閑話:転がる先
カラスが去った血の臭いの香る部屋に、二人の聖騎士が残っていた。
入り口側に佇むジグは、腰の剣の柄に手を乗せたまま、半身になって廊下側を覗き込む。その先の気配が消えてなくなるまで静かに待って、ゆっくりと顔だけ中のクロードに向けた。
「良いのですか? あんな得体の知れない男との演武など……。ミルラ様や勇者の前に出すには、不適格では……」
「いいんだよ。誰が出ろとも言われてないし」
ハハハ、とクロードはジグの言葉を笑い飛ばした。ジグとしては、笑える気分でもなかったが。
床の血溜まりを踏まないように、クロードは一歩前に出る。その血の量から、無駄のない動脈への攻撃を読み取りつつ。
床から目を離さずにクロードは続けた。
「奴は色付きと呼ばれている上位探索者の一人だ。実力やその腕前は、聖騎士と変わらないしな」
クロードの言葉にジグは眉を顰める。
「団長は、聖騎士と奴が同列だと?」
無意識に、ジグの腕に力がこもる。左掌で包まれた柄頭が軋みを上げた。
水天流六花の型《底冷》。左手で柄を上から包み、左足を半歩引いて前足の荷重を抜く。ここから前後の動きへと連絡し、相手の不意を突いて切り上げる。水天流の構えの一つだ。
もっとも今はクロードに対して敵意を持っているわけではない。歩哨中のジグの癖だ。
自分に対して敵意がないことは、クロードも承知している。
しかしその構えが堂に入っていて、礼儀としてクロードは両掌を見せながら少しだけ身を引いた。
「……さすがに、今の言葉は過ぎたものではないでしょうか」
「ハハハ、お前もそう思うか」
両肩を上げて下げて、クロードは手を下ろす。ジグはその姿に、自分の体に力が入っていたことを知り意識して脱力した。
「……だが、〈山徹し〉も探索者だぞ。『元』がつくが。それでも聖騎士と探索者を同列にするなと?」
〈山徹し〉。かの伝説の弓使いデンアの武名は、ジグたちとて無視できない。
二十余年前の戦で、聖騎士を含め、合わせて千を超える両国の軍が壊滅した原因となった魔物を殺し、戦場へと風穴を開けた希代の傑物。
彼を語る際には、その逸話が必ず口に上る。
しかし、彼の逸話はそれだけではない。
「イラインを滅ぼすべく差し向けられた竜を殺し、ついでに硬白石の岩山に穴を開けた。国家転覆を狙った聖教会の異端者、骸布派を壊滅させた。そして、ネルグの幹に『到達』した」
探索者としての武勇、そして聖領探索の功績。
デンアのネルグ探索資料提供により、現存している遺跡の二割が発見されているというのは探索ギルドの古株ならば誰でも知るところだ。
「ネルグの幹に触れたせいで、指先が緑に染まっているってのは本当かな?」
「しかし、〈山徹し〉と奴とは……」
功績が違う。出自も違う。世代も違う。
そう言葉を重ねようとするジグ。しかし、クロードは自らの胸の前で手を振ってそれを止めた。
「いい、いい、面倒くさい。言いたいことはわかってるよ」
クロードは、床に落ちた毛布を拾い上げ、それを広げて眺める。
端についてしまった血は、洗っても中々落ちないだろう。
「カラスの奴が嫌いか?」
「そういうわけでは……」
視線を合わせずに問われた言葉に、ジグは口ごもる。
嫌いなわけではない。それは自信を持って言える。しかし、何故だろうか。嫌いではないと言いたくない自分もいた。
ビリと部屋に音が響く。クロードが溜息をつきながら毛布を真っ二つに引き千切った音だった。
「正直言うと、俺もお前たちと変わりはない」
クロードは布を眼前に広げたまま、くるりと回転する。その裂け目から、ジグと目が合った。
「対ムジカルとの戦力として、勇者は召喚された。俺たちがいるのに。城に招かれた客人たちは、わざわざ雇ってまで自らの警護を連れてきている。俺たちがいるのに」
クロードとて、自負はある。
