互いに
長かった章も終わり
舞踏会の喧噪から少し離れた庭で、僕は適当な庭石に腰掛けて空を見上げる。
完全に日が沈み、数えてはいないが既に舞踏会の音楽も何巡もしている頃。
それでも庭全体は防犯も兼ねて並べられた松明で照らされており、更に舞踏会場から届く光も加わりそれなりに明るくなっていた。
今日も僕は、舞踏会の準備を手伝った。数日前の海兎の毒の影響も治まりつつあり、人手は足りているはずの王城だが、前回の手伝い募集で味を占めたらしい。
といっても僕の仕事は今回は裏方限定だ。ミルラ王女の手も回り、また僕が誰かと諍いを起こしては困るからと会場に出る仕事は一切なかった。
それはまあ、単純に助かる。勇者と顔を合わせたくはないし、そしてルルとも顔を合わせづらい状況。
確認してもないが、おそらくルルもこの会場に来ているだろう。そして勇者の横に立っているのだ。下手な笑顔にもなっていない笑顔を見せて、この前の言い争いは尾を引いていない、と勇者と仲直りをしたことを示すように。
もっとも、隣に立つ程まではしていないのかもしれないが。
この王城の舞踏会。令嬢たちだけが招待されているものならばまだしも、今回はそれ以外の貴族たちも招待されている。その中には、おそらくルルが勇者と結婚することを望んでいない者もいる。
そんな者たちの前で勇者の正妻面をしてしまえば、王からの命令が出ている以上、このままではルルは身を引くべきなのに、という攻撃材料になってしまう。
ルルへの政治的な圧力を躱すためにも、今夜勇者の隣に立つのはネッサローズ辺りが相応しい、……と僕は思うが。勇者に、そんな配慮が出来るかどうかはわからない。
まあ、その辺りは今は何も出来ないし、どうにか良い感じに収まってくれていることを祈るしかないだろう。僕の場合は、成り行き任せでは大抵の場合嫌な方向に進むものだが。
星を見上げて僕は溜息をつく。のけぞった身体を支えるよう、手をついた石が冷たい。
明日からの動きに関して、簡単でも決めておかなければ。
ムジカルと同じくとはいわないが、このエッセンの軍の動きもそれなりに早い。
何しろ戦争は本当は今日決まったわけではないのだ。僕とレイトンがこの王都に来たときにはもう既に募兵が始まっていたし、その他の物資の準備も行われていた。
……それを考えると、本当にこの城も燃やしてやりたくなる。何が『正義の戦』だろう。それを待ち望んでいたくせに。
ともかくとして、そんなわけで既に今日、兵糧や武具などの備品は前線基地代わりのイラインへと送られている。そして参戦する騎士団も、早い者では明日には出征し、イラインへと向かうという。
僕とレイトンがこの王都に来たときの旅程を考えると、おそらく五日ほどでこの王都の軍はイラインへと到着する。
既に少数の騎士団はイラインに集められていると聞くし、一旦は雇い主の下へと集った傭兵や探索者も既にイラインに向かっているだろう。
ミルラの話では、エッセンの軍の総計は二万から三万程度。イラインの人口の二倍から三倍程度がそこに集うのは無理だろうし、おそらくそのうちの大半が近くの開拓村や小さな衛星都市へと分散して駐屯するだろうが。
集合自体にも二日三日欲しい。さらに少人数ならばまだしも、その人数が一度に集まれば足並みなど揃うまい。
進軍経路や物資の配分などを決める合議……それも数十名の指揮官の集まりで行われるのだろうが……があったとして、布陣が行われるのがそれから適当に三日として、合計十日ほど。
…………。
早いとは思ったが、やはり遅い。
ムジカル軍ならば、開戦を決めたならば遅くとも三日後には戦闘が始まっている。
開戦宣言前ならばともかく、今日開戦は公的にも発布された。それをムジカルも承知しているならば、既にネルグ内の開拓村の一つや二つが襲われていてもおかしくはないのだ。
一応光明はある。
ムジカルの開戦の早さは、隣接する街から兵を出すために、進軍の遅れがほとんどないという利点からだ。
