能ある鷹は
「ここから、何かわかるんですか?」
「そりゃもうわからねえわけねえじゃんか、あたしゃこの道何十年の腕前ですぜ!!」
勇者召喚の日の夜。既に皆が寝静まった頃。
僕とエウリューケは、勇者召喚陣の見物に訪れていた。
午後に行われていた王宮魔術師たちの検証や記録も終わり、夜も更ければもう召喚陣の部屋に人はいなくなる。
一応一人は聖騎士が部屋の門の外に立っていたが、門が閉まっているので僕らが忍べばバレることはないだろう。
そして、閉まっている門の突破はもちろんエウリューケの役割だ。どういう機序かは未だにわからないが、彼女の転移魔術ならばこの部屋に直接転移も可能なのだ。
僕らは昼に見た部屋の中で、召喚陣を挟んで向かい合う。
向かい合うと言っても、エウリューケは召喚陣の解析に夢中だったが。
僕は指先に明かりを灯し、エウリューケの補助をする。
彼女は自分の懐から取り出した手帳と召喚陣を見比べて、垂らしそうになった涎を腕で受け止めていた。
「外周部が、多分向こうの世界で勇者のいた位置の特定よね。この辺りが多分」
たまにエウリューケが、召喚陣の一部を指さしながら僕に解説をしてくれる。もっとも、解説されても……。
「僕にはよくわかりませんけどね」
「ちょっとは勉強しなさいな」
僕の言葉に一切の間をおかずに、エウリューケはそう返してきた。
そう言われても、昔盗み見た限りでは、たしか魔法陣の知識は魔術ギルドでもほとんど発展していなかったはずだ。
いや、一応英雄譚の記述から再現する程度の研究もされてはいた。大きな部屋を埋め尽くす複雑な記号を組み合わせて、ようやく微弱な静電気を起こせるかどうかくらいの。
しかしそれも、過去の誰かが考案したものを丸暗記するようなもので、その意味までは誰も考えていなかったはずだし。
というか、そうか。そういえばこれ……。
「これ魔法陣なんですね」
「そうだし……つっても、ちょっと勝手が違うみたいな」
「何が違うのかさっぱりです」
「……うんとねー! 魔法陣って、普通は平面に描くんだけどー!!」
エウリューケが右腕を床に当てる。手首からわずかに覗く入れ墨がざわりと蠢き、掌がわずかに緑の光を発した。
それから、指の隙間や手の周囲から、煙のような光が上がる。
僕やエウリューケの少し上で、その煙が凝集するように一カ所にまとまり始め、そしてまた広がりだした。ただし、緑色レーザー光線がいくつも伸びるように、塊のまま。
「表面だけじゃねえんだ、これ」
「…………!」
レーザー光線が、複雑な軌道を描き部屋を覆っていく。
しかも、それもまた細かい。埃が絡まるように、髪の毛のような細い光が空中で文様を描き出す。
召喚陣の上、空中を中心に、僕らの頭上に光の線が細かな編み目のように広がっていく。それも、立体的に。
「中も……」
驚き声を上げ、指先の光を消した僕。エウリューケはまた力強く頷いた。
「うん。床下に、この部屋の三分の一くらいの広さで埋まってる。細かな文様をヒヒイロカネ……だと思うけど、それで描いてる」
「ヒヒイロカネって……」
「贅沢なもんだねー、これだけあれば、国中の金が買えるんじゃないかい」
部屋の中が、魔法陣の光製模型で埋まっていく。部屋の三分の一くらいと言っていたが、部屋全体を覆い尽くそうとしているということは、拡大されてこれか。
拡大されてなお砂粒のような大きさの記号が、僕の目の前に並んでいる。実際は、肉眼では判別できないくらいの緻密なもの……。
「さっき言った召喚される物体の位置の特定は、……どうなんじゃろ、これ。勇者のいた国の場所って別世界だよね?」
「そのはずですが」
何か問題でも? と言葉に出さずに問いかけると、困ったような声が念仏のように呟かれた。
「……半分くらい、あたしでもわかる。これ、部屋の中っぽいんだけども……この判別不可能な座標が勇者の国……?」
うーん、とエウリューケが眉をしかめて悩む。言われてもわからない僕は、ただ聞いているだけしか出来ないのだが。
いや、それよりも。いやエウリューケの邪魔をする気はないのだが、僕はそれよりも気になっていることがある。先に聞いてしまわなければ、この女性はいつやる気を失うかわからない。
