問題として
訓練が再開される。皆こちらを気にはしているものの、テレーズの命令には逆らえないのだろう。一応は身を入れて、稽古試合を始めていく。
勇者の相手をしていた女性は手持ち無沙汰に立ち尽くしたが、元々ここにいる団員は偶数だ。一組だけ三人で組んでいたところがあり、そこの余りと合流し向かい合って急ぎ頭を下げた。
「勇者様……」
その光景を見られないようで、目を背けていた勇者に、ミルラが一歩近づく。
ミルラの気配に足下から視線を上らせてその顔を見た勇者は、悲しそうというか悔しそうな顔で、静かに笑った。
「……聞いたとおりです。ごめんなさい、俺、部屋に戻ります」
「…………」
歩き出した勇者をミルラは止めようとするが、何も言えずにただ手を空中に泳がせる。慌てたように女官たちが勇者に駆け寄るが、勇者はそれを一瞥もせずにただ訓練場から廊下へと入っていった。
ミルラは一瞬追おうとし、何かに気がついたように僕らの方を向く。僕ら、と言っても主にルルだが。
未だに訓練の声は響き続けている。
「……本日はお帰りください」
ミルラの言葉にルルはただ会釈で応える。それから僕とサロメに指示を出す代わりに視線を巡らせた。
僕とサロメが頷く。それを確認し、ルルはミルラに向き直る。
「失礼いたします」
「ごきげんよう」
ルルが一歩踏み出して、それに僕たちが追従しようとサロメと僕が視線を交わした直後。
先んじて廊下へと足を踏み入れかけていたミルラが「ああ」と振り返る。
「今日この場で見たことは、勇者の名誉のために他言なさらぬよう」
「……承知しております」
静かにルルが答えるが、その答えが気に入らなかったのか、ミルラは左肘の辺りを右手で掴み、落ち着かない様子で視線を左右に走らせる。
それから一拍の後、また口を開いた。
「それから……そこの、探索者」
「……?」
探索者、といえば、この場には一人しかいない。
ルルも微かに驚きを纏った顔で僕を見て、僕は僕で驚いていた。
何だろうか。
嫌々ながらという感じが非常によくわかる仕草のまま、ミルラが呟くように尋ねてくる。
「名前を聞いておきましょう」
……ええと、こういう場合は普通に答えていいんだっけ。それともルルの言葉を待つんだっけ……?
一瞬待ったが、ルルが口を開かない。ならば多分いいんだろう。
「……カラスと申します」
「覚えておきましょう、カラス、ですね」
舌打ちでもしそうなほどの苦々しい顔を隠しながら、ミルラが笑みを浮かべる。僕は会釈をして言葉を待つが、ミルラもそれ以上何も言わない
なんだ、いったい。
「それでは、ごきげんよう」
そして結局何も言わずに、ミルラは廊下へと早足で駆けていく。勇者を追ったのだろう。
「私たちも、戻りましょう」
「はい」
ルルがサロメに声をかける。ただ、その仕草はまるでサロメにだけ言っているかのようで……。
足を踏み出そうとしたサロメ。だが、ルルの方が動かずに、僕の方を向く。
怪訝な顔をして立ち止まったサロメに、動かないルル。もちろん僕も黙ったままで、背後から試合の音が足捌きの様子までよく聞こえた。
それからゆっくりと、ルルが口を開く。
「カラス様は……」
言いながら、ルルが服の腿部分の生地を掴む。
「勇者様と、お知り合いだったんですね」
「…………」
正直ギクリとしながらも、平静を保つように表情を作る。どこでバレたんだろうか……と考えても、所々で向けられていた勇者からの視線くらいしか思い当たらないのだが。
そして、話していいことだろうか。少しだけ迷ったが、それほど迷う間もなく僕の口が自然と動いていた。
「いいえ」
「…………どうして」
僕の答えを値踏みするようにルルが目を細めて、そして溜息をついた。
「どうして、嘘をつくんですか……?」
「…………」
僕は何も言えずに黙り、唾を飲む。
何となくルルに詰問されている気分だ。いや、気分ではなくそうなのかもしれないが。
よく考えれば、真実を話してしまってもいいのではないだろうか。
勇者と昨日の夜話した。情報交換としてオトフシにもそれは伝えているのだ。その程度、ルルやサロメ程度ならば話してしまっても問題はない。
「……実は」
「行きましょう。ごめんなさい、変なことを」
僕が口を開いたのに気づかないようで、ルルは僕の言葉を遮り踵を返す。
歩き出したルルに何も言えず、サロメに視線を送っても首を振るばかり。
僕も追うように歩き出す。
知らぬ間に交代の時間だったらしい。オトフシの紙燕が訓練場の空から舞い降りて、背後から僕の肩に留まった。
「なるほどな。妙に雰囲気がおかしいと思ったら、そういうことか」
部屋に戻った僕らはオトフシとも合流し、またいつもの体制に戻る。僕は一応休憩時間だったが、オトフシに付き合うようにまた玄関と居間の中間地帯に残っていた。
