至れり尽くせり
ルルたちから同意を取った後、森と市場で材料を揃えてきた僕は、台所に立っていた。
目の前に並んでいるのはすり鉢やガラス瓶。それに小さなコッヘルというか雪平鍋のようなものがいくつか。
そしてもちろん、材料となる生薬たち。
先ほど取ってきたヤマブドウの葉。それをすり鉢で形がなくなるまで擂り、強い酒を一垂らしする。
攪拌し、また酒を。それを何度も繰り返すと、すり鉢の中はどろどろに溶けた粘つく液体で満ちていた。
「また難しいことをなさいますね」
「薬効成分の抽出ですから、治療師などでもおそらく似たようなことはすると思いますよ」
ひょい、と覗き込んできたサロメに応えながら、僕はその不純物だらけの懸濁液をガラス瓶に敷いた絹の上に流し込む。
アルコール中に葉から成分を溶出させて、無駄な部分を取り除く。化学などの用語で言うのならば、担体による分離が当てはまる……と思う。もう十年以上触れていないその類いの学問に、そこまで自信は持てないが。
先ほどのヤマブドウの葉も、布で押さえて絞れば、泡混じりの黄色っぽい液体がガラス瓶の中にぽたぽたと垂れてきた。
「灰や白い粉……よくわからないものだらけでございます」
「サロメさんのところではこういうのやらなかったんですね」
汁を搾りきった葉っぱを捨てて、その中に木炭の粉を流し込んで混ぜる。これは少し放置。あと、次は鍋の方、と僕は向き直る。
ムジカルの方では干上がった湖から採取出来たのに、面倒なことだ。
「貝殻……?」
「煆焼も面倒なんですけど」
だがしかたない。僕はその鍋の中に置いてある貝殻に手をかざし、魔法で加熱する。もちろん鍋は保護しながら。
こういうところは魔法使いは便利だと思う。グスタフさんなどならば、わざわざ窯で焼いていたそうだし。
赤熱し、灰となって崩れたそこに水を流し込む。残っていた熱に反応熱が混ざり、一瞬で鍋から蒸気が上がった。
「ええと……?」
「危ないので触らないようにお願いしますね」
もちろん現在鍋の中は消石灰混じりの熱湯となっている。そしてその上で、もう一つ、危ないこともある。
机の上にあった水溶液。こちらは先ほど天然の重曹を熱して手早く作った生成物を溶かしてある。
それをこれから混ぜる。
もちろん薬師にはわかるだろう。そして細かな化学式は置いておいて、きっと高校などで化学を学んだ勇者ならば、その液体とこの消石灰とを反応させたものの危険性がわかると思う。……多分。
「熱いのは見てわかりますよ」
僕の言葉にサロメがクスと笑う。子供でもわかる、と軽く見ているようにも感じられた。
だが、そうではない。
「いえ。触ると肌が溶けますので」
既に、その性質が危険なのだ。
水溶液の状態だし現在は触ってもそこまで問題は起きないが、それでも代表的な強塩基性の薬品だ。皮膚に残れば延々と腐食させていく程度には。
……こういった薬品の生成は、エウリューケなどならばおなじみなのではないだろうか。
そして、薬師はこういう分野に弱い。今目の前にある生成物も不純物だらけだろう。
弱いと思っていた。だがそれでも出来るのだ。そう考えると、かつての薬師たちの努力と知恵の結晶は、エウリューケにも対抗出来そうな気もしてきた。気のせいでなければいいと切に願う。
いやもちろん、化学式や最終生成物、重曹と消石灰という物体の名前すら、僕がかろうじて記憶しているものに当てはめているだけなので、似たようなものから作る似たような物体、というだけなのだが。
ふと一度顔を上げると、その視界の端に変なものがある。いやまあ、顔を固めたサロメなんだけども。
「…………」
「どうされました?」
「肌が溶けるものを……肌が溶けるようなものを、肌に塗ると?」
「もちろん、毒性は消えるように調整します。今はかなり希釈されてますからそれほどでもないですが、この薬効が残っていればそれなりに危険ですし」
もちろんここから中和する必要がある。もともとそのまま使う気もない。
……なんかこういう話をルルともした気がする。
「怪我をさせる気もないですから大丈夫です。ムジカルでも散々作ってきましたから」
ムジカルでは美肌用の軟膏は娼館くらいしか需要がなかったが、血止めや痛み止めとしての軟膏はそれなりに需要があった。
エッセンとは違い、治療師よりも薬師に頼るというお国柄。そのためもあって、僕もそういう仕事が多かったものだ。
「……これは、真似出来ませんね」
先ほどの炭を混ぜたヤマブドウからの抽出液をまた漉しながら、僕はサロメの言葉の意味を考える。
真似。この薬作りのことだろうか?
