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捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
神聖にして侵せぬもの

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閑話:終点




「まったく、困ったものですな。この煙たい時期に乱など」

「そうじゃな」


 王城の昼下がり。諸官の多くは昼の休憩の時間となり、王の食卓にも料理が並ぶであろう時間。昼食の時間は多くの者にとって安らぎの時になるものの、彼らにとってはそうではない。

 王城内のとある部屋。外部へと音の漏れないよう設計された部屋で、居並ぶ顔は六名ほどの重鎮たち。形式だけは、と取り繕われた紅茶と軽食を前に、口をつけずに笑顔の仮面を見せ合っていた。

 ただ一人、上座に座り笑みを浮かべずに辺りを見やるのはこの国の王、ディオン・パラデュール・エッセン。例に漏れずに空腹ながらも目の前の食事に手をつけずにただ白い髭に包まれた唇だけを動かしていた。


「隠されていた兵糧は既に接収してあります。発表はいつ行いますか」

「……既に噂は広まっておろう、即刻行う」

「それが賢明ですな」

 王に報告を上げているのは、神経質に眉の間に皺を寄せたユブラキオン公爵。官職は司空。この国の司法の長である。

 そして交わされているのはエッセン西側のとある領地貴族の、賦役逃れ。それに端を発する反乱企図の嫌疑。その、処罰に関しての重要な話。

 無論、この場は公式な場ではない。他者を裁く際には、司空といえども公的な場で公的な書類に記名し事を運ばなければいけない。

 だがそれをしないで済むのは、いまこの場がそういう場ではないからだ。


 白々しい。毎度の事ながら、王は臣下であるはずの司空の顔を見て内心眉を顰める。

 今回の秘密裏の会議。これは当然初回ではない。


 現在ここにいる重鎮たち六名は、全員がこの国の中でも特に重要な面子だ。

 王、司空。それに太師や太保、エッセン王国の行政を統べる司徒、公的な建造物に兵器などの管理を司る少府監。現在全員が公爵以上の爵位を持ち、仮にこの場で凶事が起きようものならば、国の運営すらしばらく麻痺するような会議。

 今日は都合が悪く欠席だが、いつもは三公も揃い、その他の者が来ることもある。


 彼らは時々こういう集まりを催す。

 会議ではない。単なる食事会だ。部屋に入らず、知らない者からしたら。

 単に王が親しい友人を招いて行う団欒の一時だ。誰もそれを信じてはいないが。


 公の会談などではない、私的な会談。本来仕事の話など、ましてや政の話など出来ようはずもない。

 しかし、だからこそ、このような閉じた場だからこそ、出来る話もある。


 件の貴族の内乱疑いもその一環。

 本来ならば、それは本当のことなのかと詮議を行い、本人にも問い、周辺の情報を収集して慎重に調査して決定しなければいけないことではある。

 だが、この場で行われるのはそういう類いの話ではない。


 内乱が本当にあるのかどうか、などどうでもいい。

 誰の派閥の力が削がれるのか、ということが今もっとも重要視されていた。


「ポルテ男爵も災難でおられますな」

「ほう、ビャクダン大公はお庇いになりますか?」

 司空が一転して、額に皺を寄せて半笑いで尋ねる。その不快な笑みに、がっしりとした肩を揺らしてビャクダン大公は笑みを作った。

「いやいや、国家への大乱を企てるとはとんでもないこと。厳罰に処されて然るべき、……ではありますが、司空に見つかったのは運が悪かったと」

「ははは、方々においてある部下が良い仕事をしてくれました」

 今回奪爵され、処罰を受ける男爵はビャクダン大公の派閥の末席に位置する者だった。

 しかし、お互いにわずかな嫌みを交わしつつ、特に悪い空気を発することもない。お互いに、お互い様だとわかっている。少し前、逆に太保派の司空、そのまた部下の手柄を自分の派閥の手柄にしたのはビャクダン大公だ。

 今は競り合いながらもお互いに最後に勝てばいい。そして、自分の地位を守り抜ければそれは勝利だ。そう、お互いに目だけで通じ合っていた。


 臣下の会話を無表情で眺めつつ、王は内心溜息をつく。

 白々しいことだ。司空も本当はとっくの昔にそんな証拠など掴んでいて、ただ考えていたのはその手札を切る機会の問題だったのだろう、と。

 反乱が本当に企てられていたのかは王には判別出来なかったが、しかしその予想だけは自信が持てた。


 問題は違えど、この会はいつもそうだ。参加する人間は全員が何枚もの手札を持ってここに臨み、時期が来れば切って相手を脅かし自分を守る。

 その手札が手札とも誰にも知られてはならず、そして誰もが知っている。


 複数の派閥、複数の人間の思惑が入り乱れている中を、強い敵を作らぬように泳ぐただ国民の奴隷たる道。

 ……政治の道とはこういうものだ。

 

 静かに扉が叩かれる。

 この会議に来客は少ない。今この場は王の私的なくつろぎの場。少なくともそう周囲には示している中、訪ねてくるのはよほどの身の程知らずか実力者だ。

 だが今ここに来たのは、そのどちらにも関係がなく、おそらくここに来る資格を持つ者だろう、と王は思う。

 即ち、娘。王自らが招待した。


「ミルラ・エッセン王女殿下、到着なされました」

 そして扉を開けた侍従長の言葉に、王は静かにまた決意の溜息をついた。






「は? 今、……なんと?」

 ミルラは思わず父親に対して聞き返してしまう。王がわざわざ自分を呼ぶほどだ。尋常ではない用事だとも思っていたし、この会議の性質上おおよそ公的に話せないものだということも承知していた。

