誰がために
やがて僕たちは、処刑場へと到着する。
勇者は馬車に乗り、そして僕は徒歩で。一緒にではないが、それでもほぼ同時に、その細かで軟らかい土を踏んだ。
サッカーや野球なんかの球技を行うのであれば出来なくもない、という程度の大きさの平地。周囲は竹が組まれた柵で囲まれ、本来はありえないだろうがそこに白い布がかけられ目隠しにされていた。
雨が降ったわけでもないのに、地面が湿っているように見える。漂う臭いが独特で、血の臭いや糞尿の臭い、それに『死臭』とも呼ぶべき臭いがほんのわずかに薄く漂って僕の鼻に届いた気がした。
わずかに高く土が盛られたその中央には、幾人かの人だかり。
人だかりといっても数人だ。正直名前も知らない貴族らしい男性と、その警護であろう聖騎士ではない供回り。それに、テレーズ。他、本来の処刑人らしい仮面を被った二人の男女。
処刑場というのであれば、いわゆる『処刑台』があるはずではないのか。そう思ったが、何となく残る土の痕跡を辿れば、処刑場の端の倉庫に収容されているらしい。ただ彼らがいる地面には、その処刑台が立っていたであろう跡だけが、くっきりと残されていた。
もう一つ。やはり人だかりというには少ない四人ほどの集団が処刑場の端にいた。
おそらく刑吏だろう鎧姿の男性二人に囲まれた二人の男女。どちらも一応縛られているので動けないのだろうが、それよりも先に、既に茫然自失としているような。
勇者はテレーズたちへと歩みを進める。
端の二人に目を向けないようにしながら、頼りない足取りで。
「……遅くなりました」
「いいや。時間には早い」
テレーズが貴族らしき男性に目配せする。
目を向けられた痩身の男性は、腰から時計を引き出して眺め、うんと頷く。
そしてもう一度頷くと、静かに口を開いた。
「早いが、よかろ」
その言葉に応えるように、勇者に付き従っていたマアムが勇者に剣を差し出す。この前見せてもらった剣ではなく、数打ちというか量産品らしきものを。
貴族の男性は時計の蓋を閉じる。パチンと小気味いい音がした。
「此度は私も立ち会わせていただく。畏れ多くも陛下より、右廷尉の仕事を預かるマット・クインルズ伯爵と申します」
「……どうも」
貴族の礼に合わせて勇者も頭を下げる。右廷尉……よく覚えていないが、たしか刑罰なんかを決めたり処刑人を任命する役職だっけ。
たしかに、ここでの勇者は処刑人。まあ、それなりの配置なのだろう。
貴族が促すよりも先に、テレーズが咳払いをするように勇者の注意を引く。
「勇者殿。ここでやることは既にお話ししたとおりだ。ここで、罪人を斬ってもらう」
「……はい」
生気のなく、返事も小さな勇者。だが、テレーズはそれを咎めずに、ただ目を細めるだけだった。
続けるのは細々とした説明。もっとも、その大半は既にわかっているような処刑法の説明だったが。
説明を終えたテレーズは、何か違う言葉を吐こうとし、それを飲み込んで「では」と呟いた。
テレーズの言葉に意を決したように勇者が彼女の視線の先を見れば、やはり先ほどからいる縛られた男性と、後ろ手にではないが軽く拘束された女性。
罪人と呼ばれた彼らが混じる集団はその視線に歩き出し、ゆっくりとこちらへと歩み寄ってきていた。
「やることは単純。ただ、首を切り落とせばいい。一息にやってやれ」
「…………」
男はおそらく四十過ぎ。けれどもおそらく元は茶色かった髪が抜け落ちて薄くなり、腹も出てそれ以上の歳にも見える。女性もおそらく同程度、ただしこちらは、膨らんだ腹は太っているわけではあるまい。
男たちが歩みを進め、近寄るごとに勇者の緊張が増していくのが如実にわかる。剣を握る手が震えている。顔面も蒼白に、それこそ死にそうなほどに顔色が悪くなっていった。