「知識がなければ難しいですからね。指示を出しますので、やってみますか?」
興味があるのならば協力しよう。そもそも作業を覗きに来たのは、興味があるからだろうし。
しかし横目で見たサロメはニコニコと殊更に笑みを浮かべる。
「もちろん、遠慮しておきます。私がお渡しする以上、内容を知っておかなければと思っただけでございますので」
そしてその言葉には、明確な拒絶があった。
昼を過ぎて、練武場にて。
「では、本日もよろしくお願いします」
「……よろしくお願い致します」
ディアーヌがジグとついでに僕に頭を下げる。いつものディアーヌの剣の訓練。デイドレスなど身につけず、動きやすい練習着に着替えたディアーヌは、この前見たお茶会の時とは違ってやはり『健康的』に見えた。
どう話を切り出そうか。その姿に迷っていた僕は、ついに稽古終わりまでそれを切り出せずにいたのだが。
簡単な基礎訓練に、鎧打ち。それに僕も交えた軽い散手を終え、稽古も締めとなってからようやくその話を切り出すことが出来た。
「……軟膏、ですか?」
「はい。クロード殿から少し忠告がありまして」
僕は昨日クロードにされた話を簡単に説明する。稽古も終わり、汗や汚れを洗い流したいであろう今長々と話をするのは申し訳ないけれども。
話を聞き終えたディアーヌは、ぽかんと口を開けて「はー」と呟いた。
「なるほど、言われてみればそうなのかもしれませんね」
「ですので、言い方は悪いですが、皆様にも親切のお裾分けを、と」
まず差しだしたのは、掌ほどの大きさの底の浅いガラス瓶に詰めた先ほど作った軟膏。ムジカルで散々作ってきたものとほとんど同じだ。
「私特製の軟膏……既に乳液などは使っておられると思いますが、水浴みなどの後、保湿する用途のものです。ほとんど基礎的なものですが、手荒れなどはなくなることを保証します」
「…………」
ディアーヌが瓶の蓋を抜き、爪の先にほんのわずかに取る。透き通った白いクリームは本来少しばかり草の匂いがするが、今回のものはサロメの協力もあって匂いも抜いてある。
そのクリームを手の甲で伸ばし指先で伸ばしてから擦って確認していたが、その反応はどう思っているのかはわからなかった。
「ありがとうございます。使わせていただきますわ。早速後で」
「ええ。まずはそちらを」
「……まずは?」
笑みにわずかに不可解さを滲ませながら、ディアーヌが首を傾げる。
「そちらは肌が荒れないように、というものに重点を置いていますので。よろしければこちらも、と思いまして」
僕は持っていた小さな鞄から、先ほどのものよりも少しだけ背の高いガラス瓶。先ほどのものよりも、中のクリームに透明感が増していた。
「先ほどのは手。こちらは全身どこでも、寝る前などにお使いいただければ。肌の修復と柔軟性の増加など、少しだけ違う効果が狙えるように配合を変えております」
「ええと、そうすると……?」
「簡単に言えば肌が綺麗になります。いつもは寝る前に何かされていますか?」
「え、ええ。先ほど仰っていただいたように、乳液を塗り込んでおりますが……」
ディアーヌが、先ほどのガラス瓶を侍女に渡してから、僕がまた差しだした瓶を手に取る。同じように蓋を取ったが、今度は手につけることはしなかった。
「その上から塗っていただければ結構です。小豆一粒程度で顔一面に伸ばせますので、顔や手足、今日一度その他の気になる場所に塗っていただければ、明日の朝には効果が実感出来ていることを保証いたします」
「はあ……」
先ほどの軟膏と違い、ディアーヌは少しだけ疑うように目を細めて瓶を見つめる。そして唇を尖らせるようにして、指先で自分の頬を触りながら呟いた。
「……そんなに私の肌、汚いですかね……?」
「いいえ」
あ、と思い、僕は動揺を見せないように即答する。これは昨日クロードに注意した事と一緒だった。
いやまあ『カノンを特別扱いしないように』と先に趣旨を説明しているのだが、とはいえ、伝わっていなかったのは申し訳ない。
どうしよう。もう一度その説明を繰り返せばいいだろうか。それともどうにかして取りなせないだろうか。……僕にその辺りの対処を求めないでほしいけれども。
「……正直申し上げますと、何ら瑕疵はないと私は思います。以前ルネス様とのお話の中で気にされているようでしたが、私は好きですよ。修行で作り上げた固い掌」
鍛冶師の傷だらけの手。火傷の跡の残る料理人の手。すり切れた剣士の手。どれもその人の人生を写しているものだ。気にしないで、とは言わないが、気にすることはないと僕は思う。
「しかし、まあ今より良いものを求めるのも良いかと思いまして。不必要ならば誰かにお譲りください」