 だが、おかしい。聞こえているし、その意味の理解に問題はない。けれども、一瞬停止した脳に、その言葉が入ってこなかった。

 

 噂には聞いていたが、今まで参加など出来ようはずもなかった会議。その場に着席を薦められて、舞い上がっていたのも事実。しかし彼女は王の言葉に、舞い上がっていたその身をわしづかみにされ地面に投げつけられた気分になった。


 本来王の言葉を聞き逃すなどあってはならないこと。だが王は、それを咎めることなくもう一度繰り返した。

「勇者殿とルル・ザブロックの婚姻は認められぬ。即刻お二方には翻意を促し、あるべきすがたに戻せ」

「ある……べき、姿……?」

 戸惑いにミルラは瞬きを繰り返した。事情がわからない。しかしそれでも、見渡した重鎮たちの視線に、ここに自分の味方が誰一人いないことまでは察しがついた。


 その姿に王は自分の膝を拳で叩く。威嚇のためと、奮起のために。


「お前は何を勘違いしている。勇者の伴侶として、伯爵家の娘が相応しいと思うのか?」

「ゆ、勇者様の伴侶は、勇者様を奮起させるための材料として探し出したはず、です。この上何を望みましょうか」

「もとより、相応しくない」


 突き放すような王の言葉。ミルラは、その言葉に愕然とした。

「ならば、……」

「勇者殿の伴侶。ならば、それに相応しい地位が求められよう。そこまで言わねばわからぬか」

 いつになく厳しい父の言葉を解釈するのにミルラは手間取ったが、しかしそれはどういうことだろうか。

 相応しい地位が求められる。そして、伯爵家の娘が相応しくない、となれば。

 つまり、それは。

「ミルラ王女殿下」

 ユブラキオン公爵が、楽しげにミルラに言い聞かせるように語りかける。

「そりゃあザブロック家の娘も美しくはあるでしょうが、私の娘はそれ以上に美しくありますぞ」

 推測がその言葉で確信に変わった。

「それは、つまり…………」

 確信となった言葉を言いかけてミルラは黙る。それを言ってしまえば、この場にいる人間たちの機嫌を損ねることになる。直接的な言動を避けようと頭を回し、やはり頭が回らなくなっている、ということを如実に感じた。


「よいか、もう一度だけ言う。勇者殿の伴侶ならば、それに相応しい地位が求められよう。再考を促し翻意させよ。次は然るべき女性を選ぶようにとな」

「…………」

 ミルラは王の言葉に絶句した。つまりそれは、『ルル・ザブロック』が駄目ということではない。この王城で今まで行われてきた勇者への接待が、ほとんど無駄だったということになる。

 わかりました、とは素直に言えなかった。それが何故かは彼女にもわからなかったが。


「……何故、ここまできて……」

「それがわからぬのならば、お前にその仕事は務まらぬ」

 王はミルラに辛辣な言葉を投げかける。その『仕事』も、今回のことだけを指してはいなかった。


「陛下、僭越ながら、やはり私が担当者を選ばせて頂いても」

「済まぬがそれにも及ばぬ。もうこの仕事も大詰めの大詰め。勇者殿も仕上がりつつあると聞いておりますからな」

 これ幸いとキヤラン公爵が申し出るが、王はそれを固辞する。

 王城内の行事の管轄は本来司徒である彼の担当だ。王が命令し、彼に行わせるもの。今回は特例としてミルラ王女の担当となったが、彼も自分の領域を荒らされているようで面白く思っていなかった。

 そして司徒の彼に担当させる気も王にはもうなかった。ここまで、予定通りならば。


 キヤランが口を出すなら、と少府監が口を開いた。

「しかし、ミルラ王女殿下の采配にはまだ疑問が残ります。一度勇者殿の出奔を許そうとしたとか?」

「……あれは……」

「勇者殿の身に何かあればどう責任を取るおつもりだったのか」

「あれは、侍女が勝手に……」

 勇者の出奔は、侍女のマアムが手引きしたもの。逃がしたのも彼女で、責任を取るべきは自分ではなく彼女だ。

 するするとミルラ王女の口が用意していた言葉を吐こうとする。だが少府監はそれを無視した。

「緊急時の避難口は、それこそ緊急時に使われるもの。それをあのように使われてしまうのは、私としても遺憾な限り」

「私は、何も……」

「知らぬでは通らぬでしょう」


 もっともな説教。切々と呟かれるようにされた言葉に予定していた反論が出来ずに、ミルラ王女は旗色の悪化をひしひしと感じていた。

「やはりこういったことは私にお任せくださればよかったのに」

「……娘のたっての希望でな。許せ」

「私事と政の区別をつけられぬ方ではないはず」

 政敵であるはずの少府監の言葉に勢いに乗せられ、キヤランがまた王に口を挟む。

 何も弁解が出来ないミルラは、叫びだしたいような気で胸が埋もれつつあった。


「面目次第もないな。……ミルラ」

「……はい」

「勇者殿とルル・ザブロックの翻意は難しいか?」

「………………おそらくは」

 ミルラは言い淀みながらも正直に答える。勇者の側から熱烈に希求し、ルル・ザブロックが協力的になりつつある今、二人の間を阻む障害はない。

 ならば自分が説得しても難しいだろう。庶民には、貴族の考えはわからない。そして彼らの考えも、貴い身たる自分には。


 王は溜息をつく。内心は、そうとも思わずに。

 難しいならば好都合。仮にそれが無理の類いならばなおのこと。

「では、やはりキヤラン卿に指揮を執って頂くことにしようかの。頼めるか?」

「御意に」

 キヤランが満足げに頷く。それを見てミルラの顔が凍り付いた。


「……しかし、陛下……」

「聞いての通りじゃ。これからのことを考えれば急がねばなるまい。急なことだが担当を変更する。キヤラン卿、担当者の推薦を許す。直ちにミルラからことを引き継ぎ、然るべき相手を見つけるように」


