閑話:藤波さん
彼に、人の秘密を盗み見る趣味はなかった。
しかし車椅子の車輪を回す手が、パタリと止まる。彼の家の二階の廊下、その途中。ほんのわずかに隙間が空いたその扉に、彼は何故だか出来るだけ音をさせずに停車させた。
中から覗く光は、まだ明るい昼でも窓から差し込む光の反射で眩しく、目が眩むようだ。そんな光に目を細めた後、彼は中の様子をぼんやりと見た。
中に見えるのは機嫌良く、化粧をしている頼子の後ろ姿。今日は高女時代の友人に会うのだと、彼には嬉しそうに語っていた。
昭南に渡っていたその友人は、日本の敗戦に伴い身代をなくし、夫と日本に帰ってくることになったのだという。
頼子は人付き合いも苦にはならない性格で、友人も多い。誰かと遊びに行くと家を空けることもよくあった。
彼もそれを咎める気には一切なかった。どうか外で、多くの楽しいことを。自分には出来ない楽しいことを。そう願う気にしか。
だが、一つだけ気になることがあった。
頼子の机の一番上の引き出しには鍵が掛けられるようになっていて、頼子は装飾品に限らずお気に入りの小物をその中に入れるという習慣があった。
今日もその引き出しを開き、頼子は中から髪留めを選ぶ。一つ選んで髪につけ、これは違うと別のものを出す。そんないつもの風景。
化粧を終えようとした頼子は、引き出しを閉めるそのとき、引き出しの中にあった小物に手が触れた。
触れた紐を引っ張り出す。紫の紐の先には掌で包めるような小さな袋があり、それを開かずに頼子は軽く握りしめ、その中に触れる何かの感触を楽しんでから机の中に戻した。
あの袋の中は何だろうか。そう、彼は不思議に思う。
頼子のお気に入りの何か。それを知って、その袋の意味することを知った上で、その中身がなんなのかと未だに知れずにいた。
頼子はその袋を、昔は首に下げていた。
片時も手放さないように、大事に。
彼は思い出す。それはきっとあの時には既に。
彼は思い出す。頼子との結婚が決まったその日のことを。
「お前の妻だ」
華族である彼の、実家の広い家。その中で当主である父の部屋は絨毯から壁紙、カーテンに調度品までもが選び抜かれ誂えられた逸品で揃えられており、一種荘厳な雰囲気がある。
その宮殿のような部屋に突然呼び出された彼に対し、彼の父は開口一番そう告げた。
父の隣には二人の女性がいる。四十を超えた程度に見える女性は、似通った目鼻立ちからすれば、もう一人横にいる少女の母親だろうと彼は推測する。
若いほう、佇み恥ずかしげに笑う少女は、まだ女性というほどの年齢にはなっていないようにも彼には見えた。事実彼女はまだ、上野にほど近い高等女学校を卒業したばかりの身の上である。
短く黒い髪は尼削ぎのような古風な雰囲気で、薄く施された化粧は美しくするという主目的よりも、どこか背伸びをしているような印象を彼に覚えさせた。
昔一度顔を合わせたことがある。だが父の言葉にあった『それ』が、互いによく知らない少女に対して使われるべきではない言葉だと彼は感じ、眉を顰めて父を真っ直ぐに見た。
「どういうことでしょうか」
「お前も二十歳も過ぎようという歳。だが、――家の子息としては所帯も持てぬのは外聞も悪い。だから、世話してやった」
「……余計なことを……!」
淡々と語る父に、彼は小さく声を荒らげて激昂する。
もちろん、外聞が悪いのはわかっていた。そもそも幼い日より、厄介者扱いされてきた彼だ。その存在自体が一族の恥部であり、華々しい一族の一人であるにも関わらずほとんど人前には出ることのなかった彼。それが更に、成人しても所帯を持てぬような者であるとなれば、父にとっては存在すら認めたくない汚物のようなものになってしまうということも。
そして知っていた。今後の人生において、結婚など、考えるべくもないことも。
だが、冗談ではない、とも思う。結婚というのは人生においての大事であり、望まず人に世話されるようなものではない。
「余計なこと? お前はその足で、嫁を探しに歩いていくとでもいうのか?」
「歩けなくても、誰かは……」
表情の抜けた父の顔にわずかな嘲笑が浮かぶ。その顔に反論出来ずに彼は唇を噛みしめた。
この期に及んで抵抗しても、意味がないこともわかっている。
お前の妻だ、と口にした。ならば全てはもはや話がついており、自分が何をしようとも、もう結婚は決まってしまっていることなのだろう。
だが、だからといって。
