閑話:防波堤
熱砂の国、ムジカル。
その首都ジャーリャの繁華街、その一室で、男たちは向かい合って座っていた。
片方の男は細身で色白、神経質に見えるその顔は深い皺がたたえられ、まだ三十そこそこにもかかわらず五十歳を超えて見られることもよくあった。
灰色の上等な布で誂えたゆったりとした衣服を纏ったもう一人の男。褐色の肌に彫りの深い顔。直線的な太い眉の下にある瞳は、自信に溢れるように大きく輝いていた。
二人の間にあるのは大きな机。葉巻の煙がそこかしこで燻る中、取り巻く観衆たちの視線はその机に集まっていた。
木の床に、粗悪な葉巻の灰の塊が落ちる。しかしそれでも誰しもが目を離せないのは、そこで行われている勝負の結末が何よりも気になるからだ。
行われている勝負は、ムジカルでの一般的な賭博である『びびり』と呼ばれるもの。
一から十の数字が振られた五種の札……計五十枚の札と、二つの賽子を使った伝統的な遊びだ。
もしもこの場に、今は隣国に召喚されて存在するといわれる勇者がいれば、それはポーカーと呼ばれる遊戯に似ていると言っただろう。
たしかにそれはよく似ていた。ただし、賽子二つによる不確定要素が加わった上で、役がつけられるという大きな違いがあったが。
「配るがいい」
落ち着き払った声で、褐色の肌の男性が『親』にそう告げる。それを受けた『親』であるこの賭場の支配人は、怯えを隠すように咳払いをした。
求めに応じ男の前に出された札は四枚。その裏をびびりながら覗き、そして既に場に振られて提示されている賽子の目と合わせて役を作る算段を付けるのが、本来の流れである。
だが、男はそれをしない。ただ黙って、支配人の分の札を配り終えるのを待っていた。
支配人が、手札を捲り覗く。
そこにある札の並びは支配人にとって満足のいくものではなかった。
「足りないので、一枚引き直します。貴方は?」
「私はこのままでいい」
「は?」
思わず支配人は素っ頓狂な声を上げた。
まさか。
この賭博は最初に配られた手札が肝心だ。それを確認もせずに、何を考えているのだろう。
もしや勝負を諦めたのだろうか。いいや、まだ勝負を始めることすらしていないといってもいい。まだ諦めるには早すぎるし、賭けているものからすれば、簡単に諦めていいものでもない。
「……いいのですか?」
「何が?」
「貴方はこの勝負に、その、全財産を賭けている」
「だったらなんだ?」
「…………」
駆け引きじみた揺さぶりにも、男は動じない。その彫りの深い顔を歯を剥き歪めて、楽しそうに笑う。
その態度に支配人の中には、怒るよりも先に呆れが走った。
賭けているのは全財産だ。奴隷を含めた百人を超える使用人から、金貨千枚を超えるという大邸宅。それに加えて倉庫に眠るこれまた金貨数千枚は下らないという金銀財宝までも。
支配人とて何も賭けていないわけではない。この店の経営権に、奴隷たちまで全てを賭けてここにいる。
ここで負けてしまえば再起は出来まい。自らを売り飛ばして奴隷となることまでも考えている様だ。
だからこそ、真剣に勝負に臨んでいる。男のいかさまに目を光らせ、自分は既にいかさまを行ってもいる。手札の並びが悪く、最高とは言えないまでもほぼ最強の手札が出来た。
なのに、目の前の男は何ら怪しい動作を見せない。
手札に触ってすらいない。魔法使いである、が、その中を確認もしていないだろう。
しかしそう言うのであれば、そうしよう。
「……では、勝負を」
「ああ」
精悍な顔を支配人に向けて、男は応える。
その自信満々な顔に戸惑いを覚えながらも、支配人は自分の札を捲った。
彼はその裏に何の数字があるか把握している。それでも、その指が震えるのが、自分でも可笑しかった。
「……九頭竜、でございます」
捲られた札は、一の数字が四つ並んだ役。更に場に現在出ている賽子の目は、一と十。
このゲームにある十の役のうち、四枚の札が揃うそれは最強で、更に賽子の目と同じ数字ともなればほぼ勝ちは揺るがない。より大きい数を使った役の方が強いため、勝つとすれば残りは十を四枚揃えるしかない。
勝ちを確信してもおかしくはない。相手のこれを見た瞬間、負けを確信してもおかしくはない。
だが、何故だ、と支配人の心の中は困惑に染まる。