 王の言葉に平伏するようにキヤラン司徒が応える。今日の『勝ち』は自分だと確信して。

 反対に、ビャクダン大公は色黒の肌に押しつぶされそうな目を細め、キヤランに向けた。


「では、私は……」

「引き継ぎが完了次第、お前の任は解く。今までご苦労だった。下がれ」


 ミルラが王の冷たい目に射貫かれる。

 『下がれ』という端的な言葉に、全てが詰まっていた気がする。

 やはりお前では不適格だった。お前では力不足だった。お前には政治は無理だ。その程度しか頭が回らないのであれば、この先醜いお前にはどんな道も残されてはいない。

 言われていないはずの言葉が頭の中で幾度となく回転する。


 くらりと視界が揺れて、背もたれに支えられそれに気が付いた。

 どうして。自分はつつがなくここまでやってきたはずだ。

 勇者が命を賭して守ろうとする伴侶も見つけた。戦う術を得た勇者は戦場にも出られる。最前線には無理だろうが、ベルレアン卿の言葉によれば戦場でも身を守ることは出来るだろう。

 王城の片隅で行われてきた一大事業。勇者を戦場で戦わせるための準備という大きな仕事。

 当然この程度で爵位を得られるなどとは思っていない。けれども、まずはお褒めの言葉でも授かり、次の仕事へと繋がる足がかりになると思っていた。

 最初の石ころに躓いた。ミルラとしてはそんな気分だ。まだ歩き出してすらいない。一歩目を出しただけで、何も得られずに地に落ちてしまった。


「申し訳ありませんでした。……配慮が行きたらず」

「よい」


 何が失敗だったのだろう。

 確かに言われてみれば、公爵家や侯爵家の娘への配慮が足りなかったのかもしれない。けれども、それでもよかったのではないだろうか。

 侯爵家や公爵家の増長。勇者が婿入りした末に起こることはミルラにも予期出来ていた。

 仮にビャクダン家に未婚の娘がいたとして、その娘と勇者が結婚などしてしまえばそれは王族をも脅かす大きな火種になるだろう。それが侯爵家への婿入りでもあまり変わらない。むしろ、抑えられていた権力がさらに噴き出してしまうということで、なおも悪い気もする。

 ルル・ザブロックが伯爵家の娘だったことは偶然だ。けれども、それが『ちょうどいい』とミルラは思っていたのに。

 

 ミルラは居並ぶ面々を見返す。

 彼らはそう思っていないという。彼らが、というだけではない。王も、そうだと。

 

 きっとならば、自分の考えは間違っており、そして自分は失敗をしたのだろう。

 きつく握りしめた指。痛んだ爪の先が掌に食い込む。


「……申し訳、ありませんでした……」


 頭を下げてミルラは退出をする。

 それを見送る王の顔は、仮にこの場でクロードが見ていれば痛々しく感じるものだった。




 昼食会も終えて、客人も帰る。残るは侍従長と数人の信頼出来る召使いのみ。

 そんな寒々しい椅子の上で、王は天を仰ぎ大きく溜息をついた。

「お疲れ様です」

「なに。たいしたことはない」

 白く長く垂らした髭。その重みを感じるように王は下を向く。ついに、娘を巻き込んでしまった。そんな懺悔に。

「……即刻、勇者殿の侍女よりそれとなく伝えさせまする」

「ああ」

 侍従長の言葉に、上手い演技が出来ればいいが、と内心王は返す。いいや、きっと出来るだろう、とも自分で自分の言葉を否定しながら。

 

 それきり、王はしばらく動けなかった。

 午後の執務が待っている。こうしている時間すら惜しいのに、とぼんやりと何かを考えてその考えは内心何も像を結ばず霧散する。

 自分はもしかして、後悔しているのだろうか。いつものような流れ作業の、この一幕に。


「……酷い父親だと思うか」

「…………いいえ。立派だったと」


 罵って欲しかったわけではない。侍従長は、もちろん否定した。しかし、王は自分でそのとりとめのない言葉を肯定した。

 酷い父親だと思う。娘を、政治のためとはいえ生け贄にしたのだ。


 ミルラ王女の差配により、勇者はザブロック家の娘を選んだ。それは、本当は及第点以上といっても良い功績だ。

 王は言った。『勇者の配偶者にはそれに見合った地位が必要だ』と。

 けれども、内心こうも言い添えた。『地位の高い家に迎えられ、その家が力を増すのも困る』、と。


 勇者とは、聖教会にとっては崇拝の対象でもあり、勇者の召喚陣がこの国にあるだけで、もしくは本人がこの国にいるだけで、聖教会からの支援を受けられる重要な資源だ。

 そんな大事な資源が、公爵、侯爵の家に迎えられるのは、王家にとっての禍の種となる。

 

