やめるのか
僕が冷却し、青白く染まった空気の中、ニクスキーさんの手が止まる。
いや、本当に止まったわけではない。
ほんの一瞬、ただ、空中に展開していた数十本の小剣の世話を少しだけ止めたのだ。
小剣が落下し、足下でいくつも金属が跳ねる音がする。目は向けないまでも、その音がやけに耳に響いた。
何をするかはわからない。だが、確実に次の一手だろう。そう予測した僕は、展開されてまだ空中に残っている剣ごと何度も拳をたたき込む。
こちらを向いていた刃物たちが、指の間に何本も刺さる。その柄を突き刺すように何度も突きを繰り返す。
だが、手応えがない。
打撃は当たってはいる。ただ、片手で全て防がれているようで、僕は舌打ちをした。
横薙ぎの手刀を横に倒れて躱し、そのまま脇腹を蹴る。
やはりそれは防がれるが、僕の手は止まらなかった。
ニクスキーさんの剣を凌げているのは、予習の結果だろう。
いや、別に葉雨流や黒々流に対抗するためにしたわけではないが。
ただ単に、これよりも少し優れている剣戟を僕はこの前体験しているのだ。月野流、スティーブンの道場で。
ニクスキーさんの剣は素早く、制圧しようとする分には容赦がない。
だが、スティーブンの剣はもっと鋭かった。速度も手数も劣っていたが、それを補い上を行ける老獪さがあった。
やはり、戦士としてはわからないが、剣士としてはスティーブンは未だに第一線にいるのだろう。ニクスキーさんの攻撃が、生温く見えるほどには。
だから今のところ凌げている。もちろん、凌げている理由はそれだけではないだろうが。
もう、倒れてほしい。
いいや、倒れずともいいのだ。ただ、退いてほしい。そう内心懇願しながら、僕は拳を振るい続ける。
肉を打つ感触が、敵とは違う。僕はニクスキーさんに敵意があるわけではない。そしてニクスキーさんも、多分僕に敵意はないだろう。
先ほどから幾度となく受けている斬撃も、僕が躱しているからとはいえほとんど急所から外れている。ニクスキーさんが本気ならば、簡単に僕の体など両断されてしまうだろうに。
ただ、先ほどの男に仕返しがしたい。自分が何をしたのかわからせたい。
そのためにニクスキーさんを引き剥がしたい。それだけなのに。
また一筋、僕の拳に傷が走った。小指の根元、中程まで小剣の刃が食い込んだ。振り払うと傷が深くなり、小指が皮一枚まで千切れそうになる。
ぐ、と握りとりあえず繋ぐ。中の筋肉がきちんと結合しているわけではないため、力は入りづらいが傷が癒えれば何とでもなる。
腕が重い。指の反応が鈍い。先ほどから与えられた傷を癒やしてはいるが、どれも中途半端で機能不全が出現しかかっている。
早めに決着をつけなければ。完全に筋肉や筋が断たれ、僕が立ち上がれなくなるまでに。
いいや。
立ち上がれなくなってもいい。
思考にノイズが走った気がする。
……今僕は何を考えた?
心の底にわずかに浮かんだ戸惑いに、一瞬僕の動きが止まる。
ニクスキーさんの鋭い突きをスウェーで躱せば、躱しきれずに顎に鋭い痛みを感じた。
伸びてきた腕を掴み、引き、背負い投げをするため床に足を滑らせる。
しかし上下を回転させて、反転した腕が僕の首に絡みつきそうになり慌てて手を放した。
立ち上がれなくてもいい。
そんなわけがない。しかし、そうだろう。足がなくとも飛べばいい。意識を失うことはないし、腱が切れても骨が砕けても、動くことは出来る。
そうだ、そうだ。
ミールマンの地下には、手も足も崩壊した死体と見紛う姿でも動き続けた魔女がいる。
焦熱鬼に、四肢を引き千切られ、溶けた鉄の塊のような姿になっても打ち勝った者がいる。
エインセルたち妖精は、肉体など持っていない。
僕ら魔法使いにとって、肉体の形など重要ではない。
僕ら化け物にとって、怪我をしようが立てなくなろうが問題はない。
いいや、正確には、立てなくなることがない。
壁を裂きながら迫る大振りの剣を下がって避ける。
そうだ。今もそうだ。
何故避けたのだろう。そうしているから攻撃動作も遅れ、膠着状態を作ってしまっている。
いや、避けるべきだ。
拳足は、どうしても金属には強度的に劣る。振るわれる剣に対し、素手で迎え撃つのは愚の骨頂だろう。
そうだ、その通りだ、普通の人間ならば。
だが、だとしたら何故。
何故僕は未だに避けているのだろう。まるで、普通の人間のように。
もう一撃、迫る剣に左腕を合わせる。
服を裂いて肉を通り、骨に当たったその剣は、豪快に血を散らしながら止まった。
痛い。痛いが、これは命を奪う痛みではない。肘を滴る血が温かい。
無表情を通してはいたが、ニクスキーさんが半歩ほど引く。警戒か、躊躇か。
「……退いてください。僕たちがここで戦うことに、意味はないでしょう」
「意味ならある。きっとその価値も」
これ幸いと僕が停戦を申し出るが、ニクスキーさんはそれを固辞する。
何故そこまでして止めるのだろう。何故。
あんな男を殺させないために?
