閑話:最期に一言
四番街、その日の当たらない路地の中で、壁により掛かり二人の男が呻いていた。
特に身体に異常があるわけではない。ただ、今後の仕事事情への不安故の精神的なものだ。
壁にぶつかりガチャンと音を立てた袋をもう一度担ぎなおし、ルディはため息をついた。
「またかよ、ほんとクソだな、クソ」
「こっちの台詞だよ、馬鹿」
その独り言にフラットが返す。もう何度目だ、と言外に滲ませながら。
ルディが標的を間違えて撃ち抜く。それは今回が初めてのことではない。
前の街でもあった。その前の街でも。
そして、二人が生まれ育った街でも。
ルディとフラット。彼ら二人は幼馴染みだった。
エッセン王国西側の名もない森を開拓して作られた開拓村で、ごく普通の両親のもとごく普通の子供として彼らは育てられた。
ルディはごく普通の農民だった。
朝には畑の手入れをし、昼には森へ木の実を採りに出かけ、夜には日が沈むとともに眠る。
同年代の中でも特に変わったことのない、ごく普通の子供だった。
ただ、一つの特技を除いては。
二人がまだ少年とも呼ばれるべき幼い頃。ある日、村の外れにあった井戸にフラットを呼び出したルディは、その井戸の上に新たに設置した柱を見せて胸を張った。
「なんだこれ?」
「まあ、見てろって」
井戸の両脇に立てられた柱。その柱を結ぶ横向きの柱の中央に取り付けられた滑車。そこから二本の縄が井戸の底に伸びる。
フラットはそれを見て首を傾げる。
柱から直接伸びた縄と、いつものように手元から滑車を経由して井戸の底に伸びる縄。本数が増えている。その先にいつもの桶とは違うものを沈めてあるのだろうか。
だとしたら、何のために? またいつもの友人の思いつきか? そう考えた。
その滑車から伸びる縄を引き、そこに繋がる小さな桶を井戸から引きずり出す。
その動作もいつもと変わらず、フラットはまた更に首を傾げた。
「……で、何だ?」
「わかんねえ?」
ルディの返した問いに、フラットは桶の中を覗き込む。
初めはその水に関係するものかと思った。
だが、なみなみと入った水はいつもと変わらず、ゴミと泥が混じりやや濁った普通の水だ。
……いや、違う。
ようやくフラットは気がついた。桶の形が前とは違う。
いや、桶自体は変わりない。だが、その桶の上部にはまた小さな滑車が取り付けられており、そして二本の縄は繋がったままどちらも桶の上部の滑車に通されている。
もう一度上を見上げて、フラットは以前よりも変わった縄を通す柱を見た。
「ほら、こんだけ深いと、水を汲み上げるのも重たくて面倒じゃん」
ルディが井戸を覗き込む。
この井戸は村の開拓直後に作られたものの、場所が悪く水面が上昇せず、もはや誰も使わずに打ち捨てられているものだった。
水面は遙か下。覗き込んでも暗い穴しか見えず、仮に落ちようものならば子供の力では上がっては来られない。そして、助けられるような大人も頻繁に近くには来ない。
故に、子供は近づくな、と厳に戒められていた。
「そこでちょっと工夫してみた。この円盤を増やしたら、引くのに力がいらなくなった」
桶から水を捨て、もう一度井戸の奥に投げ込む。シュルシュルと、足下の縄が勢いよく引きずられていくのをフラットが避けた。
その滑車にフラットが注目していると、ルディがまた縄を引く。
動かない滑車。いつもと変わらないそれに加えて、井戸の中では増えた滑車が上下に動く。
「ま、その分縄も長くしてあるけどさ」
ルディが作成したのは、遠い世界では動滑車と呼ばれる機構だ。
この世界にも存在はする。主に城門の開閉などの重量のある構造物を動かすために用いられ、特に変わったものではない。
だが、それは一般に広く知られている知識でもなかった。構造自体は職人の間ではよく知られていたが、その細かな設計や調整は経験で蓄積され、口伝で伝えられているものだ。
そしてその知識自体は、ルディには伝えられていなかったが。
「……何の意味が?」
「……意味?」
説明を受け、それでもやはりわからず、フラットは尋ねる。
その原理まではわからずとも、ルディの工夫で桶の上下が楽になったのはわかる。
しかしそれがどうしたのだろう。
この井戸は現在ほとんど使われておらず、水場は別にある。近くの川から水路を作り引き込まれたため池の水は、綺麗とはいえないまでも飲み水にも充分使うことが出来る。