 勇者を王家の一員として迎え入れることも考えた。嫌がるミルラを説き伏せて、強引に婚姻を結ばせ傍流として血を保つ。

 そうすれば、この国の未来は盤石だ。未来永劫、その血が絶えるまで聖教会は味方となるだろう。

 だが、力の独占は貴族たちの反発を招く。すぐにではないだろうが、その反感が積み重なれば、起こるのは北の雪国で起きたあの忌々しい惨禍だ。


 しかし、だからといって王家以外の有力貴族に迎えられるのも危ない。

 わずかな増長程度ならば構わない。

 けれど、聖教会の全面的な支援だ。複数の国家にまたがり、様々な影響力を行使出来る強大な組織。取引相手としてはこの上ないが、敵に回すと厄介な存在の支援だ。

 すぐにではないが、後々に大きな内乱の種ともなり得る存在。

 力を得た貴族は聖教会の全面的な支援のもと、更に力を蓄える。その先に待っているのは、国の転覆。王家の交代。

 それは、交代などという安穏とした言葉でも飾られまい。血が流れる。我が身か、そして可愛い我が子孫たちのものかはわからないが。


 現時点で王が導き出した最善の答えは、力のない貴族に婿入りさせること。

 もちろん、それすらも反発を招くだろう。王からの命令でそれをすれば、大公以下、上位貴族の面々は口々に王への不満を露わにするだろう。

 誰しもが、その力を欲している。勇者を身内とし、聖教会の力を得ることを。


 一種の賭けだった。そして、王は見事にその賭けに勝利した。

 王からの命令ではなく、勇者は『自らの意思で』伯爵家の娘を選んだ。欲を言えば子爵、男爵家の娘であればなおよかったが、そこまでの贅沢は言えない。

 そして王は、その勇者の選択を認めなかった。それも、非公式ではあるが皆がわかる形で。

 勇者と伯爵家の娘が結ばれるのは、勇者の選択。それに関わっていたのは、独断でそれを誘導したミルラ王女。

 勇者の心変わりはない。ならば、あとはむしろミルラ王女を遠ざけて別の人間に委ねたほうが安心だろう。

 市場の潮を見れば、おそらくもうその心変わりの時間もない。


 残るは勇者の参戦理由。人を殺し懊悩するような心根というのは聞いている。このままでは戦場には立つまい。

 だがそれに関しても、手は打った。

 簡単なことだ。話に聞けば、その恋慕は深いのだから。


 『戦場で活躍すれば、戦後、褒賞として願いを口に出来る機会がある』

 それが、意志薄弱とも見下している、勇者への最後の一押し。



「酷い、父親だ」


 だが、状況は整った。

 これで勇者は戦場に出るだろう。勇者という旗印を得た考えの薄い貴族たちは、こぞってこの戦線に戦力を投入するだろう。

 勇者を含む王党派には聖教会からの厚い支援を集中させる。きっと効率的に、この戦争の目的は果たせるだろう。


 戦後に勇者を婿入りさせるのは、宮廷貴族の伯爵家。その程度であれば聖教会の支援を受けようともたいしたことは出来まい。

 婿入りは、王の反対を押し切った勇者の独断。戦後の論功行賞で、強く望まれてしまえば反対は出来まいという外部への理由もある。少々の反発は免れまいが、それでも自分は知らぬ存ぜぬを突き通し、矛先はザブロック家へと誘導しよう。

 仮にこの王城での集団見合いを責められようが、責任者は自ら手を上げたミルラ王女だ。彼女に関しても、何より勇者の意思を尊重したとして、責任もなるべく軽減することにしよう。


 良いことずくめだ。上手く進めば。

 ミルラは良い仕事をしてくれた。最高ではないが、それに近い成果も得てくれた。


 あとは自分の仕事だ。

 娘を犠牲にして得た良い流れ。おそらくこのまま進みはしまい。横槍は必ず入るものだし、全てこちらの思惑のままにといくわけがない。

 けれど、その最高の流れになるべく沿うように調整する。それこそが、政治家としての手腕の見せ所だろう。


 そのために、娘の心を犠牲にしたのだ。失敗は出来まい。

 この国の未来のために。将来の反乱の芽を摘むために。



「ミルラに事前に話せばよかった」

「…………」

 王は自嘲する。先ほど娘が見せた表情。その落ち込む顔は、自分の言葉によって引き出されたものだということはよくわかっている。

 罪悪感が湧く。もはやどれほど周囲の人間を騙そうとも、湧いてこないはずの人の心の動きがまだ自分にも残っていたと感心した。

 しかし、そうだ。話せばよかったのだ。そうすれば、行動は同じでも、彼女の精神に残る傷の大きさは段違いだ。彼女に何も知らない演技が出来るかと考えれば、王もやや首を傾げてしまうが。


 返答に困る侍従長に王は笑いかける。馬鹿なことを、と考えつつ。

「……違うな。ミルラに、政治は出来まいな」

「はばかりながら、その通りかと」


 する力がない。そんな教育をしたこともない。

 向いていない。そのような思考が出来る性格ではない。


 けれども、それ以上に。


「奴を女王にするわけにはいかん」


 このような世界に入れるわけにはいかない。

 それが親としての偽らざる本心だ。






 夜になり、王城の部屋で一人椅子に座り考え込む影がある。

 ヨウイチは、闇の中でもそこに座ったままひたと動きはしなかった。昼の騒動の興奮から抜けて、魔術の訓練を受けて、夕食を取ってからも、そのまま。

 閉じた膝の上に肘をつき、組んだ両手の親指を噛む。

 暗闇の中に投影し、浮かぶのは今日の昼、昼餐会で見た光景。


 貴族の男性と、カラスの間で口論が起きた。ヨウイチにとって、わかっていたのはそれだけだ。

 何をきっかけに起きたのか。二人が何を言って、何を交わしあったのか。それが、どうにもよくわからなかった。

 ジュリアンは、『野良犬』と言った。そういえば、ジュリアンはカラスのことを嫌っていた。ならばそれで、罵っていたのかとも思う。『親も家もない賤民の身』とも言っていた。ここは日本ではないから、そういう存在もいるのかと妙に腑に落ちた気もする。

 対してカラスは、ほとんど反論もしなかった。ただ、何も言っていないということを言い添えて、話の調子を合わせていたのだと思う。

 