彼は顔を上げて、まだ名前も知らない女性の顔を見る。
だからといって、彼女でなくてもよかったのではないだろうか。女性ならば、他にも数多くいる。彼女は……。
「……あの……、藤波……頼子といいます。は、初めまして……」
彼の視線に応えるように頼子は頭を下げる。そうしてちょこちょことした動きで挨拶を済ませると、上げ際に彼の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「…………」
その仕草に彼の胸が少しだけ痛んだ。頼子の言葉に、初めまして、と口に出せずにどう返していいものかと悩んだ。
彼女のことは知っている。名前は知らずとも、以前に伊豆の別荘へ逗留したときに、遠目に見たことがある。父が招待した知人の中に紛れて、友人らしき人と共に一人。
「藤波さん、ですか」
「はい。……今はまだ」
彼の目には、頼子が頬をほんのわずかに赤らめたようにも見えた。激昂しているわけではない。気恥ずかしさからだろうか、とぼんやりと考えた。
「藤波さんは……納得されているんでしょうか?」
頼子への問いかけ。だが頼子は、虚を突かれたように黙り込む。
それから母へと助けを求めて視線を向けるが、母親はニコリと笑い頼子に代わって応えた。
「もちろんですとも」
「……本人の意思は」
「もちろん、ねぇ?」
そして母親は頼子に笑いかける。不思議な笑みに彼には見えた。楽しいわけでもない。やけっぱちになっているわけでもない。内心を押し殺しているようにも見えない。ただただ、何とも思わずに浮かべているだけの空虚な笑み。
しかし問われた頼子は、彼には慌てているように見えた。
「も、もちろん」
わたわたと口ごもるように意味のない吐息混じりの声を発しながら、頼子はどうにかして言葉を紡ごうとする。その内に、彼の目をしっかりと見つめるように表情も変わった。
「あの、い……、ひ、……」
悩むようにして、息を吐く。言いたいことを言えずに。一番言いたいことを、言葉に出来ずに。
「旦那様には返しきれない恩があります。頼子もきちんとわかっていましてよ」
仕方ないな、と母親が言葉を繋ぐ。きっと目の前の青年は、自身の、そして頼子たちの事情を承知しているだろうと信じて。
彼としては、自身の分しか把握していないのだが。
「子供を作れとは言わん。これで重荷が下りたと俺に安心させろ」
畳みかけるように、彼の父が口にする。重荷、という言葉に息子が胸を痛めるのを一切気にせずに。
「重荷ですか」
「何か言いたいのであれば、まともな身体になって見せろ。お前がまともに生まれていれば、なんの問題もなかったものを」
「……まとも」
僕のせいじゃない、という言葉を彼は飲み込む。言っても無駄だろうと。
だが事実、彼のせいではない。彼の足に生涯ついて回る障害は、彼に責任はない。あるとすれば彼の母と、そして目の前の父。
彼は、使用人に彼への罵倒混じりに聞いたことがある。
彼の母が妊娠中に酒に溺れた理由。夫へ対する悋気の話を。
身重の母では相手は出来ぬと、別の女性のところへ入り浸った父の話を。
「そうですか……そうですね」
しかしなるほど。たしかに、そうすれば何も問題はなかったのだ。
目の前の父親がまともであれば、何の問題も。
彼は頼子へまた向きなおる。その動きに、動いていない車輪がギシと鳴った。
「ごめんなさい。よろしくお願いします、藤波さん」
「頼子でいいです。いいえ、どうか、頼子で。私も、――さんとお呼びしていいですか?」
「どうぞ、お好きに」
冷淡な応対に、頼子は困ったように笑う。それでも、その名前を口の中で繰り返して、誰にも気付かれずに頬を紅潮させた。
「話もまとまったことであるし、結納の日取りはまた決めておく。下がっていい」
「……全部、そうなんですね」
彼の小声での反応は誰にも聞き取れず、その場にいた誰しもが無視した。
ただ彼だけが、嫌悪感を胸に湛えて堪えた。結婚することも、その期日も、二人で決めるはずの何もかもを父が決めていく不快感。更に、自身の人生に重荷を足した絶望感。
そして何より、頼子という女性の人生に、暗い影を落としてしまう申し訳なさ。
足が動かないせいで。自分のせいで。
自分でも何故かはわからなかったが、彼はまた頼子を見た。何を期待したのかは彼自身わからなかった。
頼子がその視線に微笑み返す。
