がいいならばそれでいいし、仕事に関わらないのであれば問題はない。どうしても気になるのであれば、全てが終わった戦後に聞いてくれれば包み隠さず答える、とカラスが約束したということもあり。
おそらくその密命が彼女を苦しめているのだろう。
そのために、自分に対し何らかの答えを求めているのだろう。そう察した。
だがやはり、それについてはどうにも出来ない。内容を知らないということもあるし、そもそもこの質問にどう答えることが正しいのか、それすらもわからないのだ。
ならば素直に答えるしかない。
「ギルドに申し出るんじゃねえかな。許してくれるとわかってんなら」
魔が差すことが自分にもあるのは知っている。何かしらの不義理を果たそうとしてしまい、その度に我慢して血の涙を堪えたこともよくある話だ。
だがそれを許してもらえるのならば、するだろう。その先に、何の呵責もない大儲けの種があるのであれば。
「……ですよね」
ソラリックも、レシッドの内心を読み取ったわけでもないが、静かに頷く。
そうだ、やはりそうなのだ。そうするのがきっと当たり前で、そうするのが正しい行為なのだ。外れかけた道にもう一度戻るために、踏みとどまる分水嶺。
なら。
「その赤い花の場所を知っているのが、レシッドさんだけではなかったとしたらどうでしょうか」
「……ん? どういうこと?」
「その群生地は、レシッドさんの……雇い主が教えてくれたんです。誰にも言わないでくれよ、と言いながら、その群生地の魔物を追い払うために」
変なたとえだ、とソラリックは自分でも思った。
自分でも言いつつ、内心何故と繰り返した。同僚ではなく雇い主としたのは何故だろうか。別の仕事としたのは何故だろうか。わからない。自分でも。
それが自分の引っ掛かっている場所で、求めている答えだと知らず。
「ギルドにその赤い花の場所を報告すれば、レシッドさんは今後赤い花を売ることを許可されます。だったら……」
「そうしたら言わねえかな」
どうしますか、という言葉が何故だか吐けずにいたソラリックの質問に被せ、レシッドは即答する。
それは彼が、絶対に守ると決めている自分の中の規則。
「何で……?」
「だって、雇い主に言うなっていわれてんだろ? じゃあ俺は絶対に喋らねえよ」
雇い主の言葉は絶対だ。
雇いたいと雇い主は言い、そして自分はそれにうんと応えた。ならば、仕事の領分であるそこは、何人にも譲らない。どんな相手でもどんな条件でも。
たとえ鉄貨一枚の依頼で秘密を抱えたとして、余人に金貨を積まれてその内容を尋ねられたとしても、絶対にレシッドは喋らない。
雇い主がやれと言えばやりたくないことでもやるし、やるなというならやりたいことでも絶対にやらない。
それは矜持だ。
「……雇い主が、赤い花を売ってこいと言った場合は」
「売る。当然だろ」
もちろん、さすがにギルドの規則に背くような場合は、先に仕事の条件として聞いていた場合だけではあるが。
それを思えば、この仕事。五英将の討伐に参加しろという事前に知らされていない危険な仕事……たしかにしないとも言ってはいなかったが……少しばかり腹が立ってきた気がして、レシッドは渋い顔を作った。
その渋い顔が自分の質問への不快感にも見えて、ソラリックは怯む。
そんな馬鹿なことを、と言われている気もした。自明の理、馬鹿な質問を、と。
「ギルドにも言わずに、ですか?」
「そうなるな。儲けは折半になんのか? その場合」
実際にそれをやるということでもなく、それでもレシッドの頬が想像に僅かに緩む。不快感はすぐに消え去る。大金を手にした自分という妄想。それは、多くの人間にとっての心の平穏。
ソラリックはその様と言葉に、想像する。レシッドの内心を。
金を手にし、レシッドは喜ぶ。雇い主の言葉に応えて、秘密を守りつつ大金を得て。それがギルドへの背信とわかりつつも。
ならば、今の自分は。
「わかりました。ありがとうございます……もう、泣きませんから」
「おう?」
よくわからない時間。泣き出した彼女を慰めるためにと始めて質問攻めにされた奇妙な時間。
それが終わると感じレシッドは安堵する。ソラリックの目に涙はなく、泣き出しそうな雰囲気はない。
ただ、その雰囲気が落ち込んでいることだけは変わっているようには見えなかった。
レシッドにとっては、ソラリックの涙で始まり、曖昧に終わった奇妙な時間。
まあ、先ほどの空気よりは悪くない、と自身を誤魔化すよう内心呟き、レシッドはまた外への警戒を始める。
彼女の答えは聞いていない。答えは出たのか出ないのか、それともまだ迷っているのか。
しかし、まあいいだろう。いいことにしよう。
「……本当に、わかんないなぁ……」
耳に入ってきたごく小さな呟き。
無視したレシッドは、何故だかこの護衛の旅が戦争中一番疲れることになりそうだ、と予感した。




