召集令状
手が微かに震えたまま、ルルはまた僕たちに笑いかける。
「皆様のご到着を聞いて、待ちきれずに来てしまいました。失礼いたしました、では、後ほど」
どう反応していいかわからなかった僕に背を向けて、さっさとルルは歩き出す。
部屋の外。扉が閉まると同時に、また侍女の「お嬢様」という咎めるような声が響いた。
僕とオトフシと女中。その三人にまた戻り、人数は変わっていないはずなのにシンと静まりかえった部屋の中。だが、オトフシはまたさっさと椅子に座り、もう一度紅茶を傾けた。
その様を見て女中も本来の仕事を思い出したらしい。また壁際で姿勢を正し、オトフシや僕の行動に注意を向ける。
僕はもとの仕草に戻れず、少しだけ戸惑いながらまたお菓子の方を向いた。
クッキーを頬張り口の中で砕ける音を聞き、どうにか落ち着こうとする。
そんな僕の胸中を、少しばかりの戸惑いが覆う。
ルルは一瞬何かに落胆したように見えた。沈んだ声、それに仕草。心が読めない僕にも、それくらいならわかるつもりだ。
しかし、何故。僕たちの何に?
いや、僕たちだったから? 来客が別の誰かだと知らされていたのに僕がいたから……。
……それはないか。入ってきた途端に、ルルは僕の名を口にしていた。オトフシがいることに驚きもしていない以上、僕とオトフシがここにいることを知っていたはずだ、多分。
では何故。
そう悩んでいる僕に向けてか、それとも女中に向けてか。その両方に向けるように、それでいてただの独り言のようにオトフシは呟く。
「……ルルお嬢様、美しくなったな」
「…………」
どう答えていいかわからず、そして一応女中の方をそれとなく見て確認しながら、僕は言葉を考える。答えは決まっているが、口にして良いものだろうか。……まあ、貶すわけではないしいいだろう。
「そうですね」
「以前の幼さもすっかり抜け落ち、しっとりとした色気がある。以前の微かな記憶では、爛漫とした印象だったと思ったが」
「…………」
オトフシの言葉に、僕も昔を思い返す。
僕は微かな記憶などではない。覚えている。
初めて会った日の泣き顔や笑顔も、護衛中に見せていた戸惑いの顔も、貴族の娘になろうと決意した凜々しい顔も。
確かに今日見た顔は、そのどれとも違っていた。成長し、外見が変わったから、というわけでもなく。
ほんのわずかに、『苦しそう』という印象があったのは、僕のただの勘違いだろうか。
それから少しの後、また新たな使用人が、僕らが待つ応接室へと訪ねてきた。
「準備整いましてございます。どうぞ、こちらに」
頭を下げる使用人。その笑顔は、ルルと同じ種類のものに見えた。
「ようこそザブロック家へ。歓迎します」
食堂の前、廊下に二人の婦人が立っている。一人は先ほど見た、ルル。沈んだ顔はなくなっており、見た目ごく普通の笑顔が見えた。
そしてもう一人。白塗りになるほど濃い化粧をした顔に、真っ赤な口紅をちょこんとつけた婦人は、僕たちの顔を見て軽く会釈をした。
……ええと、この場合、返すのは立礼で良かったんだっけ。伯爵位相手とはいえ、今は客人で私的な空間、他に来賓もいなければ確か跪礼は必要なかった……と思ったけど。
「お招きいただき光栄に存ずる」
オトフシはただ胸に手を当てて頭を下げている。カーテシーでないのは以前と同じだが、それは不敬には当たらないのか。
まあいいだろう。僕も倣い、頭を下げる。
「この度はお招き感謝いたします」
そんなふうに挨拶を終えた僕たちを見て、レグリスはクスと笑う。頬の部分の化粧の一部に、ほんの少し罅が入った。
「まあまあ、そのように身構えず。どうぞおくつろぎください、大した饗応も出来ませんが」
「恐縮です」
僕が返すと、もう一度笑いレグリスは中を指し示す。それから、長いテーブルが置かれた食堂へと僕らに先んじて足を踏み入れた。
しゃなりしゃなりと歩くレグリス。それに続いてルルも同じように歩いていく。
