閑話:恐るべき子供たち
昼を過ぎて、ヨウイチはマアムを連れ立って廊下を歩いていた。
その足取りは軽く、重みを感じない身体に心まで浮き立つようだった。
すれ違う令嬢にはこんにちはと挨拶を返し、廊下の端へと寄った彼女らにはそれ以上の興味は示さない。
今のヨウイチにはそれ以上に楽しいことがある。それ以上に嬉しいことがある。
いつの間にか奪われていた楽しい人生を奪い返す。そのとっかかりを掴んだ気がして。
プリシラに勧められ、ヨウイチは決闘でカラスの相手として名乗り出ることを選んだ。
だが、カラスの相手。それをこなすためには関門がいくつかあった。
何せ相手はこの剣と魔法の世界の何でも屋。それも、他人の警護が出来るほどの腕自慢。
日本でただ安穏と過ごしていた高校生には勝てない相手。その程度は、ヨウイチにもわかっていた。
一応、ヨウイチには剣がある。高校に上がってから始めた剣道に、物心ついた頃から祖母に教えられていた剣術がある。
しかしそれが通用するかはわからない。この世界に来るまでは、所詮仮想戦闘しかしていない素人だと自覚はしていた。
その卑下も、今日で終わりだ。
ヨウイチはそう思った。
自分は勝ったのだ。この王城で現在もっとも強いと皆が囁く男。クロード・ベルレアンに。
あの人ならば、仮想カラスとして申し分ない。何せ演武とはいえ、カラスに押し勝った剛の者だ。
もちろんきちんと勝ったわけではない。試合の上で一撃当てただけ。それもフェイントを交えた軽い一撃だけを。
だがそれでも充分、とヨウイチは考える。
剣道にこだわらず、剣術を使い始めてからは有効打をクロードから与えられていない。
ならば先に当てたのは自分で、そして実戦であればその『先に当てた』というのは重要だ。
人には痛覚がある。痛みは多くの人間に共通する耐えがたい苦しみだ。
あばらの一本を折られそれでも構わずに動く。顔面を打たれ鼻血を噴き出しながらも構わず戦いを続行する。そんなもの、アニメや漫画の世界だけの話だ。
そうヨウイチは認識している。
叩かれ痛みを感じれば人は動きを鈍らせるし、時には小さな傷で行動不能になることもある。ならば試合ではなく実戦ならば、先に当てた方が絶対的な有利を取る。戦いとはいかに当てられないか、いかに早く当てるかの勝負となる。
佐原一刀流剣術も、首や脇、鼠径部などの血管を切断することに重きを置いており、その剣は剛剣というよりは精妙の剣。肘や手首などを使った独特な突きも、防具のない場所を的確に速く刺し貫くための工夫である。
そして今回目指しているのは試合ではない。
実戦ならばもっと強く当てる。鋭く当てる。そして当てるのは木剣ではなく、不壊の宝剣の一撃。人体は容易く貫ける。
クロード・ベルレアンから一本を取った。
その事実はヨウイチの自信となり、光明となっていた。
演武とはいえ、カラスと互角以上に戦っていたクロード。
その男に一撃を当てた。ならばカラスにも一撃を与えることが可能で、そして一撃与えてしまえば自分の勝ちだ。
人は怪我をすれば戦えない。鎧ごと一刀両断などせずとも、動脈に小さな切れ込みを入れるだけで人は死ぬ。急所に一撃与えれば、怪我をさせることもなく行動不能に出来る。
人間ならばそのはずだ。人間ならば。
魔力が、勇者の思考を曇らせる。
ヨウイチは考えない。指が引きちぎれようとも戦う者の存在を。魔力が考えさせない。自身の常識に当てはまらない存在を。
ヨウイチは気付かない。クロードに勝ったという前提となる条件に、不備があることを。魔力が気付かせない。希望的観測に目が曇りきっていることを。
気付かない問題を置き去りにして、自身の準備は整った、とヨウイチは拳を握りしめる。
後の問題はただ一つ。決闘に出ることが出来るのかどうか。ジュリアンが自分を認めるかどうか、それだけが不安の種だった。
ジュリアンの部屋は酷く乱れた状態だった。
