ファーストコンタクト
視界が広がったかのように、突然風が強く感じられる。
一歩、また一歩と緩やかに歩み寄ってくる勇者を迎えるように、僕はとりあえずの笑顔を作った。
ゴミのような細かい木の枝が、勇者の足の下で弾けるように割れる。
……色々と、事情が込み入ってきた気がする。
まずは挨拶か。人付き合いの基本。
「これは、勇者様。私のような者に声をかけていただき光栄です」
とりあえずは立礼でいいだろう。それに、彼も今は礼儀は気にしまい。胸に手を当てて頭を下げれば、勇者が息を飲んだ気がした。
「……初めまして。あの……オギノといいます……」
勇者にはまだ緊張が見える。暑くもないが温い気温の中、微かに震えていた。
「ええ。存じ上げております。私も勇者召喚の場には立ち会いましたから」
「あそこに……」
自信なさげに、勇者はただパタリと手を落としたまま僕を見据える。この国における『勇者』の正装なのだろう、学ランのようなものの袖についている金のボタンが、月明かりを反射した。
不敬だろうが、勇者から視線を外してもう一度僕は街の方を見る。何も変わらない遠くの喧噪が、勇者がいてもなおよく聞こえる。
瞬きをして、勇者が口を開いた。
「……ここで、何を?」
「ただの散歩です」
勇者の問いに、端的に答える。理由として、ミルラが今ルルの部屋を訪れていることを言っていいものだろうか。……口止めされている以上、駄目だろう。それを言ってしまえば、一応ルルの信頼も裏切ることになる。
それに、この状況、いくつも考えなければならないことが増えている。
「勇者様こそ、こんなところで何を? 私の言えたことではありませんが、ここは王宮内であれども屋根の上。普通に立ち入るところではありませんが」
「ここにくれば……、話を聞いてくれる人がいる、と……」
「話」
もう一度勇者の方を向き直る。自信なさげにも、彼はしっかりとこちらを見ていた。
「話が出来る方々など、勇者様の周囲にはいくらでもいらっしゃるでしょう」
言いながら、内心首を横に振る。いや、実際はどうかわからないが、そうではないとも僕は確信している。
「…………」
言い返せずに……じゃないな。言っていいことか悪いことかと悩むように、勇者は唇を結ぶ。それから一度唾を飲み込んでから、景気づけのような小さな咳払いを口の中でしていた。
「……誰にも言わないでほしいんですが」
「それが命令でしたら」
言葉の最中に、言い返すように補足する。これも本当ならば失礼なことなんだろうけれど。
それから勇者は、迷いながらも拳を握りしめた。
「俺、勇者なんかじゃないんです。きっと何か間違えて、ここに連れてこられただけの高校生……あ、いや、一般人で」
「…………」
今度は僕が黙り、言葉の先を促す。一応周囲に気を配りながら。
「戦いなんて出来ないし、ましてや戦争なんか出られないのに……、でも……!」
勇者が学ランの胸の辺りを握りしめて、泣きそうな顔で声を上げる。一応この辺りで声を聞いている誰かはいないようだが、響くような大きな声だとどうだろうか。
「誰も、そんなことは聞いてくれなくて……!!」
目を瞑り、それ以上言わない勇者を見下ろし、僕は内心溜息をつく。その溜息の理由は、自分にもよくわからないが。
「……それを……」
それを、今まさに会ったばかりの僕に言ってどうしようというのだろう。慰められた程度では彼も納得しまい。
まさか、僕が彼を助け出すとでも思っているのだろうか。この王宮から連れ出して、どこかへ連れて行ってくれるとでも。
そんなことを続けて言いそうになり、僕も言葉を止める。今彼を責めるべきではないし、彼が責められるようなことをしているわけでもない。ただ、どうすればいいかわからないのも本当だろう。
誤魔化すように、僕は小さく咳払いをする。
「それを、ミルラ王女にも話しましたか?」
