閑話:招かれざる彼女
「……で」
一人の男が茶の器を机に置く。その、音がしないようにそっと、という仕草に性格が見て取れてミルラは内心鼻で笑った。
王城、その応接室として使われる部屋の一室。その中央に置かれた長机の端には向かい合うように男女が一人ずつ座り、そしてその反対側、部屋の主が使う上座である端の席に、ミルラが座っていた。
茶の器を置いた男は、ミルラに向きなおる。
「私たちを呼んだわけを、手短に話していただいてもよろしいでしょうか」
「そうですね。何が楽しくて、この男と顔をつきあわせていなければいけないのか」
男、王城魔術師長ヴァグネルがそう言うと、応えるように前に座った初老の女性がそう重ねる。その言葉に、どっちが、とヴァグネルは小さく付け加えていた。
喧嘩を始められては厄介だ。そう判断したミルラは、軽く四本の指で机を撫でるように掻きながら、少しだけ迷いながら口を開いた。
「……一人の魔術師に関しての話を、お聞きしたいと思いまして」
「魔術師?」
女がその言葉に眼鏡を支え、合わせるように眉を上げる。彼女の着ている深緑の服は、見てわかるとおりに治療師という身分を示しているというのに。
「ならば私は関係ないと思いますがね?」
「でしょう。治療師に、魔術師の話がわかるとは思えません」
女はこの王城に勤める治療師の長。であるならば、魔術師の話など一切関知しないはずだ。そう思い、ヴァグネルは言葉に同意する。
もちろんその理由の第一は、同じ部屋にいることすら嫌だ、というものだったが。
ヴァグネルの言葉に、女が睨み付ける。隠そうともしない敵意は、この王城内ではよく知られている話だ。
「そう邪険になさらずに。その魔術師は、聖教会に元は属していた、という話でもありますので」
「どうにも要領を得ませんな。聞きたい話とはどういったものでしょう?」
「では、名前を申し上げますが、エウ……」
扉が叩かれ、ミルラの言葉が止められる。
「…………」
来客の予定はなかったはずだ。ミルラは侍女に視線を向けて、それを問いただす。侍女もそれに首を横に振って応えた。知らない、と。
「アミネー、お願いします」
だが、仕方ない。誰だかはわからないが、自分がここにいるということは多くの者が知っているはず。ならば、その誰かは自分に用事があるのだろう。
無論、断っても構わない。いいや、断るべきだ、とそう考える。
この国の第一王女。爵位を持つというわけではないが、王家の一員たる自分は、他の貴族よりも優先されるべき立場にある。
むしろ、どこの痴れ者だろうか。自分の邪魔をしようなどと。アミネーが追い払った後に、その痴れ者の名前を聞いて覚えておこう。
そこまで考えた。
アミネーも、来客には遠慮してもらうと承知していた。
今からの話は重要度は低く機密とまではいかないものの、一応そのときになるまで秘匿するべきことだ。そう感じていた。
「はい」
応えながら扉を開く。細く見えた隙間に男性が見え、その服からどこかの侍従かと思った。
そう、どこかの。
「アミネーと言ったか。不躾な訪問恐れ入る。ミルラ王女に……」
「…………!!」
王女付きの侍女、それも王女個人の家令に近い立場にいるアミネー。彼女もそれなりに高位の従者である。だが、それでもその目の前にいるその人には、緊張を持って接してしまう。
「中にいるミルラにこう伝えてはくれまいか。余も同席する、と」
侍従の言葉を遮り、後ろにいたその男性が声を発する。
ちらりと見えた顔。主の言葉に反しようとも、その男性の言葉に逆らうわけにはいかない。とりあえずは、主に対応を任せなければ。
アミネーが扉を開け放つ。中にいるミルラが眉を顰めるのも放っておいて。
そして自ら扉の脇に寄ると、立て膝をついて頭を下げる。その扉の外にいる男性の顔を確認すると、ヴァグネルも治療師長もすぐに椅子から立ち上がった。
「失礼いたしました」
その王の言葉はミルラにも聞こえているだろう。どうする、とアミネーはミルラに視線を向ける。ミルラはといえば、表情なくゆっくりと立ち上がっただけで済ませていたが。