聖騎士として叙勲され、今まで数十年の間、第二聖騎士団長の座に座ってきた。鍛錬や訓練を欠かさず、力を尽くしてきた。なのに、今までこの国を守る一員として働いてきたのに、それでは力不足だと言われている気がする。
およそ二十年から三十年周期で行われているムジカルとの軽い戦。そこでムジカル側の最高戦力五英将と遭遇したことはないが、それでも負ける気はしない。
否、負けてはいけないのだ。それが聖騎士団長としての務めで、そして国家に広がる門弟たちの誇りに繋がる。
勇者の召喚に直接異を唱えるのは、派閥や政治的意図からしても、何より王の勅命による行動のために難しい。
だが、そちらならば。
「お前たちがカラスのことは嫌いでなくとも、気に入らないのは知っている」
探索者。身分は低く、そして出自も悪いことが多い者たち。クロードは興味はないが、悪意を向けるのであればそちらに向けるしかないだろう。
そちらならば、許されている。貴族たちに。そして社会に。
しかし……とクロードは内心思う。
急すぎる。
勇者への反感は、皆が薄々思っていたことだろう。口に出すまではいかずとも、勇者召喚の準備が始まった頃からごく希にその噂話の気配を感じることがあった。
しかし、現在向けている探索者への敵意は、それこそ令嬢令息たちが登城してからのはずだ。
一月以上前からの勇者召喚と違い、探索者はわずか数日。
もちろん、その探索者への敵意の存在もわかる。勇者へと敵意を向けられないことへの代償行為として探索者を殊更に問題視しているというのも想像に難くない。
しかし、やはり急すぎる。
皆の視線が変わったのは、ちょうど昨日。それも夜くらいから、とクロードは推測する。
自然にそうなったにしては、些か急だ。
それに、カラスへの敵意がもっとも強い。
勇者のお気に入りだから、という話もある。ならば勇者との関連づけで、彼個人がということもあるのかもしれない。だが、それにしても他に理由がある気がする。
勇者の隣にいたから。それは、現在城に十数名はいる令嬢付きの探索者の内、彼を特に嫌う理由だろうか。
クロードは、一瞬動きを止めて、毛布を完全に引き千切る。
二つに分かれた毛布を縛り、手近な寝台に投げ込みながら、思う。
何よりその変化が、部下たちに起きているのが問題だ。
妬み嫉みは人の常。しかしながら部下たちは、普段はそのような態度をとることはない。仮に心の奥にあったとしても。
しかし、それが噴出している。
何者かの意図が働いている気がする。どこからか、どれにたいしてかもわからないが。
自分も遭遇した喧嘩。あれは『結果』なのだろうか。それとも、『原因』なのだろうか。
「だから、俺が奴と舞うんだ」
カラスの『嘘』からして、おそらくここで起きた殺人は本当にカラスの手によるものではないだろう。なのに、カラスはここにいた。そして、自分はここに来た。
今日行う予定の余興演武の命令。その命令元は定かではない。
昼にクロードも聞いて回ったが、舞踏会の準備や段取りをつける者たちは皆『自分以外の誰か』だと推測していた。
命令がどこから出たのかもわからないのはよくある話ではあるし、何かの会で余興として水天流の舞があるのも珍しい話ではない。
だが今回のような場合、本来ならば断る話だ。こういったときは大抵派閥間政治があり、そしてクロードはそんな思惑に乗る気はない。これまでも、これからもクロードは派閥間政治に関わる気は毛頭ないし、関わっていないからこそ第三位聖騎士団長エーミールとの対照的な発言権の低さがある。
しかし、演武をする理由が出来た。
カラスにまつわる部下たちの反感。それを解消する絶好の機会だ。
作られた流れに、何者かの思惑を感じる。その何者かは派閥間ではなく、もっと別の何かを見ている気がする。
ならば、乗ってもいいだろう。自分にここまで考えさせた、その行動に敬意を込めて。
何より、楽しそうだ。そんな気がする。
「お前らでは万一の恐れがある」
「……では?」
