閑話:自由に
2/3
「いつ出てくの?」
ジャーリャにある一つの娼館。その華やかな休憩室で、楽しそうな声が響く。
声の主はこの娼館の稼ぎ頭の一人、スピアナ。褐色の肌に黒い髪を頭上でまとめた妖艶な美女である。
そしてその話題に上り、胸を張って明るい笑みを浮かべる女性はセシーレ。スピアナと同じくこの娼館の稼ぎ頭の一人、だった、女性である。
縮れがかかった長い緑の髪を掻きながら、「いやぁ」と明るく彼女は応える。
「家が決まり次第かなぁ。そこまではガランテ様……さんにも許可もらってるしぃ」
スピアナは羨ましげにケッと口を鳴らし、いいなぁ、という声が他の娼婦からも上がる。
彼女は今日、奴隷娼婦の中の晴れ舞台に立った。
彼女は今日、蓄えた金貨十五枚で、ようやく自身の身を買い戻せたのだ。
「全く羨ましいよ。あの薬師の心付けに金貨が三枚もあったなんてさ」
「あたしの日頃の行いがよかったのよ」
ふふん、とセシーレは誇る。貯金にはその運が大きく作用した、というのは自覚していた。今はこの娼館の雑用をしているランメルトが、この娼館に来た日。ランメルトが共にここを訪れていた薬師と共に娼館の主ガランテの執務室に招かれた際、すれ違ったという運の良さ。
すれ違った際に、ガランテにお茶くみを命じられたという幸運。
おかげでずいぶんと関心を引く機会が持てた。
だからだろうと思う。きっと目をかけてくれたのだと思う。
でなければ、そこまでのことはしないだろう。金貨三枚などという破格の心付けなどは。
「ま? あたしの魅力に惚れ込んでくれたんじゃないの」
「言うねぇ……客としてきてくれたことなんてないのに」
呆れたように返すスピアナを挑発するように鼻で笑い、スピアナも「この」と笑って返す。
陰鬱さなど欠片もない雰囲気が、休憩室に満ちていた。
セシーレは今後について考える。
住まいを見つけるまではここで寝泊まりしてもいいとガランテに許可は取った。だがこのあとどうしようかと。
もう春をひさぐ必要はない。華々しくも、いつ病気になるかもしれぬと不安になる日は過ごさなくともいい。客の乱暴に怯える日々を送る必要はない。
女性としては最低の、とも揶揄されがちな職業。そこからは離れられるのだ。
しかしこれからはどうしよう。
生国は未だムジカルの統制下だが、仮に帰ってもまた戦争を起こされるかもしれない。そうなればまた生国は負けるだろうし、この身も奴隷に戻ってしまうかもしれない。もちろんそれは最悪の場合だが。
帰らないとなれば、このムジカルの国民として生きるしかない。恩給をもらい、必要になれば戦争に出る。セシーレに戦う技能はないし、その場合は後方支援という役割に着くだろう。
今度は自分が奪う側になる。それもいいかもしれない、という思考と、それはなんとなく嫌だ、という思考が半々で。
いっそあの薬師を追いかけてエッセンへと渡ってしまおうか。
春をひさぐ必要はない。けれども、きっとあの青年とならば必要がなくとも……。
娼婦としてではなく、一人の女性として気を引くならばどうすればいいだろうか。まずはそれを思い出してから、のほうがいいだろうか。
セシーレはこれからのことを考えて、幸せに悩み、結論をあえて出さない。
どうするにしても、とりあえずエッセンとの間の戦争が落ち着いてからだ。
「まー、まだしばらくはお世話になりますー。不労所得で。てへ」
とりあえず、まだしばらくは考えなくてもいいや。ゆっくり考える時間はある。
セシーレは皆の冗談交じりの不満の声を受け止めながら、頭を下げた。
下働きの少年ランメルトは、休憩室の前を通り過ぎた。
休憩室からは明るい話題が響く。今日、娼婦が一人自由の身になった。彼女はもはや奴隷ではなく、この国の一人の国民だ。解放され、どこへ行くのも自由。何をするのも自由となった。
