閑話:見知らぬものたち
どんな人間も腹は減る。
王城での食事は、皆の数少ない楽しみの一つだ。料理人は一流もしくは一流になるもの揃いで、食材も質のよいものばかり。
街で働く者たちが食堂街や道端で思い思いに食事を楽しむのに似た光景が、時間の揃いがちな朝食と夕食時には毎日繰り広げられていた。
食堂は複数存在し、使用人や王侯貴族、それぞれの身分にそれぞれにしか使えない食堂がある。
いつもより早い夕餉。
訓練場に近い、聖騎士の集う食堂で、テレーズ・タレーランは溜息をつく。
はあ、と溜息をついては、目の前にある苺に金串を刺して一つ口に運ぶ。
楽しい食事ならば食も進もうが、頭の中で反省会を繰り広げている彼女の食は、いつにもまして細くなっていた。
いつもならば、通りかかる部下や同僚も軽く挨拶をするものだが、今日ばかりは声をかけられない。纏っているどんよりと落ち込んだ空気に、皆は遠巻きに気にする程度が精々だった。
「ああ……何故……」
正直、食べる気にならない。酸味のある苺の果汁が口の中で溢れようが、今のテレーズには些細な刺激だ。食事というよりも、食餌。飲み込んでは次の果実を口に運ぶという単純作業に従事していた。
そんな中、その空気に負けずに足を踏み出した男がいる。遠巻きに見ていた部下は、その勇気ある男性が誰かと顔を確認し、安堵と微笑ましさにあえて視線を切った。
「……何かあったのか?」
「…………ん……?」
隣に誰かが座ったのは知っている。しかし、確認していなかった。
そんな誰かに声をかけられたテレーズは、その隣にいた男性の正体を知り表情を引き締めた。
「なんでもない」
「なんでもないはないだろう」
ふふ、と男性は笑う。それから使用人が自らの前に食前酒を置いたのを軽く退けながら、自分たちに向けられている注意への牽制のため、周囲を見回した。
「もっと食わないと体が作られんぞ」
「うるさいな。いつものことだろう。夕食は果実のみと決めているんだ私は」
体を損なわない程度に、朝食と昼食には魚や肉を食べている。しかし、もちろん戦時下や訓練などの緊急時は除いて、寝る前はそれだけだとテレーズは決めていた。
勇者の世界とも違い、栄養学など無いわけではないが発達していない世界。それでも美容のために、と経験則的にわかっていることを背景にして。
腹いせのように、苺をもう一口囓る。今度は何故か、少しだけ味がした気がした。
紅茶を飲むような杯に注がれた汁物を、男性は音もせずに口に含む。
本来は匙で飲むようなそれを杯から直接飲むのは不作法だが、誰も気にはしない。
というよりも、この男性にはそれが許されている。
この食堂での行儀作法はその時にいる最も地位が高い誰かによって規定されるものであり、そして現在その男性、第二位聖騎士団団長クロード・ベルレアン=ラザフォードが最も高い位置にいるからだ。
クロードの服装は、いつもこの食堂に現れるときと同じ。青緑の髪を背中でまとめ、体の線が出る半袖の上着を着る。下衣は隠しの多い深緑の綾織りの綿布。
その動きやすい服装に、今日もおよそ訓練後であろうとテレーズは推測したが、それでも汗臭さが微塵もないのが彼女にはいつも不思議だった。
「……勇者の様子はどうだ?」
「…………」
次の料理を待つ間、という手持ち無沙汰を埋めるように、クロードはテレーズに尋ねる。もっとも、それがここに来た目的だったのだが。
彼女が勇者の戦闘訓練の担当ということは知っている。勇者に関する話も色々と報告は受けている。
そしてそれらを差し置いても、沈黙の前に答えは知れている。先ほどからの様子から返答までも推測して、それでもクロードはテレーズの言葉を待った。
残り四つの苺。そのうちの一つを噛み砕いて飲み込み、それからテレーズはようやく口を開く。
「……芳しくないな。訓練に参加した彼を、私は追い出してしまったよ」
はは、と笑いながら、冗談めかして言う。だが、その目が楽しげではないのが、クロードにはよくわかった。
