閑話:新世界へ
「これは、あの、ドッキリとかですか……?」
ヨウイチは、目の前に立っている女性たちに向けて問いかける。肘掛けつき、革張りの豪華な椅子に座らされてなお、女性たちからの圧迫感は消えていない。
王女ミルラはその言葉の意味が一瞬わからず、それでもすぐに理解し、首を振ってから溜息をついて目を瞑った。
「いいえ。私たちは真剣に、お願い申し上げております。勇者様に、この国を救っていただきたいと」
「ここ、どこなんですか!? 岩槻にこんな場所……」
「ここはエッセン国王都グレーツ。その王城です。勇者様のご出身であるニホンとは違う世界、違う国」
「違……」
違う世界、と言われてヨウイチは息を飲んだ。
信じられない。そのような非科学的なもの、この世にあってたまるものか。
気が遠くなる。頭の隅がチリチリと震えるように痛んだ。
何故。何故、この者や、先ほどの部屋にいた大勢の者たちは、自分を騙そうとしているのだろう。嘘をついて、何の得がある。慌てふためく自分の様子が、そんなにおかしいというのだろうか。
胃がじくじくと痛む。
目の前にいるのが、女四人。王女と名乗る女一人と、鎧姿の女一人、それに使用人のような女性が二人。部屋には他にも男性の使用人と兵はいるが、皆壁際に控えている。目の前にいるのが女性だけというのが、恐怖感を煽らない救いだった。
何故自分が、と何度も考えて、いや、とヨウイチは思い直す。
理由など、どうでもいい。いやどうでもよくはないが、きっと今まさに自分の身が直面している事態は、きっとまずいものなのだろう。
「……誘拐、ですか……、俺んち、そんなにお金があるわけじゃ……」
目を伏せて、うわごとのように呟いたヨウイチの身を案じるように、ミルラが膝をつく。骨を入れて膨らませていない衣装は、こういうときに近付けるから便利だと思いながら。
「お招きしたのです。先ほどの部屋にあった、召喚陣、それを使って」
召喚陣の詳細は、未だこの国でも解析できていない。
だが使い方とその効果は言い伝えられている。今回も、王宮魔術師の手で、千年前の奇跡はしっかりと再現された。
しかし、とミルラは内心眉を顰める。
伝承とは違う。伝承ならば、前回の勇者は召喚されたときにもっと落ち着き払っていたはずだ。そして王とのわずかな交流の末、魔王退治に協力的になったという。
なのに目の前の少年はそうではない。
この部屋に連れてきてなお何かに怯えており、そして非協力的。何か間違えたのだろうか。
生け贄の雄鶏の質が悪かったのだろうか。魔術師が手順を間違えたのだろうか。
それとも、何か他の要因だろうか。
ミルラは思い至らない。
目の前の少年が、急激に変化した景色や場所に怯えていること。知らぬうちに、知らぬ場所に出現した彼が、戸惑い恐怖していること。
目の前の少年が、勇者である前に、人間であることを。
「じゃあ、お、俺に、何をしろと……」
「私たちをお守りください。この国を脅かす万難から」
言い聞かせるように、ミルラは嘆願する。それから勇者の困惑を打ち消すように、補足を加えていった。
「現在この国は、東の大国ムジカルの脅威に晒されています。彼の国は大きく、そして野心的。勇者様には、その腕を振るい、一戦力としてムジカルと戦っていただきたい」
「国と……え……?」
守る。万難。そう聞いて、ヨウイチは少しだけ態度を緩めた。きっと彼らは何かに困っていて、そして自分の力がそれに抗うために必要なのかもしれない。
召喚を、未だにヨウイチは信じていない。だが、何かに困っている、それはミルラの顔色から、信じるに足ることかもしれないと思い始めていた。
だが、国、と聞いてヨウイチの心象ががらりと変わる。
戦えと言われても、何と戦うかはわからなかった。しかし、『勇者』と呼ばれているのだ。ならば戦う相手は魔王や魔物だと、RPGやSLGに親しんでいたヨウイチは漠然と考えていた。
それが、戦う相手は、国。
見たところ、ミルラは普通の人間だ。そして、部屋の中にいる彼らも、人間に見える。
ならば、その『国』は。
そして、戦う相手とは……!