クロードの言葉に、ジグはその意図を察する。それが真実かは置いておいて。
「勇者に見せるんだからな、どちらかは剣にしなくちゃいけないよな?」
ハハハとクロードは快活に笑う。
「俺は槍、とするとカラスが剣か。共に武器を持ち、即興で踊るんだ。……事故くらい、起きるかもな?」
声なくわずかな仕草で、ジグは噴き出す。
その『事故』の光景を想像して。
「わかったら、さっきの逃げた男の捜索、カラスの証言を加えるよう連絡してこい。長髪痩身、茶色混じりの黒髪」
「了解しました」
敬礼をして、ジグは駆け出す。
その後ろ姿を見送り、クロードは溜息をついて「さて」と呟いた。
「ええと……ええと?」
クロードたちから少しだけ離れた廊下を歩いていたアネットは立ち止まり、その奥を覗き込もうとする。
壁に灯る火の明かりしかない中、少しばかり違和感を覚えた。
もうそろそろ決着はついているはずだ。
そうアネットは思っていた。
アネットがカラスと知り合ったと聞いたオルガが、協力を求めてきたのは今朝だった。
その事情を聞いて、アネットも驚いたものだ。
もちろん彼女も、二人が知り合いだとは思っていた。なにせ、片やザブロック家に付いた王宮の使用人。片や、ザブロック家に雇われてこの王城へと入った探索者。この王城で知り合い、顔見知りでないはずはない。
しかし、求婚をした側された側。そこまでの深い仲であろうとは思いもしなかった。
そして、その話を聞いてアネットの血が騒いだ。
もともと下男下女を含むこの城の使用人たちは、刺激に飢えている。特に、人の色恋沙汰は面白いものだ。自分がそこに関わらないのであれば。
前回に関しては詳しい話はオルガは語らなかった。しかし、次に会ったときにその話をすると約束していることはわかった。
少し離れた時間のうちに成長し、更に美しさを増した男。きっと自分の知らないところで、知らないことを知ってしまっているのだろう。
どうすれば、以前のように笑顔を交わせるだろうか。どうすれば、彼の好きな人になれるのだろうか。そんな心配に、二の足を踏んでいることを知った。
ならば自分の出番だ。
この城に来て知り合った友人のために、一肌脱いでやろう。
どのように声をかければいいのかもわからず、その手を伸ばせない友人のために、その機会を作ってやろう。
そう袖まくりをしたのは昼のこと。
なに、男というのは割合単純なものだ。
押し倒せば上手くいく。大抵のことは、寝台に共に入ればなんとでもなる。
そう説き伏せて、どうにかしてその場所を考え出して彼らを誘い出したのは夜のこと。
きっと今頃、オルガの願いは叶っていることだろう。
誰か他に想い人でもいない限りは、美人に迫られれば大抵の男は陥落する。ましてやオルガのあの美貌、少々の障害など容易く踏み越えていけるだろう。
そう、アネットは信じていた。
もう、話は付いているだろう。もしかしたら、そこにある寝台でもう少し段階を進めているのかもしれないが……その気配があったら部屋に入らずに早々に立ち去るとして、とりあえず様子を見にいこう。そう時間を潰していた部屋を出たのは先ほどのこと。
だが、どうしたことだろう。
休憩室に戻る廊下は少しだけ物々しい雰囲気に包まれて、槍を携えた衛兵が道を塞いですらいる。
まだ止められてはいないものの、廊下の両端にたつ衛兵は、そこを通ろうとしたアネットを確実に止めるだろう。そういった空気は感じていた。
アネットは自分の襟元を掴んで唾を飲む。
何事か、と心配になる。明らかに何かが起きている。この先で、何か良くないことが起きている。頬を両手で掻いても、何となくいつもと手触りが違っていた。
「……あの……」
しかし、止まっていても何もならない。意を決して、アネットは衛兵に話しかける。
衛兵は兜の下の目をじろりとアネットに向けて、無言で続きを促した。
「何か、あったんですか……?」