「楽にするがよい。この場は私的な場、とそうなのだろう? ミルラ」
「…………はい、お父……いえ、陛下」
ミルラは父、エッセン王の言葉に、衣服の裾をつまんで頭を下げて応えた。
上座が入れ替わる。ミルラが席を譲り、その席にゆっくりと王が座る。まるで玉座に腰掛けるように、悠々と。
その横に、侍従長の反対側にミルラは立った。
「はばかりながら、どういったご用件でしょうか」
ミルラは尋ねる。父の横顔を見つめながら。
「娘が王城の重鎮二人を集めて会談を。その様子が、父として気になっただけじゃ」
「陛下にご心配いただくようなことは、決して」
「そうじゃな、私的な場ということは、そうなのじゃろう」
釘を刺された。ミルラはそう思い、そしてそれは真実だった。
この場で話されることは、国家の運営には関わりのないことだろう、と。そう言われ、わずかばかりに何かを飲み込むようにミルラは喉を鳴らした。
「何を話していたのかはわからん。じゃが、続けよ」
「しかし……」
「それともそれは、余には聞かせられないことなのか?」
じろりと王がミルラを見る。
もちろん、王に背くことは考えておらずとも、聞かせたくないことなどミルラには山ほどある。娘としての私的なことや、女としてのことなど。
そう告げて追い払おうか。そうふと考えついてしまったが、それも出来ないと内心首を横に振る。
既に、用件の要旨は二人に伝えてしまった。それと反することを言えば、彼らから自分へ疑義が募るだろう。もしかしたら、彼ら二人が後に王に告げ口をしてしまうかもしれない。
そうなったときのことと、今この場で明かすこと。その二つの利点欠点を天秤にかけ、ミルラは服の裾を握りしめた。
「……いいえ。どうぞ、長い話になるかもしれませんが」
「息抜きと思えばいい。お二方も、余がここにいるとは思わなくて結構」
王の言葉にヴァグネルたちが、はは、と愛想混じりにわずかに笑う。
そう言われても困る、というのが本音だった。より大きなものに仕えている身とはいえ、彼ら二人も、王というこの国の国家権力で一番大きなものには怯える始末だった。
何かはわからないが、面倒なことは早く済ませてしまいたい。
治療師長はそう感じ、そして口を開く。
「……では、それで、お聞きしたい魔術師とは?」
「そうですな、誰のことを?」
ヴァグネルと治療師長は互いに視線を配りあい、協力の姿勢に入る。しかたない、今この場では共同戦線だ、と。
先を急かされ、ミルラは覚悟を決める。
いいや、これは聞かれても問題ない話題だ。この国のためになるであろう行為。彼女の招聘は絶対にこの国の力となる、王も認めるはずだ、とそう自らに懸命に言い聞かせて。
「……エウリューケ・ライノラットという魔術師のことです」
だがその名前を口にした瞬間、部屋の空気が凍った感触がした。
聞かれた二人が同時に表情を固める。その反応に、やはり失敗したか、とミルラは王を見た。
茶を一口啜り、ヴァグネルが口を湿らせる。
「懐かしい名前ですな。私が知っている彼女のことであれば、ここ数年、会ったこともないですが」
「……ミルラ様、私はこれで失礼いたします」
落ち着き払った演技を続けるヴァグネルと逆に、青い顔をして治療師長が立ち上がる。王へとわずかに頭を下げて、部屋を出ようと身体を翻した。
「ジュラ様?」
「申し訳ありませんが、あのような禍もののことを口にするのも悍ましい。わた、私は、失礼を……」
扉の脇に立っていたアミネーが、扉を開けていいものか戸惑う。そもそも開けるべきではない、と感じている彼女は動かなかったが、それを意に介さずジュラはドアの取っ手に手をかけた。
「お待ちになってください。禍ものとはどういうことでしょうか?」
ミルラが呼び止めようとする。しかし、顰め面をして首を振ってジュラは応えた。
「失礼します」
もはや答える気はない。そのような者のことは、考えるだけで苦痛だ。そう全身で示し、ジュラはそれ以上の追及を止めさせた。
「まったく、信仰は目を塞ぐこと、とはこのことですな」
もう外に出るところだった。
だが、ヴァグネルが吐き捨てるように言ったその言葉で、ジュラは動きを止める。