 自分が見ていた中では、口論というようなものでもない。ただジュリアンが怒り、それをカラスが受けていた。そんな印象だった。

 だが。


 最近のカラスの行動に話が及んだときだと思う。薬師として薬を配っていたことを、貶められたのだと思う。

 それにカラスが黙り、一瞬殺気のようなものを感じて、次の瞬間には……。


「……あー……」


 何の意味もない言葉が口から漏れ出る。何かを誤魔化すような声で、何も発音していないのだが。

 浮かんだ光景では、ルルがカラスの手を引いていた。怒りながら。

 ジュリアンへ口論とも言えない抗議をして、手を引いて退出していった。いつもと違う、怒った仕草で、自分に頭を下げて。


 それから別の人間がジュリアンと口論を始めたが、そこはもうヨウイチにとってはどうでもよかった。

 それよりも重要なのは、そのカラスの手を引いて出ていったルル。


 怒っていた。なるほど、たしかにそれはあるだろう。使用人という形態を未だにヨウイチはあまり理解していないが、部下と思えば何となくわかった気がした。部下を馬鹿にされた。それならば、怒るだろう。

 部下を気遣っていた。なるほど、そうかもしれない。他人に罵られ、落ち込みかけた部下を気遣い会場から連れ出した。なるほど、そうだ。


 ヨウイチの中で理屈が出来上がっていく。

 カラスの手を引くルル。その剣幕と行動の理由を、何となく想像して当てはめていく。


 けれども、納得出来ないことがある。

 そんな理屈よりも、もっと単純で、もっと簡単に納得出来そうなことがある。


 その言葉を思い浮かべたヨウイチが、組んだ両手を解いて目を隠して暗闇に逃げ込んだ。


 思えば、カラスの言動からしてもそうだ。

 自分は協力を頼んだ。けれども、協力として何かをしてくれただろうか。

 教えてくれなかった。ルルが、本が好きだということを。共に読書家、というくらいには知っていたはずなのに。


 ほんのわずかな違和感。だが、感じたのは嘘ではない。

 他にもきっと隠している。そう、確信するのにも充分な態度。


 自分でも話を逸らしている気がして、ヨウイチはふと笑う。

 違う。今はカラスさんの話ではない。ルルさんの、話で……。


 頭の中で話題が戻る。堂々巡りだが、それしか今のヨウイチには出来なかった。


(あれは、部下を気遣っていた感じじゃない。どう見ても、『――』を馬鹿にされて怒っている姿で)

 『――』。その一言が、ヨウイチの頭の中でも霧に隠れている。核心を突くその一言が、どうしても言葉に出来ずにいた。

(だって二人は、ただの仕事上の関係で、カラスさんも協力……)


 協力出来ない、と言われた。その言葉を思い出し、ヨウイチの疑念は膨れあがっていく。

 そして考えるのは、ルルのことも。ルルの顔を思い出し、確信に変わっていった気がする。

 笑顔が素敵だと思った。満面の笑みではなくとも、楽しげに頬を綻ばせるその笑みが、印象に残っていた。

 対して、最近の笑顔はどうだろうか。


 いいやそれよりも。

 綺麗だと思っていたその笑顔を浮かべている彼女。その光景を思い出すとき。その光景の中に、もしかして、必ず……。



 ガタン、と音がした。そちらに目を向けると、明るい部屋の方から逆光になって、心配そうな目を向けているマアムがいた。

「あ、申し訳ありません。勇者様。……お休みなられるのでしたら、寝台の方が……」

「…………いえ、まだ宿題が残っているので……」

「先ほどのですか。でしたら、お邪魔しました」

 この前の処刑場での一件以降、マアムがよそよそしい気がする。ヨウイチはそう感じていたが、どう対処していいかわからずにそのままにしていた。

 もっとも、彼女の態度が変わったのは、出奔以来のことだということには気がついていなかったが。

 頭を下げて出てゆくマアムを見送り、ヨウイチは首を横に振る。

 そうだ。先にやるべきことをやっておかなければいけない。午後の魔術の訓練で、自分は瞑想に身が入らなかった。ヴァグネルにそれを咎められて、夜に追加の瞑想を命じられていたのだ。言い訳の言葉に、ヨウイチはそれに気が付いた。


 思い直したヨウイチは、背筋を正して目を瞑る。

 余計なことを考えないようにするというのが瞑想の要訣ではあるが、それ以上にヨウイチは何も考えたくなかった。

 

 呼吸は、十五拍で息を吐き、十五拍で息を吸い、十五拍の間息を止めてまた吐く。その繰り返し。

 息を止めるのも肺の力を使い、決して喉や口の力で止めないように。常に息の道は開通させておく。

 初めは片鼻を指で塞いだり、紙に書かれた徴を見つめながらという動作も入ったが、上達したヨウイチはその段階だった。この呼吸を半刻の間続けられたらまた次の段階に入る、とヴァグネルには言われていた。


 いつもならば、数分もすれば呼吸以外のことは何も考えなくなる。ただ数を数え、息を調整するためだけに全意識を集中することが出来る。

 そうすれば、魔力とも呼べる温かい何かを感じることが出来る。

 なのに。


(…………)