何故目の前の男は、笑っているのだろう。
「……使用人たちへの言葉を、考えておかなければならないな」
「……? では?」
その自信満々な態度に反し、一転して口に出された弱気にも聞こえる言葉。その言葉に、支配人の気が一瞬緩む。その笑みは、自暴自棄の笑みだったのだろうか、と考えるほどに。
それはそうだろう。賽子の目を考えれば、現在作れる役の中でこの役を越える役は一つしかない。そしてその一つとは、四枚とも十の札を引かなければいけないもの。
札だけを考えても、五十枚の山札の中から四枚引いて、同じ数字が揃う確率は約二十三万分の一。
賽子の目と合わせると更に気の遠くなるような天文学的な数字となり、支配人と同じようにイカサマでもしない限りは、生涯見ることもないほどの希有な役。
しかし目の前の男はイカサマをしていない。
なにせ、ここまで札を触ってすらいない。細工のしようもないのだ。
それに加えて、支配人も気を配っている。
何の役も持たない、豚。それが配られているはずだと確信していた。
だが。
男が並んだ札の横を指で叩く。
四枚の札がふわりと風で舞うよう浮かび、反転してまた落ちる。
その魔法使いの行動に、支配人が場違いな感心をした、次の瞬間だった。
「!!??」
支配人の顔が驚愕に染まり、次いでその顔を恐怖が覆った。
並べられた札は、四枚とも、十。
「敗北が知りたいものだ。私の勝ちは、成功は始めから決まってる」
「あ、な……!?」
前屈みに膝の上に両肘をのせて、頬杖をつくように男が頭を乗せる。
太い眉を上げ、支配人を上目遣いに覗き、嘲笑うような顔を見せた。
「俺の……私の勝ちだ。成功と成功と成功に満ちた私の人生の彩りご苦労」
賽の目は必ず望む目を出し、配られた札は必ずもっとも良いものとなる。
だからこその五英将。だからこその〈成功者〉。
歓声とどよめきが賭場に満ちる。
その中心となっている二人の男たちの反応は対極だった。
全てを失った。支配人は椅子から転がり落ち、床に手をつき呻き続ける。今後の人生、その暗澹たる前途に絶望しつつ。
それを見下ろす褐色の男。〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドは、足を組んで背もたれにもたれかかり、満面の笑みで高らかに笑った。
「では、私は用事がある。賭けたものは全部確保しておいてくれ」
「わかりました」
ラルゴからの指示を受け取った秘書官は、そこからまた配下に命令して主からの言葉を遂行させてゆく。
今日、ラルゴが得たものは多い。まずは巨万の富。数軒の賭場をぬかりなく運営していた支配人から奪い取った富は、金貨にして五百枚以上。
更にこれからその店の権利と、使っていた美男美女の奴隷たち総勢十五名まで手に入る。
しかしラルゴはその程度、とも思っていた。
端金だ。それに、年々増えていく使用人たちも、適宜解雇をしているとはいえ管理が面倒という側面が目立ってきている。
全ては他の人間からは羨望の目で見られるもの。しかし成功に満ちた人生をおくる彼にとっては、もはやそれらは当たり前に周囲にあるもの。煩わしい、と感じる事さえ増えてきていた。
「爬車を待たせておりますが」
「いらん。歩いていく」
秘書官の言葉に端的に答え、ラルゴはその黒く長い髪を風に靡かせる。ムジカルの熱風でも焼かれない肌は、日に焼けて黒い。
「それと、先ほど伝達がありました、ラルゴ様がミールマンに送られた分隊の動向ですが」
「そうか」
秘書官はラルゴの賭博中に来た連絡の紙を開く。おそらく無意味なものだと考えつつ。
「全滅、だろう?」
「その通りです」
秘書官が紙の内側を見る前に、ラルゴがそう口にする。秘書官はそれからようやく中を見て、言い訳のように長い文章で装飾された結論を確認した。
「こんな手に引っかかるとは思ってもいないが」
ラルゴは雲一つない青空を見上げ溜息をつく。
「やはり手強いな、エーミール・マグナ」
その分隊が『全滅』以上の効果を出していないことまでも見通し、賭博よりも余程面白い、と口の端をつり上げた。
ミールマン。ネルグの北西部に位置するその街はエッセン国の副都の一つであり、リドニックやムジカルに対する北側の防備の重要拠点である。