「……ええ。ミルラさんも、テレーズさんにも話しましたが、誰も、それが本当のことだとは思ってくれなくて……」
「テレーズ……テレーズ・タレーラン?」
名前を確認すると、勇者はこくんと頷く。この前オトフシにざっと聞いた話では確か、第七位聖騎士団の団長だ。この分では彼と話せる位置にいる……戦闘訓練を受け持ってるとかその辺かな。
しかし、ならば……。
「僕はテレーズ様を知っているわけではありませんが、聖騎士団団長といえば、全員何かしらの武術の達人。彼女が見誤るとは考えづらい」
「だって、俺は……」
「その手を見るに、勇者……オギノ殿も剣術か何かの訓練は積んでいらっしゃるのでは?」
僕が言うと、開いていた手を隠すように勇者が握りしめる。だがもう遅い。召喚の時と比べてもこれだけの近距離だ。もう確信できる位置にいる。その人差し指内側の古傷は、抜刀失敗の時のものだ。
「勇者の世界では官憲が使うのを除く剣術は廃れつつあり、剣術を学ぶとしても専ら竹刀か木剣を使う競技化されたものだと聞きました。しかし貴方の指の傷は抜刀術を含むもの。つまり、競技化されておらず、より実践的な」
「……これは……」
「これは?」
「俺がまだ、未熟なときに……」
言ってから、僕の言葉に反論できていないことに気がついたのだろう。そして、肯定とも取れる反応をしてしまったと、眉を寄せた。
いやまあ、僕も別に嫌な思いをさせたいわけではないのだが。
「ああ、失礼しました。責めているわけでもありません。勇者様はお気づきになられていないだけで、きっと戦う力がある……と私は思っただけで」
きっと、戦えるだけの力はあるのだろう。ハイロやモスク、一般人程度ならばもう問題にならない程度の力はある、と思う。それこそ僕は武術の達人でもないので不確かな推測だが。
そして、それでもなお。
「……そして、それを差し置いてなお、戦いたくないということでしょう?」
「…………はい」
逡巡するように躊躇った後言葉を吐いた勇者を背に、僕は足下にまだいくつか落ちている木の枝を拾い上げる。指先ほどの大きさで、針金のように細い柴の小枝。よく乾いている……音がよく鳴るわけだ。
「しかしそれでも、私の答えはそう変わりはない。やはり他の人間と同じく、『戦ってください』と申し上げるくらいが精々かと」
「……何故、戦わなくちゃいけないんですか」
「…………」
指先で折った枝がパキと鳴った。
「私たちからすれば、貴方は勇者なんです。千年前、魔王を討ち果たして世界を救った勇者と同質のもの……その辺りは、ミルラ様からお聞きになったと思いますが」
「何で、俺、なんですか……」
「それは私にはわかりかねます。私よりも、王宮魔術師の方々に尋ねた方がよろしいかと」
魔法陣の構造は、僕よりももちろん彼らの方が詳しいだろう。おそらくは、もう彼らよりもエウリューケの方が詳しいのだろうが。
さて、まあ困った。僕は頭を掻いて、口の端を見られないように歪める。
オギノ・ヨウイチに戦えとは僕は言いたくない。彼の主観上は突然この国に拉致された形で、そして彼を戦場に引きずり出すのはこの国の勝手な行いだ。
血気盛んな若者だったのならばまあいいだろう。しかし勇者オギノはそれを拒否している。
ならば彼は今、一方的な単なる被害者だ。
しかし、勇者はこの国にとって兵器そのものだ。
彼の意思にかかわらず、戦うことは強制されるだろう。訓練に参加させられ、戦場に引きずり出され、剣を振るうことを求められる。
そしてその戦場にいるムジカル兵は、彼相手にも容赦しまい。
彼に出来ることは、このまま無抵抗に殺されるか、それとも戦うかの二択……まるでガランテの言葉のようだ。
逃げても追っ手がかかるだろう。その場合、右も左もわからぬ彼が、この世界で生活できるかどうかはわからない。
案外何とかなるかもしれないけど。
そして、もう一つの世界に逃がすことも僕には出来る。
もちろん僕はそれもしたくない。また転生者が増える手段など、論外だ。