「それってつまり、……戦争、じゃないですか」
「その通りです。侵略戦争から抗うために、貴方の力が必要なのです」
ヨウイチの唇が震えた。え、え、と口の中で疑問符を繰り返す。
何を言っているのだろう。目の前の女性は。
自分に、人間と戦えと言っているのだろうか。
ヨウイチは鍛えてはいる自覚はある。一般人よりもそれなりに、戦うことは出来るのかもしれない。だがそれでも素人の範疇だ。その自覚ももちろんある。
ましてや命の取り合い。そんなことを、自分にさせようというのだろうか。
懇願するように、周囲を見渡す。
だがこの場にいる誰一人として、自分の力を疑ってはいないと、そう思った。
哀れむような視線を感じない。蔑むような視線も感じない。
だが、期待されている。たまたま目が合った女中の顔に、そう感じた。
「俺には、出来ません、……んで、俺が……」
消え入るように言葉を吐きながら、握りしめた両手を見つめる。
信じたくなかった。自分が知らない世界に突然連れてこられて、戦争に参加し、人殺しを強要されている。そんな事実を。
目を強く瞑る。息を吐き出してなんとか力を抜こうとするが、抜くことが出来ない。
それでも、一つの光明を見つける。ほんのわずかな。
目を開けば、自分が何事かを言うことを待っている顔。その顔が、鮮明に見えてかえって落ち着くことが出来た。
偽りの希望に胸が高鳴る。しかし同時に、絶望にも心が押しつぶされそうになる。
そうだ。
それは、嘘なのだ。きっと、嘘なのだ。
普通に考えれば、知らない自分のような人間を連れてきて、いきなり戦えなどという者はいないだろう。
もしも本当に戦う者が必要なのであれば、それこそ自衛隊や、どこかの国の軍人を連れてきた方が余程頼りになる。
それなのに、高校生の自分を大勢で囲み、そんな嘘をついている。
そうだ、嘘なのだ。
内心、きっと皆笑っているのだろう。
これでもしも自分が馬鹿正直に、『頑張ります』とでも口にすれば、きっと爆笑の渦がわき起こるのだろう。そしてきっとこの部屋のどこかに隠しカメラでもあって、先ほどのエキストラたちもここを見ているのだろう。
そうだ、そうに違いない。
「ドッキリとか、そういうのは、やめてください。俺、そういうの下手なんです」
「ですから……」
ミルラもまた困ったように眉を顰める。
まだ信じていない様子だ。千年前の勇者とは、伝え聞く態度も印象も全然違う。
千年の時間の隔たり。それで、こんなにも何かが変化してしまうものなのだろうか。
ヨウイチは、ミルラの反応に、正攻法では駄目なのかと判断する。
彼らは嘘を嘘と認める気はない。ネタばらしのその時間まで、どうにかして凌ぐつもりなのだろうか。
……それとも、もしかして彼らは本気なのだろうか。
そんな考えにまで思い至ったヨウイチの耳の前に、一筋の冷や汗が垂れた。
「……本当に、戦えと仰るんでしょうか」
ミルラではなく、横の金属鎧姿の女性に問いかける。気合いの入ったコスチュームだ。磨かれた金属は分厚く鉄板のよう。あり合わせで準備したようなものではないだろう。
ミルラもだが、彼女もそれなりの美人だ。緑がかった白い金髪が、たしかに異世界感を演出している。
俳優にも張り込んだのだろうか。それとも、もう少し嫌な想像の方だろうか。
そちらであってほしくはない。
もしもそうならば、ドッキリの方が大分マシだ。
自分はどこかの新興宗教組織に拉致されて、今まさに洗脳されている真っ最中なのかもしれない。
心の隅から湧き出したそんな恐怖の考えを、必死で打ち消すように努力した。
金属鎧の女性は、静かにただ頷く。凜々しいその顔は、洗脳などされているようにも思えないが、それは素人判断だろう。
だが、ヨウイチの中で、ドッキリの線も消えつつある。
新興宗教組織による誘拐。そちらが優勢になりつつある。
下手な動きをするわけにはいかない。