北に隣接しているリドニックはもとより、ネルグ北側を通るムジカル軍に対する牽制として、エッセンの兵が常に駐屯している土地。
そしてリドニックでの変事以降、そこは聖騎士団が一つ駐屯することになっており、その防備の度合いを一つ高めていた。
そのミールマンの東側、外れの森。そこでは二人の男が焦りに喘ぎながら走っていた。
一人は魔法使い。一人は闘気使い。もとは男女五人で組まれた隊伍だったが、既に残っているのはそれだけだ。
木々の葉を抜けて通る日の光に怯えるように、男たちは目をこらす。既に三人がやられた、その事実に、何の変哲もないはずのネルグの森が凶器の山に見えていた。
枝は槍、葉は刃、根は足を絡めとる鋼線。
そう錯覚するのも無理はない。
現状一人は木々の隙間を抜けた丸太の直撃を受けて胴をひしゃげさせた。一人は知らぬ間に茂みの中で身体を二つに分けられていた。一人は音もない矢が首下を貫いた。
誰も彼も即死。相手の数もわからず、ただ追い詰められるようにこちらの数が減っていく。
その原因は、ミールマンに駐屯するエーミール・マグナ。彼の率いる第三位聖騎士団〈日輪〉。
男たちが今必死に走っているのは、エーミールの手により罠張り巡らされた森という狩り場だった。
男が木々の間に張られた縄に引っかかる。膝に当たり足を取られたわけでもないが、動きが止まる。
舌打ちをしつつ飛び越えれば、深く積み重ねられた葉っぱに乗り、地面へと引きずり込まれる感触がした。
「……ひぃっ……!」
「馬鹿っ!」
もう一人の男、魔法使いがその手を取る。落とし穴、古典的なものではあるが、その先が見えないのが怖い。ざざ、と音がして葉や土が滑り落ちていく先で、何かが落ちる鈍い音がした。
「助かったよ」
「まだ何も助かってねえんだよ」
闘気使いの男は礼を言うが、魔法使いはそれに舌打ちで応える。まだ何も助かったわけでもないし、命の危機はまだまだ続いている。その証拠に、自身の睾丸は縮み上がり続けていた。
何が起きているのだ。そう今更ながらにして魔法使いは思う。
このミールマンには、〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドの命令で来た。わざわざそのために、乾きの国サンギエを越えて、ネルグの森を歩きここまで来た。
仕事は簡単だ。第三位聖騎士団長エーミール・マグナの撃破。簡単だと思った。何も大人数を相手する必要はない。平和ぼけしている国の騎士団、それもその団長だけを殺せばいいのだから、と。
彼の魔法は《予視》と呼ばれる。
彼の右目はいつでも六秒ほど先の未来を見ており、その効果はエッセンの誇る神器の一つ〈運命の輪〉と似ていた。
いつでもその力で生き残ってきた。
矢の雨降る奇襲には盾を構え、唱えられる魔術には唇を読んで対応する。
未来を知るという有利を活かし、その力を振るってきていた。
だが、今日は違う。
「……くそが!」
「ちょっ……!」
魔法使いが闘気使いを突き飛ばす。本来ならば文句の一つも言うべき闘気使いだったが、自分の頭のあった場所を通過し、その奥の木に突き刺さった矢を見てその考えを改めた。
「いくぞっ!」
そして魔法使いの言葉で闘気使いの男は走り出す。何処へ行くとも聞かぬままに。
魔法使いの右目の視界。その中で闘気使いの男が血塗れになる。
「俺が残って戦えば……」
「無理に決まってんだろうが!」
しかし闘気使いの言葉を遮ればその顔は元通りになった。助かった、今のものだけは。
だがまた次の瞬間、今度は右目の視界が暗転する。
これは、暗くなったのでは、ない。
まずい、と魔法使いが身を翻す。その行為で一瞬右目の視界が戻ったが、また次の瞬間赤黒い暗闇に覆われる。
焦りに唱えるのは魔術の呪文。
「雲を裂き、……空を巡り……」
「ぐえっ……!?」
響く声。振り返れば、左目の視界の中で闘気使いの男がつり下げられていく。
首にかけられた縄。それを解こうと必死に首下を掻きむしり、足下をばたつかせていた。
また、右の視界が暗転する。
「蝋を呑み……根源……!」
視界を晴らそうと、手当たり次第に適当な呪文を唱えようとする。それがこの場をどうにか出来る呪文であれば、口にした瞬間に右目の視界は晴れるはず。そう思い、効果が見られなければ次へと移る。だが、その効果は芳しくなく。
