先駆け
違和感はあった。
石畳を軽く踏み、群衆から遠ざかる。もはや僕に立ちふさがる者もおらず、僕よりも、倒れたさっきの男のほうに皆の興味が集まりつつある。
声も遠くなってゆき、僕への視線はもうほとんどない。
だが、そこになってからようやく気がついた。
他の者とは違う種類の視線。先ほどの男に絡まれた辺りから、ずっと今まで続いていた視線。
他の視線が消えたから、よくわかる。
これは恐れや嫌悪ではない。興味の視線だ。
あえて振り返らずにそのまま歩き続ける。
それでも消えることのない視線の主が少しずつ近づいてくるのが耳でも鼻でも読み取れる。
足音。隠す気がないらしい。強い埃の臭い。それは、身を窶すためのものか。
角を二度曲がり、追跡を確かめる。
それでもまだ付いてきている。
もう一度、曲がった上での反応で、僕の反応も決めよう。
そう思ったのが、向こうにもわかったのだろうか。
路地ではないが人通りが少ない小道。そこに入り、薪を焚く街灯に手を触れたところで、背後から拍手が響いた。
「いやいや。お見事」
レイトンのような嫌みたらしい言い方ではない。
まるで本当に褒めているような、好青年がそこにいるような感覚で、僕は一瞬躊躇いながらも振り返る。
そこには、声の印象とまるで同じ、薄緑の髪をした青年が立っていた。
彫りの浅い顔。年の頃は二十代中盤ほど。特徴のない体格に、まさしく町人というような服装。
特徴がない。まるで、意図的に消しているかのように。
そんな印象が、一貫して続いていた。
「……どちら様ですか?」
「ああ、これは失礼しました。申し遅れました、私、カンパネラと申します」
胸に手を当て軽く頭を下げる。作法としては正しいが、こんな街中で取るような所作でもなかった。
「先ほどの犬との決闘、お見事でした」
「それはどうも」
本来ならば名乗り返すのが礼儀なのだろうが、その機会を逸して僕はただ会釈を返す。
その、カンパネラと名乗る青年は、ニコと気持ちの良い笑みを浮かべた。
「ジャーリャでその武名知らぬ者はあらざれど、使う魔法を知る者はいなかった。それをこの目で間近で見れるとは、眼福です」
「……ムジカルの方ですか」
その言葉で、疑問が氷解する。
何故、わざとらしいほどに特徴が消された服装なのか。
という、二つが。
「任務中であるならば、僕に話しかけない方がいいかと愚考しますが」
「いいえ。私は、貴方に用事があって参ったのですよ」
だが、氷解した疑問の一つはすぐに本人に否定される。
いや、否定されたわけではないが、僕の予想とは違ったらしい。
「……諜報に来たのでは?」
「それも兼ねております。そのために、わざわざこのような格好をしたのですからね」
殊更に、カンパネラは自分の服の裾をバサバサとはためかせる。ムジカルにいたにしては白い肌。……魔術師か、魔法使いか。
ムジカルに比べて眩しくもないはずだが、街を仰ぎ見るようにして目を細めた。
「不便な国です。周囲と違う服を着ているだけで奇異の目がこちらへ向く。組織的と言えば聞こえは良いですが、閉鎖的な国ですね」
「同感です」
僕は本気混じりの社交辞令で笑う。確かにそれは、ムジカルとは異なる部分、その一つだ。
そして、明確にあの国に劣っていると僕が感じているもの。レイトンに言わせれば、それは僕やレイトンだからそう思うとのことだが。
「しかし、見ていても何が起きたのかさっぱりでした。先ほどの魔法、効果は気絶させるだけでしょうか?」
「……さすがに、教えたくないですね」
「さもありなん、といったところで」
くく、と笑う。楽しそうに。
それからカンパネラは真顔になり、周囲を見回す。そして深い溜息をついた。
「それにしても本当に、酷い国だ。カラス殿が立ち去った後、どうやら観衆たちは負けた犬に同情した様子」
「いつものことです」
僕は聞いていなかったが、まあそうだろう。観衆にとって、弱い者は味方だ。これもレイトン曰くの、弱者の群れ。先ほどの鎧の彼は、その一員として迎え入れられたのだろう。
だが、次の瞬間、カンパネラの顔が歪む。悲しそうに。
「いつものこと。どうもそうらしい」
ごそごそと懐に手を入れた仕草に僕は半歩退く。警戒だ。
しかしそれは不本意だったようで、懐に入れていない左手を軽く前に出し、カンパネラは僕を制止した。
「私は、この街での有効な戦力の調査に参ったのです。騎士団の数、指揮系統、装備の質」
「今更ですか」
その程度なら、一応示威として公開されていると思う。調べなければわからないとも思うが、それでもムジカルなら既に把握していてもおかしくはないと思うが。
カンパネラは意味ありげに唇の端をつり上げる。