ムジカルは軍を集めて一斉に戦い始めるという戦はあまりしない。ムジカルが採用する戦での最初の攻撃は、少人数での奇襲に近い。大軍を集めるのではなく、その内集まる、という風な兵の運用だからこその早さだ。
ネルグの南側、その東側半分はムジカル領とはいえ、ムジカルの民は余りそこに積極的に暮らしてはいない。
ならば少しだけ時間稼ぎは出来るだろう。ライプニッツ領からの派兵もあることだし、しばらくは防戦出来るのではないだろうか。
それでも既に、誰かが犠牲になっている可能性もある。
僕の心に、こうしていていいのか、という焦りが若干浮かんでくる。
今からでも全速力で向かえば、夜のうちにはおそらくイラインに着くだろう。そこから更にムジカルへ向かえば、疲労による遅れなどを無視すればおそらく昼にはムジカル領へと入れる。国境を越えたムジカル兵たちをどうにかして殺せば、そんな悲劇は回避出来るだろう。
だがそんな広い範囲は僕の手が回らない。
だだっ広い国境だ。ある程度範囲が限定されるとはいえ、自由に出入りする人間たちの進路などを予測は出来ないし、遠く離れていれば間に合わないことだってある。
戦場の兵たちの動きを制限出来るのは、やはり地形と同じく兵たち。
ムジカル兵たち、それに五英将を効率よく殺していくためには、少なくともイラインから兵が動き出してからでなくては。
とりあえず、クロードたちと足並みを揃える意味もあり、ミルラ麾下に入ったと示す意味も込めて、僕も明日出る。
援護要請の手紙の三通も、明日探索ギルドを通じて送ればいいだろう。一通が届くことは期待していない。だが少なくとも一人、〈鉄食み〉スヴェンには届いて欲しいところだが。彼がいないのであれば大分苦しい。
本当ならば、エウリューケやニクスキーさんにも頼めればよかったんだけれども。
戦争自体初参加ということで、動きがわからないのもまあちょっと不安でもある。
この世界に来てからも、戦争はやはり知識でしか知らないものだ。僕が『おそらくこう』を積み重ねて動いても、多分現場を知っている人間には簡単にひっくり返されてしまうだろう。
数万人もの人間が動く戦争では、僕一人の力は酷く小さい。まずはそれを、肝に銘じておかなければ。
今回の目標としては、五英将の撃退。出来れば首を取るところまでいきたいところだが、そう簡単にはいかないだろう。それにおそらく、五英将一番の古株である〈鎮守〉は出てこない。僕も姿を見たことはないが、王都ジャーリャから離れたことはここ百年はないと聞く。
ならばあと四人。〈貴婦人〉に〈成功者〉、〈眠り姫〉、〈歓喜〉。
魔法使いである〈貴婦人〉と〈成功者〉は多数の魔法使いを配下に抱えている。難しいのはその辺りか。〈眠り姫〉は魔法使いではあるものの、魔法使いの従者は少ない……と聞いたことがある気がする。
ムジカル側は十万人程度が参加するが、おそらくその四人を撃退出来ればあとは聖騎士団や騎士団の精鋭でも相手は出来ると思う。それも楽観的だし、下手すれば簡単に陥落しそうなのがこのエッセンの怖いところだが。
だが陥落などはさせない。
この国に愛着などは一切ないし、滅んでしまえと思わないわけでもないが、ルルを含めた僕が嫌いではない人間が数人この国で暮らす以上は。
彼らも逃げればいいと僕は思ってしまうが、それも難しいだろう。ルルもそうだが、リコやモスクも、守るものがある以上簡単にこの国を逃げ出すわけにはいくまい。
前回イラインを出立するときに聞いたレイトンの話では、僕の出陣は戦況に影響を与えられるという。ならばまあ、きっとそれなりに何かは出来るのだろう。その何かを、僕が考えなければいけないのだけれども。
基本的な方針としては、兵の布陣を待つ。
ここエッセンは大国。いつもはわずかな期間で隣接する小国を飲み込めるムジカルも、エッセン相手は簡単にはいくまい。散発的な襲撃はそこそこあるだろうが、その内におそらく両軍が陣を立てて睨み合う展開が来る。
