紅茶でも飲みながら
作り笑いではなかったのか、哄笑の尾を引いた笑みのままレイトンは頭を掻いた。
「本当に駄目? ぼくがこんなに頭を下げているのに?」
「……いつ頭を下げたんですか?」
思わず素になり、レイトンの言葉に反論してしまう。一瞬の後、それが冗談だと気がついて口だけで笑って誤魔化した。
「しかしまあ、即答とは思わなかったね。きみのことだし、少しくらい時間は置くと思っていたけど」
「この国は嫌いです。その答えはもう決まっています」
特に仕えたい人がいるわけではない。仕えたい国があるわけじゃない。
だがここは嫌だ。それだけでも、答えを決めるのには充分な要素だろう。
「随分と嫌われたもんだ。この国も捨てたもんじゃないのに」
呟くように言葉を吐きだし、レイトンは拳を作りながら指先の関節を伸ばす。人差し指の第一関節の鳴る音が微かに響いた
「ぼくやきみのような強者には恩恵が少ない国さ。でも先ほどの彼のような、弱者にはそれなりに使いでのある国だ」
「貧民街の弱者には辛辣なのに?」
「あれは彼らにとって人間じゃない。そうだろ?」
嘲笑うようにして聞き返される。その問いに頷くところだったが、頷きたくなくて唾を飲んで誤魔化した。
「この国の一員になるには、みんなの真似が出来ればいいはずなんだ。『私は貴方に敵対していません』『私はけして和を乱しません』とその態度で語ることが出来れば。それだけで、この国は住みよい街になったはずなんだよ」
ぼくらにもね、とレイトンは付け足すように呟く。
「そのために、ぼくらはその角を撓めなければならない。爪を隠し、牙を見せぬように笑わなければいけない。それが窮屈だときみは言うんだろう」
「…………」
「ムジカルはその気風から、爪を見せるのが美徳とされている。角を飾り立て、大きな牙を持っているのが良いことだと教えられている。たとえその爪が、角が周囲の人間を傷つけようとも」
「……ならやはり、ムジカルのほうが」
僕には向いていますね、と言おうとした。レイトンの言葉も、それを示しているのだろう。
だがその言葉を遮るように、レイトンはため息交じりに言った。
「でも、やっぱりぼくはきみがエッセン側についてほしい」
「……何故、ですか?」
知ってはいたはずだ。けれども重ねられた願い事に、僕はようやく何か事情があることに思い至ったのだと思う。
何か理由がある。そう思ってしまえば、その好奇心をあまり抑えてはいられない。
それを感じたのだろう。レイトンは、にんまりと笑った。
「そうだね。それも含めて話そう。きみを説得させてよ」
「お断りしたいです」
僕はそう答えたが、レイトンは笑って誤魔化し、石ころ屋の裏口を示した。
裏口から入ったのは初めてだが、予想以上にがらんと物がなくなっていた。
作りは表と同じ木造。だが、従業員用だろう通路は細く、部屋同士の繋がりはとても密になっていて、およそ客用とは思えない。
仮眠室のような恐らく寝室や、明細書を確認するための書斎のような小さな机だけの部屋がちらりと見える。
しかしそこにあったであろう備品の数々はごっそりとなくなったようになっており、生活にも不便そうで、まるで引っ越しの途中の部屋に入ったように感じた。
それ以上に。
ふと木の壁の線が滲んで歪む。
廊下を曲がるときにいつも手をついていたであろう角の一点の黒ずみ。癖なのだろう、同じような場所を踏んできたために削れてへこんだ床。
……物がなくとも、やはりそこかしこに、グスタフさんの気配が残っていた。
「お茶でも入れよう」
「……おかまいなく」
レイトンは勝手知ったる部屋、とばかりに商品の倉庫らしき部屋に踏み込んでいく。その商品ももはや棚にはほとんど残っておらず、少し広めの部屋の向こう側が覗いて見えた。
レイトンが慣れた手つきで箱から取り出したのは、二客のカップとソーサー。器用に片手でつまんで抜き出すと、もう片手で銀色の缶を持ち上げた。
そして、そのまま部屋を出て、向かいの小さな部屋に向かう。
竈……でもないけれど、小さな鉄の脚が組まれた炉のような物の上にのせられた金属製の壺に、横にあった水瓶から水を柄杓で二杯注ぎ込む。
それから炉に、葉脈のような緑の筋が入った赤黒い石……ネルグで取れる燃料だろう……を四つ横からとって積むと、すぐに燃料同士が反応して火が上がった。