縛られた二人が、少し離れた場所で停止する。そして女が両膝をついてそこへと座り込むと、男性がそこに振り返った。
視線だけがほんのわずかに交わる。けれども二人の間では、何か互いに言葉のようなものを交わしていたのだろう。
まるで会話をするような身体のわずかな動き。声に出さなくとも通じ合っている、と思えるほどの。
二人は涙ぐんで、それでも涙を落とさずにその会話は終えたらしい。
一人の刑吏に付き添われ、もう少しだけ男は歩を進めた。
男は勇者を見ることもなく、促されるままに座り込む。勇者たちからはまだ五歩以上離れた位置で。
俯いたままの男性に向けるよう、それでいて勇者に聞かせるように貴族の男が口を開く。
「この者たちは、とある罪で死刑になるはずだった夫婦。ただし、様々な事情に鑑みて、夫が勇者様に命を捧げるということで、妻を赦免することになっております」
機械的な解説。まるで抑揚もなく、本当に事務的に。
「さあ、勇者様」
促された勇者が男を見るが、男は勇者の顔を見ない。
ただ、隣にいた刑吏に促されるがままに、正座から土下座でもするかのように深く頭を垂れる。
勇者が深呼吸をする。だが、その息は素直に吸われも吐かれもせずに、体の震えに合わせて断続的なものだった。
そして歩き出そうとした勇者。しかし。
「……あっ……」
柄の下、鞘を持っていたはずの剣が、地面に落ちる。手に力が入っていないのだろう、その震える手は、剣を拾い上げるときに一緒に土までも掴み上げた。
もう一度、と呼吸を繰り返す。その漏れた吐息に、男が肩を震わせて、そしてその動きに驚いたように勇者の動きが止まった。
「…………」
目は開いたまま。今度は呼吸を忘れたように、勇者が食い入るように男の後頭部を見つめる。
温い気温、なのに頬に浮かんだ鳥肌が寒そうに見えて、蒼白の顔色まで相俟って勇者の吐息が白くなったように僕は錯覚した。
唾を何度か飲み込むが、勇者は動かない。
次第に、すすり泣く声がどこかから聞こえてきた。それは、少し離れたところから男を見ていたその妻から。
その声にまた驚いたように、勇者が弾かれるように顔を向ける。
視線の先。涙を流しながら食い入るように勇者を見つめるその顔は、鬼気迫ったものだった。
「……勇者殿」
凍り付いたように動かない勇者。そこに声をかけたのは、テレーズ。
「前も申し上げたとおり。やりたくないのであれば構わない。こればかりは、無理強いは私は出来ない」
「…………そんな……」
「だが。先ほどクインルズ卿が仰られたとおり、そちらの女は、この男の処刑を勇者殿が行うから赦免を受けるのだ。勇者殿がその男を斬らなければ、代わりに処刑人がやる。その女も斬首となるだろう」
目を細めて、辛そうにテレーズが滔々と口にする。彼女の手にも力が入っていた。
「勇者殿が斬ることで、人が二人助かる。それを忘れないでいただきたい」
「二人?」
聞き返した勇者。だがテレーズは何も応えず、勇者から目を逸らさない。
そして、それでも勇者も女を見て気が付いたのだろう。腹部を圧迫しないように巻かれた縄に。
「……この人たちは、何をしたんですか?」
「言えない」
「何を……」
言えない、と繰り返す代わりに、テレーズが首を大きく横に振る。そして、唇を噛んでそれを止めて、勇者を睨むように見た。
「それを聞いて何になる。戦場で、相手の素性が必ずわかるとお思いか。仮にわかったとして、相手が誰かの善き父で、誰かの善き友ならば殺せずに自身を殺すと?」
「…………」
「…………。……詳細は明かせない。けれど、この男がしたことは、心情的には理解出来なくもないが、到底許せるはずもない悍ましいものだ。明かされれば、死刑になって当然と皆が思う。それは私も保証する」