 集中することが出来ない。ヨウイチは、ひしひしとそれを感じていた。

 呼吸以外のことは考えない。過去のことも、未来のことも考えずに、ただ今自分が感じていることにだけ集中する。そう言い聞かせても何も変わらない。

 これでは昼の授業と変わらない。そんな疲れに似た焦りにヨウイチは目を開き、深く息を吐きだした。



 集中出来ない。その理由はわかっている。昼の件だ。何も考えないように、それすらも考えないように、と考えているだけで思考が囚われている。

 考えないことを考えない。ヨウイチの苦手な分野で、禅問答にも等しい苦しみがあった。


 出来ない。これでは。

 魔術も、魔法も、使うことも出来ない。そう考えたヨウイチの体が重くなる。全身の重みをじっとりと感じ、ヨウイチは自身が魔力の制御を失いつつあることに気が付いた。

 その焦りを、また首を振って押さえにかかる。だが焦れば焦るほど、体が動かなくなることを感じ、いつからか乱れていた呼吸を整える頃には、その重みも消え失せていた。


 体の重みが消え失せる。だがそれも、ヨウイチにとっては今は避けたい事態だった。

 手を軽く持ち上げて目の前でひらひらと動かす。その手に魔力は籠もっていない。ただいつものように筋肉で動かしているだけだ。

(……まずいなぁ……)

 

 予感がある。今剣を握っても、魔法は使えないだろう。ただの素振りで終わり、日本にいたときと何一つ変わらない。

 どうすればいいのだろう、とヨウイチは焦る。闘気というものは使えない。魔力が使えるからこそ、魔法が使えるからこそこの世界でも戦えるというのに。

 そして、戦えるからこそ、ルルは自分と……。


 また考えそうになった事柄を、自らの頬を叩いて強引に止める。今はそれを考えるべき時ではない、と押し込んだ。

 だが、どうすればいいのだろう。どうすれば魔力をまた使えるようになるだろう。そう考え、そして室内を眺めた勇者の視界の中で、何かが光って見えた気がした。


 それは壁に備えられた小さな戸棚。特に何に使うこともないその戸棚には、だからこそ勇者にとってだけ必要なものが保管されていた。

 必要なもの。必要な薬。

「……最後のだし、飲んじゃってもいいかな……」


 誰かに言い訳するように呟いて、ヨウイチはふらりと立ち上がる。大丈夫だ。最初に飲んで以来、まずいことは起きていない、と自己弁護しつつ。

 戸棚の留め金を外し、開けばそこにはごく小さな瓶が立っていた。

 そこに保管されているのは、カラスに調合を依頼した調和水。空いた瓶は洗って脇に寄せられて、残っているのは最後の一瓶だけ。


 意を決するように栓を抜き、瓶の口を唇に宛がう。作られた当初は残っている炭酸は、既に薬に残っていなかった。

 香辛料の爽やかな匂いと甘い味が口の中に満ちる。まるで幼い日に祖母に嗅がされた薬用酒のような香りだったが、ヨウイチはそれが嫌いではなかった。


 次第に体の力が抜けていく。崩れ落ちそうになるその感覚を制すれば、体のどこかに、まだ力が入る気がした。

 その力が、魔力。それを知っているヨウイチは、戸棚に手をついて体を支えながらその感覚を育ててゆく。足に満ちて、体を支え、胴を曲げないように姿勢を保持し、最後には支えた手から戸棚を押し返すように。


 顔を上げて、闇の中を見る。先ほどよりもはっきりと見えるその暗闇は、わずかに歪んで見えていた。




 瞑想をするために飲んだ。だが、ヨウイチは瞑想に戻る気になれなかった。

 手に力を込めて、戸棚を閉める。その音に、何故だか達成感を覚える。


 そうだ。今ならば、いける。

 

 何を怖がっていたのだろう。ルル・ザブロックとカラスの関係。そんなもの、本人たちに聞けばいいのだ。

 そんな考えが不意に持ち上がる。体が動くのに合わせて、自分がどこまでも広がっていく感覚がある。

 部屋の中に何があるか、鮮明にわかる気がする。部屋の隅、壁の裏で蠢く蜘蛛の腹の裏の筋までも、なんとなくよくわかる。


 何の気なしに、先ほどまで自分が座っていた椅子を持ち上げる。

 木製の椅子。作りは豪華だが、当然軽く片手で持ち上がった。


 片手でこんなものが持ち上がるのだ。今ならば、きっとこの王城すらも持ち上げられるだろう。そんな気がする。

 パチパチと、頭の横の方で何かが弾けた気がする。それを見れば、まるで火花のような何かが、自分に気付かれるのを待っていた。


 まるで飛ぶ蝶のように閃光が部屋を出ていこうとする。部屋の入り口が一瞬大きく膨らんで、その閃光を飲み込んで光った。


 ついてこいということだろう。ヨウイチはそう確信して唾を飲む。

 先ほどから、どこからか音楽が鳴って聞こえている。賛美歌のような何か、一種荘厳な音楽が、部屋の全体から響いている。


 今ならば何でも出来そうだ。

 

 万能感に、ヨウイチは部屋から足を踏み出す。

 ふと見れば、蜜のような良い匂いのする部屋がある。マアムのいる部屋だろう。彼女を起こしてはいけない、そう親切心を発揮したヨウイチは、足音を隠すように気配を消す。

 これならばバレてはいまい。満足げに、歩を進めた。


 だが、玄関を出るそのとき、何となくの異変に気が付く。

 ゴポ、と音がする。それと同時に異臭を感じ、振り返れば自分の寝室から何かが溢れてきていた。

 汚泥のような真っ黒な、真っ暗な液体。閉めたはずの扉からドボドボと滲みだし、まるで自分へと向けて手を伸ばしているような。


(……!?)