狂信。それは怖いものだと、現代日本に生きていたヨウイチの潜在心理にすり込まれている。
もしも彼らの世界観を否定してしまえば、もしも彼らの意に沿わぬことをしてしまえば、きっと自分にとって良くないことが起きる。
過去を振り返るニュースの動画で見たことがある。思想に殉じ、仲間たちを粛正した後山荘に立てこもった誰か。間違った世の中を正そうと、電車の中に毒ガスをばらまいた誰か。
もしも、過激な者たちならば。
ここで従ったほうがいいのではないだろうか。ひとまず信じたフリをして、それから逃げ出した方がよいのではないだろうか。
そうだ、そうしよう。それから警察に駆け込めば、きっと助けてくれる。
ここがどこかはわからない。だが、人里離れた山奥でも、きっと逃げることは出来る。
そう思った。どうにかして助けを求めることが出来れば、と。
時間をかけてでも、その方が安全に脱出できるかもしれない、と。
しかし。
ヨウイチが椅子から崩れ落ちる。それから床にへたり込むと、両手を床につけた。
「……お願いします……帰してください……」
時間がかかる。そう思えば、体に力が入らなかった。
時間をかける策。それを取りたくない理由もあった。
数日ならばいいだろう。けれども、あと数週間もかかってしまえば。
突然土下座の格好になったヨウイチに面食らいつつも、ミルラは肩に手をかけて立ち上がるように促す。
勇者が取っていい姿勢ではない。王女であるミルラの方が立場が上とはいえ、兵たちの上に立ち勇壮に戦わなくてはいけない勇者が、自分たちにするような仕草ではない。
「お願いします!!」
それでも勇者は頭を下げ続ける。帰してほしい。その一心で。
「ここに来たことは誰にも言いません!! お金なら、俺の財布ごと差し上げます!! だから……!!」
意味のない取引だということは、心のどこかで承知している。だが、ヨウイチは堪えられなかった。
「インターハイが近いんです! 他流だからって婆ちゃんに許可もらえなかった剣道で、ようやく出られるんです!!」
言いながらも涙が出てくる。
一年生の時には、親代わりの祖母の反対によって挑戦すら出来なかった。
二年生の時には、修行で使っている木剣との違いや、剣道特有のルールに苦戦し、予選にすら出られなかった。
そして三年生の今。ようやく剣道のルールにも竹刀の扱いにも慣れ、校内や近郊の高校では負けなしの実力になれたというのに。
二週間後、その予選会がある。
そこに向けての練習に力が入っていた時期だった。三年間の集大成が、ようやくぶつけられると思った。
なのに。
ここから逃げ出したい。
だが、時間をかけるのも嫌だ。逃亡できるまで彼らを信用させるのに、何日かかるというのだろう。
もしかしたら、すぐに逃げられるチャンスが来るかもしれない。しかし、来ないかもしれない。
ならば逃がしてほしい。
彼らの『勇者』には自分はなれない。
「勇者様……」
涙が床に滴り落ちるのを見て、ミルラが言葉を失う。
それほどまでに嫌なのだろうか。いいや、嫌と思えるのだろうか。
もしかしたら、召喚に失敗したのかもしれない。
勇者の国については、千年前の勇者はあまり多くを語らなかったと伝承にはある。もしかしたら彼の国のうち、勇者に適していない誰かを召喚してしまったのかもしれない。
そうした考えが心をよぎった。
しかし、それでも彼の言葉に従うことは出来ない。
『帰してほしい』。その願いは叶えられない。少なくとも、すぐには。
「……帰すことは出来ません」
「何で、ですか……!」
彼に役割があるから、帰すことは出来ない。それはある。だがもう一つ、問題がある。
ミルラたちには、勇者を帰す手段がない。
無理なのだ。召喚したものを、元の世界に送り返すのは。
だがそれを言っていいものだろうか。ミルラは涙ぐんだ勇者の目を見ながら、今後のことを検討していた。
「私たちには、帰すことが出来ないのです」
「…………!」
ヨウイチの顔が凍り付く。
