幕間:ならぬ堪忍
ああ、今日も昼餐会だ。
ああ、今日も勇者の隣に立ち、自分の立場を示すように微笑み続けるのだ。
時間が来たとサロメに促され、部屋を出たルルはそう述懐する。
オトフシが出て、サロメが扉を閉める音。その音に、更にもう一度促された気がした。
「先ほど一人倒れたと伺いましたが、大丈夫でしょうか」
「……おそらくは。カラス殿もついていらっしゃったことですし」
「…………そうですね」
ルルの口をついて出た言葉。ルルとしても無自覚だった、『会場も汚染されている恐れがある。だから念のため今日は様子見を』という話題に繋げようとしていたことをサロメは読み取り牽制する。
その名前を出せば、そんなことはない、と主が言えないこともわかっていながら。
ルルはまた、溜息を隠しながら歩を進める。
夜更けに泣いてしまったことを思い出しながら。
あの涙は何の涙だろうか。悲しんでいたわけでも、寂しかったわけでもない。
何かを哀れんでいたのでもなく、ただ目から溢れた涙。
無意識に握りしめた胸の辺りの布の下、胸の中で何かがぴしりと音を立てた気がする。自分が自分でなくなっていく気がする。その溢れた『自分』が流れ出たのだという気がする。
きっと自分は我慢しているのだろう。
自分の首を絞めているようで、息苦しくなって手を解く。それでも息苦しさは消えないのだが。
我慢した先に、何があるのだろう、と考えてしまう。
この前ディアーヌに問われた言葉に、自分はきっと未だに答えられないのだろう。『落としどころを考えているか』という、自分にとっては厳しい言葉。
我慢して、我慢して、その先で自分は何を待っているのだろう。勇者に見初められ、勇者の隣に立つ行為。それすらも我慢の対象なのであれば、きっとその先に自分がしたいことがあるのではないだろうか。
自分の弱さに腹が立つ。
所詮この身は貴族の娘。ならば大風に舞う木の葉のように、ただ世の風にさらわれ、どこかへと落ちていくだけなのだろう。
我慢して、我慢して、それでも結局は落ちるところに落ちてしまうのだろう。
その風を、その流れを作り出した勇者を恨むことは出来ない。
彼もきっと必死だった。知らない国に一人攫われ、したくもないことを強要されている。まさに自分と同じ。ならば、その願いを邪魔することは自分には出来ない。
そんな思い悩むルルは、目の前をすれ違う女性に気が付かなかった。見過ごせば、後々問題となるであろう女性を。
「あら、ごきげんよう、ザブロック様」
「っ……。……ご機嫌麗しく、ミルラ様」
声をかけられて、初めてその存在に気付く。動揺が態度に漏れていないかと、下を向いた視界の中で不安になった。
そんな動揺すらも、ミルラからすれば可笑しいもの。扇子代わりに手を泳がせ、唇を隠してクスと笑う。
「今日の昼餐会は残念ね。勇者様とお二人にはなれませんもの」
「いえ、そんなことは」
そして、ルルの顔が沈む理由もわかる。他に思慕する男性がいるのであれば、同じ女性としてはわからなくもない、と。
だが、そんなこと馬鹿らしいことだ。
ミルラは自信を持って内心思う。青い血を持つ者にとっては、当然のことだと。
ルルはミルラを見返して、ふと不思議に思う。
連れている女性がいつもと違う。いつもは、アミネーと呼ばれている侍女がついていたはず。彼女と顔を合わせたときに気付かなかったのだが、立ち位置もおかしい。どちらかというと、ミルラが連れているのではなく、ミルラが連れられているような。
「そろそろ『決まり』といった雰囲気じゃないかしら。どう? 皆が羨望の目で見る場所へと駆け上がった気分は」
「……私には過ぎたものです」
「少しはお喜びなさい。謙遜も過ぎると嫌みですわ」
しかし違和感もミルラ王女との会話の彼方に消えていく。ふふ、と唇を綻ばせるミルラ王女への不快感に、眉間に力が入った。
「……そういえば、貴方の家の使用人、カラス。今日は昼餐会の準備に携わっているようですわね」
「はい。手が足りないと伺いましたので」
「早速ご活躍だったと報告がありましたわ。怖いことですわねぇ……海兎の毒なんて」
しみじみとミルラは呟く。本心だ。使用人ばかりではあるが、幾人もの人間が被害に遭っている毒。それが、気付かないうちに自分にもその病魔のような何かはとりついているのかもしれないのだ。
