悪いお店が消えた街
昼ご飯には少し早い午前。
僕たちは五番街の外れにある食堂に向かうため、二人並んで歩いていた。
「そっか。……この街は、大変だもんな」
「本当に」
モスクが、両手を頭の後ろで組んで天を仰ぐ。反射止めのない眼鏡のレンズが、空の青さを映していた。
そろそろこの街を出ることをモスクに伝えようと五番街を歩いていると、ちょうど昼食をとりに向かうモスクと行き会った。そこで、一緒にご飯を食べようと相成ったのだ。
まだまだ周囲の工房で、多くの職人たちは仕事中だ。
道を歩いていても、煤混じりの煙がたまに漂い、金属を叩く音はどこかから聞こえてきている。
多分、この金属を叩く音は前よりも多くなっているのだろう。一昨日リコに聞いた話では、戦争に備えているのはもちろん仕立屋だけではないらしい。
鎧に刀剣、槍や鏃まで、今は大量生産の真っ最中だ。どれほど多くとも足りることはない。
きっと職人たちも仕事が増えて喜んでいるのだろう。戦争の特需。ムジカルでは、常に体験していたことだ。
僕の横を誰かが駆け抜けてゆく。
急ぐわけでもないが、それでも楽しげな足取りで……楽しげな?
通り過ぎていった男たち、それも複数人だ。
走るのが楽しいなどそういうわけではなく、そして良いことがあったわけでもないらしい。
だが、これから良いことがある。もしくは楽しいことがある。
そんな足取りで走っていった。
僕とモスクは顔を見合わせる。
僕はもちろんモスクも事情はわからないらしく、きょとんとした顔で首を傾げ合う。
「何だろうか」
「何だろうな」
通り過ぎていった者たちは、全て軽装。何かを持っているわけでもなく、何かをするために行くわけでもなさそうだった。
また一人、小走りで駆けてきた者が、僕にぶつかりそうになったのを避けると、向こうもぶつかると思ったのか少し歩調を乱していった。
悪い、と口だけ動かすような小さな声で謝っていった彼に会釈で応える。
何かあったのだろうか。
そもそも、どこで何があったのか。それが少しだけ気になった僕は、脇にあった建物の上で佇んでいた鳥に、手で合図を送った。
この柄は覚えている。少し前に一度だけ僕の家に餌目当てに来た雀だ。
人の顔と違って似ている柄が多いから、少しだけ自信がないが。
だが、来てくれたということは間違いないのだろう。
雀は「なあに?」というような表情で、僕の指へと飛び乗った。
「この近くで、人間が集まってる場所があるか探してください」
「え?」
僕が雀に話しかけると、モスクが声を上げる。
驚いたように、少しだけ笑いながら。
ヂ、と短く言った彼は、すぐさま飛び立っていった。餌を期待してのことだろうが、素直に聞いてくれて何よりだ。
「鳥……使い? 調教でもしたのかよ」
「話せるようになった」
「え?」
理解しがたい。そういう目で僕を見るモスクを尻目に空を見れば、先ほどの雀が旋回しつつ戻ってきた。どうやら近いらしい。
今度はテンテンと地面を何度か跳ねて、それから僕の外套に飛び乗ろうとする。
ズボンは問題なくよじ登る。しかし、その爪が外套に刺さらなかったようで、ずり落ちそうになった。それを手で受け止めると、ふう、と一息ついたように彼が目を細める。
僕を見上げて、……これはご飯をねだる目か。
そっと肩に乗せて背嚢を背中から外し、中に手を突っ込んで探る。多分、乾燥させた練り餌があったはずだ。どちらかというと罠と僕のおやつ用だけど。
手でその紙包みを取り出して、開く。中にある褐色の米粒のようなものを指先に乗せて雀に示す。
それを一口啄むと、何度か咀嚼してからようやくまた口を開いた。
『人間、集まってる。光ってる人間も』
「光ってる?」
それはどういう意味だろうか。聞き返しても、雀は首を傾げるだけだ。多分、彼も知らない何かなのだろうが、それだけでは僕もわからない。
「どっちですか?」
そう問いかけると、『もう一粒ね』と言い、再び空に舞い上がる。今度は、僕たちの上をゆっくりと。
「な、光ってる、って何の話だ?」