何か固いものを踏んだ。そう判断した魔法使いが一瞬の浮遊感を覚える。落とし穴を踏んだ、と思ったのはまた次の瞬間だった。
「っ…………!!」
全身に痛みが走る。
空を見上げた視界。そこに異質な杭のようなものが何本も並んでいた。
竹槍が屹立して、自分の身体を貫通した。そうようやく理解した魔法使いの意識は、次に続く轟音と共に消え失せた。
「以上ー、終了ー」
茂みから、パチパチと拍手をしながら男が姿を現す。顔半分を隠すような大きな黒眼鏡に、背中には編まれた長髪。エーミール・マグナその人だった。
エーミールは自分の作った落とし穴を覗き込み、その中にいる人物の安否を確認する。もっとも、もう既に事切れているであろうことは予測済みだったが。
エーミールと共に姿を現した部下の一人は、その穴の中を確認して顔を顰めた。
「火薬はやり過ぎなのでは?」
「魔法使いだぜ? やりすぎってこたあない」
見下ろした先には、焼け焦げた遺体。竹槍の槍衾で全身を穴だらけにされ、更に火薬の爆発によって弾け飛んだ凄惨な肉片。およそ生きていると思える者はそうそういないものである。
「リドニックから輸入した火薬の質も確かめときたかったしな」
「結果は……」
「上々」
『火薬』、そして『銃』。
前々からウェイトの報告書で知ったそれらにエーミールは興味を持っていた。
今回初めて実戦投入した火薬に、エーミールは感心する。
以前は硝石の入手を採掘に頼っていたために貴重品だった火薬を、大量生産する術を学んだ国、リドニック。そしてそれを考え出したとされる大発明家、レヴィン・セイヴァリ・ライプニッツ。
褒め称えるべきだろう。錬金術とも呼ばれているらしいその学問は、エーミールにして道半ばというものなのだから。
もっともエーミールは『銃』という武器の試作品はお粗末にも感じていた。
製造した鍛冶師の腕か、作りはしっかりとしている。しかし、設計がまるで詰められていない。考え出したわけでもない自分すらも、改良点がいくつも見つけられるほど。
火薬の大量生産手法と、銃の設計。そこから感じる考案者の印象の乖離。まるで、どちらかは別の人間が考えたのではないだろうか、と違和感を覚えるほどに。
しかし、そんな違和感もエーミールには関係がない。
『使えるものは何でも使え』。それが、身体に重大な障害を持って生まれたエーミールの信条である。
ぼとぼとと何かが垂れてくる。エーミールがその出所を見上げれば、先ほど縛り首にした男、その排泄物の汁である。
悪臭をものともせず、二人は顔を見合わせる。
「下ろしますか?」
「いいよ。俺がやる」
エーミールが投擲した尖った小石は縛り首の縄を正確に引き千切り、死体がドスンと音を立てて落ちる。その死体を竹衾に投げ込んで、「後はよろしくぅ」とエーミールは部下の聖騎士の肩を叩いた。
「落とし穴の埋め戻し、及び罠の撤去全て終了しました」
「おー、お疲れー」
ミールマンの執務室に戻ったエーミールは、一足遅く戻った副団長の報告を聞く。
今回の課題は『直接的戦闘の禁止』。
聖騎士である。魔法使いの相手も一対一で行えるはずではあるし、余程の腕前の相手であっても、二人でかかれば片付けられる。五英将でもなければ、負けるわけがない、というのは副団長の願いでもある。
そしてそれを禁じた上でも、勝つことが出来る強さを持つ。それがエーミールの理想であり、今日の実戦の課題だった。
結果は上々。闘気使い三人に魔法使い二人。それらを相手に、エーミール率いる聖騎士団五人は闘気すら使うことなく罠と戦略だけで勝利出来た。
実戦でも課題の遂行がつつがなく行われたことに満足げな副団長も、気分が良かった。
「今回も報告無しでよろしいですか?」
「そうしといて。もう確認とかなしでいいから」
手元の書類に目を通しながらのエーミールの答えに、副団長は頷く。
「了解しました」
ミールマンの周辺に現れるムジカル兵。彼らは一様に不審な動きをして、そしてどこかしらの襲撃計画を実行する。
今年に入ってもうこれは五回目のことだ。そしてその全てを王都へ報告せずにやりすごすのも。