「今、なんと?」
「目だけではなく耳まで塞いでしまわれたか。もしも禍ものと呼ぶのであれば、その危険性も喧伝してから去ってくれないとミルラ王女も困るというもの。それとも、流行病を前にして、自分一人自室に閉じこもるのが治療師とでもいってよろしいのか」
挑発するように、からかうようにヴァグネルは続けた。
語尾が咳き込んだように濁ったが、誰もこの場ではそれを気にしない。
「先に申し上げますと、私もエウリューケ・ライノラットのことは存じ上げております。しかし、あのような反応まで見せるとは……」
自分はまだ落ち着いている。そうヴァグネルはミルラへと告げ、そして自らに言い聞かせていた。
「……その者、何かなさったと?」
そしてジュラの反応に、王が興味を示す。
王にとってはまだ全く理解できない話だ。だが、娘がその人物について話を聞きたいと願い、そしてそのことに関してジュラ治療師長が完全なる拒絶を示した、というところまではよくわかった。
口にしたくない。そう歯を食いしばりながら、老婦人が堪えるように手を震わせる。
だが、王にそう問われてはもはや口に出したくない、は通じない。その拒否権を行使するのはこの場ではないだろう、とそうジュラも覚悟を決めた。
くるりと踵を返すと、全く隠そうともせず、顔を背けて大きく深呼吸した。
「…………本当にお聞きになりたいのでしょうか?」
その場にいる誰も、その言葉には応えない。しかし無言の圧力に、ジュラの耳には話せという大合唱が聞こえた気がした。
席に戻ったジュラは、温かい茶で手を温めるようにしながらじっと俯く。
そして一口紅茶を啜るように含んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「私があの者と出会ったのは、三十三……いえ、三十四年前でしょうか。まだあの者は、小さい少女でした。十歳ほどの、それでいて歳とは不相応に賢い……」
ジュラは思い出す。治療師の見習いたちには、三等に上がるまでの修行中、研修の一環としていくつかの治療院を回る習慣がある。
当時準特等治療師だったジュラの治療院にやってきた一団。その中に混じっていたのだ。あの青髪の少女は。
「優秀な子だと思いました。その場にいた治療師たちの治療を見学して、その度に疑問点を上げて質問をする。その質問も、的確で、個人個人が個別に行っているコツのようなものまで貪欲に吸収していく様。聖典に則りながらも私たちにすら答えられない疑問を持ち、教える側の私たちが感心してしまうほどの」
治療師たちとて、長い年月の中で、聖典の解釈など数万回ではきかないほど練っている。聖典内の出来事などとうに解析済みで、実際の治療とも整合性を保つよう、全て織り込み済みだ。
もはや何の疑問も出ないと思っていた。聖典を覚え、その共有された解釈であれば、何の撞着もないと信じていた。いいや、驕っていた。
しかし実際には、彼女によって撞着点は山ほど見つかり、数百年は停滞していた聖典の解釈も、彼女によって進むのではないかとジュラも個人的に期待してしまうほどだった。
「あの子は優秀だった。そう信じておりました……が……」
「何か問題でも?」
奥歯に何か挟まったような態度に、ミルラは合いの手を入れる。それを拒むようにジュラは、紅茶の湯気で眼鏡が曇ろうとも顔を上げなかった。
「位階を得て、治療師として数えられるようになり、やはり彼女は多くの人々を救い始めた。聖女の再来かと、新しい聖典の一頁になるかもしれないと私たち上層部は期待しておりました」
血管と神経が入り組んだ膵臓の病の治療。両手両足がじわじわと腐っていく病を止めるという快挙を数百年ぶりに行った。
皮膚が乾き、出血傾向が出て歩けなくなる重病を、ほんの一粒の果実で寛解させてみせた。
素晴らしいことだと、褒め称える声もあった。
彼女もそれに応えるように位階を上げて、定命の者にはほとんど辿り着けない特等治療師の椅子まで見えていた。
なのに。
「しかし、あの者は、あの者、は……」