明るい話題だ、とランメルトは奥歯を噛みしめる。
数ヶ月前にこの娼館をランメルトは訪れた。
その目的は、生国ストラリムがこのムジカルに滅ぼされた際、奴隷となりこの娼館に落とされた姉を救うため。
今も懸命にランメルトはこの娼館で働き続けている。姉を購うため。姉を、奴隷身分から解放するために。
そして、その姉ブリランテも。
羨ましさと嫉妬が交互に湧く。今日自由となった娼婦のように、姉が自由になる日はいつ訪れるのだろう。
もちろんその日は着実に近くになっている。姉は奴隷ということで稼ぎは少ないし、自分の給金も最低水準。それでも二人分の稼ぎを合計して貯金すれば、あと三年もすれば買い戻すことが出来るだろう。
だが三年。短くはない。毎日のように男性に買われる姉の姿を、直接ではないが見ているしかないランメルトにとっては。
間違っている。神の教えに逆らう行為だ。
そう、毎日叫びたくなる衝動を、ランメルトは懸命に抑えて過ごしていた。
客の少ない昼。ランメルトは個室を除く共用部分の床を拭いて回る。
これは元は手が空いた下っ端娼婦の仕事だったが、ランメルトが下働きとしてこの娼館に来て以来もっぱら彼の仕事になっていた。
顔が映るほどに磨かれた艶やかな石の床を、水で濡らした雑巾で懸命に拭く。
姉と同じ赤混じりの黒髪が一本そこに落ちて、拾い上げるのに手間取った。
「ごめんください」
いつからそこにいたのだろう、ランメルトはそこに人がいると気がつかなかった。
這いつくばった後ろから声をかけられて、慌てて顔を上げればそこには少しだけ冷ややかな笑みがある。
ランメルト以外もそこで初めて気がついたらしく、掃除女がパタパタと急ぎその客の埃を払いにかかった。
集った二人を見て、どちらでもいい、と男は笑いかける。
「申し訳ありませんが、私は客ではありません。この娼館の主ガランテ殿にお目通りを願いたいのですが」
聞いて笑みを絶やさぬまま、それでいて掃除女はランメルトに視線を向ける。お前が行け、と下っ端への視線の命令だ。
「はい。お取り次ぎ……いたします」
視線を受けて、ランメルトは懸命に応えようとする。拙い接遇だが、それでも男は笑みを崩さない。
「お願いします。五英将ラルゴ・グリッサンドの名代が来たとお伝えください」
五英将。その言葉にランメルトは怯えるようにわずかに後ずさり、その仕草をカンパネラは静かに微笑み咎めなかった。
玄関広間の片隅で長椅子に腰掛けたカンパネラに、ガランテは恐縮して向かい合う。
横からランメルトの差し出した花茶は、この娼館でも最高級のもの。
「お口に合えば……」
「お構いなく」
ガランテの言葉に儀礼的に返しながら、一口カンパネラは花茶を含む。エッセンではほぼ飲めることのなかった味に、この街に帰ってきたことがまた実感できた。
「それで、その、本当なのですか?」
「ええ。こちらで待ち合わせていただきます。そのような場所ではないことは重々承知の上で、申し訳ありませんが、なにぶん自由な方ですので……」
カンパネラはにっこりと笑う。ガランテへの用件は簡単で、それも実際にはガランテへの用件というわけでもない。
中身はただのお願いだ。
ラルゴ・グリッサンドが、カンパネラからの報告を聞くためにこの娼館を指定した。だからここで待たせてほしい、という理外の願い。
もちろん報酬ではないが謝礼は支払うし、迷惑ならば自身からそれをラルゴに上奏するから、と。
ガランテからしたら堪ったものではなかった。
カンパネラという高官の突然の来訪。それだけならばまだしも、更にこの国では絶大な権力を持つ五英将までもが自分の城を訪れる。
心に準備が必要、ということもある。しかしそれ以上に、物理的に、準備がない。
断ることも出来ない。カンパネラは断ってもいいと明言したが、もとは五英将の言葉である。それに逆らえばどうなることか。五英将の名前はその権勢とともに、畏怖としても伝わっている。
