閑話:野花のように
この日ディアーヌは、明け方まだ夜も明ける前に目を覚ました。
未だ日も昇りきらず、外では涼しい風が吹く薄暗闇の中で。
「……んっ」
枕と首の間に寝汗を感じ、その不快感と共に寝転がったまま背伸びをして顔を顰めた。
それからいつものように身体を起こしかけ、途中でやめる。とりあえず朝のわずかな休息の時間を無駄にせぬようにと、侍女が起こしに来るまではと力を抜く。
ぼんやりとした視界。明かり取りの中庭から窓越しに響く鳥の鳴き声。
窓の外の薄明に焦点を合わせてぼんやりと見つめてもう一度瞬きをすれば、ようやく自分の身体の違和感に気が付いた。
だるい。身体が重い。まるで寝台に押さえつけられているかのように。
「…………?」
病原的なものではないだろう、とディアーヌは手を掲げるように挙げる。その掌と甲をぼんやりとした天井を背景に眺めても、特になんともない。
風邪でも引いただろうか。そう思い手の甲をそのまま額に落としたが、熱らしきものは感じられなかった。
それでも、大きく溜息を吐いて全身をやや伸ばして、ようやくまた一つ気が付く。
感じた場所は、下半身。背中もやや熱い。しかしそれ以上に、臀部と鼠径部から膝にかけて、熱感と焦燥感に似たじわじわとした何かが覆っているように感じた。
……この感覚。
ディアーヌは少しだけ懐かしく思い、そして『そんなにか』とも述懐する。
確認しよう、とディアーヌは身体を起こす。腹筋に力が入らず、それすらも一苦労だったが。
薄い毛布をはねのけて、寝台からそっと足を床に下ろすと、毛足の短い絨毯が足の裏をくすぐる。
その絨毯の毛を足の指で掴むようにして体重をかけて、立ち上がろうとして腰を上げた。
……だが。
「ふ……ぉぁ……!?」
花も恥じらう乙女に似合わない呻き声。それと同時に腿から力が抜け、ドスンと尻が寝台を叩いて身体が跳ねた。
寝台の振動も落ち着き、足が床をしっかりと踏んだのを確認して、ディアーヌはまた背中から寝台に倒れ込んだ。
これは、病気や怪我ではない。
やはりこれは、筋肉痛。そう、納得しながら。
鈍いものはもちろん頻繁にあるが、しかしここまで激しいのは久しぶりだ、とディアーヌは思う。
力が入らない腰から下の存在をはっきりと感じる。彼らが『今日は疲れてる』と騒いでいる声を、ふくらはぎを伝う汗からしっかりと聞き取れる。
じわじわとした痛み。力を入れて立ち上がろうとすれば、腰が抜けるように身体が意思に反して仰向けに倒れる。
いつもよりも寝汗が酷いのはそのためか、とも思う。
掌を当てれば、じっとりと濡れたように湿った寝台。まだ温かさが残るそこは、自分の体温であってもそこそこ不快だ。
原因は、昨日心機能を鍛えようとして行った行為。ジグの指導した短距離走だった。
ディアーヌも長距離走には慣れている。
しかし、長距離走と短距離走、それらは同じ『走る』という動作であっても、身体の使う場所が大幅に異なっている。
ディアーヌは長距離走ならば、この王城に集められた令嬢たちの中でも最も長く速く走れると言っても過言ではない。そして一度や二度の短距離走ならば、それでもディアーヌの身体にそれほど爪痕は残さなかっただろう。
全力疾走できる最大距離を走る短距離走を、ほぼ休みなく十本。
それは、ディアーヌの脚、殊にその後ろ側を使用不能にするまで追い詰めていた。
しかし。
ディアーヌはふと笑う。
外が明るくなりかけてきている。侍女がもうそろそろ起こしに来るだろう。事実、外ではごそごそと何かの作業を始めている音がしている。
ラルミナ家のというわけではないが、ディアーヌには、まず朝起きてから水浴みをする習慣があった。寝汗を落とし体臭を薄め、肌を洗い化粧の乗りをよくするため、という理由からだが。
準備を整えて、そろそろ侍女が起こしに来る。その時に、このような無様な姿を見せるわけにはいかない。
病や怪我ならば仕方ない。しかし、痛みに耐えかね、疲れに負けて起き上がれない、など自ら望んだ修練の結果としてはお粗末だ。そうディアーヌは思う。
「ぬ……ぁぁぁぁぁっ!!」
懸命に抑えた小声のかけ声。それで自らを叱咤する。
寝台から崩れ落ちるように前へと降りて、床に手を突いて起き上がる。