彼女のそこからの行いを考え始めたジュラは、不意に胃の奥が重たくなったように感じた。そして、そこにないはずの魚の匂い、そして鱗の感触をどこかに感じて、咄嗟に椅子から転げ落ちるように横を向いた。
「…………ぅぅぇぇぇ……!!」
王やミルラ、ヴァグネルには見えなかったものの、後ろに控えていたアミネーと王の横にいた侍従長は、その醜態を見て目を伏せた。
吐き出されたのは晩餐。その、まだ完全に消化が成されていないものが、紅茶と共に。
嘔吐されたものの臭いがわずかに香り、王が顔を顰める。一瞬遅れて動き出したアミネーが、手近な銀の手押し車から布を引きずり出し、その始末にかかる。
「も、申し訳ありません! 申し訳、ありません……!!」
嘔吐反射による涙と鼻水をわずかに流しながら、ジュラが謝罪の言葉を繰り返す。
「よい。身体の不調など、誰にでもよくあること」
王はそう口にするが、しかし不審にも思っていた。
魔力使いは通常病にかかりづらい。闘気使いなどよりも遙かにその身体は優れており、毒にも負けない者が多いと聞く。
彼女も、病などではないだろう。では、その原因はと考えれば、一つしかない。
夕食が慎ましいものだったのが功を奏した。すぐさまアミネーによって掃除され、ジュラ本人とヴァグネルの法術と魔術によって床は清められ、部屋は全て元通りとなる。
その原因となった彼女は、恥辱と恐怖に震えていたが。
「おみ、お見苦しいところを……」
「構わぬ」
王の前での醜態。
本来であれば、王はその者を叱りつけて退散させるべきこと。
だがこの場は私的な場だ。公の場であれば許されないことも、胸三寸でいくらか赦すことは出来る。
そして、このような醜態を見せたからこそ、王はその先が気になった。
王は、そのエウリューケ某を知らない。だが、娘のミルラはその者について聞きたがっており、そしてジュラはそれを知っている。
ならば、先を話させなければ。ジュラはこの際関係ない。何事かをしようとしている娘が、気になった。
ミルラも、ジュラの醜態を見て眉を顰める。
優秀な治療師だった。彼女の印象としては魔術師が近いものの、治療師としてもその印象はあまり変わらない。
だが、何をしたのだろう。このジュラにそこまで影響を与える何を、彼女はしたのだろう。
「その先を、お願いいたしますわ」
「……先、ですか……」
暗い顔で、ジュラが唇を噛みしめる。油断をすれば、また何かが胃の中から這い出てくる。そんな予感がしていた。
今か今かと、王と王女が待っている。そんな圧力にも勝る何かが、喉に詰まっていた。
それでも、と懸命に思い出す。思い出したくないことを。
「ある日、私の院長を務める治療院へ、密告があったのです」
「密告?」
「エウリューケ・ライノラットが、歯の齲蝕を治した、と」
やはり思い返しても歯に違和感が走る、とジュラは思う。
もぞもぞと、歯の表面を何かが這いずり回っている気がしていた。
「ほう」
王が感心の声を上げる。王自身には虫歯はないが、それでも先代の王と王妃は晩年それに悩まされていたと聞く。
そして、治療師にそれは治療できないとも聞いていた。晩年父は、左の奥歯でものが噛めなかったのに、と。
その出来ない理由も聞いていたために、それに異議を唱えることは出来なかったが。
「とんでもないことです。歯というものはいずれ抜けるもの。ならばこそ、それを遮るのは神に背く大罪、私たち聖教会の信徒が手を染めていいものではないのに」
同じように、抜ける髪を留める法術は聖教会に存在しない。故に、一部の人間……殊に男性は他国の薬師などに頼るのが通例だった。
「信じられなかった。あれだけ優秀で、敬虔な信徒であったはずのエウリューケがそのようなことを、と。そして調べさせて……ぅ」
またジュラの胃が収縮する。今度は何も出なかったが、口の中を先ほど飲み込んだはずの紅茶が濯いでまた胃の中に落ちていった。
「調べさせて、愕然としました。あの者は、なんと、魚の歯を……」
怯えるようにジュラが手を顔の左右に構える。その腕は今、鳥肌が覆っていた。
「魚の歯を人間に生やすなんて、おぞ、おぞましいことを!!」
言いながら気持ちがまた悪くなる。