いいや。それこそ納得できない。
あんな人間の命に、そこまでの価値はない。
もう一度。
半身になったニクスキーさんが両腕を開く。その間に展開された刃は先ほどよりも数は少ないものの、それでも十数本。
同じ手段ならば同じ結果だ。
次の瞬間から始まった剣の嵐。腕を盾にしながら、そこに飛び込もうとする。
だが、その剣の嵐と、僕の間。
空中に浮かんだように置かれた二つのガラス瓶。
茶色く半透明の瓶の中で、液面がちらりと見えた。
引き返せない勢いのまま、反射的にその液体に対して防御姿勢をとる。腕を体の前に置き、その瓶に直接急所が接触しないように。
時間が引き延ばされ、ゆっくりとなった視界の中で、思考が展開される。
水ではないだろう。まさか、ガラス片での攻撃などほとんど無意味なことをするわけがない。
ならば、中身の問題だ。
ガラス瓶は二つ。液体同士が反応する薬品だろうか。混ざると爆発する液体。そういうものがあると聞く。……だが、ここは民家。出来る限りニクスキーさんは目立たないようにするはずだ。
であれば、毒? ……であっても問題はない。体内に入っても排出できる。
問題ない。突っ切る。
そう決意した僕の目の前で、瓶が両断される。漏れ出た液体が宙を舞う。
綺麗な切断面からあふれ出たのはどちらも無色透明の液体。
だがその性状は見るからに水ではなく、粘液のようなものと、無重力空間に浮かべたような表面張力の強い滴……。
細かい飛沫が顔にかかる。
! この臭い、僕は知って……
しまっ……。
液体を帯びた小剣が僕の両肩の腱をたたき切る。
そして、伸びてきた蹴りが僕の腹を強く打つと同時に、太ももに鋭い痛みが走った。
はじき飛ばされ、受け身も取れずに背中から床に叩きつけられる。
ガシャンと床に落ちた瓶が割れた音がした。
咳き込み体が跳ねる。そしてたちまち四肢が石のように重く動かなくなっていく。
……これは。
「油断したな」
コツン、コツンと木の床を鳴らし、足音が迫ってくる。
世界が狭く、遠い。この感覚。僕は知っている。食いしばった歯から吐息が漏れた。
「忘れたわけではないだろう。お前に効く毒もある」
「……調和水……と混沌……湯……」
傷口から混入した調和水。その影響で闘気が消えて息が吸いづらい。
混沌湯のほうは性状のせいかまだ効き目が弱いようではある。だが、両手足の怪我を再生させることが出来なくなっていた。
失敗した。血が流れる感覚と、ズキンズキンと響く痛みに、苛立ちが増した。
ふう、とため息が聞こえる。腹直筋もダメージを受けているのか、体が起こせずその声の主は見えないが。
背中が湿って冷たい。僕が結露させて凍りつかせていた床が、溶けて濡れる。
「これでお前はあの男を追えない。諦めろ」
「……何で……」
何故、そこまでしてニクスキーさんはあの男を守ろうとするのか。
僕を殺そうとしたのだ。そして無関係の者を殺しかけた。死んで当然だろう。事実、ニクスキーさんもあの男を殺しに来たのだろう。なのに。
返答なく数秒が過ぎ、それからようやくニクスキーさんは口を開く。
「……お前に、善良な人間で……いや、……」
だが口ごもり、言い直す。
「お前が、善良な人間でいてほしいと願う人がいるからだ」
その言葉の機微が読み取れず、そしてその言葉に僕の何か箍が外れた気がした。
「……善良な、人間?」
声に笑いが交じる。今となってはよくわからない単語だ。僕は唇を噛みしめる。
善良。人間。そのどちらの言葉も、僕とは縁が遠いものだ。
まず笑い声が出た。ニクスキーさんを笑いたいわけではない。ただ、何かが可笑しかった。
「僕のどこが善良だと?」
「…………」
ニクスキーさんからの答えはない。それもそうだろう。
民家に忍び込み、食料や服を盗んで育った。仕事として、人や魔物と戦って生きてきた。後者はまだしも、前者は明らかな犯罪行為だ。この世界においてさえ。
「そして、……人間?」
フフ、と吐息を漏らしながら、横隔膜が痙攣する。
可笑しかった。今更その言葉が僕に向けられることが。
「貧民街の人間は、人間扱いされていない。だから、僕がここに来ることになった」
人間じゃないから、富や名声が似つかわしくない。そう思われているから、僕は嫌われた。
人間じゃないから殺しても構わない。人間じゃないから、どれだけ傷つけても構わない。そう思われているからこそ、一般の誰かが簡単に僕の暗殺依頼を出した。
なのに、今更。
「僕を化け物と呼ぶのは、人間たちじゃないですか」
どこかでそんな言葉を聞いた気がする。どこだったか。