一応僕たちは下座……になるのかな? 名前が描かれたナプキンが置いてある入り口側の席の前に、僕とオトフシは立った。
僕とルルは同じ側の隣同士……といってもその距離は五歩以上離れているのだが。お互いに手を伸ばしても届かない距離でも、隣は隣だ。
使用人の引いた椅子に奥方が座り、続いてルルも腰掛ける。
僕らはそれを確認した後、やはり使用人が引いた椅子に腰を落ち着けた。
背の高いグラスが僕らそれぞれの右斜め前に置かれてゆく。
これは、食前酒かな。
音もなくグラスの中に液体が注がれてゆく。炭酸まじりなのか、細かな泡が立った。
四人それぞれの前にそれが揃ったことを確認した後、レグリスはグラスを取って口を開く。
「細かな挨拶は省いてしまい、今は料理を楽しみましょう。美味き糧を」
そう言って口をつける。一息に飲まないようで、ちびちびと。
僕もそれに倣って口をつける。酸味の強い甘みのある酒。果実感のあるどこかとろりとした味わいが口の中に広がった。
……シャンパン、でもないな。ワインのようなものだと思う。それに蜂蜜を混ぜて、更に炭酸水で割っている。酒に興味がないのでわからないが、多分これは飲みやすい部類なのだろう。
「聞き及んでおりますよ。カラス殿は、少し前までムジカルの方にいらっしゃったとか」
「……ええ。少しの間滞在するだけのつもりが、良い土地柄ですっかり長居してしまいました」
どういう意図があるのだろう。レグリスの言葉に適当に返すと、レグリスは頷く。
「ムジカルの料理を私は余り存じ上げませんが、お口に合いまして?」
「エッセンの料理と比べると、香辛料が多いのが特徴でしょうか。もちろん私のような者は、大衆的なものしかあまり食べてはおりませんが」
「でしたら、今宵はまた違った味を楽しんでいただきたいですね」
話している最中に、皿が置かれる。
料理の皿ではない。いや、料理の皿なんだけど、何も乗っていない。
これは、皿……ではなくて、パン?
トレンチャーだっけ。あれ? これはどうすればよかったんだっけ。
皿ではなく、パン。そんな突然の襲撃に僕が戸惑っているうちに、そこに料理が盛り付けられてゆく。
これは、……魚料理か。頭がカットされた魚がそのままのようにも見えるが、一応魚の皮に切れ目が入っている。匂いと見た目からして、甘酢のかかった揚げ……煮物?
「お二人がいらっしゃるということで、料理長が趣向を凝らしたようです」
魚はヒラメのような薄べったいもの。しかし、多分違う魚だ。これなんだろうか。
レグリスがナイフを入れるのを確認し、僕やオトフシもナイフを入れる。薄い皮ごと食べられるようだ。
内臓は抜かれているようで、一口大にカットして口に運べば、濃厚な煮汁が口の中に溢れる。やはり煮物、だが魚肉の食感もそれらしくない。それに骨もないらしい。
柔らかいが弾力ある中に、こりこりとした根菜らしき歯ごたえが混じる。すり身か、これ。
「不思議な食感ですね」
「料理長が言うには、西方で学んだ料理に工夫を加えたそうです」
何か感想を述べないと、と僕がどうにか口にすると、それに応えるように補足が入る。先ほど部屋で別れてから、初めて口を開いたルルを見た。
小さく切り、口の中にものがたまらないようにする。人と喋るときには口の中に物がないように。そう徹底しているようで、背筋を伸ばして発言したルルは、どうにも食事中には見えなかった。
しかし、どうしたものか、これ。
トレンチャー。それ自体は珍しいものではない。しかし、確か場所によって作法が変わったはずだ。
ムジカルでこういったものが出てきた場合は、上に乗ったものが減っていくのに合わせて食べていい。いやもちろん、大衆料理の店で出てくるようなものだったからマナーなんてないも同然だったということもあるけれど。
だがエッセンでは、最後に残ったものを食べるんだっけ?