 驚きに慌ててマアムたちを起こそうと足を反転させる。

 しかしまたあの閃光がチカチカと光って足を止めれば、その汚泥はマアムたちの部屋へは立ち入らないように壁を伝ってこちらへと伸びてきていた。


 閃光が、逃げろと言っている気がする。

 マアムたちは平気だ。あれは自分を狙っているのだ。何の根拠もないそれに頷くと、光が玄関を出ていく。

 それを追うようにヨウイチも逃げ出せば、扉の向こうの汚泥から「もう少しだったのに」と諦めたような声がした。




 何だったのだろうあれは。

 廊下を歩きながらヨウイチは考える。

 自分を狙っていた何か。明らかに健康に良いものではなく、むしろ自分を害するためのもの。

 誰かの魔法だろうか。そんな疑念が心に浮かぶ。この、聖騎士の歩く王城の中でさえも、自分を狙って誰かが来ているのだろうか。

 

 誰かに相談するべきだろうか。今自分はとても重要な立場にいて、そしてとても何か凄いことが出来る気がする。

 そのすごい自分を害するために、何かすごい何かが何かをしようとしているのではないだろうか。



 ヨウイチの妄想は止まらない。

 調和水により、減衰なく魔力が体に満ちている今、妄想を止める術はない。


 魔力というのは、魔力使いにとっては万能の感覚器官だ。目の代わりに光を捉え、耳の代わりに音を聞き、鼻の代わりに匂いを嗅ぐ。

 だがその万能器官は、身体についているものと違い恣意的な決定を行う。

 見たくないものは見なくていい。聞きたくないものは聞かなくていい。そう、無意識下に決定された法則の下、取捨選択を行い使用者を助ける。


 その上、思考と感覚というものは双方向だ。

 火箸と勘違いした鉄の棒を握らされると火傷を負うように、出血を模した流水を指に当てた後『致死量の出血だ』と告げられると実際に死に至るように、思考が感覚を制御するように、感覚も思考を制御する。


 故に、今のヨウイチの妄想は妄想ではない。


 汚泥も賛美歌も、何もかもが確かにヨウイチの妄想だ。実際にはそんなものは存在せず、単なる視界の中でいつもは無視をしている歪みに、耳鳴りの音が誇張されているだけの。

 だが、ヨウイチは汚泥を見ている。蜜のような匂いを嗅いでいる。

 止める術はない。ヨウイチにとって、誰かに狙われているのは事実であるし、目の前の光景は真実なのだから。




 誰かに相談すべきだろうか。

 重大な事件だ。王城の中で、重要な自分が狙われている。まずは聖騎士に……?

 いや、とヨウイチは首を振る。そのような重大なこと、マアムを通さずに相談していいものだろうか。まずは、誰か信頼出来る人に……。


 支離滅裂な思考にヨウイチは気が付かない。


 魔法……といえば、やはり相談するべきはカラスさんだろう。そうだ、クロエという魔法使いもこの城にいるらしいがやはり話したことがある彼の方が……。

 は、と目眩がする感覚がして、ヨウイチは座り込む。

 そうだ。魔法使いに相談など、なんて馬鹿なことを考えたのだろう。そうだ、カラスは魔法使いだ。ならば、カラスがこの騒動を起こしている可能性もあるだろう。


 そうかもしれない。

 いや、そうだ。きっと。


 確認しなければ。本人に聞いて、問いたださなければ。

 だが聞いて、答えるだろうか? 自分よりも口が上手く、自分よりも駆け引きも上手く、きっと自分よりも大人の彼に、誤魔化されずにちゃんと。


 そしてまた、は、と気付く。顔面の血が引いた気がした。

 そうだ。カラスの横にはルルがいる。彼女も、騙されているのではないだろうか。そういえば、ジュリアンは言っていた、『詐欺紛い』と。ならば、その詐術で、ルルも騙されているのではないだろうか。


 そうだ。自分は勇者なのだ。

 ヨウイチは立ち上がる。悲しみを湛えた目のまま。


 『カラスさん』と信頼に満ちた誰かの声がする。ヨウイチはそれが思い出した自分の声だということに気づかず、この王城の中で今まさに聞こえた声だと思った。

 はたと気が付き周囲を見ればチカチカとした光がいくつも廊下を飛んでいる。それが、人々の形を作り上げていく。それぞれの光が誰だかはわからないが、それでもその中央にいる誰かが、その黒髪の魔法使いということだけはよくわかった。


 取り戻さなければ。ルルを、彼女を詐欺師の魔の手から。

 結婚詐欺やデート商法など、そういう言葉をヨウイチは聞いたことがある。そんな妄想が、次々に頭の中で展開されてゆく。



 人は、信じたいものを信じる。信じがたいものを信じない。

 ジュリアンの言葉。カラスを貶める言葉が、ヨウイチの中で金言のように刻み込まれてゆく。


 取り戻さなければいけない。

 だが、どうすればいいだろうか。あの卑劣な詐欺師から、彼女を取り戻すには。


 

 



 その日、アネットは偶然その廊下を通りかかった。

 勇者の区画だからということでもなんでもなく、カラスの下へ向かうために。夕飯後という少々無礼な時間ながらも、伝言だけならいいだろうという判断で。

 今日、海兎の毒で倒れた使用人が、お礼を言いたい、出来れば何かしらでお礼をしたいと、現在病床につきながらも言っていたと伝えるために。ただ、彼の顔を見れることが楽しみでもあったのだが。


 だが、通りがかった場所に、勇者がいたのが想定外だった。

 いつもは侍女を連れているからわかりやすいのに。そう愚痴りながらも、通り抜けるのを待つために廊下の端へと寄る。しかし一向に勇者は歩き出す気配もなく、ただぶつぶつと何かを呟いて佇んでいた。