精巧な硝子細工の照明は引き倒され、花瓶は壁に叩きつけられて割られている。
苛立ち紛れの破壊行為。少々の乱痴気騒ぎも出来る程度の広い床はその痕跡で溢れている。
いつもはそれを片付ける侍女がいたが、彼女は二日前から身体的にも精神的にも寝室の寝台から立ち上がれずにいた。
「私に任せてくださいよ」
大柄な身体を揺すり、男はガハハと笑う。モッカンと名乗る四十近いその傭兵は、ジュリアンがようやく見つけ出した『逃げぬ者』だった。
ジュリアンとその二人の仲間は、思い思いに長椅子に座り調度品に寄りかかり彼を検分する。
前屈みに座り直し、ジュリアンは目を細める。こんな男で大丈夫だろうか、という一抹の不安が拭えなかった。
傭兵だ。各地の戦場や紛争へと出掛け、武勇を示して賃金を得る。
そんな仕事に慣れている、というのは毛深い腕に無数についた傷跡からよくわかった。
得意な武器はないという。そして不得意な武器もないという。戦場で武器にこだわる者は早死にするから、とモッカンは嘯いていた。
渡り歩いてきた戦場の数も申し分ない。二十五年前のムジカルとの戦を初陣とし、戦後ムジカルに渡り転戦。エッセンに戻ってきても、各地の山賊の討伐や魔物の討伐に赴いてきた。
一応は、問題ない。相手がただの優男なら、少なくとも殺し合いでは勝てるだろう。
だが。
ジュリアンが内心唸る。勝つ姿が見えない。太い腕も、高い背も、夥しい数の傷跡も、全てがこの目の前の男の強さと経験を示しているというのに。
カラスの戦っている姿を見たことは演武の一度しかない。だが、仮にクロード・ベルレアンを基準に考えれば、クロードに目の前のモッカンが勝つ姿が浮かばない。
よくて惨敗、悪くて瞬殺されるだろう。その程度しか、見えない。
本人は、団長級ならば手こずるが、聖騎士程度ならば瞬殺だとも豪語していた。
だがそれも本当だろうか。そう悩んでいた。
しかし他に選択肢はない。
ジュリアンは一度深い呼吸をして心を落ち着ける。
「いけるか?」
「もちろん」
探索ギルドには断られ続けた。ならばと有力な探索者個人と連絡を取っても無駄だった。傭兵団に依頼もしたが、たいてい雇い主が決まっているか、もしくはカラスの名前を聞いただけで断られた。
期日は明日。それまでに、次の者が見つかる保証はない。だから頼りになるのは目の前の今ひとつ信用出来ない傭兵しかいないのだ。
ジュリアンは視線を落とし、開いた足の間の床を見つめる。
父に、ビャクダン大公に相談すれば瞬く間に解決することなのにと悔やむ。
自分は所詮部屋住みの三男の身。しかし今回のことは曲がりなりにも、家と家との決闘だ。ならばいつもは無関心な自分にも、面倒ながらも手を貸してくれるだろう。
拳を握る手が痛む。
ジュリアンは憎悪していた。その身が囚われている境遇を。
自分よりも頭も悪く器量も悪い兄が家を継ぐべく扱われ、そして自分は部屋住みの身に甘んじているのを。
生まれた順番が違うだけだ。なのに、自分は控えていなければいけない。次期当主の身に何かが起こるまで、ただただ無為に時間を過ごさなければならない。
苛立つ毎日。
苛立ちを収めるために色々とやった。
囚人たちを追い詰め矢を放った。名も知らぬ女を無造作に犯した。禁じられているはずの薬に溺れた。豪奢な調度品を山ほど揃えた。
実感した。自分は全てが許されているのだ。
奢侈の限りを尽くし、悪徳に染まろうとも誰もそれを止められない。
そしてその全てが、『ジュリアン』ではなく、『大公家子息』に許されているという事実を実感し、なおのこと苛立ちは募った。
昼餐会の会場で、『ただ太師の子供というだけで』、そうカラスは言った。
その言葉が気に障った。言い返す言葉が見つからなかった。
貴い血の生まれ。高貴な生まれ。太師の血を継ぐ者。贅沢が出来る理由も、全ての罪が許されている理由も様々に説明出来る。だがどれも、カラスの一言に集約されてしまう。