いや、食べてはいけない場合もあったと思う。施しに使うとか、なんとか……。
どうしよう。
そんな風に悩んでいるうちに、パン皿が回収されてゆく。
僕はまだ食べていなかったが、ルルとオトフシは食べており、レグリスは手をつけていなかった。
……結局、どうするのが正解だったんだろう?
疑問符しか浮かばない。それでも、食事会は進んでゆく。
もう一品、魚料理が出てくる。
今度は小さな魚が二尾。捌き方が少し変わっていた。三枚に下ろすのではなく、その途中でやめたような形。半身が首下にくっついたままで、もう半身は背から切れ目を入れてあるだけだ。
それが素揚げされているようで、体をくねらし固まっていた。
……何だろうか、何か違和感がある。
先ほどの料理は、まさしく貴族の料理という感じで洗練されているように見えた。
だが、これは違う。
見た目は一応整えられているものの、どちらかといえば種類的には大衆料理屋で出てくるようなもの。
「骨もそのまま食べられますので、頭からどうぞ」
そう言った使用人の手により皿の横に置かれたのは、葉っぱが浮いた水の器。
置かれているナイフとフォークは先ほどの皿と一緒に片付けられてしまい、次のものは多分肉用の見た目……ということは、これは。
「ふむ」
オトフシが躊躇なく魚を指でつまむ。そして齧り付くように口に入れると、半分ほどで噛み切った。
「なるほど」
口の中のものを見せないように、オトフシが呟く。
僕もそうして齧り付くと、骨が油で揚げられているようで、小気味いい音を立てて口の中で砕けた。
素揚げに酸味の薄い柑橘系の果汁がかけられている。この前のザリガニといい、エッセン料理の匂い付けには果実が多く使われるのだろうか。
有り体に言ってしまえば魚の素揚げというだけだが、中々美味しい。
だが、二匹目に入ったところで、はたと気がつく。
咀嚼音が、漏れていないだろうか。
静かな食卓。話し声がたまに響き、それだけしか音が聞こえないような晩餐会の中。
一応食事の音を立てるのはマナー違反の筈だ。大勢が喋る立食パーティのような場ではなく、こういう場では。
僕のはわからないが、少なくとも他の三人は衣擦れ以外全く音を立てていない。コツがあるのか、それともこの程度では外部に漏れないのか、それはわからないが、静かな中でそれがやけに気になった。
ルルは、とちらりと見れば、以前とは全く違う完璧な姿だ。
姿勢が悪いこともなく、カトラリーを落とすという失態ももちろんない。微かな笑みを絶やさず、黙々と料理を平らげている。
オトフシも似たようなものだ。食べ方を形容する言葉として相応しいのかわからないが、優雅というのが似合う。
時たまレグリスから振られる世間話にもにこやかに応え、けして場の雰囲気を崩さない。
肉料理が来る。
大きな肉の塊を、給仕がその場で切り分ける。そしてまずレグリスの前にある皿に乗ったステーキのような小さな薄い塊に、小さな瓶から何か液体を振りかけた。そこに蝋燭の火を木片伝いに近付けて、桃色の炎を上げさせる。
その炎が消える間に、目の前でソースを作るらしい。塊肉の乗っていた器にある注ぎ口のようなものの栓を取り、垂れた油混じりの肉汁を小さなフライパンで受けて、さらに調味液を入れて、蝋燭の炎で炙る。
そんなすぐに温まらないだろうに、蝋燭も特製なのだろうか、すぐにジュワと泡が立ち、一回しするとソースの完成だ。
ソースを……匂いが薄くてわかりづらいが、これは羊か……羊肉にかけて、彩りの緑色の葉っぱを乗せる。
そういった行程が、レグリスの次にはルル、そしてその次にオトフシ、と繰り返される。
最後が僕だ。
その順番にあまり意味はないだろう。一応、席次の通りに行っているだけなのだから。
しかし、何故かその順番が、他の何かを示している気がする。誰も何の意図もないのだろうが。
美味しい肉を、もそもそと囓る。
美味しい料理だ。とても庶民が手を出せるようなものではなく、もちろん僕も普段食べているようなものでもない。
だが、何故だろうか。途中から、美味しい以外に何か思うところあるように感じているのは。