雀を見上げて問いかけてきたモスクだが、その言葉は僕もわからない。
「人間が光っているって言ってた。何のことかは僕もちょっと……」
「……まさか、光る人間なんてそうそういねえだろ」
「まあ、多分」
物理的に光る人間がいないわけではないだろうが、そうそういるわけでもないだろう。何かの比喩……を鳥が口にしたのは聞いたことがないので、比喩でなければ何かが実際に光ってる。金属か何かの反射かな。
通りから外れるように右へ曲がり、そしてまた出た大通りを左へ。
雀に従い歩いていたら、ようやくその人だかりが見えた。
路地を覗き込み、遠巻きに何かを見ている。その脚の隙間から、壁際に確かに何か金属のものがちらちらあるように見える。
もっと近づき、人だかりのすぐ後ろまで近づく。
そこで、ようやく人だかりの意味がわかった。
「……戻りましょうか」
「え? 何で? 何があんの?」
まだ見えていないモスクが、人だかりの上を覗くように背伸びをして身体を左右に振る。
だが、そこまでして見るものでもない。
むしろ、楽しいものではない。けっして、楽しくも面白くもないものだ。
そのはずなのに。
「あっ…………」
少し人だかりに入り、ようやく見えたらしいモスクも無言になる。それから頷きあって元来た道へ戻るべく、僕らは歩き出した。
ざりざりと、石畳が鳴る。
楽しい午前、というわけでもなかったが、気分は少しまた下がってしまったと思う。
先ほど見えたのは、しゃがみ込んだ衛兵。
光る人間というのは、衛兵のことだろう。着ている鎧の所々が、金属製で光ってる。『もういいの?』と、舞い降りてきて僕の掌から餌を啄んで持っていった雀に聞いたわけでもないが、多分。
衛兵が、五番街の通りから更に入った路地の壁際にしゃがみ込んでいた。
それも、無意味なわけではない。ただそれだけでは、きっと何も騒ぎになるわけがない。
だが、騒ぎになっていた。
当たり前だろう。
そこに、死体があるのなら。
丸めた布担架のようなものを担いだ衛兵が二人、すれ違うように駆けてゆく。
それから、かけ声。力を合わせるような。
すぐに運び出されたのだろう。人混みは割れ、布が被せられた担架が誰かを乗せて運ばれてゆく。その様を振り返り少しだけ見ていた僕は、もう見たくないと目を瞑り、モスクと並んで早歩きで抜け出した。
「女、だったな」
「そうですね」
もはや丁寧語をやめる気力もない。そんな気分で餅を啜る。薄い餅の皮に包まれた野菜だけの餡が、皿の上にこぼれた。
目当てだった食堂。モスクとは並んで座る。
そこで、とりあえず何が食べたいかと話しながら料理を頼んだ後、話題は先ほど見た死体に移っていた。
もっちゃもっちゃと頬袋を膨らませるように咀嚼しながら、モスクが器用に溜息をつく。
僕も、その死体の姿を思い出す。薄暗い路地の奥だが鮮明に覚えている。
死んで時間が経ったわけではないのだろう。新しい死体。着衣を乱れさせ、全身に傷を負っているような姿。僕らよりも幼い。
明らかに、人為的な死体。誰かが誰かを殺した。そんな光景。
誰かが誰かを殺した。本当だったら大事件だ。ネルグの森の中や、どこかの野外ならばまだしも、この街中で死体が見つかるなど大騒ぎになるだろう。
本当だったら。
しかし、ならない。
そんな現実に、刻まれた野菜を掴んだ箸が震えた。
「最近多いんだよなぁ。貧民街の奴らが、この辺で捕まるのがさ」
喉を膨らませるように、モスクが餅を飲み込む。たしか米が詰められているものを頼んでいたはずだが、喉に詰まらせないといいけど。
そんな心配をよそに、モスクがもう一口大きめの餅を頬張る。急ぐ必要などないのに、急いでいるように見えた。
よく食べ物を口に入れたままで器用に喋れるものだ。
「しっかし、とうとう……死体かぁ……」
死体の背格好を思い返して、飲み込みづらかった一口を強引に飲み込む。
とろりとした餡の口当たりが、体液を想像させた。
失礼な話ではある。間違えていたら、きっと申し訳ない。
だが、多分間違いない。同類の臭いは、僕らにはよくわかる。