「信じられませんでした……あの子が、あのような悍ましい実験を繰り返していたなんて……」
治療が完了した人間は十数人。そして、失敗もその数倍はいた。形の違う歯が生えている、などという失敗ならばまだ良い。悪いものでは、魚の鰭が、本来歯が生える場所から突きだしていた。
「そして同時期に、彼女が魔術ギルドに加入して修行しているという噂も立った。戦争で見た魔術が忘れられずに、と……。それは、破門事由に当たります……」
「では、それで破門を?」
「いいえ。私たちもそこまで狭量ではありません。特に彼女は将来を嘱望されていた治療師。しかしそれ故に、仮にそれが本当だとしたら、高位の機密が流出してしまうかもしれない。もしものときに全て接収できるよう、聴取に彼女の自宅に武装した者たちが向かいました……しかし……」
ジュラはまた言い淀む。
魚の歯。それだけならば、まだ……と勝手に考えていたミルラは、まだ続くのかと首を傾げた。その、顔色が青を通り越して真っ白く染まっていく初老の女性を見ながら。
「五人が向かいました。その内二人は……」
「亡くなったのですか?」
言いながらミルラはエウリューケの部屋の様子を思い出す。
所狭しと置かれた硝子瓶。その中の薬品に触れるなと、彼女もカラスも言っていたことだ。
その薬品に触れてしまい、命を落とした。
その程度だと、軽く考えていた。
「いいえ、生きています。五感のうち二つと指を失い、まだ治療師として……」
「では、残り三人が……」
死んだのか、と問う。だがその言葉を予想したジュラは首を横に振った。
「二人は言葉と記憶を失って発見されました。今もまだ、おそらく生きているでしょう、白痴として」
「…………最後の一人は?」
怖いもの見たさ、ではない。むしろ逆。文脈から、最後にもう一人があるのだろう。そう推測したミルラが、先を促す。聞いてはいけないと思いつつも。
だがそれを、後悔した。
「まだ生きております。今もまだ、頭だけ残った姿で、身体は液状化し、水槽に静かに浮かんでおります」
後半を、もはやジュラは笑いながら話す。発狂したかのように、ケタケタと。
「たしかに生きているんですよ。心臓も動いておりますし、わずかに残った主要な血管の中に血も通ってる。息はしなくても良いそうです。眼球と唇の動きだけで意思疎通を取って、まだ生きてしまっています」
「…………」
ミルラの気分も悪くなる。液状化した人間。喋りもせず、息もせずにまだ生きている人間。……それも、先ほどの話を考えれば、それは最近の話ではあるまい。
そしてミルラとは反対に、ジュラが饒舌になる。もはやどうでもよくなった、というのがきっと正しいと自分では思っていた。
「まだ『まとも』な二人の話によると、家に突入した際に、何かの瓶を割ってしまったといいます。そしてそれきり、救出されるまでの記憶がないと」
「ではその家は……」
「中で行われていた数々の実験は、口にしない方がよろしいでしょう。今のお話が寝物語に聞こえるほどの凄惨な実験が行われていた形跡が、腐りかけた肉片や卵の殻などに見つかりました……」
ジュラはまた深呼吸をして、冷め始めた紅茶を一息に飲み込む。その勢いでずれた眼鏡を直し、黙って聞いていたヴァグネルを見た。
「そこから先の彼女に関しての話は、そこの魔術師長の方が詳しいのではないでしょうか? 何せ、噂は本当だったのですから。もしかしたら、魔術ギルドの狂気に染まり、あのような悍ましい実験を繰り返したのかもしれません」
挑発するように虚勢を張り、そう当てこするようにジュラは言う。それを見てヴァグネルは、『短気で哀れな女』といつもながらの評価を内心下した。
「私の記憶の中に彼女が登場するのは、二十数年前……とすると、たしかに符合いたしますな」
ヴァグネルの飲み干した器に、紅茶のお代わりが注がれる。ひとつでいいか、とアミネーに尋ねられたヴァグネルは、黒砂糖を匙に二杯求めた。
「……第一印象は、そこの治療師長と変わりはない、でしょう。優秀な魔術師見習いでした。私の研究会でも、私の史上もっとも終了後の質問が多かったのは彼女ではないでしょうか」