彼らの生まれる前に作られたそのため池は村の外れともいえない場所にあり、利便性も充分だ。
井戸が使いやすくなる。それがどうした。
そんなフラットの言葉に、ルディは口を大きく開けて笑う。
「意味なんかねえよ。出来そうだったからやってみた!」
「お前、また……」
フラットは逆に閉口する。
ルディが、農家に生まれ育ったにもかかわらず、村の木工職人の仕事に興味を示しているのは知っていた。
もちろん、人の好き嫌いはどうにもできない。
だが、その木工職人の仕事見学に、端材を貰っての何かの制作。家業の農作業の手伝いをおろそかにして行っているその行為を、ルディの両親が快く思っていないのも幼いながらに察していた。
まあ、いいだろう。
ため息をついて、フラットは小さく首を振る。使われていないとはいえ、村の共有財産である井戸の勝手な改造。どうせ怒られるのは自分ではなくルディだ。
まったく、どうして職人の家に生まれなかったのだろう。
何度も縄を上下させ、その井戸の使い心地を確かめるのに夢中なルディを眺めながら、フラットは内心その特技を惜しんだ
二人の生活に変化が訪れたのは、十五年ほど前。
隣国ムジカルが突如このエッセン王国に宣戦布告した大戦よりも後のことだ。
「弓の使い方、教えてくれよ」
「……なんで?」
ある日、ルディはフラットの家を訪ねていた。ルディもフラットも十歳を越え、成長期も中盤の発展途上だった頃。
そして開口一番、ルディはフラットにそう告げたのだ。
何故だろうか、と意味がわからなかった。
その言葉に、ルディが農作業で荒れた手で腹をさする。
「毎日毎日腹が減るんだよなぁ……」
「……走り回ってるからだろうが……」
その困り顔に、フラットはため息をついた。その『腹が減る』理由について思い浮かべながら。
十歳を迎えようとする頃から、ルディの日課に一つ加えられたものがあった。
運動。夜寝る前に家を抜け出し、暗闇の中で村の外周を駆け回る。
禁じられてはいないが、当然のように忌避されることだ。村の外は未開拓の地。村と地続きの場所であるため危険は少ないものの、それでも獣が活発になる夜に、月明かりだけで行動するのは子供には危険すぎた。
だが、ルディは平然とそれを行っていた。
『闘気というものが使えれば、色々と出来るかもしれない』という、簡単な理由で。
毎夜のように体力を使い果たし、水で簡単に体を清め、泥のように眠る日々。
初めの頃はそれも続いていたが、やはり限界は来る。
開拓村の農家の食卓に並ぶ食事。それは普通に働いている分には『すこし少ない』程度の感想しか持たれないものだが、運動を加えてしまえばそれは極端に少ない食事となる。
肌は荒れ、筋肉は逆に衰え、体の線は窶れていく。運動の苦しさは耐えられても、体の衰弱にはルディもほとほと耐えかねていた。
そこでようやく、食事が足りないことに気がつく。
魚を釣るか、それとも木の実をとってくるか。子供には禁じられていることが多いものの、選択肢は充分にある。
そして、ルディは選んだ。
友人であり、猟師の息子であるフラット。その弟子になることを。
フラットもそれに応じて、二人で狩りをするようになった。
狙う獲物は、近くの森に住む小動物。野犬や兎、七面鳥など、子供の弓でも捉えられるもの。
農作業と夜の体力作り。
そして余暇の食料作りを兼ねた狩り。
それを続けて五年ほど。
自分で捕らえた食肉を加えているとはいえ貧弱な食事。それによる遅延はあったものの、ようやく成人を迎えたルディは、闘気を扱えるようになっていた。
時は現在に戻り、フラットは頭を抱えて座り込む。
「あー、もう、なんでいつもお前は……」
「…………」
その仕草に、さすがにばつが悪くなったルディは悄然と立ち尽くす。この仕草を、ルディは十年前にも見ていた。
当時ようやく弓が扱えると言えるくらいになったルディたちは、調子に乗っていた。
農家は弟が継げばいい。自分はこれから猟師としてやっていくことも出来るとうぬぼれが始まっていた頃、事件が起きた。
簡単な事故だ。
森の中、牡鹿を狙い放たれたルディの矢が外れ、林を縫ってその先にいた生物に当たった。
それが別の鹿だったらそれでもよかった。