副団長には、それを受けての心配があった。
「……そろそろ、本隊が来たりなどは」
「んー……ないだろ。明らかにこの五回の襲撃はラルゴの陽動だ。こっちに聖騎士団を回させるための」
だがエーミールは、その副団長の心配が取り越し苦労だと断ずる。
確信があった。そしてそれ故に、ムジカルが今回の戦争を本気に思っているとも。
そして、信頼をしていない。報告をしてしまえば、すぐにネルグ南側からこちらに聖騎士団を回してしまうであろう、王都の王侯貴族たちを。
「もしもラルゴが大隊を率いて現れたら、このミールマンの戦力では」
「や、つーかそれを考えさせるための仕掛けだって。お前まで引っかかんなよ。クロードやフィエスタじゃあるまいし」
エーミールは、ここにいない聖騎士団長の名前を挙げて副団長を叱る。
もっともその臆病さもあって、彼を副団長に抜擢しているのもエーミールなのだが。
「それよか、問題は『こいつ』なんだが……」
「こいつ……あ、ああ」
話題を変えるべく、エーミールは持っていた書類を副団長にも見せる。
そこには、イラインから定期的に届く報告書の束があった。
差出人は、『ウェイト・エゼルレッド』。この第三位聖騎士団の要の一人である。
「つーか一月過ぎてんだけど?」
「その、私に言われましても……」
「馬鹿なの? あいつ馬鹿なの!? 俺一ヶ月だけって命令出したんだけど?」
もちろん、一番多くを占めるエーミールの心情は『やはり』である。
そうなるだろうとも思っていた。適当な理由をつけて、滞在期間を延ばすのだろうと予想はしていた。
だがその上で、ウェイトを甘く見ていた、という後悔もあった。プロンデ・シーゲンターラーが死んでから、独善的になった彼。ここミールマンを荒らし回ったようにずるずると命令違反をされるよりは、期限を切ってやらかしをしたほうがいいだろうという判断。それが、間違っていたと。
他の聖騎士団員に、連れ戻してこい、という命令を出すのは簡単だ。
けれどもそうすれば、プロンデが死んでただでさえ減った人手が更に減る。このラルゴからの嫌がらせのような襲撃が、実際には陽動でも何でもない斥候だったとなったら目も当てられない。
エーミールにはもちろん陽動だという確信がある。しかし、万が一というのもある。自身の判断を絶対とも信じていなかった。
報告書にはイラインの治安の様子。それに、戦争に関わる犯罪の増加、または減少の情報。それらに、『まだ調査が必要』、『引き続き詳しい情報を集める』などの文章が必ず付け加えられていた。
そしてもう一つ、ウェイトが執心していた石ころ屋、その幹部であったとされるニクスキーの所在について。『ほぼわからない』という意味の文章と共に。
「や、つーかもう、俺が行ってニクスキーとやらを見つけてくればいいんじゃねえの」
「それはたしかに、ウェイトの気は済むでしょうが……いや、それでも気は……」
「済まねえだろうなぁ……」
ウェイトが罰したい『悪』とは限りない。
汚職や職権乱用、窃盗や詐欺、傷害から殺人などの罪。それらは人間の集団の中では、減ることはあってもなくなることなど決して無い。
一撃で全てを決する銀の槌など存在しない。付き合っていくしかないのだ。根気よく。
もう、軍紀違反で退団させてしまおうか、とも思う。
だがそれも許されない。聖騎士団員は軍紀違反などしない清らかな人間たちでなければいけない、というのが貴族の意向だ。
それでも退団させる手段がエーミールには無いわけではない。別の理由を用意してやればいいのだから。
しかし仮に聖騎士でなくなったウェイトは、強権を使えなくなったウェイトは、更になにか厄介なことをしでかさないだろうか。
そんなエーミールの心痛の種が胸のどこかで主張する。
さすがに部下を、裁くような事態にはしたくない。
溜息をついて、エーミールが立ち上がる。
それから部屋の木の窓を開ける。上層階の上階に位置するエーミールの執務室からは、街もネルグも一望出来た。
「帰ってこいウェイトー! ぼけー!! あほー! かすー!!」
その窓から、大きな声が響き渡る。
それを聞いた下層の住民たちは、その声が貴族のものだと知っているものは黙り込み、知らない子供たちは応えるように大声でふざけ合った。