先に聞いておこう。
「位置の特定以外で、勇者の体の設定部分はありませんか?」
「あるじゃろうな。多分……そこらへんに」
エウリューケの指さした空中を僕は眺める。そこにはやはり、四角や丸、そして文字のようなものが集合していた。少し離れているからでもないが、目をこらしても正直何の模様かさっぱりだ。
僕は溜息をつく。
「……やっぱり、僕も勉強が必要ですかね」
言われてもさっぱりわからない。
そもそも昔覗いただけの魔術ギルドの魔法陣すらうろ覚えなのだ。確か当時は丸暗記の手間と起こる事象の不均衡に耐えられず早々に放棄したが、覚えておけばよかっただろうか。
しかし、今日は僕もびっくりした。
ルルも就寝し、使用人たちも寝静まった後のこと。
深夜の来客はないため僕も寝てもいいと、一応不審な物音に警戒しながら寝ようとしていた頃に、僕の脚が突然踏まれた。
目を開けると、やはりそこにいたのはいつもの衣装のエウリューケだった。
扉も開けずに入ってこれる人間を一人知ってはいるが、寝ているときに突然目の前に現れられるとさすがに驚く。特に約束もしていなかったし。
そして、深夜の召喚陣探訪に誘われたのだ。
ちなみに一応オトフシには声をかけてある。彼女は使用人の部屋を使っておらず、どこに寝ているかも知らないので、扉に挟んである護符のような紙に声をかけただけだが。
うひひ、と笑いながら、エウリューケは魔法陣の解読を始めている。
宙に浮かんだ光が一部強くなったり色が変わったりしているのは、今読んでるところか。
それを邪魔しないように……は無理だが、静かに僕は声をかけた。
「……エウリューケさんは、気づきましたか?」
「何に?」
エウリューケは床の魔法陣から目を離さずに、ただ首を横に捻る。話半分だとは思うが、それでも会話をしてくれる気はあるらしい。
「勇者……ヨーイチ・オギノは魔法を放っていました」
「あれ? まあまあ、何となくねー。気づいたやつもあんまりいないんじゃない?」
「何の効果なんでしょうか」
「わかんね。浴びてもねーしい」
声のトーンに興味が感じられない。まあ、きっとそうなのだが。
エウリューケはあぐらをかいて右手を床に当てたまま、左手だけで床に置いた手帳を開いてメモを取っている。いつも右手を使っていたが、両利きなのだろうか。
そして自分の書いた文から目を離さずに、筆を手帳から離して軸を唇に当てた。
「危ねーもんだったらもう被害でてんじゃね? 勇者の様子はどうなのさ」
「予定されていた晩餐会にも姿を見せませんでした。……疲れているからと発表はされましたが、実際は部屋でふさぎ込んでいるようで」
本当は今日、彼のお披露目会があったのだ。しかし、突然中止となった。召喚の間に入れなかった男爵家以下の令嬢令息は勇者の顔も知らないので、そこで本来は顔見せする予定だったらしいが。
「ま、拉致されたみたいなもんなら当然よねー。もっとも、真実は違うものだずに」
「……真実を知ったら、余計に悲しむでしょうし」
エウリューケが筆を止め、僕の顔を見上げる。僕は目を合わさず、離れた床を見つめてその視線をやり過ごした。
「悲しいかや? 自分の代わりに、別の自分が元の世界にいるんでしょ?『わっひゃー! 儂は自由じゃてなフハハハハハ!!』くらいに言わね?」
「前の生活がどんなものだったかも知らないので、その辺はどうとは言えませんがね」
とても苦しいものだったのならば。だとしたら彼は少しだけ救われるのかもしれない。辛いことばかりで希望も持てず、明日なんてこなければいいと願い眠る人生だったのならば、ここへ来て幸運だったのかもしれない。
でも、そうじゃなかったとしたら。
「『今日からお前は別世界で生きてもらう。元の世界では、お前と同じ顔同じ名前同じ性格の誰かが代わりに生きている』……そう言われるの、嫌じゃないですか?」
前段は、僕のような人間にとってはいいことなのかもしれない。だが後段は、仮に幸せに日々を生きている人間にとっては、ただ奪われるだけの悲劇だろう。