狙い通りとはいかないまでも、獲物を捕ることが出来れば猟師としては万々歳だ。
もちろん、その事は猟師の腕前の評価としては否定的だが。
そして、その時はまずかった。
当たった獲物が何だったのか。それを確認しに向かった二人は、倒れている人物を確認して立ち尽くした。
「…………」
そこにいたのは、フラットの父親の猟師の仲間。ただ今日、たまたま移動中だっただけの人間だった。
人を殺したのだ。
もうこの村にはいられない。そう判断したルディは、座り込み頭を抱えたフラットを引きずり起こし、その足で村を逃げ出した。
十年前の悲劇。
それから二人が探索者として、暗殺者として身を立てると考えた事件である。
「……まあ、悪かったよ。今回も不幸な事故だったんだ」
ルディが励ますように声をかけるが、フラットの反応は芳しくない。
同様の事件は、いくつもの都市で起こしている。標的を見間違え、時には外し、近くの誰かを巻き込んで終わる。
彼らは暗殺者。法を破ることに関してはその名声にまったく影響を与えない。だが、無駄な殺しは別だ。
多くの場合暗殺者に求められているのは、標的を殺すこと。そして、標的以外を殺さないこと。
失敗の度に街を逃げ落ちてきたが、ここイラインでもすぐにやってしまうとは思わなかった。それが二人の総意だ。
「そんなこと言ってられるかよ……。どうする、衛兵が動くぞ」
「証拠も何もないだろうが。弓を使う奴なんて俺たち以外にもごまんといる。依頼主と俺らが黙ってりゃ、あの無能どもはなんにもなんねえよ」
超長距離からの狙撃。それはその意図もある。自分たちの目撃者をなくし、捜査を攪乱するという意図が。
そうかもしれない。そうフラットはわずかに思い直すが、またもう一つ致命的な点に気がつく。
「……標的に、狙ってることを知られた」
「……それは……まあ……」
今回はいつもの失敗と違う。今回ルディの矢が射貫いたのは、標的と無関係な一般人ではない。
直前まで標的と親しげに話していた人物。今回射貫いてしまった犠牲者の素性は知らないが、それでも標的も警戒はするだろう。
外へ出なくなれば面倒なことになる。それに、今回は無警戒の状態で何度も見失っているのだ。警戒されてしまえば、もしかしたら捉えられなくなることも……。
それに。
ようやく気がついた。自分たちは思い違いをしていた。今回自分たちが標的を見失ったのは、きっと偶然などではない。
フラットは顔を上げる。
決意した。今回はいつもと違う。それならば、もう続ける意味がない。
「今回の依頼は放棄しよう。依頼主に違約金を払い、断りを入れてくる」
「…………!」
いや、とルディは口にしようとした。だが、口には出来なかった。
いつもならば、とりあえず契約は果たしていたのに。
「……本気か」
「ああ」
フラットは頷く。今回は放棄する。それはフラットの中では決定事項だ。
自分たちが二度も見失った獲物。それは自分たちの手には余る相手で、そして今回初めてではない事故で、ようやく一つの可能性に思い至った。
それはごく普通の、そして村を出る前に気がつくべき事だったが。
「それと……」
フラットは唾を飲む。
ここまできた。だが、これまでだったか。そんな後悔と忸怩たる思いが混じる唾液を。
「もう、終わりにしよう」
「……何を?」
終わり、と言われてもその対象がわからずルディは首を傾げる。フラットの深刻そうな顔を見て、何故だかその対象がわかった気がしたが。
知らぬフリをしている。そう思ったフラットは、あえて言葉に出した。
「この稼業を。暗殺なんて嫌な仕事を」
「……何で……?」
いつもは、何故、と問われるのは自分だった。そんな違和感を振り切り、ルディは力なく壁に背を預ける。ザリザリとした分厚い壁の感触が、頼りなく思えた。
「ここで言うべきではないことかもしれない。だが、言うべきだ。俺たちは、この稼業に向いていない」
本当は、村を出てきたときにそう言うべきだった。
弓を教えたのは自分だ。めきめきと自分以上に腕を上げたルディが、誇らしかったのも覚えている。
ここまで、この稼業に十年を費やしてきた。闘気を身につける時期が遅かったルディも、もとより闘気など扱えないフラットも、老けてはいないがもう若くはない。