民間人の犠牲はともかくとして、戦闘員の犠牲は少々覚悟してもらおう。彼らも、好き好んで戦場に飛び込む者たちなのだから。
そしてそのときに、僕は出来るだけ多くを巻き込みながら陣を叩き潰していく。
無論相手も無抵抗ではないだろうが、それでもきっと僕は出来る……と思う。
想像すると手に汗が滲み出る。
僕は孤軍。それもおそらくは、軍ですらないただの孤。そして相手は僕と同じく、人殺しを平気で出来る人間の群れ。
孤で群に立ち向かうのだ。簡単ではないのだろう。奇襲すれば先手は取れるだろうし、察知すらもほとんどされずに済むのだろうが、それでも絶対ではない。
偶然の槍や矢が僕に向かってくるかもしれない。ムジカルではそうそうないが、雑兵の群れの中に、まだ無名のクロードのような人間が潜んでいるかもしれない。
僕は一応、簡単に殺されない自信はある。
けれども、僕がいるのだ。やはり僕と同じような人間が他にいてもおかしくはないだろう。
きっとこれが不安というものなのだろう。
当然だろうとも思う。僕は一人で戦場を征服出来るような英雄ではない。そんな卑小な人でなしが、戦場の命運を左右しようとするつもりでいるのだ。
死ぬかもしれない場所へ行き、大きな事を成そうとする。
自分がそんな力を持っているだろうか。持っていると信じられるだろうか。
僕は無条件に『はい』とは答えられない。だからこそ感じる不安。
この不安はきっと、誰しもが普通に感じる感情だろう。
人事を尽くし天命に聴す、という言葉がたしか前の世界にはあった。もとは中国の言葉だったっけ。
人事というのはどうやって尽くせばいいのだろうか。
エッセンを勝たせようと思っても、戦力差は絶望的で数でそれを埋めることは出来ない。ならば質で何とかするしかないのだが、質が高い人材というのは限られている。
ニクスキーさんは姿を眩ませた。イラインで会えれば頼んでみようとは思っているけれども。先ほど会おうとしたエウリューケは無反応を貫いた。下手に触れば文字通り障る気がする。
迷うことばかりだ。だが、期日は明日に迫っている。明日を締め切りに、僅かな修正を許された数日の猶予期間をおいて答えは出る。
あとは、戦場で、やれることをやるしかないだろう。
ど派手に、なんとか。
またそれか、とも思うが、僕にはそれしか出来ないだろう。
もう少し何かが欲しかった。何かが。
満月に近い月を見上げて、そこから見える母と話が出来ないだろうかと考えていると、その月を横切る影がある。
鳥のようにも見えたが、こんな夜には通常鳥は飛ばない。
それと同時に僕の耳に届いた足音。隠されてもいないそれは、鳥が飛んできた方向から。
逆光に照らされている少女。近づいてくるにつれて、光が落ち着いて顔が照らされて見えた。
「……これは」
失礼しました、という言葉を省略し、僕は身を起こすようにして地面に足をつける。芝生の柔らかな感触が足の裏で潰れた。
「ルル様、舞踏会はどうされたのでしょうか?」
ルルは僕がまだ座っている無礼を咎めずに、僕の前まで歩いてくる。オトフシもサロメも近くにはいないようだが、まあオトフシは見ているだろう。
「カラス様こそ、お仕事は終わったんですか?」
「私は今のところ大した仕事もないので、休憩中です。舞踏会が終わり次第、片付けに駆り出される予定です」
先ほど僕は会場に出ずともいいということを伝えたアネットは文句を言っていたが。仕方ない、僕もまた喧嘩をしたくはない。
ルルはその事情を知らないだろうが、おそらくは薄々察しているだろう。
「前言ったとおり、私も踊りは苦手ですから、抜け出してきちゃいました」
「それでは仕方がないですね」
ふふ、と笑うルルに僕は合わせて笑う。
何故だろうか。そのルルの笑みが、いつもよりも綺麗に見える。
「……先ほどは、すみませんでした。感情的になってしまって」