言い切ってから、さあ、とテレーズは顎で男を指す。それを見ていたわけではないだろうが、頭を下げていた男がまたもう一度肩を震わせた。
勇者はまだ足を踏み出せず、胃の辺りを抑えた手を握る。激しくなった鼓動を鎮めるように。
「……やっぱり……嫌です、人を殺すなんて、俺には……」
「…………っ」
うわごとのように呟かれた言葉に、ほんのわずか、小さくテレーズが舌打ちをする。
貴族はそれに反応するように処刑人を見て、二人の処刑人は頷き腰の剣に手をかけた。
「でも……そうですよね」
その様を見ることもなく、勇者が一歩踏み出す。まるで泥酔した男のような、頼りない足取りだった。
「殺さなくちゃいけないのも、わかります」
どこか現実感のない言葉。まだ、やはり酔った男が呂律の回らない舌で何かを言ったようで。
ようやく男の横に辿り着き、勇者が剣を抜く。すらりと伸びた剣の先は丸い。
「殺さなくちゃいけないって」
手が震えて、空へと向けた剣先がふらふらと動く。呼吸が荒くなってゆく。
泣きそうな顔で、それでもしっかりと男を見つめていた。
「俺が斬れば、そこの……女の人は助かるんですよね……?」
「ああ」
「なら、……なら……仕方……仕方、ないんだ……」
勇者の声が消え入るように小さくなる。歯の根があわず、寒さに凍えるようにガチガチと鳴っていた。
僕は視線を逸らさずに、頭を掻く。
正直、ここまできて、嫌ならやめればいい、との思いが再燃してくる。
殺人が嫌。もちろん人を殺すのが嫌な人間もいるし平気な人間もいるだろう。だが、嫌ならば、そしてそれが許されるならば、それが平気になる必要はない。
やはり思う。勇者は逃げてもいいのだ。この国に勝手に連れてこられて、勝手に戦争に参加させられることになって、そして今嫌な殺人を犯そうとしている。
そしてその理由が、…………。
僕は考えの流れを断ち切るように目を閉じる。
勇者が今殺人を犯す理由。勇者にとって、そこまで魅力的なのだろうか。彼女は。
もちろん、魅力がない女性とは決して思わない。僕から見ても、きっとルルは人間の中で好ましい者の最上位にいる。
けれども、人を殺したくないという意志を曲げてまで、これからさらに大勢を殺さなければいけない戦争に参加することを決意してまで、彼女と一緒になりたいと思っているのだろうか。
……違うな。僕の疑問の言葉が少し違う。
忌避する人殺しをしてまで、どうして彼女と一緒になりたいと思えるのだろうか。
そこまで、人を……。
何度も呼吸を繰り返し、ようやく剣先の動きが鎮まる。
ちょろちょろと、水音が聞こえてきた。男の座っている股間の辺りから。……長引いたせいで、恐怖が増したのだろうか。
そんな臭いなど気にならない、というふうに一度勇者が息を吸い込む。もしくは気づいていないのだろう。
「……いきます」
ふうふうと、呼吸音が聞こえてくる。今度は勇者からではなく、男から。
勇者の言葉に、恐怖が決壊した。そんな風な印象の声で。
勇者がもう一度息を吸い、そして振り下ろされた刃。
「……ぐ……ぇっ……」
刃が男の首筋を強く叩く。
衝撃に男の首がVの字に曲がり、反動で顔が跳ね上げられるように上がった。
「馬鹿っ……!」
テレーズが慌てたように一歩踏み出す。その視線の先には、勇者と、勇者により首筋を血に染めながらもまだ生きている男。
「ぅぅぅあああぁぁぁぁあああ!!」
一拍遅れて男が苦痛の声を上げる。刃が入ったのは、首の深さ三分の一ほどまで。おそらく頸動脈は切れておらず、脊椎を両断出来たか出来ていないか、という程度だろう。
この出血なら、椎骨動脈も無事ではないだろうか。
「ぃっ…………?」
勇者は飛び退くように下がるが、暴れた男の飛ばす血飛沫が頬に飛んで、泣きそうになりながらそれを拭っていた。