「勇者が乗り気ではないのは知っていたが、あれほどとはな」
「…………」
今度はクロードが口を閉ざす。その雰囲気に前菜を供しようとしていた使用人は足を止めるが、ただ目でそれを促しながら。
「手抜き試合をされて。どうにもいつもの癖で怒ってしまった。彼は聖騎士でもなく、騎士ですらなく、彼の話では元の世界では一般人だったというのに」
武を修めている形跡がある、というのは言い訳になるだろうか。そう自問して、いいや、と内心首を振った。
もしも心得があろうとも。
「わかっていたはずだが、考えてみればやはり当然なのだな。知らぬ場所に突然連れてこられて、自分たちのために戦えなどと突然言われれば抗うのが当然だ。私だっておそらくそう思う」
膝の両側に手をついて、俯いてテレーズは苺を見つめる。何となく食べる気が失せて。
「それを、あんなに感情的に……」
ずん、と肩に何かが乗った気がした。自分は何をやっているのだろう。自分たちへの無礼など、今は寛恕すべき理由があるのに。
勇者へ言い直した言葉。その後半の言葉だけが何故出てこなかったのだろう。言わざるべきことは、言わざるを得ないまで待つ。それが出来ない自分は、本当に思慮が浅い。
そう、失点だけを心の中で並べていった。
「いや、すまんな、いきなり愚痴などを……」
「構わん」
その程度の度量すら持たず、人の上には立てない。順位の入れ替えがある以上直接下というわけではないが、今ならばそういうことも出来よう。クロードはそう思っていた。
鴨の皿に舌鼓を打つクロードを横目に見つつ、テレーズはまた溜息をつく。
「また出たな、このいい格好しいが」
「事実格好よければ問題あるまい」
大柄な体を器用に小さくまとめるように、小さな肉片を口に運ぶ。そんな様に、わずかに『格好いい』とは別の感情を覚えて、テレーズは小さく首を振った。
「しかし、そんなに嫌ならば代わるが? 勇者の戦闘訓練など、俺でも出来るだろう」
テレーズの反応を意に介さず、クロードがそう申し出る。純粋な善意だった。
俺でも出来る、とは言う。だがむしろ、その点に関してはクロードの方が専門ではあった。
しかし、テレーズは首を横に振る。
「……魅力的な提案だが、断る」
「何故だ? 王城内の警邏が不満か?」
「これは私が陛下から任された仕事だ。途中で放り出すなど、私が私を許さん」
「強情だな」
フフ、とクロードが微笑む。いつもの調子が戻ってきた、と。
テレーズが苺を二つまとめて口に運び、片頬に寄せて噛み砕く。
「まあ、剣を握ってもらわねば何も出来ないのだがな」
「そこはミルラ王女の仕事だ。気にすることはない」
テレーズの仕事は、勇者が訓練場に現れてから。そこまではたしかに王女の仕事だろう、とクロードは気遣いの言葉をかける。ミルラへの感情がそこに含まれていたのを、本人も誰も気づかなかったが。
「いっそ、剣だけ与えて魔物の巣に放り込んでしまおうか。そうすれば、どれだけの意気地なしでも剣を握るだろう」
「それは……やめたほうがいいな」
「冗談だ」
そう、半分は、冗談。
苺は最後一つだけ。それを口に放り込みながら、テレーズは笑う。口の端に垂れた赤い汁を指で拭い、舐めれば濃厚な味がした。
「それではな」
食事も終わりだ。良い気分転換も出来たことだし、明日からも頑張るとしよう。
そう決めたテレーズは食器をまとめて席を立つ。
しかしその足を踏み出す前に、クロードがまた口を開いた。
「勇者の訓練担当。本当ならば〈孤峰〉に回されるはずだったのは知っているか?」
「……いいや?」
第八位聖騎士団〈孤峰〉。テレーズたち〈露花〉よりも位階は下で、団長は双戟を手に戦う勇猛果敢な男だった。
しかし、何故? テレーズは首を傾げる。彼らに回される仕事だったというのならば、それが中止されるに足る理由があったのだろうか。だとしたら、少しだけ腹立たしい気もしよう。