粗末な服、上下のデザインも揃えておらず、靴も左右違うもの。荒れた爪、栄養状態も悪く遠目にも綺麗とは言い難い。筋張った手足。痩せているのに少しだけ膨らんだ腹部。
死んでいた女性。彼女自体は見た覚えがない。
それでも確信できる。彼女は、貧民街に住んでいた。
「捕まるって……何して?」
「色々。盗んだり、ひったくりしたりとか。俺も全部見たわけじゃないけど、日に一人は捕まってるらしい」
皿に残っている餅のゆで汁を、皿を傾けてモスクは啜る。それ、本来飲むものじゃないと思う。まあ僕も飲むけど。
「でも、今回はやったんじゃなくて……」
「やられたんでしょうね」
ジャキジャキと、口の中の葉野菜の葉脈が鳴る音が、僕の耳に響く。
まるで、誰かが砕かれている音。
今回の件、大事件にはならないだろう。
やられたのは、最近よく捕縛されているという貧民街の住民。これが仲間割れならば、それでもそこそこの事件になって終わる。
しかし今回、貧民街の女性を殺したのが、街の人間ならば。
善良であるはずの街の住人ならば。
「やっぱ考えちまうよなぁ」
モスクが、ぽつりと呟く。
「本当は俺もああいう風になったかもしんないって思うと、さ」
眼鏡を外して、目の周りを掻いていた。泣いているわけではないだろうが、そんな雰囲気だった。
「たまにさ、通陽口にも来てたんだよ。衛兵じゃない、酔っ払いとか、ふざけてんのかとも思うけど」
「…………」
「わざわざ、通陽口の階段を降りて、下に住んでる馬鹿どもを引きずり出しに来るんだよ。そんで、運悪く通気口の中に逃げ込めなかった奴は捕まってボコられる。意味なく」
「……楽しいんでしょうね」
僕の奥歯が鳴る。もちろん、皮肉だ。
モスクも頷く。眼鏡をかけ直してこちらを見るが、ちょうど反射で目が見えなくなった。
「何回か、通気口の中から見てたけど、奴ら大抵、笑ってたよ」
ちょうど入り口側、背後に座っていた男たちが笑い声を上げる。
関係ない話のはずで、彼らに何の咎もないはずだが、少しだけ不快だった。
「そんで、もっと珍しいときには、反撃されて死ぬんだよ。通陽口の穴に落ちて」
モスクが首を少し傾げ、ようやく目が見える。
僕は箸を置いて、頬杖をついた。
「そうすると、……どうなるかわかるだろ?」
問われるが、答えたくない。
大体想像がつく。ミールマンの通陽口は、ここイラインの貧民街と同じようなものだ。
「……衛兵が来る。行方不明になった奴らを探して」
「そう。どうやって突き止めるんだか知らないけどさ」
モスクが指を組んで腕を伸ばす。パキパキと肩が鳴った。
「俺も、あそこで死んでたかもしんないから……なあ」
「……嫌な話です」
殺されても文句は言えず、殺せば罰される。
明確な身分差のある貴族と庶民の間でさえ、もう少し礼節がある。寛容さがある。
「グスタフさんが生きていればよかったんだけど」
「でも、爺さんはもういない」
たらればの話。言って、モスクに即座に否定されて僕は思い直す。そうだ、生きていたらと悔やんでも何もならない。今はもう、グスタフさんはいないのだ。
「捕まる人が増えている。それはグスタフさんがいなくなったからでしょう」
「だろうなぁ」
僕も皿に残った汁を啜り、静かに皿を置いた。
あまり味がない。溶けた小麦粉の味しかしない。
「……食べ物を、直接手に入れる手段を失ったから」
僕は今ここで食事をしている。だが、それは貧民街の住民にとっては簡単ではないことだ。
食べ物を手に入れる。彼らも、ネルグの森に入れたら簡単なんだろうけれども。
今までは、石ころ屋があった。
盗み、ひったくりをして、そうして物を手に入れるのは変わらない。
だが、石ころ屋ではその品物を食物に変えることが出来た。砥石でも、鋏でも。
それがなくなった今、食事を取るならば直接食べ物を手に入れなければならない。食料品のある店から奪うか、それとも街の外の畑から盗んでくるか。
今までは豊富にあった『悪事』の手段。
何でもいい。何かを手に入れられれば、食事を取ることが出来ていた。