懐から取り出されたのは、厚い革に紐でくくりつけられた紙の束。メモ帳か。
「ラルゴ様はとても慎重なのです。事前の情報との食い違いは許さない」
「ラルゴ……」
名前を聞いて、少しだけ考える。
どこかで聞いたことがある……いや、そうか。
「五英将の〈成功者〉ですか」
「ええ」
カンパネラは嬉しそうに笑顔を綻ばさせる。嬉しそうに、とも違うか。誇らしげだ。
僕は、前に見た〈成功者〉の姿を思い出す。たしか、小規模な戦勝パレードのような行進を行っていたのを見た。
〈成功者〉ラルゴ・グリッサンド。黒髪褐色の肌に、快活な笑みと白い歯が似合っていた。
「そのラルゴ様の指示でこの国を訪れましたが、噂の収集中に貴方の噂もお聞きしました。曰く、嘘をついて成り上がった卑怯者。感情の見えない冷血漢。手に負えない乱暴者。そして少し前に、貴方が関わった事件もあった……あれは、ご友人でしょうか?」
「……それが矢で撃たれた件ならば、そうですね」
リコの話か。やはりそれも、僕が関わったことだともう漏れている。……その出所の大本に想像が付くのも悲しいことだが。
「痛ましいこと。貴方も含めた純粋なる被害者の方々の心中、お察しします」
「それはどうも」
ふう、とカンパネラがまた溜息をつく。それから重々しく口を開いた。
「その際、貴方が治癒の術を扱ったことでまた騒ぎが広がったと。聞きました。おかしな話だ、ムジカルでは、貴方の治癒の術は有名だったというのに」
パラパラとメモ帳を捲りながら、カンパネラはそれを目で追う。
「この街へ来て、この一帯の重要な戦力の調査は終えました。やはり大物では〈山徹し〉に〈天津風〉、この街に限れば〈幽鬼〉に〈猟犬〉、〈形集め〉、〈病魔〉、〈無難〉……、少し遠ければ、〈叫声〉なども無視できない戦力でした」
つらつらと読み上げられていく異名。多くは僕も聞いたことがある。実際に、会ったことも。
「〈血煙〉……は情報が少なくあまり吸い上げられなかった。そして、〈狐砕き〉。貴方のことになるとそれが真逆だ」
「真逆?」
「情報が多く、そして錯綜していたんですよ。その得意とする戦法も、狐殺し以外の武功もほとんどが嘘の情報らしい。魔法使いか闘気使いかすらも人によって違う」
バサバサとメモ帳が振られる。ちらちら見えるそのページには、羊皮紙のような紙に綿密なメモがあった。
「いいや、実際には違う。多くの者が目にした光景の中、カラス殿はいくらでも力を使った。先ほどのように、魔法も、そして以前のように治癒の術も」
カンパネラの顔が苛立ちに染まる。相手は僕ではなさそうだ。
「まるで誰も貴方に興味がないようだ。それでいて、人の口には上る。そこまでいけば、貴方に興味がないのではない、興味がないフリをしているかのような不自然さだ」
「……実際に、興味がないのかも知れませんよ?」
「興味がないのならば、人は悪評も立てないでしょう」
言い切り、パシンとメモ帳を手に叩きつける。通りに響いたその音が、大きく感じた。
「酷い街、そして国だ。恐らく、貴方の悩みは今の私と同じ。息を殺して目立たぬようにしなければいけない。そうしなければ、この街は貴方や私に牙を剥く。……まあ、私は牙を向けられて当然の立場ですがね」
色素の薄い、薄い唇が結ばれる。真剣な目だった。
「どうでしょう。貴方がムジカルへ渡るのであれば、千人長待遇で迎え入れましょう。ラルゴ様の下、共に轡を並べる仲間として」
じ、と見つめられ、空気が止まる。突然の言葉に、少しだけうろたえた。
その様を読み取られたのだろうか、カンパネラはニコリと笑う。
「もちろん、これは既に私の独断ではありません。それに、ひとまず千人長、ということで、いずれは私と同じラルゴ様直属の魔法使いとなることでしょう」
「……調略ですか」
ムジカルがそういうことをする印象になかったので、意外だった。
敵対する戦力は力で押しつぶす。大国故の傲慢ともいえる絶対的な戦術は、ここエッセン相手でも有効だろうに。
「優秀な人材を失うのは惜しい。この国で腐らせるよりも、という私からの推挙です」
「魅力的な言葉ですね」
フフ、と僕が笑う。
正直、あまり断る理由は多くはない。
好きではないこの国よりも、好意的に見られるムジカルへ渡る。それだけで、ストレスがだいぶ減ると思う。
ムジカル……というよりも高官であるカンパネラが僕を高く評価しているらしい。それならば、好待遇も期待できよう。
「ムジカルへ行けば、それなりに良い思いも出来そうですが」
「ええ、是非。ラルゴ様は、栄光に満ちあふれているお方。私たちに、成功を与えてくださる無二のお方ですから」