「言えない。申し訳ないが、ここは通せない。迂回してくれ」
端的に、静かに衛兵は答える。その答えにまた、アネットは首を捻ることになるのだが。
「でも、あの、この先に友人がいるんですけど、どこの区画まで閉鎖されているんでしょうか?」
「三区画ほど先までだ」
「え、でもそれじゃあ……」
アネットの焦りはいよいよ積もる。休憩室は明らかにその中にあり、その中ではオルガとカラスが人生を決める重要な話をしているというのに。
運が悪い。今まさにそんな重要な話をしているのに、ここで何かがあるとは……。
いや、まさか。
何かがあったのはもしかして、彼ら自身の……。
両手で口を押さえて、アネットは衛兵の言葉に応える。どうしようか、言うべきか言わないべきか。この先に友人がいて、この事態を知らないかもしれないということを。
邪魔したくはない、しかし何かしらの危険があるのであれば。
いや、とアネットは自分の思考を切り替える。
危険がある、のかもしれない。しかしそれにしては騒々しさはない。しかし、物々しさは残り、何か剣呑な雰囲気もする。
ちぐはぐな印象。それが何故か、と考えつつ、アネットは一歩後ろに下がった。
「通していいよ」
「は?」
その衛兵の後ろから、男が現れる。アネットは気が付かなかったが、衛兵も同じように気が付かなかったようで、驚き振り返った槍の石突きが壁を叩いた。
「しかし……」
「連絡が来ていないようだね。封鎖は解除された。この状況は既に解消されている。衛兵は速やかに通常業務に戻るように、と命令がベルレアン団長から出た」
白い上着や襟元の飾緒、それに装備を見れば、聖騎士だ。その場にいた他の三人はそう感じ、姿勢を正した。
「今後の確認は上長にするように。以上、かかれ」
「了解!」
金髪の聖騎士の言葉に衛兵は即座に敬礼を返し、廊下から立ち去っていく。それをどこか困惑している心持ちでアネットは眺めていた。
それから、聖騎士をただアネットは見つめる。
何か違和感がある。しかし、その違和感が全く形にならず、ただその頬に張られた絆創膏を見てぼんやりと『訓練厳しかったのかなぁ』などという場違いな感想を心に浮かべていた。
「きみも、ここから速やかに立ち去るように」
「あ、は……」
そんなときに出された聖騎士の命令に、頷こうとしてアネットは動きを止める。違う、色々と確認したいことがあるのに、と思い直して。
「あの、……」
「ん?」
聖騎士が立ち止まり踵を返す。聖騎士のほとんどに……加えて探索者カラスにも言えることだったが、その動作に対して音が極端に小さいことがいつもアネットには不気味だった。
「この先に、友人がいるんですが……」
「男女二人のことかな? 大丈夫、彼らなら心配ないよ」
「そう、ですか?」
「今頃控えの間に戻っていると思うから、そちらに行ってあげるといい。……多分、心配しているだろうから」
もちろんその『心配』は、彼女の身に関してだけではないだろうが、と金髪は内心呟く。
そんな内心を露知ることなく、アネットは胸を撫で下ろした。
金髪は続ける。そのアネットへの気遣いとして、今後の展開を視野に入れつつ。
「でも、一つだけお願いがあるんだ」
「……なんですか?」
「ここで何か起きたこと、他の人には喋らないでもらいたい。もしも喋る場合は、その『友人』へ確認を取ってからにしてくれないかな。でないときみもその友人も危ない」
「その内容は教えてもらえないんですか?」
喋ってはいけないこと。つまり、秘密。その言葉にアネットの身中の虫が疼く。
もしもここで何かが起こっていたとして、それを知っているのは自分だけではあるまい。もしも喋っても、どこから漏れたのかはわからないだろう、などと甘い考えを抱きつつ。
「言えない。その友人の名誉にも関わっていることだからね。本人が教えてくれるなら別だけど」
そしてその『友人』たちは、必要最低限のことしか喋らないだろう。迂闊なことはしまい、という信頼が金髪にはあった。