しかし今は限定されてしまっている。
手段も、機会も。
だからこそ、簡単に捕縛されているのだろう。食料品店に網を張り、畑を見張っていれば彼らは簡単に捕まえられる。
無能な衛兵たちにも、簡単に。
「これから、死人は増えていくんでしょうね」
そして、それは止められない。この街がこの街である限り。
処刑される人間もいるかもしれない。餓死する人間もいるかもしれない。嬲り殺しにされる人間もいるかもしれない。どれも、実際にもう出ているのだろう。
止まらない。『悪い奴らを許さない』、そんな街である限り。
モスクは頷く。だが、僕の意図を汲んだのだろう、それに対しては首を振った。
「でも、また石ころ屋が出来るのもマズいだろ」
「……ええ」
いいわけがない。
盗み、奪い、人を騙す人間を支援する組織。結果的にそうなったのではない、そうなるべくしてなった組織。
そんなものが出来ることも、必要になることもグスタフさんすら望んでいなかっただろう。
悪事を働く醜いはずの姿を、あの日初老の男の首を落としたグスタフさんは見せたかったのだと思う。
僕があの男の死を見て喜ぶのまで見越した上で。
「それでも、どうすりゃいいのか俺にはわからん」
「僕もですよ」
怒鳴って差別感情がなくなるのならば話は簡単だ。差別される要因がなくなるのならば簡単だ。だが、どうもできない。
貧民街の住民のほとんどは、働かないのではない。働けないのだ。
魔物うろつく森に入り食物を手に入れる強さもなく、田畑を耕し育てる技術もない。街に入り、手に職つけることもままならない。
人の心は変えられないし、行動様式も外から変えることは出来ない。
今後も街の人間にとって貧民街住民は獣でありつづけるのだろうし、貧民街住民は食べていくために街の人間の脅威になり続けるのだろう。
今思いついた。
「いっそ全員で、開拓村でも作ってくれたらいいんじゃないでしょうか」
僕と同じく、森で暮らす。
街から離れて、自分たちで住みよい場所を作る。言いながら、良い考えだとは思った。
しかし、ネルグの森で暮らすのは、相応の武力が必要だ。デンアのような、とまでいくと過剰だが、それでも身を守る程度には。もしくは、それを雇える資金が。
そして、開拓村という小さなコミュニティでは、協力し合う協調性が不可欠。
言ってから考えてみれば、無理な気がする。というか、無理だ。
「家を誰が作る? 畑を誰が? あいつらが協力できると思うか?」
「うん。言ってから無理だと思った」
木々を切り倒し、家を建て、決まり事を作り生活する。開拓村は本来それらを全て住民だけでやるものだ。だがそれが出来る人材は、グスタフさんの主導で石ころ屋に吸収されているか、街の住民となっている。だからこそ今の貧民街があるのだ。
死んで当然の無価値な者たち。
皆、そう思っている。僕もそう思ってしまう。思いたくないけれど。
それから少しだけ他愛ない話をし、話も一段落した後、モスクは外の様子を確認するように身体を捻った。
そして、席を立つ。
「俺、そろそろ行かんと。午後から現場の監督あんだよね」
「ああ、そうだったんだ」
なら、僕も帰ろう。伝えたいことは伝えた。
僕が近いうちにこの街を去ること。
「そうだ」
あ、とモスクが立ち止まる。チップの鉄貨を皿の下に忍ばせていた僕は、目で続きを促した。
「今度この街出てくなら、お前の家いらなくなるだろ?」
「そうだけど」
今度出ていくのは、旅行ではない。イラインはもう、きっと僕の帰る場所ではない。
たしかにそうだが……なんというか、家を失うのもちょっと残念な気がする。
「なら、金貨百枚で売ってくんない?」
「ひゃ……?」
そして、その残念な気も一瞬で吹き飛んだ。金貨百枚。僕でもあまり扱わない金額だけど、モスクは普通に払えるとでもいうのだろうか。
「え? そんな高給取りだったんですか?」
「え、……ああ、違う違う」
モスクは僕が驚いているのに驚いたようで、顔の前で手を横に振って否定する。