「……だから、そんなことはどうでもいい。さっきの男に、自分のしたことの結果を思い知らせてやりたい。そう思って何がいけないんですか!?」
「…………」
だから、僕を殺しに来たのならば、まだ納得できる。
人間として、化け物の僕を退治しに来た。ならばまだ、僕としても気持ちはわかる。
だが、結果的に死にかけたのは人間のリコだ。人間が人間を殺す。それはこの国においても最低の犯罪行為だ。悪いことのはずだ。
未だに傷口周辺に魔力が通らない。通ればすぐに再生できるのに。
へばりついた混沌湯が、再生を阻害しているのだ。
厄介な。魔物封じの毒、まさしく僕に対しても効果は覿面だ。
「……怒りは、理性を鈍らせる」
傷が治らないことに内心悪態をついていた僕に、ぽつりとニクスキーさんは言う。
「人の強みは、その理性にある。お前も今体感していることだろうが」
「…………?」
一瞬意味がわからず、今度は僕が黙り込む。首を傾げることは出来なかったが。
「以前のお前ならば。……今朝までのお前なら、毒を浴びることはなかっただろう」
「…………」
「そして、今よりも遅く、筋力も弱く……そして手強かったはずだ」
襟をつかまれ、引きずり起こされる。未だに体を起こしていることは出来ず、手を放されればまた背中が床に落ちるはずだが。
「今のお前には〈猟犬〉レシッドすら荷が重い。もう一度考えろ。俺に勝てなかった理由。俺が止めた理由を」
覇気のない目がまっすぐに僕に向く。
ぼやける視界の中で、それだけがくっきりと見える。
「この街の人間として、笑って過ごすために」
見つめられて、息が詰まる。反論など一切出来ないように。
だが少しだけ俯き、視界からその顔が外れれば、それだけで力が戻ってくる。
喉に力を入れれば、自分で思ったよりもだいぶ低い声が出た。
「……考えたところで……」
「…………」
「考えたところで、この国は、この街は何も変わらない」
言葉と共に、脳裏にいくつもの国が浮かぶ。
様々な国を旅してきた。多くの街に立ち寄ってきた。その一つ一つが、印象深い景色と共に瞼の裏に蘇る。
「絶えず変化し続けるムジカル。大きな変革のあったリドニック。今後の方針を転換すると約束してくれたミーティアの氏族長たち、母親のために掟を破り薬を手に入れようとしていた子供たち。色々な国があった。色々な人がいた。どれも、きっとこれから変わっていくだろうという予感と一緒に」
言い切ってから、懸命に顔を上げる。今度はニクスキーさんの顔を見ながらでも、言葉を紡ぐことが出来た。
ムジカルを出るときに思ったこと。
答えられない問題は少なくなっていると思った。
だから、答えよう。この問いは、考える価値すらない問題だ。
「三年の間、この国を離れていました。なのに、この街は何も変わらない。僕が少し何かをすれば過剰に反応する市民たち、相変わらず人間扱いされていない貧民街の住人たち」
壁が出来たと思った。
この街の城壁の構造も変わり、変化があったと思った。
だが、そんなものはない。
貧民街と十二番街を隔てる大きな壁。モスクの作り上げた巨大な城壁。
貧民街に住む動物から、街の人間を守る壁。
あの壁は、僕がいない間に作られたものではない。
昔からあったのだ。ただ、見えなかっただけで。
「僕は今回暗殺者を放たれました。恐らく会ったことすらない一市民が、単なる嫉妬で僕の命を狙ってくる。僕が反撃するとも全く思わずに」
むしろ、先ほどの様子を見れば、今回のことで心底驚いているだろう。
先ほどの中年男性は、殴り返されると思わなかったのだ。先に殴ってきたのは向こうなのに。
「だから僕は、……この街の人間たちが嫌いです。大嫌いだ!」
ここに住もうと懸命に努力してきた。
この街で暮らそうと堪えてきた。
でももう限界だ。
確信した。
人間たちには烏の声は聞こえない。返ってくるのは投石ばかりだ。
今も、そして今後も。
「あんな奴らと同じにはなりたくない!」
思わず出してしまった大きな声に驚いたのか、入り口のほうで小さく鳥の声が響く。
そういえば、あの男はまだ無事だろうか。
玄関のほう、往来のほうから微かに、ガタン、という音が響く。木材がぶつかる音。それも、重量のある固いものが。
ニクスキーさんが顔を上げる。……驚いた顔で?
足音が響く。それと、木が床を叩く音。これは、杖か。
「なんだ、……やめるのか」
振り返ることがまだ出来ない。だがこの声は、聞き間違えることはない。
「じゃあ、これで終いだな」
ガン、と杖の先で強く床を叩く音がする。
そしてその声は、ぞっとするような冷たい声だった。