友人、という言葉にアネットがわずかに怯む。噂や醜聞を広める際に、すり切れてしまっている良心、それがほんの少しだけ復活し。
そんなアネットを楽しそうに見つめながら、金髪は手を叩いた。そして腰の隠しから、小さな巾着袋を取り出す。
「そうだ、その友人に、これを返してくれないかな。どうやら忘れ物らしくてね」
「忘れ物、ですか? わかりました」
「中を見てもいいけど、意味はわからないと思うよ」
受け取りながら、アネットは早速その巾着袋を触って中の感触を確かめる。硬質な感触、だがしなりがあるということは木だろうか。
木。木材。それが編まれたように重ねられた小さな模型のようなもの。そう感じたアネットは、自らが感じた不可思議な嫌悪感に背中を震わせた。
「わ、わかりました」
「頼んだよ。今後のことは心配いらない、とも伝えておいてくれると助かるな」
出来るだけ触らないように、アネットはお腹の前にある隠しにその巾着を押し込む。肌着越しに触れるその感触が、何か悪いものに感じる。
小さく敬礼をし、金髪の男はまた廊下の奥へと向く。アネットに向けて背中越しに小さく手を振りながら、『次はいい噂を流さないとね』などと考えていた。
小走りで黒髪の男が廊下を駆ける。
アネットと金髪の聖騎士が話をする少しだけ前のこと。
「クソ、クソ……!」
小さく呟きながらも、足は止まらない。その一歩を踏み出す度に、折れた腕が軋んで痛んだ。
鎮痛の点穴と闘気による修復は既に開始している。しかし、やはりそういったものは安静にしてこそ効果が出るもので、息を切らして走りながらではそうそう効果の現れるものではない。
黒髪の男、ジキテオは先ほどの光景、そして自らの身に起きた様々な事象を分析する。
(どうなってやがんだ、毒、か?)
先ほどカラスと相対したときのこと。特に変わったことをされた覚えはない。しかし、意識が飛びかけたそのときのことを。
受けたものとしては、右の鉄槌打ち。それを前腕で受けてから、自らの体を異変が襲った。
音もなく臭いもなく、ただ急激に意識が遠のいた。気付けの点穴が一瞬遅ければ間に合わなかっただろう。毒鈍しの点穴が効果があったのかはわからないが、それでも今現在自分の体に何も残っていないというのも感じていた。
(魔法? んなわけねえよな。攻撃は闘気を帯びていた)
それをジキテオも感じているし、間違えようがない。強大な魔法使いは自らの体を作り上げ、闘気での強化に勝る肉体の強化を実現すると聞くが、それというわけでもない。
ならば、魔道具か。無臭透明なものは聞いたことがないが、紫の毒の霧をまき散らすものであれば戦場で相対したことがある。それに近いものか。
(もしくは、本草学の……)
聞いたことがある。探索者カラスは、エッセンでは潰えてしまい、もうほとんど受け継ぐものもいないはずの炎氏本草学に精通していると。
炎氏本草学の基本は、全毒益毒。全ての物質が毒であり、中には人に有益な毒もあるというもの。その有益な毒を上手く使い、薬に仕立てているというものだ。
それ故に、炎氏本草学は毒の扱いに長けているという噂があった。
(ざまあねえな。もっと勉強しておけばよかったわ)
ハハ、と笑いながらジキテオは自嘲する。彼も、本草学に関しては一家言持っている。
なのに今回対応できなかった、ということから、今回のものは魔道具によるものであってほしいとも願っていた。
ジキテオは、エッセン西部のとある名家の出身だ。
名家といっても、爵位を持つなどしているわけではない。しかし、地元の住民には親しまれている家系だった。
ジキテオの家は、代々優秀な治療師を輩出してきた。
祖父は優秀な準特等治療師、祖母や父は特等治療師。代々その力は受け継がれ、幼い日から聖教会の敬虔な信徒であることを求められるようなそんな家だ。
当然、ジキテオもそうなることを求められてきた。