「いいえ。全ては筋を通さなかった私の責任です。ルル様は何も」
悪いわけがない。勝手なことをしたのはたしかに僕だ。怒られるのも僕が正しい。
というかそもそも座ったままなのは無礼にも程があるな。そう思い立ち上がると、それに合わせてルルは一歩後退った。
「それで結局、カラス様はどのように?」
「明日、この城を出ます。そこからは随時適当に。帰ってくるのは、戦争が一段落した後になります」
戦場での動きは、大分ミルラから強い権限を与えられている。本来はミルラの要望に添ってどこかの騎士団に合わせて動くのだろうが、それをしなくてもよいとのお墨付きだ。話の早い上司は助かる。
「帰ってくるんですか?」
「…………ええ」
帰る、という言葉に即答出来ずに、それでも僕は頷き返す。自分でも思っていないほど、小さな声で。
「…………」
ルルは口元に笑みを浮かべたまま、僅かに目を伏せる。そして肘の辺りを手で押さえて、何かを言おうとしたまま口を開かない。
それから呟く。小さく。
「私のために……申しわけ……」
だが言葉の最中にそれは止まる。小さく首を横に振って顔を上げた。
「私のために、ありがとうございます」
「いいえ」
僕は気の利いた文句が浮かばずに、ただ笑顔を作るようにして一言答える。こういうときに、勇者ならば何か一言添えられたのだろうが。
無言で一瞬見つめ合ってしまう。
身長の関係でやや見下ろすように。
そういえば。
「……髪の毛、下ろしたんですか」
最近はほとんど上げていた前髪。きっとその方が、明るい雰囲気にはなっていたんだろうけれども。それにあの方が、きっと『おめかし』という雰囲気も出ていただろうに。
「はい。……似合ってませんか?」
おずおずとルルは聞き返してくる。やや上目遣いに。
僕に美的感覚はないので当てにはならないが、髪の毛を下ろし、ルルは少し地味になった。野暮ったくもなったとか、多分そういう形容詞もつくのではないだろうか。
だがそれに関しては、僕の答えは変わらない。
「似合っていると思います。私はその方がずっと好きですね」
「前にも、そう仰っていました」
ルルが拳を口元に当ててクスクスと笑う。
たしかその時は、ルルも自分で気に入っていると言っていた気がするが。
ふとルルが振り返る。
舞踏会場の明かりの先で、新しい曲が始まったのだろうと僕も気が付いた。
そして顔を横に向けたまま、ルルが手を差しだしてくる。
「……舞踏会ですから……踊りませんか?」
「あいにく、私も踊れないんです」
先ほどルルもそう言っていたが、僕もそうだ。水天流の型は踊りに似ているらしいが、それでもそんな素養は僕にはない。
「教えます」
「ルル様も苦手なのでは?」
「カラス様よりは知っているはずですから」
そもそも、僕は使用人。ルルと踊れる立場にはない。
たまに舞踏会でも使用人同士や教育係と幼い貴族が踊るなどはあるらしいが。
僕が困ったようにしていると、断るために僕が胸の前に出した手をルルが取る。
それから引っ張られる。別に抵抗しようと思えば引かれることもないのだけれども。
だがその手は踊るための位置には持っていかれず、ルルは縋り付くように両手で僕の手を取った。
それから真剣な目で、僕を見る。
「戦争に出るカラス様に、一つお願いがあるんです」
「お願いと言わずとも」
命令すればいい。ルルはそれが出来る立場だし、と思ったが僕がそれ以上を言う前にルルは首を横に振る。
「お願いです」
「…………」
「生きて、帰ってきてください」
僕は驚き、目を開いて固まった、と自分でも感じた。
生きて帰る。当然だ。僕はこの国に命を捧げる気などない。
だから、そのつもりだ、とも思った。けれど、その僕の手を持つルルの手が震えているのに、僕も自分の手が震えているようにも思った。
僕は手を握り返す。どちらかのはわからないが、震えを止めるように。
「必ず」
それだけで、震えが止まった。