「ですが、今はお断り……というよりも、保留で」
僕の言葉ににっこりと笑っていたカンパネラの顔が素に戻る。気分を害したわけではなさそうだが、やはり面白くはないだろう。
誘いを蹴られる。それは、誰にとっても。
「何故でしょう?」
「今は少々見たいものがあるんです。そのためにエッセン王都に行きたい。それも、エッセン王国のある間に」
だから、まだムジカルの兵になるわけにはいかない。
今でさえ、ムジカル兵がエッセンへと入るにはカンパネラのように変装が必要なのだ。仮に僕がムジカル所属となれば、隠し通すのは難しいだろう。
もっともそこで、王都ごと吹き飛ばしてしまっても良いのだけれど。
「だから、ムジカルへ与するわけにはいかないんです。せっかくのお誘い、申し訳ありませんが」
「……そう、ですか」
出来れば円満にいきたい。ムジカルへ敵対する気配が濃厚の今であっても、まだ敵対していないムジカルとは友好的でいたい。
そう願いつつ、カンパネラの反応を窺う。
だが、思ったよりは気にしてなさそうで、カンパネラはメモ帳を懐に戻して視線を下げた。
「そうですか。わかりました」
「今後どうなるかは知りませんけど」
僕の笑顔は社交辞令的な笑顔で応えられる。それでもまだ、殺気の欠片もなかった。
「わかりました、いずれまたお誘いしましょう」
「応えられるかどうかはわかりませんが」
「なに、お気になさらず。応えられなければ全力で立ち向かうまでです」
右掌を上へ向けて、自信ありげな笑みを見せる。
その様に、満ちあふれる自信を感じた。
「では、最後にご忠告しましょう」
「脅しですか?」
「いいえ、単なる忠告です」
僕の失礼な軽口も、カンパネラは受け流す。
仕事中だからかもしれないが、人間の出来では正直勝てる気がしなくなってきた。
「数日前、この街にフラム・ビスクローマの部下が四人入りました。いずれも魔法使いです」
「……こちらも斥候ですか?」
「そちらも違います。彼らの目的は、カラス殿、明確に貴方ですから」
ぴ、と人差し指を立てて講釈するように言葉を吐く。
僕が目的。その言葉に、何故だか背筋が凍った。
「私の部下からの報告ですが、恐らく目的は貴方の調略……それも強引な」
「〈貴婦人〉も、……というか、強引というと、……」
「調略に応じないとなれば、拉致にかかるでしょう。その後、再教育して部下として運用するのか、それとも別の目的で使うのかはわかりませんが」
そうは言うが、カンパネラの表情から、恐らく後者。
しかし、別の目的……? 部下としての運用でないとは……。
「魔法使い四人。カラス殿はいかにして撃退するのでしょう?」
「……さあ、来てみないことには……」
僕は頭を掻いて、軽く返す。
というか、撃退という敵対行動を取らなければいけないということは、その時点で僕はムジカルと敵対するのではないだろうか。
「穏便にかえってもらわなくちゃ困りますかね?」
「いいえ。今回のは王命もないフラムの独断のようです。仮に殺したとしても、あの女が地団駄を踏むだけ。そして、それでもなおラルゴ様は受け入れてくださるでしょう」
カンパネラはにっこりと微笑み、……そんなに『ラルゴ様』は魅力的なのだろうか。
「また、仮に……先ほどの話を受けてくださるのであれば、その時は私の全権を以てムジカルまで護送しましょう。もっとも、カラス殿がその程度の輩に不覚を取るとも思えませんがね」
「どうでしょうか。魔法使いの方を相手にするのはあまりないので」
機会がない。というか、魔法使いの絶対数が少ないので会うことすらあまりない。ムジカルの王都ではそれなりに見る機会はあったが、五十人ほどしかいないこの国では特に。
「そうですか。まあ、開戦のその時までお誘いは有効ですので、是非ともご一考ください」
「ええ、まあ」
僕の曖昧な返事に笑みを見せ、カンパネラは一度会釈をする。
それから……。
「…………!」
ずぶずぶと地面にその身体が沈み込んでゆく。
人通りはないわけではないのに、通行人がまだこちらに視線を向けていない数秒間のこと。
頭まで完全に沈んだ彼の影が、蒸発するように小さくなって消えていった。
魔力を這わせても、スヴェンのように地中に潜っただけというわけではないらしい。
もう既にそこにはおらず、何の反応もない。
話し相手が突然消えた街角。周囲の声が耳にまた飛び込んでくる。
まるで何もなかったかのような街の風景。
記憶に残る、魔法使いの異常な光景。
その対比に、石畳を見つめたまま僕は苦笑いをした。
レイトンから、街を発つ目処が立ったと連絡が来たのがその二日後。
ようやく、王都へと向かう日が来たのだ。