壺を燃料ごと丸ごと覆うような筒を被せて、汚れていないであろう手をはたいた。
「ろくな材料がないんだ。味は勘弁してよ」
ヒヒヒ、とこちらを見ずにレイトンは笑う。手際の良さに、慣れていると感じた。
僕はその背中から目を離し、また視線を倉庫の棚に戻す。見る限り埃が見えないのは、頻繁に物が出入りしていたからだろうか。それとも、手入れの賜物だろうか。
「……こんなに、物がなくなっているんですね」
僕の身長よりも高い棚。その上に手を伸ばすための梯子が見える。僕は実際にここが使われていたときの事は知らないが、それでもこんなに少ないことはあり得ないと思う。
残っているものといえば、今レイトンが食器を取り出した辺りに固められておいてある小箱。それと下の段に窮屈そうに押し込められている布製品の山。あとはわずかな食物か。
他にも布が被せられた大きな何かや、空の瓶などが並んでいる。
ぽこん、という泡の上がる音が微かに耳に響く。水がお湯に変わり始めた気配がする。
「さっき言ったとおり、価値ある品はニクスキーが一部エウリューケ協力のもと運び出してる。もうここに残っているのはガラクタばかりさ」
レイトンは背を向けたままそう応える。彼が立っている炊事場からして、多分薬品の調合道具が撤去されているためか、寒々しく思えた。
「残っている物ならば持っていっても誰も咎めないよ。好きにするといい」
「……欲しいものは、あまりないですね」
詳しく見てはいないが、ざっと見て僕はそう答えた。
壊れやすい食器は僕は要らないし、他も要りそうな物はない。
「そ」
言っている間にお湯が沸く。時間にして数分だが、あの燃料ならばそうだろう。重ねて潰すとバーナーのような炎を噴き出すネルグの根の化石。それに、鉄製の壺も考えれば。
缶から茶葉を取り出し、付属の匙で壺の中に放り込む。なんとなく、紅茶の良い匂いがした。
「手伝いますか?」
「いや。もう終わるからいいよ」
言うが早いがレイトンは横にあった布巾に柄杓で水をかけ、絞る。二枚重ねてあったそれを剥がし、一枚を間に噛ませて、先ほど壺を覆った筒を掴んで外す。
そして燃料に布巾を被せると、ジュウという音がして蒸気が上がった。
もう一枚の布巾。それを使い、壺の口を掴んで持ち上げる。
そこから器用にカップに注がれたお茶は、僕が知る普通の紅茶だった。
「……さて。店の入り口まで行こう。あの部屋が一番広い」
片手でソーサーに乗せたカップを二つ持ち、レイトンは笑顔を作る。
その指示に従い、石ころ屋の……いつもグスタフさんが座っていた場所を通り過ぎ、客の位置に立つ。
レイトンの意味ありげな視線の先を追えば、そこには二脚の椅子。
少し間を開けて並べれば、ちょうど酒場の長い机のような風情となり、机の上にお茶を置いた後、僕に続いてレイトンは椅子に腰を下ろす。
まるでバーテンダーのいるバーのような形で、僕らは隣り合って座った。
「……それで、どんな話を……?」
言いながら、僕は紅茶を口に運ぶ。フィルターなど何も使っていないはずなのに、カップの中には茶葉の欠片も見えない。
恐らく鉄製の壺を使ったせいで黒ずむのではないかと思ったが、水色は完全に普通の紅茶だった。
口に含んでも、鉄タンニン……だっけ? それで味が落ちているという感じもなく、むしろ香り高い艶のある香りが鼻の奥に広がった。
どういう手品を使ったのか。多分、僕が普通に淹れるともう少し不味いと思う。
「ぼくがきみをエッセン側に置いておきたい理由」
レイトンも一口紅茶を含み、静かに、音を立てぬようにカップをソーサーに置いた。
「プリシラを、誘き出すためさ」
静かに吐き出された言葉に、室内の温度が少しだけ冷たくなった気がした。
「プリシラさんを、ですか? 何故そんな……」
というか、何というかまた迂遠な計画だ。僕の存在とプリシラの行動。やはり僕には全くかみ合っている気がしないのだけれど、この男には噛み合って見えるのだろうか。
「あいつがどんな女か知っているかな?」
「……いいえ、あまり多くは」
「たしか、勇者の言葉だったかな? 『弱きを助け、強きを挫く』」
「…………?」
「弱者に力を貸して、強者に対して牙を剥く。そういう女さ」
端的に表現された言葉。正直、あまり悪い印象がない気がする。
僕の方を向かずに、もう一度レイトンは紅茶を啜った。