美味しいよりも、違うことを考えつつあるのは。
それでも愛想笑いは忘れない。
レグリスに問われれば料理を褒め、感嘆のリアクションも取る。
本音ではある。だがそうしているのが、なんとなく寒々しく思えてきた。
デザートも終え、食後の紅茶が配られる。
砂糖入りのハーブティーらしい。ミントのような匂いが一番鼻に抜けてゆくが、それ以外にも竹のような匂いがする。
食事中、少々の世間話に、僕たちは花を咲かせた。
中でも僕のムジカルこぼれ話はそこそこ楽しんでいただけたようだ。砂漠に突然現れた洞窟の探検の話は、レグリスはもとより、ルルも驚きの声を上げていた。あれが演技ではないと信じたい。
オトフシも紙術を使ったいくつかの芸を披露したりなど、そこそこ楽しい食事会だったのだと思う。
毒も盛られていないはずなのに、僕の口内は若干の苦みが消えていないが。
そんな和やかな雰囲気。
それも落ち着いて、ハーブティーもなくなりつつあるころ。
オトフシが口を開く。体を椅子ごと向けて、レグリスをまっすぐに見ながら。
「それで? 私たちに何をさせようというのでしょうか?」
「……何を、とは」
レグリスの愛想笑いが薄くなる。
そして、オトフシがただじっと見つめると、とうとうそれが消え去った。
「とても楽しい晩餐会ではございました。しかし、それで終わるわけがない」
「……お察しのいいことで」
レグリスは、持っていた扇子をぴしりと閉める。それから辺りを見回し、手を叩いた。
「食事会はこれまでです。お二人を、応接室にお連れしなさい」
「レグリス様……?」
ルルが目を開いてレグリスの名を呼ぶ。何かしらの事情を、ルルも知らされていないのだろうか。そんなルルに、レグリスは温かな笑みを向けた。
「ルルは心配しなくても結構。良いようにしますから」
「……何のことでしょうか?」
「後で必ずお話します」
レグリスに食い下がることもなく、ルルは口を噤む。それから少しだけ俯いて、立ち上がった。
僕とオトフシも立ち上がる。何事か起こるかはわからないので、一応警戒を絶やさぬように。
使用人に促されてその場から移動し、僕らはまた違う応接室に案内される。
先ほどよりも少し大きい。しかし、壁が厚い部屋だった。
お色直しを終えたのだろう。
少し待った僕らの前に現れたレグリスは、食事で多少乱れた化粧が元通りになっていた。
香水も変えたのか、花の香りが薄く漂う。
小さな机を挟んで、僕らは向かい合った。横にいるオトフシがなんとなく頼もしい。
「晩餐会はお気に召したでしょうか」
「充分すぎる饗応でしょう。満足しない者のほうが珍しい」
レグリスの問いにはそう答える。なんとなく、最低限以外のきちんとした儀礼をとる気がなくなっていた。
だがそんな僕を咎めないようで、レグリスは唇を結ぶ。気を悪くしたようではないらしいが。
「……カプラ」
レグリスが、背後に控えた侍女を呼ぶ。侍女はその袂から書状を取り出し、オトフシに手渡した。
「これがどうかしたのでしょうか?」
楽しそうにオトフシは笑みを作る。もはや挑発に近いような笑みだった。
「お読みくださいませ。ご依頼は、それから」
「…………」
オトフシは無言でそれを開く。
筒状に丸められた書状。そこにある封蝋には何かの印が刻まれていたが、どこのかは僕にはわからない。
だが質の良い紙だということはわかる。繊維も細かく、端が綺麗に整っている。
開かれた書状には、細かな達筆の字が並んでいた。
「フフン」
「何が……?」
一足早く何事かに納得したオトフシを追おうと、オトフシが差し出した書状を受け取った僕も目を走らせる。
差出人は、……エッセン王家?
「勇者……召喚の儀……における……召集令?」
読めないわけではない。だが、辿々しく僕の口がその文章を辿る。
勇者……。勇者? いや、それよりも、召集? 誰を? 何のために?
「……爵位ある家の女子を、王城へ?」
関係のありそうな場所を読み上げながらも、疑問符が飛び続ける。
そしてその召集令がルルに関わることだと気づいた僕は、もう一度小さく声を上げた。