正直なことを言えば、今日はミルラも出歩きたくはなかった。治療師たちの手で安全が確保され、しばらくたってからではないと安心も出来ない。
少なくともしばらくは、汚染されていたとされる区域は歩くまい、と誓っていた。
「倒れた方が助かったと聞いて安堵しました。しかし治療師の方々も今大変だとか」
ミルラはルルの言葉にも頷く。治療師の部屋には一応使用人を向かわせ様子は窺ったが、それはもう戦場のような騒ぎだったという。
治療師も大わらわ。大変な事態だ。
しかしミルラにとって、安心材料もあった。
「まあ、探索者による薬師の真似事でどうにかなるものですから、そんなに深刻にはならないでしょう」
昼餐会会場で一人の下男が倒れたと聞いたときには昼餐会の中止も考えたが、すぐに入った続報でそうでもないと思った。
曰く、カラスが処方した薬のおかげで、治療師にかかる前に症状は小康状態へと落ち着いたという。
薬師としての腕があると聞く。だが、探索者の彼で何とかなるものであれば、治療師にかかればすぐに事態は終息するだろう、と。
もちろんそのまま終息するのが望ましいものだとは思っていたが、そうでなくてもいいとはミルラは考えていた。
ミルラ王女の計画の一。エウリューケ・ライノラットの招聘。初めに海兎の毒の事故を聞いたとき、好機だとふと考えてしまっていた。
治療師にもどうにも出来ない毒。それを、彼女ならばどうにか出来るのではないかという予感があった。
一度しか会っておらず、出会いもその後の対応もいいものとは言い難い。それでもなお、何とか出来そうだという不思議な信頼感が彼女にはあった。
きっとそれが天恵というものなのだろう、とミルラは考えていた。それが何の根拠もないものだということは、彼女は気が付かずに。
功名心に、彼女の危険性を察知するはずの目も耳も全てが曇っていることに気が付かずに。
そして、ミルラは気付かない。目の前の女性の感情の変化に。
「あの探索者も好機だったのではないでしょうか。よかったですわね? 名を上げる好機を得て」
更にミルラは口を滑らせる。自分が為し得なかったことを、彼が為し得たと無意識に考えて。
感覚器官が嫉妬に似た感情に覆われ、ぴし、と空気が震えたのをミルラは気付かなかった。
まずはそれに敏感なオトフシがはっきりと感じた。そして次いでサロメがなんとなしに主の様子を見て、不思議な感覚を覚えた。
ルル本人も理由はわからなかった。その言葉に、頬が凍り付くような感覚を覚えたことを。
それぞれが、気付かず、言わず、言葉に出来ずにその不思議な空気はすぐに消え去ってゆく。事実サロメはそれが、気のせいだと確信した。
「それでも、私たちも用心致しましょう。お互い、息災のまま乗り切れるように祈っておりますわ」
「ありがとうございます。ミルラ様も」
ルルは頭を下げる。その表情が、歪んでいないかと気にしつつ。
我慢しなければいけない。きっと今自分は気分を害して、それを表に出しそうになっているのだろう。
しかし彼女は王族、目上の人物。ならば、笑顔でいなければ。笑顔でいられなければ、せめて不満を表してはいけない。それがこの社会の渡り方だ。
去っていくミルラ。
ルルが顔を上げれば、そこにはしずしずと歩いていくミルラの背中があった。
我慢しなければ。我慢をして、我慢をして……。
ただ我慢をして、よい子にしていればいつかは報われるのだろうか?
ルルはミルラに背を向ける。昼餐会の会場へと目指して。
余計なことを考えてはいられない。これからまた『勇者様』と会うのだ。気に入られるように微笑みを絶やさず、余計なことは言わず、せず、将来伴侶となるであろう人の側に立つ。
それが私の役目。貴族の家に生まれた自分の役目。
我慢しなければいけない。我慢をしよう。そうすれば、いつかはきっと報われる。
だが、とルルの脳裏の端に、ほんのわずかに言葉が浮かぶ。本当に小さく、自身でも気付かないほどの小さな声で。
ただ我慢をして、幸せになる。
ぼんやりと何もせず、ただ我慢だけをして。
ただそれだけで何かをした気になるだけの主人公が、幸せな結末を迎える。
そんな本を、自分は読んだことはあるだろうか?