「勇者殿!! 斬れ!!」
「っ……で、でも……!?」
「首を! それ以上その男を苦しめたいのか!!」
自分でも腰の刃に手をかけながら、テレーズが勇者を叱咤する。しかしばたんばたんと苦しみ跳ねる男に一歩踏み出せず、勇者の手がまた震え始めていた。
男の横にいた刑吏が悶える男の下半身へのしかかる。もう一人が横から背中を押さえて俯せに固定した。
刑吏たちが、助けを求める視線を周囲へ向ける。
処刑人へ。テレーズへ。そして、勇者へ。
首筋から胸にかけて、血で塗れた男。それを見て、今まで気丈にも付き従っていたマアムが目を隠し顔を背ける。
言葉にならない声で、男の妻がおそらく男の名を呼んでいた。
「……タレーラン殿。やはり」
貴族がテレーズに声をかけながら処刑人に目を向ける。処刑人たちとしては準備万端なのだろう、腰に下げていた剣の固定を外し、鞘から抜き放つ寸前だ。
「待ってくれ、まだ……勇者殿!」
勇者は怯えているように体を固め、男を見つめる。短く浅い呼吸を繰り返し、今にも卒倒しそうな顔で。
「勇者殿!!」
「…………~~~~~~~~~~!!」
唸るように低い叫び声を上げながら、それでも力なく勇者は剣を男の首へ突き立てる。
しかし、尖っていない尖端の丸い刃だ。力の入っていないその体勢では、深くは刺さらずに暴れる男の首に徐々に突き刺さっていった。
勇者が目を瞑り、歯を食いしばり、懸命に力を込める。
荒い息に定まらぬ重心。およそ、剣術を修めているとは思えない無様といってもいい立ち方。
男の体には徐々に刃が食い込んでいる。致命傷ではあるだろうが、即死には至らない程度に。
テレーズは目を伏せ力なく首を振る。勇者か男かもしくはその両方か、何が対象かはわからないが、見ていられない、と訴えるように。
押さえている刑吏の体が血で汚れていく。普通の人間を押さえるよりも疲れるのだろう、こちらも息絶え絶えの様子で勇者の様子を見守っていた。
だがその視界の中に、動き出したテレーズが入ったようで、勇者よりもむしろそちらに注意を向けた。
「……すまんな、どいてくれ」
端的な言葉。それを聞いた刑吏たちは一瞬視線を交わし合い、ゆっくりと男から手を離し後退る。
拘束が外れ、暴れる力が強くなった男。
勇者はそれにも気が付かないようで、懸命に刃を押し込もうとしていたが。
「勇者殿、もういい」
その勇者の手をそっと包むように持つと、初めて勇者もテレーズに気が付いたようで、ハッとして彼女を見る。
力が緩んだ瞬間を狙ったのだろう。テレーズが軽くそのまま勇者を押すと、あっけなく尻餅をつくように勇者が倒れた。
「えぁ、あのっ……!」
「ご苦労だった。双方共に」
ゆっくりとテレーズは男の奥襟を右手で掴み、持ち上げる。暴れている男も抵抗出来ないようで、荒い息を繰り返しテレーズを今見つけたように見た。
「あ……!?」
視線が交わった瞬間。テレーズの左手が動く。
ほんの一動作。瞬きするよりも速く、左腰にある小剣を左手で抜き放ち、男の首筋を通り抜け、また鞘のうちに戻す。
それでようやく、ヒュ、という風切り音が響いた。
次の瞬間。
男の体が崩れ落ちる。地面に当たった衝撃で外れるように分離したのは、男の首と胴。
また一瞬遅れて、その断面から血が噴き出した。
「……勇者殿、首を持て」
「っ…………っ……」
声にならない引きつった音を発しながら、勇者がテレーズの視線の先を見る。そこに転がっていたのは、苦悶の表情に引きつった男の生首。
勇者が拾えない、と見るや、テレーズがその生首の頬を両手で掴むようにして持ち上げる。
「…………きちんと見ろ。勇者殿が、初めて殺した男の顔だ」