『召喚』した彼らが無理だと言った。能力的に無理にせよ、状況的に無理にせよ、それは、帰す気がないというのと同義だ。
「帰れないって、なんで……」
「申し訳ありません」
ミルラは頭を下げる。この反応は、失敗か。いっそ踏ん切りをつけてくれればと思ったが。
見れば、勇者の涙がこぼれ落ちそうな顔。
痛ましい、と心のどこかでふと思った。そんな心変わりの原因にも思い足らず、それでもミルラはその涙を慰めたいと思った。
懸命に考える。勇者が帰る方法を。帰れるまではいかなくとも、納得してくれそうな方法を。
そして、ふと思いついた。そうだ、自分は知っている。
「いえ、もしかしたら……」
弾かれたように、ヨウイチは背筋を正す。帰るための道筋、それを見つけた気がして。
「帰れるんですか……!?」
「千年前の伝承では、アリエル様……大妖精の失踪とともに、殯のために安置していた勇者様の遺灰が、いつの間にか消失していたとか。……妖精が、勇者の嘆願に応えて、元の世界に送り返したと」
「妖精」
ヨウイチが、ゴクリと唾を飲み込む。
妖精。不可思議で、子供じみた空想上の存在。そんなものが彼らの世界観にも存在するのだろうか。
だが、それは何かの隠喩かもしれない。何かしらの現象に、妖精と名付けているのかもしれない。彼らの中では存在する、それさえわかれば。
「その妖精に頼めば……」
ヨウイチが、わずかばかりの希望を見いだす。彼らの世界観にも、自分が穏便に帰る道はあるのだ、とそんな間違った希望を。
しかし、……とばかりに、鎧姿の女性が咳払いをする。
「偽りの希望は聞かせない方がよろしいかと」
「タレーラン卿……」
ミルラは、何を言うのかと咎める目を向ける。だがテレーズ・タレーランは、それに怯むことなく勇者を見た。
「勇者様、帰る道はございませぬ」
勇者の体が震える。先ほどまでの言葉と反する、どういうことだろうと。
「駄々っ子をあやすのは得意ではないので率直に申し上げる。アリエル様が持ち去ったとみられるのは、勇者の遺灰。生きて帰ったわけではありませぬ」
「……遺灰がいけるんなら、生きた俺も……」
「さらに、アリエル様の行方は今杳として知られていない。接触を図ろうにも、場所がわからないのであれば……」
ふう、とテレーズは溜息をつく。
勇者の希望が潰えていることに。そして、現在の状況に。
「……戦っていただきたい。そのために、この城は大きく変わっているのだから」
「……そんな、勝手な……」
勝手。その言葉には内心テレーズも同意する。
得体の知れない国から得体の知れない兵を呼び、地位を与えて戦闘に従事させる。その悍ましい行為に、王家への怒りも湧く。
その誰かの接待のために王城は作り替えられ、大勢の人間が集められた。……その様が、自分たちがどれだけ信用されていないのかとまざまざと見せつけていると感じた。
「……そもそも、俺は、戦うことなんて……」
「そのために、私がいる。申し遅れた。私、序列第七位聖騎士団〈露花〉の団長、テレーズ・タレーランと申す。我が団は、勇者様への戦闘訓練を仰せつかっている」
「戦闘……訓練……」
戦闘という言葉に、また勇者が唾を飲み込む。
あくまでも、自分を戦わせようというのだろう。……しかも、もしも彼らが何らかの宗教の狂信者だったとしたら、それはやはり人間と……。
「戦う以外に道はないのです」
「……そんな……」
愕然としたヨウイチを、テレーズは冷ややかに見つめる。
戦いたがらない。それはそうだろうとも彼女は思っていた。伝承では、千年前の勇者は軍人ではない一般人。それも、まだ教養の教育を受けている者だったという。
今回の勇者がどういうものかはわからなかったが、いくつか考えていた内の一つの性格であった。
……まったく、どうして自分たちがこのような役を。
テレーズは内心溜息をつく。