「『義をみてせざるは勇なきなり』。千年の昔、勇者は魔王退治にその力を貸す心根を尋ねられたときにそう答えたという。そして、義とは何かと聞き返され、先の言葉を口にした」
「悪いことではないのでは……?」
勇者を引き合いに出されたからではないが、やはり悪いことではないと僕は思ってしまう。
「きみもよく知っているだろう。プロンデ、思い返してみるといい」
「……ああ」
プロンデという名前。言われて、少しだけ意味がわかった気がする。
そうだ、プロンデは、プリシラに殺されたという。レイトンかプリシラか、どちらかに殺され、そしてウェイトすらもプリシラが殺したと思っているという。
そして、はたと気がついた。
……強きを挫く。その言葉は、まさか……。
「プロンデさんが殺された理由というのは……」
「そう。あいつは、強かったから殺された。つまらない理由さ」
カップを持つ手が少しだけ震え、水面に映った僕の顔が揺れる。これは、何の感情だろうか。
「あの女が可愛いというのは、助けるべき弱者に対しての話だ。いや、助ける余地がある弱者と言ったほうがいいかな」
いつの間にか、レイトンの笑みが種類を変えていた。
口元は笑みを浮かべている。だが、目元は何かを見つめるように細められていた。
「そんな悍ましい趣味の観劇のため、この四十年近くあの女はこの世を彷徨っている。ぼくはそれを追い続け、そして最後に接近できたのがあの時のリドニックだ」
レイトンが天を仰ぐ。朝の日差しが消えかかり、黄色みよりも白みを帯びた日差しに目を細めているようにも見えた。
「まったく厄介な姉だよ」
紅茶のカップを傾けながら、見方によっては楽しそうにそう口にする。褒めているのか貶しているのか。それが未だにわからない。
「そして、近く、そんなあの女が大喜びで観戦するだろう祭りがある」
「エッセンとムジカルの戦争……」
「そうさ。大勢の人が苦しみ、助けを求める。戦場には力を尽くして果てる弱者がいて、政では立場を失い没落する者が出る。あの女が見逃すはずがない。そして……」
レイトンが指をくるりと回す。僕の方を見ずに。
「話を戻せば、牙を持つことを許されないこの国と、牙を研ぐことが美徳とされている国。国力自体は拮抗していても、この戦争の行く末は明らかだ」
僕は唾を飲む。
レイトンの言う行く末。それは、エッセンが負けるということ。
「どれだけの死力を尽くそうとも、この国は負ける。そんな可愛い国の行く末を、あの女は見に来ている」
「……来ている、というと、既に?」
「ああ。グスタフの死を看取ったのは、あいつさ」
僕の背筋が震える。要らない想像までしてしまったのだと思う。看取った、だけだろうか。
「看取っただけだよ。死に至るグスタフとあの女は話し、死んだのを見届けてこの店を去った。グスタフの右手にその痕跡が残っていた」
「……そう、ですか」
少しだけ安心したのだろう。僕は紅茶を一口飲んで、喉を湿らせる。少しばかり温度は下がっても、良い匂いだ。
「だから、あの女はこの国にいる。だからこそきみに頼みたい。この国についてほしいと」
「……相変わらず、話の関連が見えないんですが……」
「あいつに安穏とさせておきたくないのさ。ただ観戦しているだけじゃ、尻尾をつかめない。このままじゃ、あいつはただ涙をひとしずく流して、楽しんで終わる。そうさせたくない」
指先だけ苛つくように、レイトンは机を叩く。
「こと戦場にいるかぎり、いいや、仮に王都に留まっていたとしても、きみの参戦はそれなりに大きな事件だ。敗戦確実のこの戦が、どちらが勝つかわからない不確定な戦になる。そうすれば、あいつは必ず修正をしようと演出に現れる」
「それなら、僕よりもレイトンさんのほうが」
自分でやったほうが早いと思う。僕がわざわざ手を出すよりも、意図も読めるし臨機応変に動けるだろう。
「きみは魔法使い。戦場に与える影響という観点では、ぼくは足下にも及ばない」
だが、それを言われると反論できずに困る。
「到達者……〈山徹し〉デンアが参戦すれば、またそれでも戦況は一変するだろう。個人で戦場を支配できるような猛者は、魔法使いを除けばそれくらいさ。この国の最高戦力、第一聖騎士団長も個人の武勇という点では変わりない。もちろん、戦場におけるその武勇の比率を極限まで高めるべく使われるのが、戦術というものだけど」
「エッセンにも魔法使いはいます」