逃れられないのだ。自身はその血から。
その血は甘い蜜。今ジュリアンの周囲に集う誰もが、その甘い蜜を吸いに訪れている。
望めば全てが思いのまま。
故に、自分だけの力で何かを成し遂げたことがない。何かしらの失態を演じたところで、親に泣きつけば全てなかったことになるだろう。
それを取り巻きたちも期待しているという事実も、わかっていた。
だが、今回ばかりは違うことがしたい。
決闘だ。家と家との戦争で、本当ならば親に泣きついて最高の代闘士を用意してもらうべきだろう。
そうすれば、〈鉄食み〉や〈剣身〉などの高名で高額な探索者や傭兵すらも雇えたかもしれない。
それでも、それをしたくない。カラスの挑発に応じたわけではないが、クロックスの嫌みに応じたわけではないが、大公家を頼るわけには。
本来ならば、モッカンという目の前の傭兵を雇うのも親から渡された小遣いを使うわけにはいかなかった。しかし仕方ない、とも内心譲歩した。侍女を通じて定期的に渡される小遣いが、自分の動かせる唯一の金だ。
……本当に、金貨二十枚を使う価値が目の前の男にあるだろうか?
ジュリアンの目がきつくモッカンを見つめる。向けられた傭兵は、自身の粗相が原因かと愛想笑いをして首を捻った。
コンコン、と慎ましやかに部屋の扉が叩かれる。
来客か、とジュリアンは侍女に扉を開かせるべく視線を漂わせたが、その侍女は自分と子分たちの夜の相手を昼夜なくさせたために、寝室で動けずにいる。
仕方ない、と溜息をついて、傍らにいた男爵家の息子に視線を向けて顎で扉を示す。本来そのような仕事をする身分ではないが、男爵家子息は今この場で傭兵を除いて身分が一番低いと自覚し素直にそれに従った。
「今日は折り入ってお話が」
訪ねてきたヨウイチに立ち上がりもせずに応じたジュリアンは、ヨウイチの笑みに不思議に思う。
表情が明るい。今まで見せていた、明るい中にも一種陰気なものがあった表情とは打って変わって、楽しげに。
「……勇者様からのお話とあれば、是非もない」
「そんな大したことじゃないんですが」
言葉の最中にヨウイチがちらりと視線を向けた先を見て、ジュリアンはまた訝しむ。その視線の先には、侍女のマアムが大事そうに抱えた宝剣、勇者のために誂えられた至高の一振りがあった。
まさか、自分の命を、と一瞬考えてジュリアンは微かに首を横に振る。ないだろう、そこまでの根性は、目の前の勇者にはないと断定して。
「決闘を行う、とお聞きしました。……あの、カラスと」
「…………」
ジュリアンは返答をせずにヨウイチの言葉を反芻する。自分の前では今までなかったことだ。カラスを、カラスと呼び捨てにするのは。
「ザブロック家からは、カラスが出ると聞きました。そしてビャクダン家からは、まだ決まっていない、と」
「情報が少し古いようだ。先ほどその男に決定した」
続くヨウイチの言葉を遮り、ジュリアンはモッカンを指し示す。壁際に控えていたモッカンは、その言葉に白い歯を見せて微笑み、右腕を曲げて筋肉を強調した。
ヨウイチはその姿を見て目を丸くし、そしてすぐに不快感に唇を歪めた。
自身の道を塞ぐ弱者に。
無視をするようにモッカンから視線を外し、ヨウイチはジュリアンに向き直る。
「……俺を、決闘に出してください。カラスと、戦わせてください」
「残念ながらそれは出来かねる」
ヨウイチの言葉に躊躇なくジュリアンは首を横に振る。国の要人だ。軽々しく出すわけにはいかず、その上もう一つの理由が大きい。
「勇者様は、カラスに勝てますか?」
「勝てます」
ヨウイチが即答する。だが、ジュリアンはその言葉が信用出来なかった。
勇者が、未だにテレーズの稽古に出ていることは知っている。情報筋から、その聖騎士との稽古の乱取りで未だ勝ち越すことはないと聞いている。
なのに、勝てるとは思えない。今回の相手は、クロード・ベルレアンを想定しても勝てる相手でなければいけないのに。