まだ溶けきらない砂糖を、匙で紅茶をかき混ぜて溶かす。まだ熱い、と指で温度を確かめながら。
「好奇心旺盛。そしてこだわりが少なく事実をありのままに見つめる。優秀な魔術師となり得る逸材だった」
ヴァグネルとしても懐かしく思う。考え方は相容れなかったものの、彼女の発表しようとする論文はどれも刺激的で楽しかった。突飛なものだと一蹴できない感心できる内容だと眺めていた。
目を細めるヴァグネルをミルラが怪訝な目で見つめる。
「……彼女とあまり仲が良くなかったとお聞きしましたが?」
「仲がいい悪い、という範疇にはないと思いますが、そうですな。たしかに反目していたかもしれません」
考えは面白い。しかし認めるわけにはいかなかった。
彼女のやり方は間違っている。そうとも思えたのだから。
「それはやはり、ジュラ様と同じようなものでしょうか」
「そのような悍ましい実験を、というのは初めて聞きましたが、……私にとってはどうでもよろしい」
一口啜ってみて、まだ飲めないと感じた。それから置いた茶器はまた音を鳴らさず、ようやく心が落ち着いてきた気がした。
「あの者は和を乱す天才です。右へ向けと言えば左を向き、左を向かせようと右へと言えば右を向く。私の勉強会で、私の講義中に食ってかかってきたのは彼女が初めてだ」
あの時は、文章の解釈の違いに関してだったか。
『紅に染まる天と水面』の、赤いのは空か夕日かで言い争った。結局今でも赤いのは空という自分の考えが主流だが。
「彼女に、何かをさせようと?」
「…………」
ヴァグネルの言葉に、ミルラが息を飲む。
ここまできて、言うのを躊躇った。今回の目的、彼女の招聘を。
「今日の午後の勇者様の修練、成果が上がったと聞きました」
「そうですな。調子がよろしかったようで、投射を見事に成功させました」
ヴァグネルは内心付け加える。
魔力の放出に成功した。その魔力に少しだけ『色』を感じたのが気になったが、それでもようやく見習い魔術師と肩を並べるところに至った。
安定した投射を行うのには今しばらくの修練が必要だろうが、それでもそう時間はかかるまい。
あとは、その魔力に思念を乗せることが出来れば。英雄譚を熟知し、その一節一節を噛みしめるようにそこに再現できれば。
勇者は、魔術を扱うことが出来る。魔法も……それは既に、ともいえるだろうが。
わずかに覚えていた達成感。だがそれも、次のミルラの言葉で驚きに掻き消された。
「ここ数日の上達。それは、エウリューケ・ライノラットの助力によるものですわ」
「……なっ…………!!?」
ばかな、いつ、どこで。そんな驚きがヴァグネルの中に満ちる。
油で調えた横髪が前向きに垂れるのにも構わず。
「横紙破りなのは十分承知の上で、彼女を王城へ招聘したい。そのことについての意見を、と貴方がたに求めようと思ったのですが……」
王城魔術師長と王城治療師長。その二人はどう思うだろうか。
そして、ついでに説得を、と思った今回の会合は、無駄に終わったのだろう。
いいや、無駄に終わっただけ、で済めば良かったのに。
ミルラが見回した先。
ヴァグネルは、自分の知らないところでエウリューケが関わっていたことを驚き、そしてその『手口』を懸命に考え続けていた。
そしてジュラは……。
「……ぁ……ぁぁ……」
ミルラは後悔する。知らなかったこととはいえ、彼女に伝えてしまったことを。
ジュラは呆けたように口を半開きにし、まだ紅茶の入った器を握りしめる。震える手が紅茶で染められようとも、全く意に介さず。
「その様子では」
「しょしょ正気ですがミルラ様!! いいえ、あの者に関わってしまって、もももはや正気を失ってしまっているのですか!!? ああああのような、あのような者……あの、ああ!」
そして、ジュラは激昂する。まさしく自らが正気を失ってしまっているかのような、金切り声と震える唇で。
「あのような者をお、王城に入れてしまえば、まさしく国が滅び……ほろ……ぇぇぇ!!」
またジュラが、椅子の横に胃の中のものを吐き捨てる。今度は液体しか出なかった。