震える脚。火が付いたように焼ける感触のある腿。
それを叩くようにしながら、生まれたての子鹿のように立ち上がる。
力の入らない脚と、鈍い痛みに笑えてくる。
一歩踏み出そうとすれば、足が持ち上がらずに絨毯をつま先が擦る。
それでも懸命に屈伸運動を始め、ぷるぷるとした緩慢な動きに弾みをつけていった。
これしきで、参るわけにはいかない。
自ら望んだ修練の結果だ。それで、侍女に弱みを見せるわけにはいかない。
剣を学びたい、という願い。
それが家中のどの人間にも良い顔をされていないのは知っている。
兄や弟は、基礎教養として剣術を学んだ。ディアーヌも、ごく小さな時にはそれに混ざることができた。
しかし成長期を迎えたくらいから。どれだけ父にねだってもディアーヌは参加できず、兄や弟は自らに指導もしてはくれなくなってしまう。
仕方なく、知り合いの令嬢に兄や弟がいれば、令嬢への訪問をするフリをして、その武芸指導を見学をする日々。
その他出来ることといえば、ラルミナ家を訪れていた武術師範の行き帰りに話を聞いて、窓からそっと盗み見た光景を反復して個人練習するしかなかった。
たまに運が良ければ、頼み込んだ武芸師範にこっそりと授業を受けることは出来たが、それもほとんど数えるほどだ。
そんなことをするよりも淑女らしいことを、と親や兄弟、使用人に何度言われたことだろう。
優雅なお茶の飲み方、踊り方、食事の作法に祭典の礼。
およそ貴族の令嬢に求められる全てのことが、人並みに出来るようになってから。そうしてからなら剣の稽古も許してやると言われたこともある。
だが、ならばと全てを完璧にこなしても、結局父ラルミナ卿から許しは出なかった。『少し考えればわかることだろう』と苦笑しながら言われたその光景は、その時握りしめた拳の痛みと共にずっと胸に残ったままだ。
この身が貴族でなければ、とそう思ったことも幾度となくある。
武術道場を訪れようにも、必ず付いてくる供回りが邪魔をする。武芸者を個人的に招こうにも、家の敷地に入れるわけにはいかないと警護の者に拒まれ無駄に終わった。
しかし、貴族だから、とも思う。
貴族だから、この程度の我が儘が許されているのだ、とも思う。
今まで教えを請おうとした者たちにも、そしてカラスやジグにも本当は失礼なことをしているのだろう。
やはりこの身は貴族の娘。家を守り、嫁いで繋ぐのが唯一の仕事だ。
騎士のように戦場に出ることも、探索者のように遺跡を訪れることも許されるわけがない。
剣を学ぼうとも無駄なのだ。使う機会は訪れるわけもなく、ただその腕を腐らせるだけ。
父に言われた『趣味』。まさしくその通りだ。ディアーヌの剣は実利も生み出さず、人に誇ることすら出来ない。
そんな趣味という無益なことを、本職である二人に教えを請うている。
彼らからしても業腹なのかもしれない、とディアーヌは溜息を吐く。もっとも、彼らはそういう素振りを一切見せなかったが。
そうして、細々と続けている剣の道。
現在自分に付いている侍女は久しくそれを邪魔してはいない。
だが、彼女もおそらくは否定的なのだろう。『酔狂な』または『馬鹿なことを』と。
そんな視線をディアーヌは感じることがある。もっとも、やはり彼女から直接それを聞いたことはないのだが。
剣の道に否定的な侍女。
彼女に無様な姿を見せるわけにはいかない。
仮にこれで自分が苦しんでいるとするならば、おそらく侍女は嬉々として父に報告するだろう。そして報告を受けた父はこれ幸いと、それを理由に現在わずかに黙認されてる自主鍛錬までも禁じるだろう。
やはり、お前には無理だったのだと。そう、半笑いで口にする家族の顔が目に浮かぶ。
ディアーヌは、もう一度足に力を込める。一度屈んでから立ち上がるのに、酷く消耗する思いだった。
「ぬ……ぎぎ……ぎ……」
もはや隠せぬ呻き声。だが、問題はない。この後顔を合わせる侍女に向け、平気な顔さえすればいいのだ。今聞こえていようが、後に素知らぬ顔さえ出来れば。
それだけしておけば、まだ侍女も余計な報告は出来まい。深く息を吐いて、無理に表情を作った。
それに、これも必要なことだ。
『野花のように美しく』。その解釈はラルミナ家の女性陣、個々によって変わるが、ディアーヌはそう信じている。