無論、ジュリアンはモッカンがその信用に足る男だとも思っていない。
しかし数々の戦場を生き残ってきた男と、戦場に出たことのない勇者。賭けるならばどちらか、という究極の選択が、どちらかといえばモッカンに傾いているというだけで。
「……俺を置いて、話を進めないでくださいよ」
話を聞いていたモッカンが、苛立ち紛れに背中で壁を押す。その拍子に、腰に下げられた小剣がゴスンと鳴った。
「安心しろ。たとえ勇者様とはいえ、決闘には出さない」
「だといいですがね」
モッカンは、不遜なる態度を崩さない。勇者と公爵家の子息を前にしても。舐められたら困る、という彼なりの処世術だった。
そしてジュリアンの言葉にはヨウイチが眉を顰めた。
「俺よりも弱い、その人を出すんですか?」
「は?」
ジュリアンが答えるよりも先に、モッカンが大きな声で反駁する。
「聞き捨てならねえんだが、……勇者? 様」
「…………」
静かな怒りを見せるモッカン。ヨウイチはその姿を見て、自身の戦力分析の深度を高める。
腕の傷、ヨウイチよりも階級の高い大柄な身体、持っている武器。
再度の確認でも、やはり、自分より強いことを示す点は見当たらない。
「なんとかいえよ、おい」
静かに首を振ったヨウイチに、モッカンが詰め寄ろうとする。さすがに不味い、と感じたジュリアンの取り巻きは、モッカンを止めるべくヨウイチとの間に立とうとした。
その動きを、ジュリアンが腕を上げて止める。
「……わかった」
端的な言葉の意味がわからず、部屋にいた全員がジュリアンの言葉の続きを待つ。
ヨウイチはジュリアンを見つめ、モッカンはジュリアンとヨウイチを交互に見ながら。
「勇者様。出たいのならば、俺を納得させてみろ。今現在、代闘士はその男だ」
「ケッ!」
唾を吐くように、モッカンが意味のない言葉を床に吐き捨てる。
「しょうがない。怪我をさせないようにするから、我慢してくれよ」
「ありがとうございます」
モッカンに返したようで、ジュリアンにしか返していないヨウイチの言葉。
それに対する返答もせず、モッカンは部屋の開いている空間に足を踏み出した。
ヨウイチも応えて足を踏み出す。マアムから剣を受け取って、ゆっくりと。
多少なら剣を振り回しても危なげがない程度の空間に、二人が向き合った。
ヨウイチが鞘から宝剣を抜き放つ。ヨウイチがそれを持つ手をだらりと下げると、応えるようにモッカンが腰の小剣を抜いた。
心配そうにマアムが見つめるが、ヨウイチはそちらを気にしない。だがモッカンの方はそれを見つけて、慣れない笑みを浮かべた。
モッカン側の戦力分析も済んだ。
侍女が心配そうに見つめているのだ。ならば、勇者には自分に勝つような力はない。だとすると、ここで怪我をさせる方が問題になるというもの。
「……心配すんな、これは使わねえよ」
モッカンが小剣を目の前に掲げて持つ。
そして柄と刃の先をそれぞれ摘まむように持つ。
バキン、という高い音が部屋に響いた。投げ捨てることもなく、二つに折られた小剣からただ手を離せば、絨毯の上に音もなく落下した。
捨てられた破片の先を追うこともせず、モッカンはヨウイチの目を見つめる。しかしそこに戸惑いや驚きはなく、内心舌打ちをした。これで驚いてくれれば楽なのだが、と。
「青痣くらいは覚悟しろよ」
「その程度」
ヨウイチはモッカンの言葉を笑い飛ばすように答える。
青痣程度、怯むわけがない。これから先、行き着くのは、それよりももっと重大なもの。
「ジュリアン様、見ててください、今……」
素手でも自分は戦える。その様をモッカンは見せたかった。
だが、構えた瞬間、両脇と両足の付け根に痛みが走る。
「っ…………!?」
勇者の、肘をしならせる独特の剣。その突きが、届かぬはずの距離を超えてモッカンの身体に穴を開ける。
モッカンの脳内が痛みと疑問符に満ちる。何故、どこで。
(…………?)