そんな様を見下すように見ながら、ヴァグネルが溜息を吐いた。
ミルラがヴァグネルの意見も、と彼の方を向く。その視線に応えるよう、ミルラと視線を交わした。
「彼女の反応は極端だとも思いますが、私も反対です。先ほど申しましたが、あの者は和を乱す者」
「…………」
無言でミルラが先を促す。
「突飛な発想。奇想天外な行動。面白くもあるでしょう。稀に、難題に対して効果を出す方策も考えつくでしょう。ミルラ様もその辺りをお気に召したのかと思われますが」
むしろ、褒め称えられることをした、ともヴァグネルは思う。勇者に魔力を扱う術を授けたのであれば、それは素晴らしいことだ。是非ともその方策と根拠を教授願いたいもの、とも思う。
ヴァグネルは、ジュラの話したエウリューケの猟奇的な実験も、本当にどうでもよかった。
魔術師というのは好奇心の塊で、そうでなければならない。もちろん実験対象への配慮も欠かせないし、彼女に関してはそこに是正するべきことがあるが、それでも咎められるのはその行為であり動機ではない。
未だ知られざるこの世の法則を見つける以上の快楽など、そうそうないのだ。
だが、エウリューケの招聘には反対する。
やはり、彼女と自分は相容れない。
「右と言えば左を向く者。人の世で、共に手を携える者を見つけるのは難しいでしょう。あの者を受け入れる集団など、この世には存在しないと私は思っております」
興味深い。だが、仲良くはなれない。
この王城に招き入れても、ただ騒乱を招くだけだ。一人で研究を続けたければそうすればいい、だが、招聘するということは、この王城で共に働くということだ。
「少なくとも私は、共に働くのは気分がよろしくない」
「気分の問題でしょうか」
「皆そう思うでしょう。そう思えば、招く必要がなくなる」
ただ一人で研究をするというのであれば、ここに来ても変わるのはただ設備の問題だ。しかし彼女ほど優秀ならば、研究設備などいくらでも揃えられるだろう。
意味がない行為。
彼女が気に入らないのではない。彼女の存在が、耐えられないのだ。
「話がそれだけでしたら、もうよろしいでしょうか。夜半の行がございますので」
「…………」
「招聘したいと仰るのであれば、私の意見を求めるまでもないでしょう。ただし、私は反対です」
無言のミルラ。呆れるようにそこから視線を外し、王を見た。
本来不敬の行為、だが彼は王宮魔術師長という立場から、それが許されている。
王もそれに応えて、うんと頷く。
「では、失礼いたします」
「意見承知いたしました。……ごきげんよう」
椅子から立ち上がり、ヴァグネルは扉へと歩いて向かう。
アミネーが開いた扉をくぐり抜ける。
その途中、ちらりと見たジュラの顔が紫色に染まっているのを見て、少しだけ口元がほころんだ。
ジュラも断固反対を言い残し、立ち去った後。
応接室には、ミルラと王。それにそれぞれの側近が一人ずつ残るのみである。
「……何故だ?」
「……?」
ミルラへと視線を向けず、正面の扉に視線を固定したまま王はミルラへと問いかける。その端的な問いに反応できずに、ミルラは王の顔を見て先を促した。
「エウリューケと申す者。何故、招聘などしようと?」
「…………」
「お前のことじゃ。勇者の魔力を引き出した、それだけで判断したのではあるまい」
もちろんそれは素晴らしいことだ。破門されているということを考え、聖教会との関係も考え大々的に行えないものの、報奨を与えてもよいほどの。
しかしそれだけで、とも思う。それだけで、この慎重な娘がそこまで考えるだろうか。
「治療師という能力に加えて、魔術師、それも凄腕でした。ベルレアン卿を打ち負かせるほどの」
「……ほう?」
クロード・ベルレアン。各大公派閥に汚されている聖騎士団においても、第一位〈隻竜〉と並び最も王が信頼している男。その男が、打ち負かされるほどの。
そう聞いて、王が白く長い眉を上げる。
「申し訳ありません。直感ですわ。益体もない存在かもしれませんが、それでも、彼女の技術を吸収できればこの国のためになる」
「……この国のため、か」