野に咲く可憐な花たち。彼らは美しく咲き誇り、見る者を楽しませる。
彼らのようになるというのは、きっとこういうことなのだ。
ただ綺麗になれば良いのであれば、『花のように可憐であれ』でも構わない。なのに、野花と限定したのはそういうことなのだろう。
野花は、単に呆けて咲いているわけではない。
春に花を咲かせる彼らも、厳しい環境を耐え抜いてきた。
夏の激しい日差しを、秋の霜を、冬の雪を耐えてきた。
しかし彼らはそれを誇らない。野花たちは素知らぬ顔で、ただ美しく咲いている。
ラルミナ家の家訓は、きっとそういうことだ。
腰を細く見せるために締め上げる腰帯。その苦しさを表に出さぬよう。
肌を美しく保つ軟膏は面倒でも夜に欠かさず、その労苦は人に見せない。
踵の高い歩きづらい靴さえも、華麗に履きこなしてみせるというもの。
貴族の世界で、家を繋ぐ女として生きるのは端から見えるほど楽ではない。
だが、楽をして生きているように。まるで最初からそうであるように。
まるで水面の下では懸命に足を動かすという水鳥のように。
苦労を見せず、優雅にいる。
そうして咲いた花にこそ、美しさは宿る。
ディアーヌは家訓を、そう解釈していた。
きっとだからこそ、カラスの動きは美しいのだろう、ともディアーヌは思う。
昨日の稽古。その時に、ディアーヌの動きに対応して打ち込まれた数々の攻撃。
剣での払いや突きはもちろん、拳や蹴りに至るまで。その動きに、無理は見えなかった。ただ身体を気持ちよく動かしているだけ。自然とその動きがこちらの動きを封じ、そして追い詰める攻撃になっていた。
しかし、真実はきっと違う。
彼とて、努力をしていないわけではないだろう。その動きは熟練のもので、長年積み上げてきたものの結晶だ。
その鍛錬を、厳しい修練の日々を彼は表に出さない。そしてその成果を、軽々と披露する。
まるで、締め上げた腰の苦しさを顔に出さないように。
だからこそ、カラスの動きは泥にまみれてもなお美しく見えたのだ。
打ち込み稽古を続けてディアーヌは、そう確信していた。
しかし、羨ましいとも思う。
カラスの動きは、鍛錬で磨き続けていたものだ。
だが休憩の合間の会話に、その『鍛錬』が苦労でなかったとも聞いた。鍛錬とも彼は思っていなかった、というのに愕然とした。
鍛錬が苦労ではない。それこそが、きっと才能と呼ぶべきものなのだろう。
自分にその才能があれば、と嫉妬すら覚えていた。そうすれば、空打ちの稽古でももっと効果はあっただろうし、今もこんな無様な苦しみも覚えていないだろうに、と。
自分には才能がない、とディアーヌは思い込む。
それこそが、彼女の一番の間違いだというのに。
寝室の扉が小さく叩かれる。
本来起きていない時間ということで、返答を待たずに開かれた扉の先には侍女。彼女はディアーヌと目が合い軽く会釈をした。
「おはようございます。今日はお早いのですね」
「目が覚めてしまいましたの」
内股を伝う汗を無視しつつ、ふふ、とディアーヌは笑顔を作る。その臀部に感じる引きつるような痛みを表に出さないように。
その顔を見て、内心溜息を吐きながらも侍女は何も言わない。溜息の理由はディアーヌの思っているものとは大分違っていたが。
小さくかけ声を上げながら、ぬるま湯を張った盥を足下から持ち上げて、部屋に運び込む。水面が揺れて小さく音を立てた。
「ありがとう」
「いいえ」
強がる主の笑みを見つつ、いつものように廊下の外に待機させていた銀の台車もがらがらと部屋に引き入れて、その上の柔らかな布を整える。
あとはいつものように自分でやってくれるだろう。……もっと信用してほしいのに、とも侍女は思うが。
「では、失礼いたします。お食事の用意にかかりますので」
「ええ。お願いします」
ぎくしゃくと動きそうな手足を強引に滑らかに動かして、ディアーヌは布を手に取ろうと歩み寄る。絞れるだろうか、と持ち上げた前腕の筋肉の痛みに不安に思いつつ。
息が荒くなりそうなのを、懸命に押し留めた。
「……お顔、引きつっておられますよ」
「あら」
しかし部屋から出る侍女がそう言い残していった言葉に、ディアーヌは内心舌打ちをした。