そして、先ほどのことを話す。話すといっても、さすがに声には出せないので口の動きでの会話だが。
「嘘つきだ、と責められましたよ」
「外れてはおるまい。実際、勇者と会っていたのは確かなのだからな」
ふふん、とオトフシが笑う。長袖の中の寸鉄を弄ぶように取り出してはしまって、その感覚を確かめていた。
そして取り出した寸鉄の柄をつまみ指先でくるくると回す。
「……しかしまた、嘘、か」
「ええ」
『嘘』。昨日も出た言葉で、そして今日僕が言われた言葉。
やはりあの時はミルラに向けた言葉で、そして今日は僕に向けた言葉なのだろうか。いや、間違いなく今日のは僕に向けられた言葉なのだが。
「なるほどな」
オトフシは溜息をつく。それもこれは、嘆いているわけではなく納得の息か。
「やはり、ルル嬢は市井に戻りたいわけではないらしい」
「え?」
前方に投げるように、オトフシが袖を振る。手の先に先ほどと違う刃物が出てきたが、投擲用らしい。細い刃で、掴んで切る用途には使えまい。
「市井に戻りたいのではない。ここが、嫌なのだ。今現在いるこの社交界に身の置き場を見いだせず、苦しんでいる」
「たまたま逃げ出す先が市井になっているだけだと」
「そうだな。おそらくルル嬢としてはどこもいっしょなのだ。市井でも家庭でも、どこぞの工房でも、それこそ娼館でも、『ここ』ではない。それだけが重要なのだろう」
「でも、何故……」
逃げ出したい。それは僕にもわかるけれど。そしてイラインの時代を懐かしんでいたからこそ、先ほどの回廊で勇者に昔の絵を見せたいと言ったのだろう。
しかしそれが何故なのか。母親も義母も振り切って、逃げ出したくなるほどの理由がわからない。
「その理由こそが、『嘘』なのだ」
小さな黒い刃物を僕に向け、オトフシはそう言い切る。声が出ていれば、啖呵を切っているかのようにも思えたかもしれない。
「妾たちは嘘つきなのだ。ルル嬢にとってはな」
「嘘……」
いやまあ、ルルにとってではなく、勇者の件に関しては僕は確かに明確に嘘をついた。
しかし、妾たち、といえばオトフシもか。いや多分、この『自分たち』には僕以外も含んでいる。
オトフシは僕を見てニッと笑う。友好的で、街中で遊びにでも誘うような顔色で。
「『笑うな』とは、そういう意味なのだろう。ルル嬢の周囲には、いつも嘘で溢れている」
「そういう意味とは……ああ」
脈絡もなくて一瞬わからなかったが、瞬時に笑顔を戻し、いつもの嗜虐的な笑みに変えたオトフシを見て僕もようやく思い至る。
今の笑顔が、嘘。
背もたれに背中を預けて、懐かしそうにオトフシは目を細めた。
「笑顔を嘘と思うわけでもないが、妾にも経験がある。ある日突然考えるのだ。『目の前の人間は、実は自分をバカにしているのではないだろうか』と。そしてそれが過ぎれば、周囲の人間が皆自分を嘲笑っているように見える」
「思春期……年頃にはよくあることでは」
「そう、誰しもによくあることだ。けれどもその時には、耐えがたい苦痛に感じる。笑えなくなる」
「…………」
オトフシがまたフウと溜息をつく。今度は納得ではない、嘆息だ。
「まあわかっていたことだが、やはり妾にはどうにも出来ないことだな。いくらか手立ては浮かぼうが、全てはルル嬢の気の持ちようでどうとでもなる話だ」
さらりとオトフシが髪の毛を払い……そこで手の先に針が出現するのは本当はおかしな話な気がするが……その針をまた髪の毛の中に収納すると、暗器の点検は済んだのか揃えた膝の上で手を重ねた。
「しかし、感心したぞ」
「何をですか」
感心、という言葉とは裏腹に、オトフシはニイと嗜虐的な笑みを強める。
「確かにこの依頼、レグリス様の依頼動機はルル嬢の顔色が優れないことだっただろう。だがしかし額面では、これはただの警護だったはずだ」
「その動機を、直接聞いていますからね」
レグリスが泣きはしていないが涙ながらに話した言葉。ルルが心配で、どうか力になってほしいと。その言葉は嘘ではないだろうし、僕も別に何か手が貸せるのならば吝かではない。
「言われたんですから気にしておくのも不思議ではないでしょう」
「だが、そこまで気にする必要はないだろう。重ねて言うが、額面ではただの警護だ。お前も気にすることはあるかもしれないが……昼食を抜いてまで、妾に相談するとはな」
「…………あ……」
そういえば。
昼食。それを聞いて、突然僕の胃腸が動き出した気がする。
そういえばまだ僕は昼食前だった。オトフシが早めの昼食を終えて合流したというのに、……ああ。
「……僕、食事に行ってきますので」
「そうしろ。もとより、夕方までのお前の休憩はそのためにある」
「あとよろしくお願いします」