ヨウイチの方も、不可解さに一瞬戸惑う。モッカンに思っていた反応がない。傷口から血が溢れ、腱もほとんどが断たれているというのに、苦痛の声や苦悶の表情が。
モッカンが慌てて闘気を活性化させる。
薄く白い光。本来ならば、ヨウイチの魔法を防ぐのに充分な密度のものを。
そうして痛みを誤魔化しつつ、四肢の状態を確認する。腱を断たれたのか、動かしづらいが問題はない。そう確認しながら、わずかに繋がっている腱でようやく身体を動かしヨウイチに詰め寄ろうとする。
モッカンがまだ動いている。その事実にヨウイチは多少怯んだが、方針に変わりはなかった。
互いに一歩踏み込み、互いに間合いに足を踏み入れる。
未だ、格下だ、と侮っていたモッカンは、ヨウイチの動きに対応出来ない。
ヨウイチが、モッカンの拳を避けるためやや屈みながらもう一歩進む。そのまま前足で急制動し、勢いは全て剣に乗せて放出する。
やや半身。後ろの足を伸ばし、前の足を深く折り曲げ、左手を地面に触れさせての右の剣の突き。
「……ぉ!?」
斜め下から鋭く突き出されたその剣先はモッカンの喉に深々と突き刺さり、彼に声にならない声を発させる。
正確に背骨を突き破り、前から小脳までをも貫いた剣は、ヨウイチも驚くほどに軽く刺さった。
原体復帰。すぐさま体勢を引き戻し構え直すヨウイチに何も抵抗出来ずに、モッカンはその息の根を止められて前のめりに崩れ落ちた。
うつぶせに倒れたままのモッカンの喉から、じわりと命の血が溢れ出し絨毯を汚していく。血溜まりに浸かるように倒れたままのモッカンが、死んだことはその場にいる誰もが否定出来ない事実だった。
「…………いいな」
ぼそりとジュリアンが呟く。
目の前の死体に向けてではない。目の前で、躊躇なく人を殺した勇者に向けて。
虫も殺せぬ勇者と聞いていた。聖騎士相手の鍛錬では、たまにいいところも見せるがほとんど未熟と聞いていた。
だが、目の前の光景にその伝聞を疑いたくなる。
躊躇なく、モッカンを蜂の巣に変え殺害した勇者に、抱いていた印象を塗り替えられる気がした。
そういえば、とジュリアンは思う。
口さがない下男下女が、『勇者が発狂した』と噂していたのをどこかで聞いた気がする。
現場に居合わせた使用人がいたと、まことしやかに囁かれてはいたが、噂とは大抵そういうものだ。信用出来る情報ではない、とそう思っていたのだが。
気付かなかった。会話が成立していたヨウイチに対し、そう思えなかった。だが考えてみれば、たしかに彼は今、発狂しているのだろう。
だが、ありがたい話だ。
雇おうとしていた傭兵よりも強い勇者。それが今まさに、自ら決闘の場に飛び込もうとしている。
「ジュリアン、……その、さすがにやめたほうが……」
「黙れ。勇者様の意思を尊重出来ないと抜かすか?」
「…………」
取り巻きの一人が諌めるが、ジュリアンの一言で黙る。
ビャクダン家の威光と、勇者の威光。その両方に気圧されるように。
ジュリアンは気付かない。自身の思考の欠落に。
勇者という国家の要人を、決闘という私的な命のやりとりに出そうとしている暴挙。それがどれほど危ういものか、ジュリアンは考えられない。
降って湧いた幸運に目が眩む。その他一切の問題が、その本来の重要度によらずどれも小さく見える。