「数が違う。質も違う。テトラ・へドロンが何人いようと、きみは勝てるだろう?」
僕は頷けず、口を閉ざした。
テトラ。懐かしい名だ。たしかに、彼女が相手ならばいくらでも勝てる気もするけれど。
「そういう意味でいうならば、あのクラリセンで死んだヘレナ・クニツィア。彼女のほうがまだ目があった。魔物使いは一人で軍勢を率いるのも同じだからね」
……それも、懐かしい名前だ。彼女を殺すために助け、そして目の前で死なれてしまった。失敗、それも取り返しのつかない。結果的に大勢に影響はなかったとはいえ、やはり苦い味はまだ残っている。
「まあ、だから、ぼくはきみにエッセンについてほしい」
紅茶をまた傾ける。冷めてきたのか、一口が大きくなっていた。
「…………」
僕は黙り込む。だがそれも一瞬のことで、頭を一度掻けばすぐに答えは出た。
「ですが、それはレイトンさんの都合です。僕はやはり、エッセンには……」
残りたくない。
そう口にする前に、レイトンの口が開く。遮るように、結論を出させないように。
「そう言うだろうね。わかってるさ。だからこその、説得だよ」
「説得は失敗じゃないですか?」
「ヒヒヒ、まだ事情を説明しただけさ。これからのきみへの説得をしやすくするために」
ケラケラとレイトンは笑う。これは前座だったと。
相変わらず多弁な男だ。
「さっきぼくは言った。この戦争は負ける、と」
「ええ」
そう聞いて、僕は何も思わなかった。今ですら、負けてしまえばいいとさえ思う。
負けて痛い目を見れば、少しはこの国も変わるのではないだろうか。
「ネルグを挟んで行われる戦い。その進軍経路は、きっと南側に大きく偏るだろう。北側の山岳地帯は大軍を移動させるのに不向きで、そしてリドニックは騎爬も騎馬もほとんど通れない」
「だから、この南側が激戦区になる?」
「そうさ。ここイラインが、前線に関係する大きな基地になるだろう。クラリセン、ライプニッツ領なんかに前線拠点を配置しながら」
だからどうした、と思う。
そのためにこの街は軍備を整えている。貧民街をまた肉の盾にするべく石の壁を作りあげ、道路を舗装した。僕は知らないが、きっとそれ以外もやっていることだろう。麦の備蓄や矢の増産。その他、いつか戦うための備えを。
「けれど、この戦争は負ける。街も開拓村もムジカルにことごとく挽き潰され、このイラインは墜ちる」
楽しそうにレイトンは笑う。楽しい話題でもない気もするが。
「そのときに、このイラインはどうなると思う? ムジカルの敗戦国の扱い、それはきっとぼくよりもきみのほうが詳しいだろう?」
「…………」
レイトンに言われて、ようやく思い至る。たしかに、よく聞いた。そして見てきた。
「エッセン国ではなくムジカルのエッセン地方と変わり搾取される。それは最終段階だ。そこに至るまでに、物資は収奪され、人は殺され犯される」
「それ、は……」
「先ほどいたきみの友だち。そういう人たちが、まず被害に遭うだろうね」
「…………」
街の人間などどうでもいい。そう言おうとしたが、言葉に詰まる。たしかに、嫌いでもない人はまだいるにはいる。だが、彼らは僕の従属物でも何でもない。
「ならば、先にどこかに避難してもらえば」
どこでもいい。隣国ミーティアは難しくとも、リドニックやピスキス、その辺りならばまだその余地はあるだろう。
「彼らには彼らの生活がある。それを奪う責任を、きみはとれるのかな?」
「……死ぬよりはマシだと、納得してもらえばいいんじゃないでしょうか」
「便宜を図ることは出来るだろう。だけど、それを決めるのはきみじゃないね」
もうほとんど空になったカップを、レイトンはソーサーの上に置いて手を放す。
底に残った紅色が、透けて薄くなっていた。
「そして今回の戦争。これはいつもの小競り合いでは終わらないだろう。伝え聞く話から推測した、ぼくの印象だけど」
「小競り合いでは終わらない……。このイラインまで落ちた程度じゃ終わらないと」
「いつものは、兵たちの相当数が死んだ辺りで終わっていた。これ以上は益が少ないと判断してのことだろうけど。でも、今の両国は大きくなりすぎた。多分、今回は決着まで行く。互いの首都を狙い合う決戦までもつれ込むだろう」
「王都まで戦火が伸びるということですね」
僕が無意識に薄く笑う。一口飲んだ紅茶が美味しい。