立ち上がり、仕切りの向こうにいたサロメに目配せをする。
サロメも頷きで返してきたので、問題はないだろう。僕は少しだけ頭を下げて、部屋の扉を少しだけ開けた。
賄いの質はやはり段々と落ちてきた気がする。
満腹を抱えて僕は食堂を出るが、やはり使用人用の賄いは、味も量も最初期には及ばない様子だった。もちろん量は僕が食べきることが出来る量ではないので問題ないのだが、厨房にちらりと見える大鍋の様子を見るに、おそらく使用人たち全員の分は賄い切れまい。
味に関しても、おそらく量が減った分今まで賄いにすら出されず廃棄されてきた食材を使い出したのだろう、まずいわけではないが変わった気がする。スープに入っていた人参や葱にあるべき味がないような。いや、それでも美味しいの範疇に入っているので何か言うのも贅沢な気がするが。
むしろ、今までが豪勢なものだったのだろう。貴族令嬢令息が食事するために料理の量が多くなり、賄いの食事も贅沢なものだった。
多分今食べているものくらいが、いつも料理人たちが食べているような賄いだったのだと思う。官吏たちに出されているものよりも少しだけ質素な食事。まあこれでも美味しいし、文句は言うまい。
僕も含めた使用人たちが使う通路。王宮の普通の廊下を普通の道とするならば、ここは裏通りといった風情だ。
そして、裏方の通り道。
「すみません、通りますー!」
横を大量の服を抱えた僕と同年代の下女らしき女性が通り過ぎる。僕の後ろから来たということは、運んでいるのは料理人たちのコックコートか。これから洗濯をし、干す作業もあるのだろう。
その抱えている布の一枚がひらりと落ちる。台拭きらしき湿った布には、ソースの染みがついていた。
それに気づかないようで小走りで走る下女に、僕は声をかける。
「落ちましたよ」
「えっ……!」
下女は振り返りざまにまた数枚の今度はコックコートを落とす。台車か何か使えばいいのに。
「えっあっ……!!」
散っていく荷物にあたふたとしている彼女に、とりあえず台拭きを差し出す……が、手が出ないようなのでとりあえず抱えていたコックコートの上にそれを置く。
「あ、ありがとうございます!」
「いえ」
落ちたコックコート二枚も軽く畳んで差し出すと、持っていた荷物をいったん片手と片膝で支えてから、僕からの荷を受け取った。
「気をつけてくださいね」
「はい!」
彼女の仕事なので手伝いはしないが、それでも気は悪くしていないらしい。ぺこりと頭を下げて、下女は小走りで駆けていった。
その後ろ姿を見て、僕は先ほどのオトフシとの会話を思い出す。
考えるのは、『笑顔が嫌い』ということ。
今僕は多分、荷物を落とした下女に向かってわずかに笑みを浮かべていた。
しかし、楽しかったわけでも面白かったわけでもない。
これはただの愛想笑いだ。ただの、コミュニケーションを円滑にするためのもの。
ルルは、この笑顔が嫌いなのだろうか。
この笑顔が、嘘だから。
偏屈だというわけではない。そういう人もいるのだろう。
けれども、仮にその愛想笑いが嫌いなのであれば。
今は『ここ』が嫌だとオトフシは推測した。この貴族社会、どこもかしこも愛想笑いで溢れている。
しかし、愛想笑いが嫌いということであれば、その対象は『ここ』だけではなくなるのではないだろうか。
人と人が接する場。そのほとんどで、愛想笑いは使われる。
怒っている人よりも笑顔の人の方が親しみやすく、悲しんでいる人よりも笑顔の人の方が接しやすい、というのがおそらく大多数の意見なのではないだろうか。
ならばきっと、ルルは仮に『ここ』から離れたところで、その苦しみは続いてしまう。
いやまあ、オトフシの言っているとおり、一過性のものといえばその通りなのだろう。
思春期の情緒不安定な時。そのときに、たまに起こりうる一過性の変化。
もう少し経てばその嫌悪も落ち着いて、レグリスの知っている前のルルに戻るのかもしれない。戻ることが、良いことばかりとも言いきれないが。
しかし、ならば何故…………。
登城初日の夜を思い出していた僕。
その背後から、接近してくる影に気がついたのは、おそらくいつもよりは一瞬遅かったと思う。
左後ろ。誰にも不自然に思われないような速度で、やや早足で。
「二つ目の廊下を右に曲がって、次の階段を上るよ」
囁き声がする。
そういえば、この男とも話しておきたかった。
勇者に、ルルに、と問題は山積みだけれど、一つずつ片付けていかなければ。
「僕はどこへ連れていかれるんでしょうか?」
「なに、ぼくの隠れ家だよ」
視線を向けずに問いかけると、からかうように言葉が返ってくる。
ちらりと後ろを見れば、そこにはいつもと違う服装、野良着のような物を着たレイトンが、忍び寄るように歩いていた。