仕方ない。
「では準備をさせましょう」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げてカンパネラが謝意を示す。突然の来訪で、五英将などという大物を接待させるという無理を自身も理解しながら。
一瞬のうちにガランテは準備の算段を付ける。とりあえず、誰かにカンパネラの相手をさせつつ、五英将を迎える準備を整えなければ。かの〈成功者〉の好みはわからないが、それでもこの娼館の稼ぎ頭の綺麗どころを揃えればどれかはお気に召すだろう。
一番ともいっていい稼ぎ頭のセシーレが抜けているのが痛いが、それは仕方がない。
とりあえずは。
「ランメルト、スピアナを呼んできておくれ」
「……あ、はい……」
「いえ、それには及びません」
そしてガランテの言葉をカンパネラが止める。
おそらくその女性は娼婦で、自分をこれから接待させようとしているのだろう、と意図を読んで。だがそれは不要なもの。ラルゴとは違い、自分はここに女遊びをしにきたわけではない。
「ガランテ殿も、私のことはお気になさらず、準備をお願いします。客でもない私など、放っておいていただいて構いませんよ」
にこりと悪心なくカンパネラは笑う。その心根が一切読み取れない笑みに、ガランテはなんとなく恐怖した。
「しかし……」
そういうわけにもいかない。カンパネラはムジカル軍の高官の一人。五英将の片腕という地位の人物を、歓待もせずに放っておくことなど出来はしない。
本人の意向と儀礼の板挟み。それでガランテは詰まったが、誰かに助けを求めることなど出来はしない。ここ『牝鹿娼館』はガランテの城だ。その差配は総責任者であるガランテのものなのだから。
接待の固辞を本気で口にしているカンパネラは、ガランテの顔色にまた申し訳なさを感じた。
黙って自分が饗応を受ければ、何も問題はないのだ。美女を侍らせ、他の男のように好色を演じる。それだけで全てが済むのに、と。
だが、やめる気もない。興味もないことをしたくはない。
これが、ラルゴも認めた自身の自由だ。
代わりに、と脅しのような文句を考える。これも、本来それが出来るような身分ではない、と自身では思っているのだが。
「一人でも多くを動員し、準備をなされますように。私が機嫌を損ねるとしたら、ラルゴ様の気分を害したときのみです」
世間体を考えれば、そういうわけにはいくまい。客人であるカンパネラをきちんと歓待し、この牝鹿娼館は体裁を保たなければならない。
だが、そうではない理由を作る。恐れと逃げ道。カンパネラの機嫌を損ねないよう、自身のことなど放っておけと。
「……それでは、ここは失礼をさせていただきます。何かございましたら、そこの下男に申しつけください」
「ええ。よろしくお願いします」
名残惜しく感じつつも、ガランテはカンパネラの意図を汲んで頭を下げる。
それからカツカツと木靴で床を叩きながら、ガランテは退席する。ガランテの簪が立てるシャラシャラとした音が消えていくのを見送って、カンパネラはようやくこの店で一息つけた気がした。
氷の溶けた花茶を飲みきり、カンパネラは娼館の玄関広間を改めて見回す。
富裕層向けの娼館。当然場末の娼館などとは違い、粗末なものは置いておらず、手入れも行き届いている。壁につるされた装飾の布はおそらく一反を何年もかけて織られる特注品で、図案は平凡でも質は悪くない。
だが、五英将が立ち入る娼館としては、少々みすぼらしくもある。
そもそも五英将である。娼館などに立ち入らずとも、女など呼べばいくらでも手に入る。ましてやラルゴは自身の大邸宅に数百人を超す見目麗しい奴隷を男女問わず抱えている。その中から幾人か見繕えば、性欲を満たす程度など簡単だろうに。