生まれた瞬間からそうなることを期待され、そして物心つくまでは両親もそうなると信じていた。
だが、その期待には応えられなかった。
彼には才能がなかった。法術の、ではない。そもそも魔力すら持たない子供だった。
不思議なことに、代々受け継がれてきたはずの才能は、彼の世代には受け継がれなかった。彼には弟も妹もいる。しかし誰もが魔力を発現せず、治療師や魔術師になる限界ともされる七歳時にも、その片鱗も見えなかった。
無才とわかってからの彼らの扱いは、想像に難くない。
父や祖母からは毎日のように叱責を受け、使用人たちの彼らへの扱いも雑になっていった。
魔力使いではなく、子供たちに好意的だった母も、いつしか彼らを疎むようになっていった。
『お前たちがまともに生まれてくれば、こんな思いはしなかったのに』と、言われ続けてきた言葉が耳の奥に残っている。
ジキテオに魔力はない。
しかし、それでも彼には願いはあった。幼い日々からずっと聞かされていた物語。聖人たちが無私のまま人を救い、皆が感謝し救われる優しい世界。
聖典の中にしかない理想の世界。
力はなくとも、それを求める両親の呪いだけは、彼の心に残っていた。
その願いのままに、求めた方法。法術の使えない彼が求めたその方法は、本草学と推拿術。魔力ではなく、知力と闘気を使い扱う治療の術である。
間もなく成人を迎える頃だったジキテオは、鍛錬の結果、闘気を身につけることに成功する。そして独自に資料を集め、探索者の仲間相手に練習し、着実にその技法を身につけていた。
薬もなく、道具もなく、それでいて治療効果のある神業。もしも彼が当初の目的通り人のために使おうと思っていたのならば、今頃彼はそれだけで民草に讃えられる傑物になっていただろう。
だが、探索者を続ける内に、いつしかその目的は変わっていた。
通常の探索者にも、点穴を使える者は多い。
しかしその効果は長くても半日程度の一時的なもの、もしくは軽いもので、あくまでも白兵戦時の補助である。
彼は、違った。
戦闘中に行う点穴。その指先で敵の視力を永久に奪い、四肢を麻痺させ、心の臓を止める。治療に使えば推拿術とも呼ばれるそれは、戦闘中でなければ行える者もたまにいる。彼は、戦闘中に敵にそれが出来る数少ない一人だ。
活殺自在の拳法。北のリドニックでも仙術という似たような技法が開発されているが、彼独自のそれは、暗殺拳として恐れられるようになっていた。
廊下の奥から誰かが現れる。
足音を聞かれていないだろうか。そう心配をしながらジキテオは歩速を緩めて即座に息を整える。幸いなことに、血は流れていない。腕の痛みさえ我慢し、普通に歩けば今の自分は単なるどこかの家の使用人だ。
聖騎士にさえ、怪しまれなければ……。
そう痛みを堪えながらその『誰か』の姿を確認したジキテオの顔が青ざめる。
現れたのは、白い外套。そして、細身だが腰に差した剣。
聖騎士だ。
音もなく聖騎士が近づいてきている。自分に注意を向けているわけでもないだろうが、それでもその存在にジキテオは気を引き締めた。
「…………」
聖騎士は廊下の曲がり角から少しだけ歩いたところで足を止めた。暗い中でも、その金の髪が輝いて見えた。
声をかけないでくれ。そう願いながら、その横を通り過ぎる。だが意外なことに、視線を向けることもなく聖騎士はジキテオを黙って見送った。
通った。その安堵に、ジキテオの心臓の鼓動が早まる。
このまま遠くまで逃げれば、なんとかなる。
ビャクダン家からの依頼。割がいいと思った。色付きとはいえ、ただのペテン師の探索者一人を拉致すれば大金がもらえる。拉致した後に予定されていた折檻も補助すれば、更に倍額手に入る。
顎を潰してやりたい。そう聞いて、変な依頼だとも思った。しかし一緒に受けた男も双剣の名手だと聞いて、楽な仕事だと思った。
誰かから聞いた。標的が、下女に誘い出されて女と二人になったと。絶好の好機だと思った。