王都まで戦火が伸びる。それもいいかもしれない。
以前王都まで僕は行った。その時にすらも、くだらない政争で、何の咎もない少女が命の危機に陥った。一人の女性が子供を望めない身体にされていた。
そんな人を人とも思わない貴族たちに火の手が及ぶ。それもまた愉快な話だ。
「その時に被害が及ぶのも、また弱い者たちからだ」
戦火に慌て、武器を取る髭を生やした恰幅の良い貴族たち。
そんな様を思い浮かべていた僕に冷や水を差すように投げ込まれたレイトンの言葉。
その言葉に、カップを傾けつつあった僕の手が止まった。
「持つ者は奪われ、持たざる者はその身をもって償いをすることになる。何も悪いことをしていない以上、償いというのもおかしな話だけれどね」
「……僕には関係のない話です」
くい、とカップを傾ける。紅茶がやけに苦く感じた。
レイトンが僕の目を見る。口元が、笑みを強めたように見えた。
「王都は当然副都よりも物資は豊かだ。食料もあれば、美術品もある。それに、人も。……そうだね」
顔を上げ、口を開けてレイトンは笑みを作る。
「王都には多くの人がいる。庶民、商人……、貴族……、……その娘」
ようやく気がついた。探るような口調、僕の反応をこの男は見ていた。多分、ずっと。
もう一口わずかに飲んだ紅茶の味がしない。
意識して表情を変えないようにするが、もう遅い様子だった。
「地位ある商家や貴族は、家を保つための結婚の他、見目麗しい相手も作りやすい。当然、庶子であろうその子たちも美貌を保つことが多く、ムジカル兵の目を引くだろうね」
言いたいことが見えてきた。
その言葉に、否と言いたいけれど。
「さらに地位というのは覆すことへの誘惑も甘美だ。地位が高い者を屈服させたい、というのは万物の望みの一つでもある」
重ねられた言葉に確信がある。僕は誰かを思い浮かべて、そしてレイトンはそれを知った。
「ぼくはきみが誰を思い浮かべたのか知らないよ。でもきみは、そんな彼らのことをどうでもいいというのかな?」
「…………」
「男かな、女かな? 屈強なムジカル兵に屋敷の扉が打ち破られ、家人共々強引に武装解除される。それから危険がなくなったことを確認した兵たちは、見目麗しい彼らを押し倒し、衣服をはぎ取り……」
「随分と、楽しそうですね」
意趣返し、とばかりに出した僕の言葉に力がないのが自分でもよくわかる。
「なに、きみが王都行きを決めれば、そんなことは起こらないような未来の話だよ」
「…………」
なるほど、説得、か。
『僕が行かなければ、こういう悲惨な目に遭う人がいる』、と。
それはどちらかといえば、脅迫というのではないだろうか。
「まあ、一般論に話を戻すと、国が嫌いでも、その全てが嫌いというわけではないだろう? 美術品、嗜好品、音楽、料理……」
一般論、といいながらだが、口調は多分まだ僕の反応を探っている。……と思う。
「……美味しい料理。まだ食べていないものだってあるはずじゃないかな」
「いつかはまた食べられますよ」
エッセン地方、となっても永久にそのままではない。ムジカルでは国家の独立も頻繁に起こっていた。いずれまたエッセン国となり、その時にはまた料理は楽しめるだろう。
特に、僕の寿命は長いのだから。
「変化というのは進んでいくだけだよ。仮に元通りになったと思えても、それは元通りに見える新しい形態さ。今このときの料理を楽しむなら、今しかない」
「…………」
……今度はきちんとした説得な気がする。
いやまあ、たしかにまだ食べていないものはいくらでもあるし、あのとき王都で食べ歩きも出来なかったんだけど……。
「そうだね。この国に仕えて、とかそういうのはまだ考えなくてもいい。とりあえず、ぼくと一緒に王都へ行かないかな? 大きな前夜祭を見に、さ」
「前夜祭?」
紅茶を飲み干す。味が少しだけ戻ってきた気がする。
「公式に明言されているわけじゃない。だけど、近く絶対にやるだろう」
「何の話です?」
相変わらず、何のことだか言わない。ここまでは珍しくきちんと説明したのに。
じれったくなって僕が促すと、レイトンも紅茶を飲み干した。美味しそうに喉が動く。
そしてカップを置いて、また静かに口を開いた。
「勇者の召喚。千年前の奇跡を再び行うのさ」
紅茶ではなく、唾が喉の奥に飲み込まれる。
僕はその言葉に、行きます、と小さな声で応えた。