そう言い聞かせるようにするが、勇者は視線を逸らし、体ごと地面に倒れ込むようにして這いつくばる。次いで聞こえてきたのは、胃の収縮を懸命に抑える音。
「……ぅ、ぇぇぇ」
勇者は何かを吐き出しそうになり、懸命にそれを堪えていた。涙と、鼻水と、嗚咽を漏らしながら。
「クインルズ伯爵閣下」
テレーズは貴族の男性を見て、毅然とした顔を作る。もはや、焦りや悲痛さなどを見せない冷たく硬い態度に見えた。
「はい」
「僭越ながら、勇者殿の処刑を補助させていただいた。混乱させたようで申し訳ないが、これで勇者殿による処刑は執行完了ということでよろしいだろうか」
「……よいでしょ」
貴族の男性は、勇者とテレーズを交互に見て、溜息を吐きながらそう答える。
そして、男に縋ろうと体勢を崩し、今となっては這いつくばっていた男の妻を見下ろすように見た。
「チシャ・モッズ。これにて、お前の咎めはなきものとする。生まれ出ずる子供共々、体をいとえよ。……大勢の子を犠牲に生まれる命、ゆめ無駄にするでない」
男の妻は、その言葉に応えない。ただ、地面に頭と涙をこすりつけるようにしながら、貴族の男性に、テレーズ、そして勇者を睨むように見つめる。
「勇者様。お手を煩わせました」
そして貴族の男性はそれだけ言って、あとは刑吏に後片付けを命じる。
引っ立てられていく生き残った妻と、片付けられていく男の死体。
目の前から消えていく姿を、勇者は座り込んだまま呆然と見送っていた。
「……あの……」
死体も女も消えて、人が散っていった処刑場。
残っているのは、勇者とテレーズとマアムだけ。他には処刑場の端で何かしらの作業をしていた刑吏のみ。
そうなってようやく、勇者がテレーズに話しかけた。
まるで叱られる前の子供が、母親に何かを問いかけるように。だがそんな勇者の勇気むなしく、テレーズは勇者の方へと視線を向けなかった。
「あの、……ごめんなさい」
「…………」
「つい、当てることだけ考えて、切れなくて……」
勇者の言葉を聞きながらも、少しだけ悩むようにしながらテレーズは腕を組んで黙る。それから絞り出すように、口を開いた。
「今日は、もう帰っていい。乗ってきた馬車をそのまま使え」
「……あの……」
「……謝るのは、私ではないだろう」
勇者の顔を全く見ることもなく吐き出された言葉に、勇者は言葉を失い顔を歪める。驚きのような、苦しみのような表情に。
だが、勇者からは見えないだろうが、テレーズも相当に苦しそうな顔を、無表情で隠しているように僕には見えた。
「私は帰る。明日も、練武場だ」
それだけ言い残し、テレーズが歩いていく。最後まで、勇者の顔を見ずに。
テレーズを止めるように一歩二歩勇者も走り出すように足を出すが、それ以上は追いすがれないように足を止めた。
テレーズも、処刑場から姿を消す。残るは勇者とマアムのみで……。
「勇者様、そろそろ参りましょう」
マアムは血が苦手らしく、意識的に処刑後の血溜まりを見ないようにしているらしい。それでも気丈に、地面を見つめて動こうとしない勇者を馬車へと促す。
「…………一人に、一人にしてくれませんか」
「出来ません」
おそらく仕事からではないだろう。マアムが勇者の腕にそっと手を添える。しかし勇者はその手を避けるように身を揺らすと、目の前の地面のまだ乾いていない血飛沫を隠すように土を蹴った。
そして何かを見つけたように、何もない地面を踏みつける。それから足を退けてまじまじと見ると、勇者は自嘲するように唇をつり上げた。
「何でなんでしょうね……蝿なら、こんなに簡単に殺せるのに」
謝罪をしつつ、今度は勇者から馬車へとマアムを促す。
そうして誰もいなくなった処刑場。
血溜まりの横に立っていた僕は、全員を見送ると、無意識に溜息を吐いていた。