 何をしているのだろう。そう疑問に思い半分、カラスのところに行きたいから早くしてくれないかと焦れる半分でアネットは立ち止まり無表情を作る。

 数瞬の後、ようやくアネットに気が付いたヨウイチは彼女の方を向いた。




「あの……」

 ヨウイチは今、確かに聞いた。『カラスのところへ行きたい』と。

 そう聞こえたヨウイチはアネットに話しかけるべく歩み寄る。アネットの方は、戸惑いと焦りでまた背筋を伸ばす有様だったが。

「……カラスさんの、知り合いですか?」

「そう、ですが……」

 話しかけられたアネットは、また違和感に気が付いて戸惑う。ヨウイチは確かにこちらを見て、自分に話しかけたはずだ。けれども目の焦点が微妙にあっていない、と。

「どうすれば、俺……頼れる男になれますかね? カラスさんより、……」

 そして続く話題にも関連性が見れずに、アネットの内心は更に困惑に満ちる。だが、どうやって答えればいいのかということにも思考を向け、何とかそれを外見に出さないように堪えた。


「頼れる、ですかー……。あの、勇者様が頼れないなんて誰も思ってはいないと……」

(正直この勇者、頼れるとは思えないんですけど)


 ヨウイチの目が見開かれる。

 確かに聞こえた声。それが、増幅されてまた何度も繰り返された。


「俺、やっぱり頼りないですよね。……カラスさんより」

「いえ、そんなことは!」


 励まされる言葉に、ヨウイチの頭の中で先の言葉が掻き消される。エレキギターの音が、天から降り注いで耳に障った。

 そうだ、彼女も被害者だ。

「あの、みんな騙されているんです。カラスさんは頼りになるでしょう?」

「え、あの、まあ、はい」

「カラスさんは……そうだ、薬を配ったり、色々と仕事を手伝ったりして、きっとみんなに信用させて、……」


 信用させて、何をしようとしているのだろう。

 詐欺ならば、目的があるはずだ。地位や名誉。それから金。そういうものが最終目的にあるはずだ。ならば、その目的は……?


「ルルさんを……」

「えーと? ルルというのは、ルル・ザブロック様の……?」

(よくわかんないけど……そうかなぁ……?)

「……俺から……」


 俺から奪う。そう続けたかったヨウイチが黙る。

 声がした。アネットの方からではない。中庭に浮かんだ一つの光が、人の姿になって。


『奪う? 本当に最初からお前のものか?』

「……うるさい」


 誰もいない中庭に向けて言葉を発したヨウイチに、アネットは眉を顰める。

 やはり様子がおかしい。これは聖騎士を呼ぶべきだろうか。それとも治療師か、いや、ここはやはり……。


『カラスさんは頼りになるよ。人も殺せないお前と違って』

「うるさい」

『だってお前は何も出来ないじゃないか。ただ剣を振れるだけ。魔法が使えるようになったといっても、この世界じゃそんなものありふれてる』

「うるさい」


 耳を塞いでも声がする。その声にヨウイチは反応し続ける。

 その様子に、やはりとアネットは感じた。カラスを呼ぶべきだ。彼ならばきっと。


『何でお前がこんなにぺこぺこされてるんだ? そもそも魔法が使えるようになったのは誰のおかげだ?』

「…………」

『自分じゃ、何一つ出来ないくせして』



 ヨウイチがぺたりとへたり込む。耳を塞いだまま。

 目を強く閉じて、歯を食いしばっても周囲の景色は変化しない。先ほどと全く同じように外は見え、そして声も音楽も聞こえ続ける。


「あの、カラスさんを……」

『ほらまたカラス、カラス。お前はあいつには勝てないんだ』


 アネットの言葉に幻覚は被せる。ヨウイチが、その言葉はアネットが言ったと錯覚するほどに。

 

 魔力というのは、魔力使いにとっては万能の感覚器官だ。目の代わりに光を捉え、耳の代わりに音を聞き、鼻の代わりに匂いを嗅ぐ。

 だがその万能器官は、身体についているものと違い恣意的な決定を行う。

 見たいものを見せ、聞きたいものを聞かせる。

 

 そしてヨウイチの『劣等感』は今、その主に周囲と自らの声を聞かせ続けた。


『信頼させる? 馬鹿をいえ。カラスは嘘なんかついてないだろう?』


 いつからか止めていた息に息が切れ、目を開ける。

『この子たちも、ミルラ王女も、カラスを信じているよ。お前なんかもういらないんだ』

 いつの間にか周囲を人が取り囲んでいた。アネットだけではない。名も知らぬ使用人たちに、貴族の子女たち。その中には、ルルも。


『詐欺師はお前だ。何も出来ないくせに』


 その声は、自分の声。




「うわあああぁあああああああぁ!!!」



 勢いよく立ち上がり、両耳を塞いでヨウイチが叫び声を上げる。尋常ではないその声に、逆にアネットも怯えるほどだった。

「え、ちょ……、ねえ、大丈夫ですか!?」

「ああああぁぁぁ!!」

 焦るアネットも押しのけつつ、ヨウイチが四つん這いになり叫ぶ。その声にようやく気が付き、聖騎士が廊下の端から駆け寄ってきた。

 同時に勇者の不在に気が付いたマアムも、彼を探すために廊下へ。




 勇者、薬物により狂乱。

 秘され、ごく一部のものにしか伝わらなかったその報だったが、当然責任者には伝えられる。

 自室でその報を受けたミルラは、ただ「そう」と呟くだけだった。





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― 新着の感想 ―
[一言] 決闘でのビャクダンの代理人が判った気がしますな
[一言] 勇者が闇落ちとはさすがに予測できなかった。
[気になる点] 勝敗に関する話は出なかったけど王は勝てると思ってるのかな 負けるなら既存権力はぐっちゃぐちゃになるだろうに呑気すぎない? また小競り合いで終わると思ってる? [一言] 爆弾のスイッチ持…
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