甘い匂い
渋る顔をするジグをルルと共に何とか説き伏せて、その後適当に時間を潰すことになった僕とルル。
与えられた部屋に戻った僕は、とりあえず落ち着くために借りていた本を開いた。
架空の世界、隣国と戦争をしている架空の国の、一兵士である主人公。彼が勤めるのは敵軍の進軍経路を阻む砦。
その砦の先には主人公とヒロインの生まれ育った村があった。
戦争の半ばまではそこが重要拠点となっていたが、情勢の変化に伴い、ついにその砦が放棄されることになる。
しかし、放棄をしてしまえば、避難も完了し無人になっているとはいえ、その先の村が蹂躙されてしまうことは目に見えている。
そのため、国家に対して無意味とは知りつつも、主人公は一人で砦に立てこもり、自分の命と引き替えに敵軍の進軍を食い止める、という話だ。
念のため先には本を隅々まで確認してみたが、これはアリエル様の作ではないらしい。僕は知らない名前だったが、著者名と写本した人物の名がきちんと記されていた。
矢や魔法による火炎飛び交う煙の臭いの中進む、剣呑な話。
だがアリエル様の作ではないということで、安心して僕は読み進めていった。
物語は進み、敵軍を罠を大量に仕掛けた砦の中に誘い込んだ主人公は、片足を負傷しながらも、階段を這って上っていく。
痛みに歯を食いしばりながら、息も絶え絶えに、故郷で笑う幼馴染みの顔を思い出しながら。
何というか、怪我や痛みの描写が妙に細かく、読んでいる僕まで足に痛みが走るような文章だった。
埃と油の臭いが覆う石の階段に手をかけながら、敵国の兵士に追いつかれないように懸命に上がっていく。一度階段を掴み損ねて中指の爪が剥がれるところを読んだときには、思わず自分の中指を見てしまった。
そんな風に本を実感しながら読んでいる最中。
僕の部屋の横、納屋というか倉庫になっているそこで、ゴソゴソと音がして僕は我に返った。
下女はさっき使いに出たし、男性の動作音ではない。
ルルのように力の弱い女性というわけではない。その先にいるのはサロメだろう、というところで僕は思わず立ち上がった。
ゆっくりと扉を開く。
そして顔を出して横を見れば、扉を開け放したまま、その奥でゴソゴソと何かを探しているようなサロメの気配が更に強くなった。
「サロメさん」
「ひゅっ!?」
不意に息を思いっきり吸ってしまったような声。
扉をノックもせずに背後から声をかけたのが多分いけなかったのだろうが、サロメが僕の声に普通に驚いて肩を震わせる。
それから慌てたように振り返りながら立ち上がり、僕の姿を見て、胸に手を当て息を整えるように一拍おいた。
「……すみません、驚かせてしまって」
「い、いえ」
まだ落ち着いてはいないようで、落ち着きなく視線が彷徨っている。心拍数も上がっているのか、まだ胸に手を当てたままだった。
しかしまあ、以前のオトフシといい彼女といい、驚きすぎではないだろうか。……オトフシの場合は、僕が姿を隠したまま折り紙を不意に捕まえるのがいけないのだけれど。
「何か探し物でも?」
「い、いえ、今日お嬢様の薬湯に使う生薬を、補充しておこうと思っただけで……」
サロメが視線を下げる。それを追うように僕も床を見れば、既に出してある生薬の瓶が床にいくつも置いてあった。
「ああ」
「……暇なときに作っておかないと、いけませんし……」
そして僕の視線から逃れるように、サロメが視線を逸らす。言い訳をするように歯切れの悪い返答を繰り返しているのは、別に悪心があるわけではあるまい。
「粉砕や調合なら手伝いましょうか?」
「い、いえ。これは私の仕事です。家伝の菜譜、カラス殿でも中々再現は出来ない……でしょう……」
言いながら、サロメの声が少しだけ小さくなる。何か後ろめたそうに。
だが、今の言葉では少し時間がある様子。ならば少しだけ引き留めても大丈夫だろう。