明日の夕食が楽しみだったのかもしれない。明日はハンバーグを食べようと思っていたのに、突然景色が変わり、そして誰かに言われるのだ。『美味しいハンバーグは俺が食べておく』と。
「あの若さです。家族も友達もいた。もしかしたら恋人もいたかもしれないし、夢もやりたいこともあったでしょう。でもそれが全て、永遠に奪われてしまった」
「でも、自分が元の世界にちゃんといるんでがしょ? っていうか、本当は勇者のものじゃなかったし」
「それが残酷なんです。『生きていたのはお前じゃなかった』と、そう伝えるようなものですから」
友人と遊ぶのも、夢を叶えるのも、勇者はもともと出来なかった。
慰めのように、それは同じ顔で同じ名前の自分が叶えているよと言われても、現在の記憶や感情を同期していない以上、相手はただの赤の他人だ。
『お前の人生は、俺が生きてやる』と赤の他人に言われて、勇者はどう思うのだろうか。
……ふさぎ込んで部屋に籠もっているというところで、もう答えは出ていると思うが。
「でも……」
「まあもちろん、勇者にとって、よく考えてみたら喜ぶべきことなのかもしれませんけどね」
でも、とエウリューケがまた反論しようとしているのを無視して、僕はまとめる。
そうだ。ここにいて、戦うことさえ決意すれば、『勇者』として歓待される。僕の時代よりも後の勇者の時代の食文化は知らないので口に合うかは知らないが、そこそこ美味しい食事が出る。比喩表現ではなく、この国の王侯貴族の生活が出来るのだ。
仮に苦しい生活を送っていたとするならば、それはきっと、喜ぶようなことだ。
また筆を動かし始め、エウリューケは呟くように口にする。
「…………。別の世界に、別の生き方をしている自分がいる。別のことを考えてるあたしがいる。そんなんあたしなら喜んじゃうけどねー。もう一人そんなあたしがいるなら、話してみたいよあたしゃ」
「……エウリューケさんが二人……」
言われて少し想像する。もしもエウリューケを複製して二人会わせたら、どのようなことになるか。
仲良くなるか、喧嘩を始めるか。案外意気投合するかもしれない。……いや、何となく途中で喧嘩を始める気がする。
「カラス君が二人いたら、どう? 殴り合おう?」
「僕ですか?」
筆を止めて、真面目な顔で僕を見る。何だろう、ぱっちりとした大きな目がちょっと怖い。
ふざけている感じが今はない。これは、真面目に答えなければいけないものか。
「……僕なら……」
想像する。僕がもう一人いたら、という光景。
どこか別の世界で、別の生き方をしている僕がいる。……ああ。
「どうでしょう。仲良くなれるかどうかはわかりませんね」
想像するまでもなかった。知っているのだ、僕はその感覚を。
記憶はない。けれど、僕は確かに違う世界にいる。昭和を生きて……次の年号がちょっと記憶に残っていないけれど、それでも昭和を生きた自分が。
いいや、違うか。
あれはやはり別人だ。どこかの世界で、僕と同じ思考回路と知識を持って暮らしているだけの、別の顔別の記憶別の体を持った人間だ。
だからきっと、仲良くなれるかどうかは知らないが、それでも険悪にはならないと思う。どうせ、他人なのだし。
……しかし、ならば、今の僕ならどうだろう。
今の僕と僕は、仲良くなれるのだろうか。
考え込む僕の顔が曇ったのが伝わってしまったのだろうか。エウリューケが嫌らしく笑って表情を崩す。
「カラス君は無理じゃね? 『バーカバーカ、あたしはお前の知らねえことも知ってんだぞバーカ!』って言っちゃうでしょ?」
「……自分に向かってそれを言いそうな人を一人知ってます」
「誰? あたしその人と仲良くなれそう!!」
「どうでしょうか」
はは、と僕は笑う。冗談で和ませたのか本気かはわからないが、エウリューケの適当さはこういうときに少しだけ救われる気がする。
会話が止まる。大きな部屋に、エウリューケの手帳を捲る音だけが響く。
そんな状況が少しだけ続き、僕も暇になってくる。
見上げてみれば、星空のような魔法陣の光。動くことはないが所々明滅し、緑色の夜光塗料のような光で僕の顔を照らしていた。