「いえ、使わせていただきますけれど……」
ありがとう、というような言葉は口の中だけで呟き、ディアーヌはそれも侍女に手渡す。手渡された侍女は、エプロンの裏のポケットにそれをそっとしまった。
「それで、あとはですね……」
「え? 他にもまだ?」
「ええ」
僕が応えながら取り出したのは、今度は竹の水筒。こちらも先ほど作ったものだ。本当ならば、もっと早く必要だと思っていたもの。
「こちらは試供品、といったところでしょうか。鎧打ちの稽古を見ていて、必要だと思っていたもので」
「これは?」
受け取ったディアーヌが、水筒を揺らす。枯れた竹の節を一つ使っている中には、僕が作った薬湯が入っている。
「稽古中の水分補給に、……よろしければ次から作って持って参りますが、どうでしょうか? さすがに毒味などが必要だと思いますので、こちらは本当にもしよろしければ……ですけれど」
「何か水と違うのでしょうか?」
今度はディアーヌではなく、後ろで侍女が声を上げる。僕はそちらを見ると、ゆっくりと頷いた。
「薬湯です。流派によっては独自で作っているところもあるんですが、ディアーヌ様はお使いになっておられなかったようなので」
もちろん僕はどこの武術流派にも属していないので未経験だが、話を聞く限りいくつもあったはずだ。
たとえば月野流。修行ですら鍔迫り合いを多用し、毎日限界まで腕を酷使する彼らは、飲用と塗布用の薬湯の作り方を修練の一環で習うとスティーブンに聞いたことがある。
彼らが使っているのは多分目的からして消炎作用や疲労回復効果を狙ったものだと思う。
だが、一応これは鎧打ちのためのものだ。
「もちろん様々な効果を持たせていますが、血栓溶解……血の塊が出来にくくする効果と、細かな血管の保護機能が主でしょうか。あとは、体にすぐに吸収されるように味も」
「……何故です?」
「鎧打ち、おそらくですが腎と眼を少々痛めるものなので、それを防ぐためですね」
少々の怪我なら全く残らない聖騎士と違い、ディアーヌには必要なものだろう。
鎧打ちで怪我をし、それを治しても少しずつ体内に残る細かな血の塊。それが蓄積し、すぐではないがやがて腎不全などの臓器不全に至る。
「……なるほどな。たしかに長年修練した門下生の中には、失明に至る者もいないわけではない。……まさか、そのせいか?」
遠目から黙って聞いていたジグが静かに口を開く。
「それはさすがに断定出来ませんが」
もちろんそれはわからない。というか、情報が少なすぎて中々頷けない。ただの眼病や糖尿病性、老人性、他の病気の可能性だってあるだろう。
それ以上何も言えずに、僕はディアーヌに視線を戻す。
「とりあえず、それと同じものを用意出来ると思っていただければ。もし必要だと思いましたら、毒味などをして、あとは味の好みなどを見ていただいてまた要望いただければと……」
僕がそう言い募っていくと、ディアーヌがゆっくりと水筒の栓を抜く。そしてそこに口をつけると、グビ、と飲み干すように傾けた。
「……お嬢様……!」
咎めるように侍女が手を伸ばしかけるが、一口だけで飲むのをやめたディアーヌはそれを無視して僕を見た。
「冷えて……ますわね?」
「……はい。底の部分を凍らせております。実は体に吸収させたいのであれば常温の方がいいんですが、……その方がこの陽気では美味しいと思いまして」
季節は初夏から夏に移り変わろうとしている。まだまだ外に出ただけでは暑いとは感じないが、少し動けばじんわりと汗をかく程度にはなっているだろう。
「お嬢様、せめて私が先に毒味を……」
「ケテ。カラス様が毒を盛るのであれば、こんなわかりやすい事はしないでしょう。それでなくてもカノン様に薬を差し上げたことに注目されているのですし、もともと魔法使いの彼ならば、もっとわかりづらく私に何か出来ますわ」
「……仰るとおりですが」
話に口を挟むよう僕は一応答えるが、失礼なのか誉められているのかわからない。
「それに、誰彼構わずいたしません。カラス様が私に毒を盛るような方とは思えませんわ。ならこの厚意程度、受け取らない方が失礼ではなくて?」
「…………そう仰るのであれば……」
言い負かされたように侍女が、出しかけた手をお腹の前で組むように収める。
いやまあ、僕としてもここで飲むとは思わなかったんだけど。
「ではお手数ですが、次からこれを用意していただけますか? お手間になると思いますが……」
「実は今回、その配合の粉末を既に大量に作ってしまいまして。一季節程度ならば持ちますので、ただ湯で溶かして冷やすだけなのでそう手間でもありません。ジグ殿の予定が合い修練が決まり次第、水筒だけお預かり出来れば」