「…………」
「…………」
サロメも作業を再開せずに、肘の辺りを握って静止する。何かを言いたげな雰囲気で。
それが何かは知らないが、僕の用事から済ませてしまおう。
「少し時間よろしいですか。この場で済む話ですけど」
「……はあ」
とりあえず、彼女の顔を潰しそうになったことだけは、謝っておきたい。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
「え……あ?」
僕が頭を下げると、頭上で戸惑うような声がする。頭を上げて顔を見れば、その声の印象のままに、目をわずかに開いて戸惑う顔があった。あんまり嘘はつけないらしい。
「カノン・ドルバック様の件。サロメさんにも断れない事情があったでしょうに、断ってほしいと私の事情のみを押しつけてしまったようで」
もちろん僕の言葉に嘘はない。普通に断ってほしいし、断るに足る理由もある。他家の人間の健康まで預かる責任は取れないし、それに関しても不測の事態もいくらでも起き得ることで、やっぱりもうやめてほしい。
でも多分、そう言えない事情もあったのだろう。
僕は未だ経験もないが、『ご近所づきあい』とは多分そういうものではないだろうか。
いやまあ多分、今僕が罪悪感を覚えているのは、先ほどのルルの剣幕に少しだけ驚いているからだろうが。
それでも。
「その……そんなことをわざわざ?」
若干身を引くように、奇妙なものを見るようにサロメが口元に手を当てる。わざわざというか、この謝罪はどちらかというと僕が落ち着くためにやっていることだけれど。
僕も何となく気恥ずかしくなり、頬を掻く。
「サロメさんが私のせいでルル様に叱られていたのが忍びなく……」
「…………フフ」
僕が口にしたのは、多分言うべきではないこと。
それでも何を思ったのか、サロメが口元を綻ばせる。
……何となく、無理をして笑っている気がして、僕は何故か少し心苦しくなったけれど。
それからゆっくりと、サロメも頭を下げた。
「私のほうこそ、申し訳ありませんでした。回答を控えていったん持ち帰り、先にカラス殿に一度確認するべきでございましたし、その後正直に話せずに誤魔化してしまったことも」
僕を客観的に見れているわけではないが、僕よりも落ち着いたような綺麗な謝罪の姿勢と言葉。
「本当は私が先に口にするべき事だったのに、カラス殿に先を越されてしまいました。以後気をつけますので、どうかご寛恕くださればと願う次第でございます」
「……いえ。申し訳ありませんが、とまた謝罪の言葉をつけるのもおかしな話ですが……、顔を上げてください」
言いながら、自分のことに気が付いて内心笑う。
やはり謝られるのは慣れていない。怒られるのも、嫌われるのも慣れているのに。
サロメも、僕の内心を読み取ったようにクスと笑う。
「お互いに少し失敗をした、ということでどうにかなりませんでしょうか」
「それで構いません」
僕も思わず応えるが、上から目線になっている気がして少し恥ずかしくなる。どういう風に応えていいのかわからなくて。
「助かります」
重ねて応えると、サロメが何か安心したように、握りしめていた拳を解く。わずかにそれが震えて見えたのが、少しだけ気になった。
サロメが調合のためにいくつもの生薬を運ぶ。
僕もその小瓶を半分抱えて手伝い、炊事場へと運んだ。
瓶の種類は……十二種類? この前見たときにはもう少し少なめだったと予想したが、意外と多かった。中から香る匂いはやはり、白芍薬に芎窮、肉桂と生姜、とこの前とあまり変わりないが。
「混ぜておくと匂いも薄れて味が変わってしまうので、あまり作り置きできないのが面倒なんですよ」
家伝のレシピ、とは言うが、話の流れでサロメの調合を見せてもらうことになった。まあ別に秘伝というわけでもないし、というのがサロメの言だ。