勇者の教育。もちろん、業務の重要性……中でも名誉の観点からすれば、能力はあるだろうが序列下位の団に任せられるものではない。しかし、上位であっても中々それのために拘束も出来ない。故に、第七位という『ちょうどいい』彼女の団に回ってきた。
そんな、使い勝手のいい中位ということを殊更に示されている、今回の任務にも不満があった。
聖騎士団の序列は、その有能さには関係がない。最下位であっても、並の騎士団とは比較にならない戦力を有する。
正確に言えば、序列にかかわらず、団の戦力はあまり変わりがない。より正確に言えば、団の強さは聖騎士団の序列に関わらないのだ。
聖騎士団の序列。それを決定するのは、昔は団の働きを監査してのことだった。戦場で活躍すれば評価が上がり、何かしらの失敗をすれば下がる。そうして決まってきた。
だが戦争のない現在。序列は各団の代表者による七年の一度の上欄試合の成績によって決まる。
そして代表者は特別なことがない限りは団長が出陣し、三年前に行われたそれもテレーズが出た。上位と呼ばれる五位以内には入らなかったものの、それでも七位は善戦したものだ。
そして騎士団序列三位までは、上覧試合の成績も含め、ここ数十年間変化がない。その三人は怪物とも呼ばれる戦力で、十数回の試合を制してきていた。
テレーズは、前回も手も足も出なかった。第三位〈日輪〉団長のエーミールにも、第二位〈旋風〉団長のクロードにも、そして第一位にも。
見ていろ。次は必ず五位以内に入ってやる。
このような雑用染みた任務を押しつけられることのないよう、のし上がってやる。
テレーズは、密かにそう決意していた。
「……少し、考えさせてください」
「…………勇者様」
弱気なことを言ったヨウイチを気遣うように、ミルラがただ声をかける。
その弱気なヨウイチにも、少しだけテレーズは腹を立てていた。
弱気なことに対してではない。彼個人に問題があるわけではない。
だが、不快感が常にあった。
立ち居振る舞いや言動。その辺りに文句はない。だが、一つだけ気になっていることがある。
彼の近くによると、闘気が掻き乱される。
運用に支障があるわけではない。戦闘時でもなく活性化してもいない闘気にも、特に影響を与えるわけでもない程度の弱い魔法。
勇者から常に発せられているその魔法は、何だろうか。
原因はわからない。効果もわからない。だが、常に体を撫でられているようでなんとなく不快だった。
おそらくミルラは感じとれてもいないだろう、とテレーズは推察する。そしてそれは紛れもない事実で、闘気を使えない使用人たちも誰一人として気づいてはいなかった。
魔力の影響か、とテレーズは一人納得する。
幼い魔法使いや魔術師は、無意識に周囲に魔力を放射するという。同じように、まだ魔力を扱い慣れていない勇者は、無意識に魔力圏を展開しているのではないだろうか。
まだ扱い慣れていない。ならば、仕方ない。
そう理解はした。だが、それと不快感は別のものだ。
……とりあえず、この情報は他の聖騎士団にも周知させなければ。
テレーズは、頭の中で情報共有の項目に一つ付け加えていた。
「……一人にしてください」
「申し訳ありませんが、それは出来ません。おつきの使用人を用意します」
「俺の部屋とか、あるんですか」
「ございます。……今日はもう休まれますか? ……」
これ以上は、また態度を頑なにするだけだ。ミルラはそう感じ、一度話を打ち切ろうと勇者の言葉に乗る。
大丈夫だ、勇者は帰ることが出来ない。ならば、時間はかかるだろうがこの国に協力してくれるはず。
そう、願っていた。
「お願いします」
ふらりとヨウイチが立ち上がる。幽鬼のようなその姿。
本当に戦えるのだろうか。テレーズはそう眉を顰めたが、それを誰も見ていなかった。
そして、静かになった勇者が、別の決意をしているのも、この部屋の誰もが気づかなかった。
ミルラが目配せをした先の使用人が、扉を開く。
短く、「こちらへ」とだけ言って、一歩外へ踏み出した。