……実は勇者の魔法について気になってエウリューケの誘いに乗ったが、エウリューケはわからないという。
なら僕ここにいなくていいんじゃないかな。
とはいっても、帰ることも出来ないのだが。
扉の方を見るが、聖騎士が消えた気配はない。多分、未だそこで待機しているのだろう。この部屋の中で何が行われているかも知らず、それでも職務に熱心に従事しているのだろう。
扉を開けたら間違いなく気づかれる。
眠らせたり無力化しても同じだろう。聖騎士だ、そのような異変が起きれば、この部屋の中を速やかに確認するだろう。
「ほうほう階層を複合させて三種の」
エウリューケを見ても、まあ当然のようにまだまだ終わらなそうだ。
帰してくれと言って帰してくれるだろうか。
一瞬のことだし、手間でなければしてくれるかな。
それにしても。
僕は床に広がる召喚陣を改めて眺める。
誰が作ったか知らないが、よくこんなものを作ったものだ。金属線を編むようにして床に埋め込み、さらにその金属線の形に意味を持たせている。
そして、よくこれだけで勇者召喚のような大それた事を成すものだ。細かなものではあるが、三角や四角といった単純な図形が、交差や合流などで形を作るだけで魔力を通すと効果を出すようになる。
魔法陣とは不思議なものだ。これはヒヒイロカネという素材の貴重さも相まって偶発的に形作られることはないだろうが、それでももう少し単純なものは特定の図形を作るだけで何かしらの効果を発揮する。まるで電子回路だ。蓄電器や整流素子などのように素材を変えてすらいないけれど。
……。
…………?
考えていて、何か引っかかった気がする。
僕はしゃがみ込み、床に埋め込まれた金属線に手を当てる。
魔力で精査しても、単なる単一の金属線。それが編まれるように複雑な形を取り、神器とも呼ばれるこれを……。
あっ。
「……これ、神器ですよね?」
「今更何言うてるんじゃほい」
エウリューケが筆を止め、眉を顰めながら僕を見る。
いや、しかしおかしなことを発見した気がする。おかしな現象というよりも、定義の問題だが。
「でもこれ、単なる魔法陣じゃないですか。複雑で巨大なだけで」
「ああそういう」
エウリューケが、何を今更、と溜息をついた。
そんなにおかしなことを言っただろうか。
「神器には全部魔法陣が搭載されとるよ。『魔力を通すと効果を発現するのが神器』、なら当然のことじゃないかねきみ」
「うえっ……」
僕は少し驚いて、変な声を発してしまう。
大発見ではないだろうか、それ。そんなにさらっと言えることだろうか。
「そうかいそうかい。……ま、神器なんざこの世にそうあるもんじゃねえし、触ったことなけりゃ気づかねえでも無理はねえけど」
呟くように、衝撃の事実をさらりと言う。
そして、手帳の中にすさまじい勢いで何かを書き続けるエウリューケに対し、僕は何かを感じて一歩後ずさった。
エウリューケは、小型の魔法陣を描いて何かしらの効果を出すことが出来る。もちろん手巾のような一枚の布に描くだけで効果を出せるなどは、魔術ギルドではまだ存在しない技術の筈だが。
だが、ならば、それはつまり。
「エウリューケさんは……」
「……?」
「……神器を、作れる、と」
目の前の青髪の魔術師は、うん? と僕の言葉を一瞬解しかねたようで悩み、それから笑顔を浮かべて大げさな手振りをする。
「そうね、そうなっちゃうかもね! あたち天才!!」
花が散るような……実際に散らしてる笑顔。
たしかにすごい人物だと思っていた。誰も使えない魔術を軽々と扱い、誰も癒やせない傷を癒やすことが出来る。しかもそれを、僕のような他人にも伝授できる。
技能ではなく、技術。僕の知る中で、『技術』という観点から見れば最高峰の人だっただろう。
そして、神器とは技術の塊だ。
個人由来の魔法という技能を、神器さえ同じならば共有できる技術へと変える。僕はそういうものだと思っている。
無意識に唾を飲む。
しかしその目の前の少女が、本当に一国の命運を左右できる人物だったとは。
神器の量産が可能な少女。野心ある人物であれば喉から手が出る程欲しがる身柄。それが目の前に気安く存在している事実に、僕は少しだけ慄いた。