それら全ての思考に、今ならば否と言える。
これは無理だ。逃げよう。ギルドを通さない裏依頼である以上、違約金は払わずとも良い。
今回の仕事の相棒と、カラスとの戦い。それを見て、もう確信していた。これからビャクダン家からの追っ手が出るのかもしれないが、おそらくあの怪物を相手にするよりは大分楽だろう。
出奔する。ビャクダン家の手の及ばない土地で再起するのもいいだろう。
「……きみは、用済み。逃げるならこの先をまっすぐね」
安堵しつつ、今後のことを考えていたジキテオの耳に小さく声が響く。
先ほどの聖騎士か、と意味を考えることもせずに振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
ジキテオは、無意識に走り出していた。
感じていたのは恐怖。それに、不可思議な寒気。
壁の灯りを一つ越える度、脳裏に様々な記憶が思い起こされる。
とりあえず腕を治すために、点穴を。
心肺能力を上げるために、いくつか薬を。
薬。本草学。最初に学んだのはいつだったか。たしか、十を数えてすぐのことだった。
推拿術に出会ったのはそのすぐ後。すぐにそちらに傾倒していった日々が、昨日のことのように思い出される。
本当は、治療師として働きたかった。
探索者として仲間たちと語らう日々が楽しくなかったとは言わないが、聖教会の中で、仲間たちと研鑽する日々が羨ましくないとも思えない。
何故、魔力が自分には使えなかったのだろう。弟も妹も、普通の人間として成長し、そして老いていった。
まだ父は存命だろうか。それすらも知らないが、きっと生きているのだろう。
父と母の優しかった最後の記憶はなんだろうか。
好物の木の実を焼いた菓子、美味しかったのは……。
曲がり角。
その先を確認しようと、立ち止まって意識が止まる。
何故、今そんなことを考えていたのか。昔のこと、それが必要以上に思い返されている気がする。
いいや、気のせいだ。きっと、気のせいだろう。
曲がり角の向こうから音はない。聖騎士の静かな足音すらないその先には、きっと誰もいない。
確認作業を終えたジキテオは、また足に力を込めて走り出す。
しかし、二歩ほど進んだところで違和感に気が付く。
床が傾きつつある。石の床、なのに向こう側の壁を擦りながら、下り坂のように下がっている。
不可思議な事態。しかし、それに対応しようと足を止めたところで更に違和感に気が付いた。
止まらない。
足が止まらないのではない。体の動きが。その勢いが。
緊急時に広がる時間の感覚の中、視界の中で、ゆっくりと床が近づいてくる。
危ない。慌てて手を突く。
しかしその手も、右手は視界の中に現れたが左手は現れない。
堪えた右の前腕に痛みが走る。骨折が酷くなった、そんな気がする。
次の瞬間、右の肩に鋭い痛みが走った。
突いたはずの腕も功を奏さず、つんのめるようにして顔面が床に衝突する。
そんな最中にも、床の傾きは大きくなりつつある。既に下り坂に『緩やかな』という言葉は付かずに、向こうの壁だった場所、その下には空洞が空いている。
地下へと続く階段。隠し階段か、などとのんきなことを考えつつ、またしても広がる股関節の痛みに顔を顰めた。
体が前に転がっていく。既に、腕も脚も胴に繋がってはいなかったが。
自らの転がる視界。その先に見えた、足首から下しか残っていない誰かの足。
自らの顔の横を通り過ぎる見慣れた手。
膝が、顔を強かに叩く。
階段を転がり落ちていく感覚。
下がっていた床がまた上がり、元通りに戻っていくにしたがって届かなくなる灯り。
(ハハ、なるほどな。……昔のことを思い出すわけだ)
きっとわかっていたのだ。自分は、自分がこうなることを。
暗がりの中、感じる全身の激痛。
それからようやく全身に覚えた血が噴き出す感覚に、ジキテオは自らの運命を悟った。