王が、遠い目で扉を見る。その焦点は、扉の遙か向こうにあった。
「お前がそのようなことを考える必要はない。それは、王子らの仕事じゃ」
この国とて、王子がいないわけではない。王女と同じく三人。特に三十歳目前の第一王子は精悍に賢く育ったと評判ではある。
まず間違いなく、次期王は彼だろう。
そしてミルラは……。
王がミルラを見る。
年頃を迎え、どこに嫁に出しても恥ずかしくない娘。本来であれば、その本来の『彼女の仕事』に従事していたはずの娘。
本当にただの偶然で、そして時季がはずれたというだけだったのに。
「……お前は、王にはなれぬ」
「…………。女伯爵を認めたのは、陛下でしょう」
王にはなれない。その言葉にミルラは異論を述べる。ザブロック女伯爵。ルル・ザブロックを気に留めた理由となったそれを認めた王へと。
この国の貴族は、大抵の場合男子が継ぐ。
しかし、物事には必ず例外というものがあり、女侯爵も女男爵も、女公爵すらも過去には存在したことがある。
ならば、あってもいいはずだ。この国最初の女王というものも。
王は溜息を吐き、目を閉じる。
反論ならばいくらでも出来た。しかし、それでは彼女の心は折れない。そう感じて。
「先のエウリューケ・ライノラットの招聘、余も反対する」
「……何故でしょう」
まさか当てつけか。そう隠さずに眉を顰めたミルラに、優しく諭すように王は続ける。
「まず第一に、先の話では彼女は聖教会から破門されておる。この国の国教たることを、忘れたわけではあるまい」
「…………」
無論、ミルラも忘れていたわけではない。ただ、希望的観測が見えなくしただけで。
「第二に、その者を取り立てて何をさせる? 優秀だからと市井の者を取り立てても、目的がなければただの贔屓、国を割る原因となるだけじゃ」
特に貴族間政治が支配したこの国の王城は、ほんの少し力を加えただけで、均衡を戻すために血を流すことすらある。
「……それは」
「その目的は、現在いる人員で賄えぬものか?」
人員というのは、多ければ多いほど良いものではない。人は飯を食い、隣に立てば軋轢を生む。何事にも、ちょうど良い配分というものがある。それを定めるのも、施政者の腕だ。
「現在この王城に、その者の席はない。すげ替える首を用意してあるんじゃろうな?」
じ、と王はミルラを見る。その反応を。
優秀な魔術師であるという。ならば戦争を、とでも即答できるのであればまだよかった。曖昧な目的よりも、明確な目的を。そしてその目的が有効であると認められるのであれば周囲との軋轢も少なく調整も容易だろう。
だが、彼女は『国のためになる』とだけ口にした。理由なくただ力を増すということ。その恐怖を、わかっていないのであれば。
「……もうすぐ、作られるかと」
そしてミルラは反応した。しかしその反応は、王の求めていたものではない。
ミルラとて、すぐに招聘できるとも、国のために働いてもらえるとも思っていない。それ故の、絞り出すような理由だったが。
王は溜息を吐く。
「お前が言うのだ。優秀なものだということは、本当なのじゃろう。じゃがその優秀さに目が眩んではいかん」
特にこの国、そしてこの情勢では、力というのはどんなものでも諸刃の剣だ。
少なくとも、戦争、貴族たちの整理が終わるまでは。
「お前の今の役目は、勇者を戦場へと向かわせること。そしてそれは叶いつつあると報告も受けている」
「……」
「ルル・ザブロックを通じての勇者の誘導。よくやっている。じゃが、そこまでじゃ」
それ以上を望むべきではない。
王の資質と、貴族の資質と、王女の資質。それは全て異なっていて、そして彼女は望むものを持っていない。
彼女に、王位継承権は与えない。
それは言ってしまえば簡単なこと。
だが言えなかった。王としてではない。父として、不憫な身の上の娘に対して。
「その後のことは……戦争が終わってから、話すとしようぞ」
妹たちが先んじて嫁いでいる。
そんな彼女の劣等感を癒やすにはどうすればいいだろうか。
王族としても、男親としても、無力なものだ。
またクロードに吐く愚痴が増える。そう王は、内心溜息を吐いた。