戦うしかない。戦場で兵士と、もしくは逃亡生活の苦しさと。
帰る手段を探すというのならばそれもいいだろう。手助けはしないが邪魔もする気はない。だがそれでも、いずれにせよ、戦わない解決策はない。
彼は、戦うしかないのだ。
「私からもお尋ねしましょう。勇者様に」
「……何ですか……」
「剣術を鍛えたのは何のためですか?」
ならば、僕は話を聞こう。そして、背中を押そう。
僕の優しさで収まる範疇の行動の内、出来るのはそれくらいだ。
「え?」
「勇者様の国では廃れているはずの技術。それを、何故学んだのでしょうか」
そして、これは実は単なる好奇心だ。
僕がいた頃の日本ですら、もう剣術は廃れ剣道が主だったはずだ。警察すら、使っているのは剣道や柔道などだった。
なのに、推定で僕よりも後の時代の彼が、剣術を学んでいた理由。
時代は変わったのだろうか。
「俺は、ただ……」
言葉を切り、勇者は深呼吸を二度する。言いづらいことか、それとも内心整理しているのか。
すぐに勇者は口を開く。後者だったらしい。
「……うちは、剣術の道場なんです。つっても、父も母も俺が物心ついたときにはいなくて、婆ちゃん……いえ、祖母が一人でやってる道場で、門下生も子供くらいしかいないんですけど」
「家伝のものだったと」
「佐原一刀流……っていっても、そんなマイナーなもの知りませんよね。……いや、この世界の人が知ってるわけないんですけど。何言ってんだろ、俺」
言いながら、力なく蹲る。その顔に浮かんだ苦笑が、今日始めてみた彼の笑顔だった。
「それで、俺も小さいときから何となく、婆ちゃんの朝稽古に付き合ったりとかして、……婆ちゃん、心配してんのかなぁ……」
見下ろすように、弱音を吐く勇者を見つめて少しだけ苦しくなる。
心配しているかどうか、僕は知っている。
もっとも、彼は心配されている方が幸せなのかもしれない。
実際は心配などしていないだろう。孫はいつも通りそこにいて、一日たりともいなくなってはいないのだから。
「貴方には逃げる道はない。それはおわかりですか」
「…………」
「どのみち戦わなくてはいけない。それが何と戦うのかは、まだわかりませんが」
「……?? 意味がよく……」
途中までは沈んでいた勇者の顔が、僕の言葉の途中で困惑へと変わる。まあ、説明も不十分だし意味もわからないだろう。
脳裏に金髪の男性の顔を思い浮かべる。あの男もいつもこんな気分なのだろうか。少し楽しい。
「明日辺り、テレーズ様に申し出ることをお勧めします。『今の自分の力量を知りたい』、とでも」
「そんなの、一番俺が知って……」
「もしも不甲斐ない勇者ならば、見放されると思いませんか?」
「……あ……」
言われて気がついた、というように、勇者は口をぽかんと開ける。
……しかし、言いながら思ったが、それはありえない。よくは知らないが頻繁にこの召喚を行わない以上、何かしらの多大なコストをかけているのだろう。そんな高価な兵器である彼を、そうそう無駄には捨てまい。
ではそのコストとは何か? と考えても、エウリューケの話では供物はとても少なかったし、魔術師たちの労力くらいしか思い浮かばないけれど。あとは期限の問題か。〈運命の輪〉のように、使える周期があるとか。
そして、そうもなるまいという予感もある。
不甲斐ない、などとは決して。
「どうするかはお任せします。でも、ずっと部屋に閉じこもっているよりは、意味のある行為だと思いますけれど」
「もしも俺が……弱かったら、帰してくれますかね……?」
「おそらく無理、とも思います。彼らに貴方を帰すことは出来ない」
仮に勇者が戦いに耐えられないほどに弱くても、きっと鍛える方針を維持するだろう。何せ、子供でも知っているほどに千年前の勇者の英雄譚は強力な印象を残している。
彼が強くなることを、きっと皆が望んでいることだろう。