ふらふらとした足取りで、ヨウイチはその後を追う。
部屋までは一緒に、とミルラもそこに並ぶように歩く。
勇者の私室は、最近改装が行われた区画に用意してあった。
そこまで案内すると使用人が口にしても、勇者に大きな反応はない。ただおとなしく、何かを考えるように唇を結んで歩き続ける。
階段を上り、廊下を曲がり、廊下で平伏する官吏たちの横を通り抜け、歩き続ける。
その後ろを歩いていたテレーズが、ようやく違和感に気がついた。
勇者がやけにおとなしい。そして顔は見えないが、その仕草は考えているというよりは……。
テレーズが違和感に気がついた直後だった。
ヨウイチが突然駆け出す。案内する使用人が反応するよりも速く、そしてミルラがその先を追うよりも早く。
毛の短い絨毯をえぐるようにくっきりと跡をつけながら、走る。
どうしたものだろうか、駆け出し始めながらテレーズはそう考える。
仮にも要人だ。訓練中でもない今、強引に組み伏せてもいいものだろうか。まだ十歩程度の距離で、追いつくのにさほど時間はかからない。
ならば……。
テレーズたちを振りきるように、ヨウイチは走りながら考えていた。
どこから逃げればいいだろうか。ここで行動を起こしてしまえば、逃げるチャンスはきっともうないだろう。
だが、逃げずにはいられなかった。もう、付き合っていられなかった。
大きな建物だ。きっと、信者たちからお金を巻き上げているのだろう。
信じたくなかった。これが本当に勇者の召喚で、自分が知らない世界に呼ばれたなどということは。
先ほどちらりと見えた。探していた、出口になり得るもの。
明かり取りのような窓。小さいわけでもなく、自分が通り抜けるのに充分なもの。
そしてそこからちらりと白い屋根も見えている。この建物の屋根が頑丈かどうかは知らないが、きっとどうにかなるだろう。
必死さに、ヨウイチはまだ気がつかない。
走る足。それは少し前までの自分のものとは違い、一足で十メートル以上を跳ねていることを。ヨウイチは気がつかない。全力疾走、にもかかわらず、自分が息一つ切らしていないことを。
背後のテレーズが追いすがってくるが、そんなものに構ってはいられない。
重たい鎧で、自分に追いつけるわけがない。そう思っていた。
明かり取りの窓に近づき、その先を見る。
思った通り。目測で二メートルほどの高さはあるが、それでも飛び降りれないわけではない。
十字に入った木枠ごと窓を蹴破り、一度止まって下を見る。
きらきらと光るガラス片と木枠だった木片が屋根に散る。大丈夫、きっと自分ならば跳べる。そう信じていた。
「勇者、さま……!」
何をしているのだろうか。テレーズは慌てながらヨウイチを呼ぶ。だがヨウイチはその声に振り返らずに、温い風が吹く外へと飛び出した。
一瞬の浮遊感に股間が縮み上がる。だが構ってはいられない。
天井にぶつかる衝撃を大きくしゃがんで緩衝し、そのまま前転して全て散らす。前回り受け身ならば剣術の組み討ちの稽古でさんざんやった。
制服の袖にガラス片が食い込む。しかしそんな痛みも今は気にしていられなかった。
背後でテレーズが飛び降りた音がする。振り返る暇さえない。そう自覚したヨウイチは、屋根の堅さを気にしながらまた走り出した。
広い屋根だ。
ヨウイチは、走りながらもそんなことを考えていた。
ここまで広い建物は、自分が知っている場所にはない。ならば、自分は拉致された後どこへ運ばれたのだろうか。
空を見れば、おそらく今は昼過ぎ。最後の記憶が朝の登校ということは、そこから車で運べばかなりの距離が稼げるだろう。
埼玉の中か、それとも群馬や東京などの近隣の県まで来てしまっているのか。それはわからないが、きっとこの建物から出れば何とかなる。
近隣の住民も同じ宗教に入っているかもしれないが、それでもどこかで電話を……。
そういえば、と尻のポケットに入っていたスマートフォンを走りながら取り出す。