この素敵な笑みの人と生きていくのだ。彼は予感がした。きっとずっと、これからの人生を彼女と一緒に過ごすのだろうと。
返しきれない恩がある、と彼女の母親は言った。ならば彼女にも、自分と離れられないわけがきっと何かあるのだろうと。
彼女も被害者だ。自分と同じ、父の。そして、自分の。そう思うと頼子の目がもう彼には見られなかった。
「――さん」
彼を気遣うように、頼子が小さく声を上げる。それでも彼女も、自身の言いたいことが上手くまとめれなかった。代わりに出たのは、無難な、当たり障りのない一言。
「これから、……よろしくお願いしますね」
「はい。よろしくお願いします」
本来万感の思いが込められている頼子の言葉。
しかしその頼子の言葉に込められた感情が読み取れず、彼はただ機械的に返事をする。
ただ、大事な何かが、手の届かないどこかへいってしまったと、そんな気がしていた。
彼女の返しきれない恩の正体を、彼は後に頼子から聞いた。
早くに父親を亡くした頼子の家庭は困窮し、食うに困る有様だった。それを、彼の父に助けてもらったと。
彼の父親の妾となった頼子の母は、その生活の一切の費用を工面してもらった。その助けもあり、頼子は高等女学校まで出ることが出来たのだと。
そして、もう一つ聞いた。
頼子の大事にしている袋の中身。ずっと気になっていたと白状すると、頼子は恥ずかしさに笑いながら答えた。
「これは、私の……、怒らないでくださいね?」
「怒りませんよ」
彼は笑う。ほんの小さな好奇心を満たすための質問だ。何を怒ることがあるのだろう。その小さな袋の中に、世にも稀なる大罪の種が入っているわけでもあるまいし。
「本当に、本当ですよ」
「……そこまで言うんなら、よっぽどの物が入っているんですよね?」
「…………はい、私の、大事なものが」
頼子は袋を抱きしめるように握りしめる。その顔が、『女性』というよりも『少女』に見えた。まだあどけなく、まだ恋を知らぬような少女に。
いや、これはおそらく。
彼はその表情に確信を得て、ふと唇を緩める。
これ以上聞くわけにはいかないと、確信した。
「じゃあいいです」
「……せっかく言いかけたのに」
「でも秘密にしていたんなら、そのままにしておきましょう」
彼の笑みが変わったのは、頼子も気が付いた。
仮にも夫婦となって数年以上経つ。様々な表情を見てきたし、その機微も薄々読み取れるようになっていた。そんな彼女の目には、彼の表情が談笑の笑みから自嘲に変わったことがきちんと映っていた。
そして、それは彼も同様。
仮にも夫婦となって数年以上経つ。頼子のその表情が、『恋』に類するものだと気が付いていた。
きっとその袋の中には、彼女が恋する誰かに関係するものが収められているのだろう。そう、ほとんど正しい予想をした。
彼は生涯知らないことだったが、事実、そこには確かに収められていた。
頼子の、初恋の記念の品が。
化粧を終えた頼子を、扉の隙間からぼーっと彼は眺めていた。
これから友人との食事に行く彼女。楽しげに、機嫌良く、その準備を進めて。
彼女には誰か好きな人がいる。
彼はそう知っていた。
「あ、――さん」
ふと振り返った頼子が、彼に気付く。彼も今通りかかったのだと何となく示しながら、軽く扉を開けた。
「何かありましたか? 用があるなら声をかけてくださればいいのに」
「いえ。ただ通りかかったんですが、楽しそうだったので眺めてました」
「やだ、恥ずかしい」
扉をきちんと閉めていなかった不用心さも責めずに、部屋の中を覗き見ていたという趣味の悪さも責めずに、互いに笑みを交わし合う。互いにその程度、気にもしていなかったというのが正確だ。
「今日は遅くなります。夕ご飯は一緒に出来ませんけれど」
「構いません。楽しんできてください」
同じ家に住んでいる身だ。
机の小さな鍵くらい開けることは針金が二本もあれば簡単ではあるし、袋の中身を覗ける機会など数多くあった。
その袋の中を覗けば、『相手』が誰だかはすぐにわかったかもしれない。
もしくはわからずとも、頼子に問い詰めることも出来たかもしれない。
だが彼には出来なかった。
『相手』を知る勇気も、その秘密を無神経に探り頼子を怒らせる勇気もなかった。
ただ、彼女には好きな人がいる。それを知った上で。
「気をつけて」
「ええ」
自分が好きな人を、自分と結婚させてしまった。
それが彼には、とてもとても心苦しかった。