遅すぎた。だが、言わなければいけないと思った。
思えば、街に出たのもルディと、それに付き合っていた自分の失敗からだ。
自分たちはこの稼業に向いていない。そしてルディも、本当は猟師にすら向いていないのだろう。
「これで俺たちは足を洗おう。どこか遠い街で、今度は」
「……ふざけんなよ」
脱力感がルディの体を覆う。
ここまでやってきた。目の前の友人は、十年もの長い間、自分たちがしてきたことを無にしようというのだろうか。
「ここから俺たちの伝説が始まんだろうが! こっからだろうが!!」
「そうやって何度失敗してきたんだ! 前の街でも、前の前の街でも!!」
フラットは懇願するように小さく叫ぶ。二人とも、往来に響かないほどの声で抑えられているのはまさにその十年の賜物だ。
「俺たちは、どこかで必ず失敗をした。初めは調子がよくても、じきに失敗をして街を出ることになった。それが今回は、初めての仕事でこれだ」
「お前があいつを見失ったから……」
語尾が消えていく。そこを責めることは出来ない。今回失敗したのは自分も同じで、そして見失ったのも自分だ。口にしながらそう自覚したルディの唇が噛みしめられた。
フラットが立ち上がり、ルディはずるずると座り込む。
乱暴に頭をかきむしり、フラットは往来の確認をした。
「とりあえず、俺は依頼の放棄だけ伝えてくる。お前はこの街を出る準備だけはしておけ。この街での荷物を処分したら、取り決めの通りに集合だ」
「……ぁ……」
俯いたまま、ルディは微かに声を出す。それでも了承の言葉を吐いたと判断したフラットは、振り返り、往来へと一歩踏み出す。暗がりに慣れた目に、往来が眩しく映った。
急がなければ。
仮にあの情報が本当ならば。〈血煙〉や〈幽鬼〉、〈猟犬〉との繋がりを標的が持っているのならば、もはやこの街は相当な危険地帯だ。
外へ出るまでは油断は出来ない。
いいや、外へ出ても、そして今まさにこのときも。
握りしめた短剣の柄が、ギシと音を立てた。
「……なあ……」
「……?」
だが、その背にルディの声がかかる。力なく、何かを諦めたかのような声音に、フラットはわずかに悲しくなった。
「もし、足を洗ったとしたら、俺たち何が出来んのかな」
「…………何だろうな」
ルディの言葉に、フラットが自嘲する。
何を出来るのだろう。たしかに、その通りだ。
この稼業を続けてきて、それ以外には手に職を持たない。
大体の人間が本来それを探す十代を、彼らはほとんど棒に振った。計算は出来ない。文字を読むのも難しい。
出来ることといえば、それぞれの本来継ぐはずだった家業のこと。ルディは農業、フラットは猟師。だがそれも、中途半端で未熟な限りだ。
「……何だろうなぁ」
だが、フラットは絶望しない。これから何をしよう。そう悩む事が出来るのは、年齢などに関係しないだろう。
「出来そうなことをやってみるしかないだろう。意味がなくとも」
ふと思い至った。
自分たちと同じような境遇の伝説が、たしかにあった。
「いっそ、俺たちで開拓村でも作ってみるか。到達者デンアのように」
「〈山徹し〉みたいに、かよ」
ルディは声なく笑う。
そういえば、そういう道があった。そういう道を走る先駆者がいたのだった。
探索者デンアは、二十五年前の大戦以降姿を消した。
その行方は探索ギルドは把握していたものの、ほとんどの者は知らず、伝え聞くのは噂話だった。
曰く『戦に疲れたデンアは〈天津風〉や〈爆水泡〉と共にどこかの村で隠棲している』というもの。
状況が変わったのが、以前《山徹し》がネルグの森から放たれたとき。
その見間違えのない砲撃の出所を探ればデンアに行き着く。そして召し抱えられれば、といくつかの貴族や豪商が接触をしたが、どれも成果は芳しくない。
その後どこからか流れた、『外と関わるのはデンアが望んでいない』という噂話。
到達者デンアに対する敬意。皆が心の内に抱いた畏れ、そして恐れ。それらにより、既に街に変わったその開拓村は、今や伝説の探索者を四人も有する一種の不可侵地域となっていた。
彼らのように。そう思い浮かべたルディは、わずかにその情景を思い浮かべる。
ほんのわずかにいつも心にあった。その感情に、ルディの唇がわずかに綻んだ。
「……後でな」
「ああ」
説得は済んだ。そう感じたフラットはまた踵を返す。