「お前たちに仕事が回ったのは、エーミールの推薦らしい」
「あの男……」
テレーズはエーミールの顔を思い出す。黒眼鏡の下の目はほとんど見たことがなく、ただニヘと笑う顔しか思い浮かばないが。
溜息をこぼす。その意味の不明さに。
「何を考えているんだ、エーミール殿は」
「わからん。だが、〈魔術師〉エーミール・マグナの推薦だ。おそらく、間違ってはいないだろう」
空いた皿を脇に寄せ、クロードは使用人に目配せをする。そして慌てて駆け寄ってくる使用人が皿を回収しようとするのを笑みを浮かべて見ていた。
「エーミールは唯一勇者召喚に反対していたからな。俺やお前と違って、きっと何か考えがあるんじゃないか」
「それは、私も……」
クロードの言葉に反論しようとして、出来ずにテレーズは口を噤む。
聖騎士団長の半数ほどは、勇者の召喚に消極的な反対をしていた。もちろん王の意向に逆らうことなど出来ずに、ただ遺憾の意を匂わせるだけに留まっていたのに。
しかし、第三位聖騎士団長のエーミールだけは。
たしかに、彼だけだった。
「まあ、だから頑張るといい。俺がただ励ますよりも、やる気は出ただろう?」
「…………」
クロードに悪気はなかった。
しかし、テレーズの顔にわずかに不機嫌さが浮かぶ。
「……余計なことを」
せっかく人が、いい気分になっていたというのに。
「何か言ったか?」
「なんでもない」
しかしまあ、いつものことだ。そう一人納得したテレーズは、それ以上クロードに何も言うまいと口を閉ざした。
「ぅるせえな!」
これで本当に話は終わりだ。そう聖騎士団長二人が納得したその直後。
食堂の隅で怒号が飛ぶ。二人がそこに目を向けると、一人の男がもう一人の金髪の男の襟に手をかけ、今まさに喧嘩が始まりそうなほど剣呑な雰囲気があった。
「何だよ? 俺おかしなことは言ってないだろ?」
「うるせえ! 黙れって!」
喧嘩に物見高く集まる習性は、どの社会階層でも変わりはない。
食堂にいた十数人が一斉にそちらを見て、何事かと眉を顰めた。
金髪の男が掴まれた襟を強引に引き剥がす。そして不快感を殊更に示すよう、大きな動作で襟を正した。
「皆も思ってることだろう、なあ?」
そして、周囲を見渡し、適当な聖騎士に尋ねる。ほとんど話を聞いていなかった彼は、曖昧に首を傾げるだけだったが。
「てめえ……」
「待て待て、どうした」
歩み寄りながらテレーズが止めに入る。間を割って入ったわけではないが、それでも声をかけるだけで視線は再びテレーズに集まり、皆の視線は二人の男とテレーズの間を往復した。
「団長……」
怒っている方の男は、テレーズの部下だ。もう一人の男に見覚えはないが、聖騎士団は全員合わせて四百人以上の大所帯。見覚えがないものもいるだろうとテレーズは納得した。
「何があった?」
テレーズの姿を確認した男は、身を正す。
「申し訳ありません。話をしている最中、少しだけ、興奮してしまいまして……」
「何の話だ?」
クロードもテレーズの横から問いかける。目上の二人に視線を向けられ、男がより一層緊張したのがその場にいる誰の目にも明らかだった。
「いえ、お二人を煩わせるようなものは何も……」
「俺は、何の話をしていたのかと聞いている」
誤魔化そうとする男に、クロードは再度問いかける。本当に怒っているわけでもないが、それでも発したわずかな怒気に、周囲の皆も緊張に巻き込まれていた。
「……こ、この男が」
「この男が?」
「あの体たらくな勇者が重用されそうなのは、王から私たちへの信頼が失われているから、だと……」
言いながら男はちらりと金髪を睨む。実際に吐き出された言葉よりもかなり穏やかな表現になっているが、それでも言っている最中に怒りが湧いた、
その言葉が事実無根だったから、ではない。
確かに皆が、そう感じていたからだ。
クロードが金髪の男に視線を向ける。その頬に大きな褐色の絆創膏を貼った聖騎士は、自分の番だと口を開いた。ふてくされた表情をわずかに滲ませながら。