その他の問題が、消えないまでも限りなく小さく思えていく。
王に知られれば止められるかもしれない。だが、直前までバレなければ問題ない。勇者を傷物にしてしまうかもしれない。だが、自身で望んだ話だ。
ビャクダン家に迷惑をかけてしまうかもしれない。だが、問題ない。これは恵まれない自分の人生への復讐だ。
勇者を決闘に出すことで起こるはずの問題。
その全てが、身勝手で希望的観測に基づいた理由で解決してゆく。
もはや問題はない、とジュリアンが錯覚出来るまでに。
「……何故カラスと戦いたいのか、理由を聞いてもいいだろうか?」
「…………」
発狂した勇者。そう内心蔑みながらも、ジュリアンは期待に胸が弾む。
なにせ、ヨウイチは勇者だ。千年前、魔王を倒し世界を救った勇者と同じく。ならば凡百で、卑小なあの探索者一人など、きっと蹴散らしてくれるだろう。
聖騎士との訓練で後れを取っていたのは知っている。だがそれは、発狂前の話だ。
「……ジュリアンさんが言っていた通りでした。あいつは、ルルさんを守ろうなんて思っていないんだ」
「ようやく気付いてくれたか」
ジュリアンはほくそ笑む。何かの折にカラスの顔を見る度募った腹立ちを治めるため、勇者に吹き込んできた腹立ち紛れの悪口が実を成したと。
ヨウイチは頷く。本来ならば気付けるはずの、ジュリアンの悪意に気が付かず。
魔力が、ヨウイチの目を曇らせる。
見たいものを見たいように見る。
気付きたくないことに、気付かぬように。
「ルルさんに取り入ったのは城に入るためで、城で有名になって、良い思いがしたいだけで……」
「そうだろう、奴はそういう奴だ。そのためならどんなに残虐なことも出来る。あいつが力を誇示するために顎を砕かれた俺の従兄弟は、一生自分の歯で食い物を噛めない身体になってしまっているよ」
「みんな、騙されているんだ。あいつに」
ヨウイチが義憤に拳を握りしめる。
助けてくれると思った。いい人だと思っていた。けれど、違っていた。義憤に、そんな裏切られたと思い込んだ失望が混じっているのも気付かずに。
ヨウイチの心の中で、カラスの姿形が出来上がっていく。
貴族と知り合おうと、王城内に入り込んだ詐欺師。自分にも取り入って甘い汁を吸おうとした奸賊。そのためならば他者に生涯残る障害を負わせても気にしない冷血漢。
自身の心とジュリアンの言葉。そしてカラスに好意的な王城の空気。
その全てが、練り上げていくカラスの姿。
ヨウイチの中で、カラスが凶悪な怪物へと変身を遂げていった。
あ、とヨウイチは気づき、顔を上げてジュリアンを見る。
「だから、その……俺が勝ったら、お願いがあるんです」
「出来ることならいいだろう」
「ルルさんを苦しめる気はないんです。だから、その、俺が勝ったら、それで矛を収めてもらえると……」
ヨウイチに、ルルの敵になる意図はない。後々ルルにそう説明するための姑息な案ではあったが、ヨウイチはそれを自身の優しさだと信じていた。
ヨウイチは上手くは言えない。だがジュリアンの方は、それで言いたいことは読み取れた。
少々気に入らないが、いいだろう。ジュリアンは、そう頷く自身の器の大きさが気持ちよく感じた。
「……いいだろう。謝罪の一言くらいは口にしてもらうが、俺の狙いもカラスだ。ザブロック家には損害がないよう取り図ろうとも」