これでいい。これで、きっと今度は上手くいく。
今度こそ、明るい道に戻れる気がする。そう、思った。
ふと往来に影が差す。
一瞬だけ、それもわずかなもので気のせいかとフラットは思った。
だが、警戒心は止まらない。半歩引き、半身になって身構えると、その警戒が本物だとどこかで納得した。
もう無理だ。けれど、踏ん張らなければ。
ルディに向けて、叫ぶ。もはや往来へと聞こえる声など気にはしていられなかった。
「ルディ! 今すぐ走って逃げろ!! 俺に構わず、森へ……」
……何を慌てているのだろう。
今まで話していた相棒のあまりの慌てように、蹲っていたルディは顔を上げて眉を顰めた。
白墨を砕くような音。それと、粘りけのある液体が泡を立てる音がする。
「……フラット?」
立ち尽くし、そしてこちらを向いている相棒の名を呼ぶ。
だが次の瞬間、相棒が、こちらを向いているわけではないことに気がついた。
フラットの体が倒れる。後頭部を地面に打ち付けるように、前向きに。
「……っ!!」
反射的にルディが身構えようとする。首を前後逆に捻られ、血の泡を吹いて倒れた相棒の死体を見て。
暗い路地裏に、更に影が差す。
中腰になっていたルディの顔に影がかかる。急に暗くなった。そう感じたが、そうではない。
「弓を使っているのは貴方だけ、でしょうか」
目の前に、黒い布が踊る。それが外套だと気づくまえに、ルディの体が駆けだしていた。
ちらりと見えたその顔は、忘れもしない。たしかに標的のもの。美しい顔、男の自分でも引き込まれそうなほどの。
だがその顔が人間のものには見えず、黒い外套がその魔物を覆う気配に見えた。
二つの路地を回り、誰も追ってきてはいないことを確認して、ルディは手近な家屋に駆け込む。
扉もなく、人が使っているのかわからない倉庫だったが、身を隠せればそれでよかった。
転がるようにして奥の壁に背をつける。
石の壁に背をつけて、意識を全面に集中させる。いくつもの荷物に身を隠しながらも、それでも見つけられてしまうかもしれない恐怖が拭えない。
(んだよ、これ、どうすんだよ……!!)
荒い息を殺して気配を消す。荷物を持ったままだったのは幸いした。
持っていた複合弓を組み替えて、短弓として構える。入り口は一つ、追ってきているのであれば、そこから入ってくるだろう。ならばそこを仕留めればいい。
矢をつがえて、弓を構える。慣れているはずのその仕草に、手が震えた。
どうする。追ってきてはいるだろう。だが、自分の居場所が知られているかはわからない。振り切れているとは思う。だが、本当に振り切れているのかは自信がない。
相棒の最期の姿を思い返す。
直前まで話していた。なのに、何の音も気配もなく、相棒は首の骨を砕かれて死んだ。
ちらりと見えただけ、それなのに確信できる。相棒は死んだ。
ふざけるな。
いつもの失敗ではなかったのか。今度もまた、新しい場所で再始動できるようなそんな軽い失敗ではなかったのか。
誰が悪いなどはもう言えない。
しかし確信できた。
自分は今、命の危機に直面している。
相手は?
あのカラスだ。今回の標的。ただの嘘つきだと思っていた。だから、軽い気持ちで仕事を進めていたのに。
自分のせいか。あのとき自分がカラスを見失ったから。
いや、どこで間違えたのかわからない。
唾を飲み込んで、奥歯を噛みしめる。
今は、何も考えてはいけない。
ただ目の前の敵を討たなければ死ぬ。
この建物の入り口は一つだけ。そこに弓の狙いを定め、時を待つ。
鼓動がうるさいほどに耳に響く。
カラスが自分の居場所に気がついてなければ、しばらくここを誰も訪れなければ逃げ延びよう。
だが、誰かが入ってきたら。その顔も確認せずに、心臓を撃ち抜いてやる。
内心笑みがこぼれた。
はは、そうだ。
誰の顔も確認せずに、相手を撃つのは得意ではないか。だからこそここに落ち延びてきて、だからこそ今ここでこんな危険に遭遇している。
弔い合戦だ。
心のどこかでそんな声が響く。相棒を殺された。そんな相手を殺し返すのは道理だろう。
そうだ。そうするべきだ。
殺す。殺してやる。
もはや依頼だからではない。自分は自分のために、そして相棒のためにカラスを撃つ。
嘘つき烏。そんな相手だと思っていた。