「団長は、今日の勇者殿の稽古の様子をご存じでしょうか」
「……見たわけではないが、様子は聞いている」
「勇者殿は、戦争のために召喚されたはずなのに。しかし、その気もなくただ今のところ城で禄を食んでいるだけ。そんな……いえ、勇者殿が重用されるということは、そういうことではないかと」
「王からの信頼……か……」
クロードは金髪の言葉を繰り返す。見覚えのない男の言葉ではあるが、周囲の雰囲気に、それが皆の総意でもあるとひしひしと感じていた。
「勇者殿もそう、そして現在貴族の令嬢たちは、皆思い思いに私兵を連れてここに来ている。探索者のような者たちまで駆り出して……。それは、警邏担当たる第二聖騎士団のことも、…………」
それ以上言えない、というふうに金髪は口に手を当てて言葉を止める。
そしてその言葉は、今まで穏やかな雰囲気で見ていた第二聖騎士団員の心の澱もわずかにかき混ぜた。
「失礼ながら、団長はどうお思いですか? 今まで私たち王城を、国を守護してきた私たちを差し置いて、勇者殿が重用されるこの現状は……」
「……あまり気のいいものではない」
クロードは静かにそう答える。本心だ。しかし、その理由が戦力以外にあることもわかっている。いつか勇者は召喚されるだろうと、エーミールと酒を酌み交わしていたときに話していたこと。
しかしそれでも。
「しかし、王への疑義は思っても口には出すな。俺たちは王と法の剣。剣が向けられる相手を自分で選ぶことはあるまい」
「…………」
不満げに、金髪は口を閉ざす。
その彼の気持ちがわかると、テレーズは思った。
勇者も探索者も、結局は外部の人間だ。
王国には騎士も聖騎士もおり、そして王城警邏にも聖騎士団が携わっている。
なのに戦力を足す以上、それは今の戦力では不足しているから、という判断だろう。
金髪の男を視界でぼんやり捉えてそう考えていると、今日見た男の姿が思い浮かぶ。
勇者、そしてその近くにいた探索者。
その二つが偶然揃っていた光景。その光景を思い返し、たしかに、とテレーズは強くその考えを肯定した。
「……お前たちの不満はわかるつもりだ。今日のところは不問に処すが、次には処罰があるから覚悟しておけ」
「…………っ!」
怒っていた男は慌てて、金髪の男はしぶしぶ、という風情で頭を下げる。
「…………」
「と、俺が決めて良かったか。いいよな?」
「……? あ、ああ……」
部下たちの不満の慰撫。自らの苛立ち混じりのそれをどうしようかと一瞬考えていたテレーズは、クロードの確認に遅れて頷き、ぼんやりと二人の男を見つめていた。
その様に少しだけ危うげなものを感じたクロードは、頭を掻きながら食事に戻る。
パラパラと散っていく聖騎士たち。
その中で金髪の男の姿が見えなくなっていたのを見て取り、わずかに警戒心を強めた。
同時刻。
王城の王女居住区画にて、二人の女性が向かい合っていた。
一人はもちろん、現在王女居住区画を独り占めしている女性、第一王女ミルラ。
勇者への対応を、と悩みながらも、小休止しようと紅茶を嗜んでいた。そんな中突然訪れた一人の来客。
入城許可がある、と見せられた紙はたしかに王城発行のもの。ならば信用のおけるものであるし、気分転換にも良いかもしれない。そう感じたミルラは、何となくその来客を断る気にはなれなかった。
部屋の中にいるのは、聖騎士とも別系統に属する姫付きの警護。それに、侍女アミネー。
彼女らを背後に、ミルラは紅茶をまた一口含んだ。
「占い?」
「そう、私はそれが得意でしてね」
招かれた女性が、ミルラの問いに応えてそう口にする。
「困っていることがあれば、何なりとご相談いただきたく思います」
占い。ミルラはそんなものを信じてはいない。
けれども何の糸口も掴めぬ今、一時の戯れとして、そして何か助け船になるかもしれない。
そんな内心を読み取り、占い師の微笑みはわずかに強くなった。