炊事場の台の前に並んで立ち、僕はサロメの選ぶ生薬を見る。
手伝うためにと、乳鉢の中で乾燥している肉桂を砕く。ふんわりとした甘い匂いが周囲に漂った。
「……その場で混ぜるのも面倒そうですしね」
「わかりますか」
僕の補足に、力なくフフとサロメは笑う。それから別の乳鉢に、たらりと少しだけ、粘稠性のある液体を垂らす。黄金色、ともいえるそれはやはり甘い匂いをしており……。
「蜂蜜なんて入ってたんですか?」
僕は少しだけ驚きながら聞く。
今でこそ蜂蜜の匂いはしているが、ルルの飲んでいる最中は蜂蜜の匂いなど僕は感じなかった。調味料としてだろうが、隠し味、といったところだろうか。
「少しだけでございますが」
「匂いはしませんでしたが……」
とりあえず、僕の知っている似ているレシピには蜂蜜は入っていなかった。だがたしかに、材料からすると味的には合うのだろう。そうは思うけれど。
僕の言葉に、『ん?』とサロメは一瞬首を傾げ、それから、ああ、と頷いた。
「不思議なことにですね、こちらの油を入れると匂いが立たなくなるんです」
小さな匙で、ひとすくい。その程度を蜂蜜のたまっているところに垂らして、僕に示す。匂いからはそんなに変わったものではないと思うが……あんまり嗅いだことのない油で、食べられるものだとは思うのだが、飲食店では……、ああ。
「それは……瓢箪?」
「よくおわかりになりましたね。私の地方独特の……そもそも私の知っている限りその瓢箪特有の性質のようなんですが、これを混ぜると……」
僕が悩みようやく出した答えを肯定し、サロメは中身をかき混ぜる。空気を含んで一瞬で濁ったその液体は、混ぜ続けると乳化したのか粘稠度も下がりまた透明になった。
そしてそれを僕へと嗅がせるように、乳鉢を僕へと近付ける。
「このように」
「たしかに匂いが消えましたね」
グスタフさんの教育にはなかった話だ。そもそもグスタフさんが調味には力を入れていなかったということもあるようだが。ノートには一応、僕も半端にしか聞いていない味の調整法も書かれていたし。
「でも、きちんと味は残っているんです。不思議なものでございますが」
液体に、サロメは僕が粉砕した生薬の粉を足していく。
一番多く使うのだろう、生姜を計りながら全て入れ、他の粉を足していく。四つの大きさの違う匙を使い分け、さらに何杯か、ともそれぞれに違う分量で。
出来上がったのは、蜂蜜混じりのじゃりじゃりとした粉の塊。黒っぽいような緑のような。
それを乳鉢の中で練り、丸めるようにまとめながら、サロメは恐る恐ると口にする。
「……一杯、お飲みになりますか?」
「是非」
似たようなものをグスタフさんに教わり知っていると思っていたが、似て非なるものだったらしい。匂いから味の想像はつくとはいえ、やはり味わっておきたい。
大方のレシピも覚えているし、再現しようと思えば出来るのだが。
と、反射的に答えてしまったが、まずいだろう。これはルルのために用意されたものだ。味見程度ならばいいかもしれないとはいえ、『飲む』のはまずい。
「……いえ。遠慮しておきます。せっかく作ったのですから、ルル様に」
「ご遠慮なさらず」
サロメは僕の内心を読んでいるのか、クスとまた笑う。
「この量で大体十杯ほど出来るので、大体余って最後は捨ててしまうんです」
「しかし」
「といっても、湯を沸かさなければいけないので時間がかかってしまいます。味見をしなければいけないのに」
……なんとなく、サロメの視線に意味はわかった。
いやまあ、意図としては『飲む?』の続きなんだろうが。
「……どのくらい必要ですか?」
「湯飲み二杯分、で充分でございます」
ニコリとサロメが笑う。
だが何故だろう。その顔から、何となく『無理』が消えてきた気がした。