だが、そうではないらしい。ふざけるな、ならばあの噂話が全て本当だというのか。
だとしたら、とんだ化け物がこの街には住んでいた。才能があり、そして全ての力を手中に収めた希代の怪物。
鼓動が静かになってゆく。
そうだ、集中しているときはいつもこうだ。そんな手応えを感じ、ルディの震えがピタリと止まる。
そうだ、今から自分は怪物を撃つ。
フラットの弔いのため。
来るなら来い、クソガキ。この、暗殺者ルディの戦いを見せてやる。
ギシ、と弓が軋む。ざわりと蠢いた直感に、来る、と感じた。
入り口から差し込む日の光を見る。それが歪む瞬間を待って。
次の瞬間。
背後の石壁が打ち砕かれる。
驚き振り向いたルディの頭を、打ち砕いた拳を開いた手が掴んだ。
「追いかけっこは嫌いなんです」
砂埃ごしに響くその声が、冷たく響くのをルディは他人事のように聞いていた。
弓が手から落ち、床を跳ねる。闘気を込めた両の手は自らを支える右の手首を掴んだが、それでも自らの頭を握りしめる力は一向に緩まなかった。
頭蓋骨が軋む音がする。堅い木の合板を、万力で締めたような。
じたばたと足を動かすが、もはや床から離れたそれは何の意味もなさなかった。
蹴るようにカラスの体に当たるが、その体は鉄塊のように動きもしない。
「教えてください。今回の依頼主はどちらの方ですか?」
「言……わねえ……!」
本当は、ルディにもそれはわからない。それを知っているのはフラットで、ルディには何一つ聞かされていない。
だが、『言えない』というのは業腹だ。故に、わずかな抵抗として、言わない、と口にする。
チチチチ、という鳥の声が耳に響く。妙に大きく聞こえたそれが、頭の中で反響した。
「……拷問も嫌いなんですけどね」
ポキン、という枯れ枝を折る音がした。それも、自分の指から。
一瞬遅れて、手の先から激痛が走る。
「ぅぁっ、ぐっ……!?」
「両手足の指は合わせて二十本。全部なくなるまでに教えてくれるとありがたいです」
間隔を置いて、ポキン、ポキン、と音が響き続ける。増えていく激痛に、絶叫混じりの声を上げても、誰にも届いている気がしなかった。
「人にもよりますが、骨は合計で二百六。……でもまあ、楔状骨なんて、どれ砕いても変わりませんし」
「い、言えない! 俺は知らねえ、んだ!!」
「そんなわけないでしょうに」
無意識に溢れ出た涙越しに、カラスの目が見えた。
何の感情も見えない暗い目。眼鏡もない今、ルディにはそう見えた。
「本当だよ! お前が……お前が殺した、フラット、あいつしか、知らない……!」
「…………」
辿々しい言葉。だが、その言葉にカラスの目が細まり、唇を尖らせたように見えた。
既に腕と肘から先に広がっている激痛の中でも、その表情が可笑しかった。
「は、はは、ざまあねえな! お前は、もう、……もう……!」
両肩が外れる。筋肉の断裂による新しい痛みに、噛みしめた歯茎が切れた。
「っ……! ……ざまあねえよ、ちくしょう」
「……本当、かな?」
小さくカラスが呟くと、頭の圧迫感が消える。解放されても、もはや痛み以外の感覚がない足が地面を踏みしめられず、体が垂直に崩れた。
見上げれば、カラスが困ったように頭を掻く。
その顔が、可笑しかった。一切の溜飲が下がることはないが。
「……じゃあ、いいです。こっちで探します」
そのカラスの手が、自らの頭に伸びる。また同じ目に遭うのか。そう思ったが、そうではないらしい。
迫る掌が熱を帯びる。まるで焼けた鉄板がそこにあるような。
「最期に何か、言いたいことは?」
額に焼きごてを押しつけられたような熱さ。焼けた肉の臭いが漂った。
その指の隙間から見えたカラスの目。その澄んだ瞳が憎々しい。
人殺し。大悪人。鬼畜。
様々な罵倒の言葉が脳内で溢れる。
だがどれも喉から出ることはなく、舌を振るわせるだけだった。
だが、一言。
それでも一言。何か言いたかった。命乞いでも遺言でもない。何か、目の前の男が心底嫌がるような一言を。
何を喋るかは自分でもわからなかった。
それでもなお、口は動く。喉が震える。明瞭に発音されたその言葉は、何故だが自らの笑いを誘った。
「……早く死ねよ。化け物」
最期にわずかに覚えた達成感。
それを胸に抱くよりも早く、ルディだった灰は風に散っていった。