揺れる視界の中電源ボタンを押すが、それでも電源は入らない。
「……くそっ!!」
これが繋がれば一発なのに。そう思いながらも、電源が入らない理由もわからずヨウイチは悪態をつく。
そして握りしめたスマートフォンが軋み悲鳴を上げるのを無視しながら、一層足の力を強めた。
広いと言っても、建物だ。
やがて端が見えたヨウイチは、一応の安堵の息を吐く。背後から聞こえる足音は、今のところ遠く、そして振り返ってみても振り切ってはいないがまだ先ほどの鎧女は遠くにいる。
よし、あとはこれで降りられれば。
屋根の縁。そこから眼下を見下ろすようにヨウイチは立ち止まり、足場を探そうとした。
だが。
「なんだよ、これ……」
目指す地面は、一段屋根を降りた後に、また二メートルほど下。一段降りる際は石のような屋根なので注意しなければいけないが、一番下は土であるため着地は容易だろう。
だが、そんなことは問題ではなかった。
見えたのは、塀。そしてその塀から視線を横にずらしていけば、立派な門扉が見える。
そして、今いる場所はその城壁よりも高いため、その向こうもよく見える。
歩く人々。瓦屋根が敷かれた石造りの建物。
ここは、中国? いや、そんな近代的なものも見えない。だが瓦屋根や欄干、漆喰の壁に、なんとなく日本とは違う印象を受ける。
道を歩く人々は皆知らない服装で、ヨーロッパ系のようにも見えるがオリエンタルな雰囲気も混じる。髪の毛は黒か金、といった程度の種類ではなく、色とりどり。
そして、声も聞こえる。ヨウイチは気にしていなかったが、錬成の際に強化された聴力が、道行く人々の声を鮮明に耳に届ける。
「――――――――」
「――――――――!」
知らない言葉。だが、意味がわかる。英語ではない。ドイツ語やイタリア語、その他知っていそうな言語のどれにも当てはまらない。
しかし、意味がわかる。
それが、恐怖を感じさせた。
ぞわりとヨウイチの背中の毛が粟立つ。額から汗が噴き出した。
顔を両手で挟み、頬を絞るように締め付ける。
足から力が抜ける。それでも未だ疲労なく、力自体は漲っていた。
膝をついたヨウイチの背後に、テレーズが立ち止まる。ヨウイチの様子がおかしい、そう不可思議に思いながら、テレーズは確保のためにヨウイチの肩に手をかけた。
「勇者殿……」
かけられた言葉を、ヨウイチは何度も脳内で反芻する。
『勇者』と言われた。だが、彼女は『ゆうしゃ』と発音しているわけではない。
気がついてしまえば、もう止まらなかった。
先ほどから自分か喋っていた言葉は、何語なのだろうか。
どうしてそのような言葉が喋れるのだろうか。
テレーズを無視しながら、背後を振り返る。先ほど蹴破った窓は、今はもう見えない位置にある。
だが、そんな場所からここまで走ってきて、息一つ乱していないのは何故だろうか。
まさか。
「…………!!」
嫌な想像が頭の中で完成し、その瞬間ヨウイチの胃が強制的に収縮する。
涙とともに、嘔吐物が吐き出される。
吐き出されたものを見て、またヨウイチは驚愕する。そこには、食べた覚えのない生物の内臓。中途半端に消化されているのだろうか、その胃らしきものから更に、何か穀物のようなものがちらちら覗いていた。
「っ…………!!」
咳をして、地面に力なく拳を打ち付ける。自分にとってはかすかな力なのに、石の屋根にひびが入った。
何故だろうか、わかってしまった。
言葉、いまだ根拠はそれだけだ。
なのに、もう確信できた。
知らない建物。知らない人々。知らない街並み。
青空には、前の世界と変わらない雲が広がっている。
それなのに、確信できた。
これは誘拐や、何者かの狂言などではない。
きっと自分に説明をした彼女らは、一切の嘘をついていない。
ここは埼玉ではなく、そして日本ではなく。
ましてや地球などという場所ではないのだろう。
もはやここは、自分の知らない世界なのだ。