「ありがとうございます」
そして、どうでもいい。
ザブロック家ではない。あのカラスを殺せるならば。殺せないまでも、後々まで響くほどの大損害を被らせることが出来るのならば。
あの、家の力など使わずに成り上がりかけた痴れ者を、誅せるのならば。
算段を始めたジュリアンに、ヨウイチはなんとなく安堵する。
これでザブロック家への損害賠償などはない。自身が勝てば、カラスは排除され、ルルの目は覚めるだろう。
良いことづくめだ、全てが、自分の追い風となっている。そんな気分だった。
「おい」
ジュリアンが、先ほど自分を諌めた男爵家の子息に向けて一声発する。
次いで向けられた視線の先には、モッカンの死体。
「……はい」
「片付けておけ」
当然のように、ジュリアンがそう命令する。本来ならば命令など出来るような関係でもないはずだったが。
しかし当然だ。ジュリアンは王。この狭い部屋の中、自分の領土の中では。
命じられた青年は、どうしようかと悩む。自身の使用人を集めて運ばせるべきか。それとも、まずどこかへ隠しておくべきか。死体を見慣れていないわけではない。ジュリアンの遊びで死体など山ほど作られるものだ。
嫌な仕事。だが悩みはそれだけではない。
彼が勇者をちらりと見る。決闘など、本来出してはいけないはずの青年を。
勇者に黙って付き従ってきたマアムは、ヨウイチの姿に何となく唾を飲む。
何かが違う。何かがおかしい。そんな焦燥感に焼かれている気がした。
視界の中の死体を意識すれば、胃の中から何かが吐き出されそうになる感覚がある。この部屋の誰も、それを感じていなさそうなことに恐怖を感じた。
失礼のないよう、顔を背けて手の甲を唇に当てて何とか嘔吐を抑える。そんな仕草を、この部屋の誰もが気にしてなどいなかった。
ヨウイチは死体を見下ろし眺める。
(……どうってことなかったな)
人を殺した。しかし、それほど自分の心に動きがないのが意外だった。本来許されるはずもないのに、どうとでもなる気がした。
だって仕方がなかった、と心のどこかで声がする。
相手は探索者か傭兵かもわからないが、そういう仕事に携わる男。きっと自分を殺す気で、そして抵抗しなければ殺されるところだったのだから。
自分に責任はない。そう、別の声がどこかで響く。
それはまるで、この城に今もいる妖精の子供が、過去に北の雪国で聴いたように。
ヨウイチの鼻が、立ち上る臭いを嗅ぐ。
新鮮な血の臭い。酸鼻なる血の臭いが、ヨウイチの顔を顰めさせる。
その臭いに、なるほど、たしかにカラスの言っていたとおりだ、と何となく腑に落ちた。
(なるほど。たしかに汚いなぁ……)
血が汚らしいものに見える。尿の臭いも混じった異臭は耐えがたい。
さらに羽音も聞こえた。どこからか舞い降りてきた一匹の蝿が、血を吸うために血溜まりに落ちたようにヨウイチには見えた。
ブン、という羽音。それが一匹のものではない。
きっとこの部屋のどこかにもまだいるのだろう。早く死体を片付けてもらわないと、集まってきてしまう。
早く、この死体をどこかに移してもらわなければ。自分の目の届かないところに。
とりあえずは、不快なものを視界に入れないように。
死体から視線を外せば、臭いも音も、若干和らいだ気がした。