ラルゴ様の気まぐれと戯れにも困ったものだ。そう、内心呟いた。
カンパネラの視界の中に、細く、それでいて健康的な手が見える。
空いた花茶の杯を拾い上げるようにしずしずと盆に乗せ、ランメルトが片付けようとしている姿だった。
「ご苦労様」
ありがとう、という言葉の代わりにカンパネラはそう告げる。娼館の下働きなど、たいていの場合は安く買えた少年奴隷だ。カンパネラからすれば、無視しても何の問題もない地位の差があるのに。
無言でぺこりとランメルトが頭を下げる。とりあえず、新しい茶を用意しなければなるまい。その氷の一粒にすら、金がかかるというのに。そう内心苦々しい思いを抱えながら。
そしてカンパネラは目を留める。
ランメルトの姿に。その震える手。ほんのわずかに引きつった表情に。
何故だろう、と一瞬考えたが、すぐにそれは決着する。先ほど自分が名乗ったときに、彼が見せた怯えの表情。
「軍人がお嫌いですか?」
「…………!? い、いえ……」
からかうようなカンパネラの言葉にどう答えていいかわからずランメルトは戸惑いつつも否定を返す。
何故だろう、という思いと、何の話だろう、という思いが心の中で錯綜していた。
「先ほどから、どうも怖がられているご様子。少々気になりましたのでね」
その戸惑いも可笑しくて、カンパネラが笑みを強める。真性の笑みに目尻が下がる。
「それとも魔法使いが、でしょうか? いやはや、私たちはどうも嫌われる性質で」
カンパネラは重ねていう。もちろん、嫌われるのはムジカルの国民にではなく、攻め落とされた元隣国の人間に、ではあるが。
「…………そんなことは、ない、……です……」
ランメルトは片手で自分の襟元を掴み、目を逸らしながら答える。
嘘だ。
ランメルトは軍人が憎い。祖国ストラリムを攻め落とし、幸せな生活を奪い、両親や姉をこの国の奴隷に落としたムジカル軍が。
魔法使いが怖い。ストラリムが侵攻を受けたとき、ランメルトは見た。両手両足の全てが裏返り、奇声を上げて行進する人間に似た奇妙な生物の大群を。目も口もいびつにつき、足の数も手の数もそれぞれが違う奇妙な生物の大群が空を飛んで移動するのを。〈眠り姫〉。そんな異様な光景を、一人の魔法使いが作り出したという事実を後に知って、その力に怯えた。
「そうですか? そうであればいいのですが」
ランメルトの内心を透かし、カンパネラは興味をなくしたように視線を逸らす。
もう一度頭を下げて、ランメルトは逃げるように炊事場へと向かい、新しく淹れた花茶を手に戻ってきたときには、すっかり怯えた表情を見せていた。
それからしばらくの後。
娼館の入り口が騒がしくなる。
カンパネラは来たか、と立ち上がり、そこにいる二人の貴人を見て噴き出すように笑った。
五英将を迎え入れるため、知らせを受けたガランテが急ぎ玄関広間に出てくる。急ぎながらも失礼のないように、切らした息を隠しながら。
そして立ち止まり、え、と目を丸くしたガランテの姿に、カンパネラは内心謝罪する。謝礼には、後で自分からも色を付けねばなるまいと。
「カンパネラ、ご苦労だったな」
「いえ」
ラルゴの言葉に応えるカンパネラの斜め前で、ガランテが膝をついて頭を下げる。慌てて行ったものの、その作法に一切の乱れがないのは彼女の教養故にだ。
「ガランテといったな。よい、楽にせよ。今日は余も客として来たのだ」
ガランテに声をかけたのは、ラルゴと同じ、黒髪に褐色の肌の男。切れ長の目に薄い桃色の唇。
薄い布で仕立てられた簡素な服は、それでいてこの娼館の年商で購えないほどのものだろう。
「これは王陛下! このような場所で……!」
「よい。それよりも、早く中に入れてくれないか」
クツクツと笑いながら嫋やかにムジカル王は笑う。
聞こえるように溜息をつくカンパネラに、ラルゴは「びっくりしただろう?」と小声で笑いかけた。