「でもまあ……本当に戦えないとしたら、そうしたら、逃げればいいでしょう。無理に戦うことはない」
「逃げる……ですか?」
「ええ。逃亡、出奔、好きなように言い換えていただければ」
殊更に笑顔を作り、勇者に向ける。
逃げればいい。今回は僕はそれを止めないし、エッセン国民ではない彼にはそうする権利もあるだろう。
何より、リドニックの白波の事件のようなものはもう御免だ。
「その時は、こっそり私に教えていただければ。路銀ならいくらか用立てますので」
それくらいはしてもいいだろう。元同郷の者として。僕の優しさの限界としてはその辺りだ。
こっそりと勇者の目を見れば、少しばかり光が戻っている気がする。
決意はしたらしい。逃げるために、だが。
蹲った状態から腰を下ろし座った勇者は、長い溜息をつく。
きっと背中を押し終えた。後は歩くのは勇者の役目だ。
「それで、私も勇者様に聞きたいことがあるのですが」
「……何です……か?」
「『ここにくれば話を聞いてくれる人がいる』。そう勇者様に言ったのは誰です?」
「…………」
足を伸ばし、それから僕の方を不思議そうに見る。いや、彼がただその言葉に従ってきたというのも不自然ではあるし、僕がここにいると知っているのも不思議な話なのだが。
だが、勇者は申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさい。知らないんです。ただ、今日昼ごはんの時に使ったナフキンに手紙が添えられてて……」
「名前は書いていなかったのでしょうか」
「うん……じゃなくて、……はい」
「その手紙は、今どこに?」
言いながら、僕はもう一度周囲を探る。今度は魔力波を使い、精密に。近くに魔術師や闘気使いがいたら不審に思われるが仕方あるまい。
「侍女? っていうんですか? 読んでくれた人にナフキンと一緒に持ってかれちゃったんで……」
「そうですか」
僕は内心舌打ちをする。もうそれを見なくても誰がやったかは大体わかるけれど。
誰の差し金かは三択で、そして一つはほぼ考えなくてもいいし、もう一つの選択肢ももう取られないと思って良い。
思考が三日前の召喚の日に飛ぶ。その時に聞いた言葉を内心繰り返す。
なるほど。だからもうその時に、レイトンには収穫があったのか。
ふと、頭上を一羽の小鳥が飛ぶ。……生きていないのに、生きているように見えるのが不思議なものだ。
「……あの、何か……?」
「いいえ、お気になさらず。私の話です」
言いながら、片足だけ屋根から踏み出す。体重をかければ落ちていくが、まだ重心は屋根の上だ。
ひらりと舞い降りてきた小鳥を掌で受け止めると、彼女は止まらずにまたくるりと方向を転換して飛んでいく。そのままどこかの窓から室内に入ったのだろう。
「それでは。晩餐会でお目にかかったときには、知らないふりをお願いします」
「え?」
そろそろミルラ王女も話し終えただろうと思う。談話室に近づく影が一つ。ルルの部屋の中まではさすがに確認できないが、多分そこから人も消えているのだろう。
オトフシの紙燕がここに来た時点で、おそらくそういうことなのだろうが。
前足の力を抜いて、自由落下するに任せる。
ここは二階程度の高さの屋根。すぐそこに地面があるし、まあ怪我はしまい。
「まっ、ここ、二階……!」
勇者が叫ぶ声を聞きながら、僕は空中で体勢を立て直す。
癖で音なく着地すれば、柔らかい芝生が衝撃で少しだけへこんだ。
勇者から逃げるように透明化すれば、屋根から下を見る勇者からは見えなくなる。
彼は驚いたように僕を探し始めた。
その様を見ながら、僕は廊下にまた歩み入る。
まったく、面倒な引き合わせをしてくれた。悩み相談など、本来は占い師の仕事だろうに。
僕はそんなことを考えながらルルの部屋に戻る。
そしてオトフシの説明を聞きながら、勇者に名乗らなかったことを今更ながらに思い出し、少しだけ申し訳なく思うのだった。