「ではそうさせていただきましょう。いいわね? ケテ」
「わかりました。お嬢様」
仕方ないな、とばかりに侍女が溜息を吐く。その姿が、何故だかディアーヌに対するより他の誰かに向けているように見えた。
「しかし、致れり尽くせりといった感じですわね」
「中途半端よりもいいでしょう? もちろん、ルル様から名前が挙がった方々には、同じようにさせていただきますが」
特別扱いをしない。これはカノンに限らない。今目の前にいるディアーヌにも肩入れしないでおこう、というのは先ほど薬湯を作っているときにサロメにも言われたことだ。
作った軟膏は、今ごろサロメが説明を兼ねて配っていることだろう。ディアーヌに対してはそれを僕がやった、というだけで。
「その辺りの調整が私は苦手なので、やるならば徹底的にと思いまして」
「……あら? では、これで打ち止めなのかしら?」
「いいえ。個人的なことは存知あげませんので、何か他に困りごとがあれば何なりと申しつけていただければ」
挑発するようなディアーヌの笑みを、僕は言い返して迎え撃つ。別に険悪という感じでもないが、なんとなく。
ディアーヌが、何も持っていない手で扇子を閉じるような仕草をする。
そして眉を下げて笑うと、「冗談ですわ」と口にした。
「もし何かあればお願いするかもしれませんが、これだけしていただいただけでも少々心苦しいものですから。今のところ私は、先ほどの軟膏と薬湯だけで結構です」
「そう言っていただければ」
思わなくてもいいが、表面上だけでも恩に着ていてほしい。それだけすれば、噂を別にして、カノンだけ、という事実も消える。
「ちなみに、件のカノン様にはどういったものをお渡ししたんですの?」
「とりあえず先ほどの、手に使う軟膏だけですね。一応カノン様に合うように調整はしてありますが」
勝手ながら、火傷の跡を消す効果を追加してある。本人が気にしているようでもないし、別にどうでもいいと思ったけれども、一応。
「……件の、先のでは」
「あれはただの貧血対策ですね。その後お会いしていないので、きちんと効果が出たかもわからないのですが」
「…………カノン様、感謝なさっているでしょうね。それでも、貧血? だけですの?」
「ええ。その通りですが」
この前ルルと一緒に隠れてみていた限りでは、少々の症状の改善はあったと思う。もちろん劇的に良くなっているわけでもないだろうが、本当に一応。
今度往診も行かなければならないだろうか。ディアーヌたちへ親切をした以上、今度はカノンを蔑ろにするわけにもいくまい。面倒な。
「彼女、随分と綺麗になっておられると噂なので。……何かカラス様が渡したのでは、と思っておりましたけれど」
「お綺麗に、ですか?」
「ええ。その秘訣でもあれば教えていただきたく思いましたが、何もなさっていないのであれば、まあそうなのでしょうね」
「さすがにそれは私には関係ないですね」
はは、と僕は笑う。
化粧の仕方でも変えたか、それとも僕が関係しているのであれば、病状が良くなり表情が明るくなった、とでもいったところだろうか。
肌の調子も良くなっていると思うので、化粧の乗りも違うだろうし。……一応浮腫も取れてるから、線も細くなっているだろうか。
まあ、結局遠目にしか会っていないし、最近は見ていないからわからないわけだけども。
ディアーヌとも別れた後、食堂でアネットを探した僕は、僕を見るなり不機嫌に目を逸らしたアネットに対しても軟膏を渡した。
最初は素っ気ない態度を取っていた彼女だが、僕も頑張り『いつも世話になっているから』と殊更に周囲にアピールしながら手渡すと、ようやく機嫌を直してくれたようで受け取ってくれた。
一応ルルに許可も取ってある。
どうせならば彼女も巻き込もう。そう思いたち行った少しの嫌がらせだ。
「これで機嫌を取れるような安い女じゃないですよ私ゃ」
「一緒に洗剤も作ったんですが、使った感じとかも聞かせてもらえませんか?」
油汚れもよく落ちる。テーブルクロスについたソースの染みなどももちろん。
「わ、私の体目当て!?」
「いいえ。単なる親切です」
ディアーヌたちへも渡したが、自分ももらっているのだ。
それを周囲も知っている。この状況では彼女だけは、『僕が特定の女性たちを贔屓している』とは言えまい。
というよりも、一部本当にしてやろう。
そう、僕は特定の使用人を贔屓しているのだ。どうぞ必死に否定してもらおう。
皿洗いの合間にこちらをちらりと見ていた名前を知らない若い料理人。
彼を視界の中で発見した僕は、粉石鹸をエプロンについた染みへとすり込んでいたアネットに背を向け、料理人にもほとんど同じ事を繰り返した。