「転売すんだよ。良い物件があったら金貨百枚で、って人がいてさ。俺の儲けまったくないけど」
「……構わないけど、……世話料くらい取った方が良いと思うけど……」
あまりそういうのを気にしないはずの僕ですらそう思う。
というか、びっくりした。
「まあ、石ころ屋の爺さんからの払戻金があるから、転売じゃなくても買えるんだけどね」
動揺も落ち着いたところで、またモスクがすごいことを言う。
払い戻し……というと、焦熱鬼の髪の毛の……。
「つまり、……もう支援はなくなったんですか?」
「おう。一昨日、石ころ屋の人から受け取った。爺さんが死んでから、もう出来ないって」
……それも大問題じゃないだろうか。
モスクが石ころ屋の支援を受けている理由は、そう軽いものではない。
いつかミールマンの街作りに口を出せるだけの立場になれるよう、という話だったはずだ。
だが、執着は見えない。口調に悔しさがない。
それをもう、諦めたのだろうか。
「……やめるんですか?」
「やめないけど?」
色々と主語を省いて尋ねた言葉に、何を馬鹿なことを、という雰囲気で間髪を容れずに返される。
ならば、どうするのだろうか。
この街で、小さな建築工房を作って満足とでも言うのだろうか。
「ミールマンの件は諦めるとか?」
あの日に語った夢を諦めるのだろうか。それもまあ仕方ないとは思うけれど、……。
だが、モスクは僕の問いに眉根を寄せた。
「諦めるわけねえだろ、たまに馬鹿だな、お前」
溜息をついて、モスクは机に両手をつく。そこに体重をかけるように、身体を揺らした。
「元は俺がこのイラインで有名になって、適当な老舗建築工房の暖簾分けでミールマンに入って……って計画だったらしいけど、それはもう使えない。だけど、俺だってこの三年以上遊んでたわけじゃないんだぜ」
「もう目処が立っていると」
「おう。ミールマンの工房のいくつかに顔を繋いである。資金さえあれば工房作ってもいいし、どっかに入ってもいいし。まあ、道がないわけじゃない」
ようやく顔が曇る。
道がないわけじゃない。その言葉の通り、確実なわけではないのだろう。
だがそれでも、やはり。
「だから、これからまずここイラインで成功できれば盤石ってわけよ。ついでに経歴の洗浄も出来るからな」
「そんな大事な時期だったんですか」
はあ、と僕は感嘆の息を吐く。
ならばいい。喜ばしく、そして頼もしい。
「ま、話を戻すけど、家は売ってくれんだな? だったら、イライン出てくときに俺に声かけろよ。登記とか書き換えるのも俺やるからさ」
「わかった」
事務処理までしてくれるのならば楽な限りだ。
このイラインで目標にしていた家。それを簡単に売り払えてしまう自分にも少し驚いているが。
「居場所はハイロさんが把握してるだろうから聞いてくれな」
「……それは、ちょっと」
大体は了承した。
だが最後に口にされた言葉に、僕は詰まりながら否と言う。
ハイロに聞くことは出来ない。ハイロが、望んだことだ。
「なんで?」
きょとんとした顔で、モスクが不思議そうに僕を見る。僕も言いづらい、が言わなければなるまい。
「……この前のリコさんの事件以来、距離を取ろうと言われてしまったので」
ハイロに悪意があるわけではないだろう。
だが、どう言えばいいかわからない。ふとした言い方で、悪者扱いしてしまうかもしれない。
「距離、ねえ……?」
モスクが人差し指を咥えて何事かを考える。
思索の後、首の後ろを掻きながら渋い顔を作った。
「まあ、確かに怖いかもしんないし、馬鹿なあの人なりに賢い選択じゃん?」
「そう思う」
僕も、そう思う。馬鹿とまでは言い切れないけど。
「まあよくわかんないけどわかった。じゃ、今世話になってる工房、帰りがけに教えてやる。遠回りで面倒だけど仕方ない」
「わかった」
僕は頷き、了承を返す。
立ち上がり、給仕の男性に皿を示し、僕も外へ歩き出す。
話しているうちに顔ぶれが変わっていたのだろう。
また違う種類の笑い声が耳に響き、僕は片耳を塞いで凌いだ。




