閑話:それにもかかわらず
閑話が続いていますが、リドニックの風呂敷を畳むためにご辛抱頂ければ……。
「この国の朝稽古は、体が固まって辛い……」
「我慢しろよ。その分、気血がどれだけ体に流れてっかわかるってもんだし」
スティーブンとグーゼルが中庭での早朝稽古を終えて城に入ると、中は騒然としていた。
何か血なまぐさい事件が起きたなど、そういうものではないとスティーブンは直感したが、しかし実際に何が起きたかを知ることは出来ない。
目の前を幾人かの官吏が走りすぎる。グーゼルへの朝の挨拶なども放っておいて。
「……なんじゃ?」
「なんだろうな」
自分たち以外が何かの話題によって掻き乱されている。そう察知した二人は廊下の脇で立ち止まる。その『話題』が自分たちに害のあるものではないことを確認したいと思い。
パタパタという足音は鳴り止まず、皆は外を目指しているようにも見えた。
ただ、何かから逃げているのではなく、そこに何かがあるように。固い顔で、脇目も振らず。
やがて、その早足で駆けている者たちと同じように駆けている黒髪の女性の姿を二人は認めた。気づかれるようグーゼルが手を振ると、その女性はよたよたと駆け寄ってきた。
「マリーヤ」
「…………」
二人から見ても、いつもと違う様子のマリーヤ。その顔にも若干の違和感を覚えて、それでも何事かの正体を知りたいとグーゼルは質問の口を開く。
「なんかあったのか?」
「……それが……」
マリーヤが舌打ちをし、外を見る。その『何か』を口にしたくもなかった。
服の裾を握りしめる。喉の奥から駆け上がってくる何かを押しとどめるように。白い指が震えて、腫れ上がりそうなほどの力を込めて。
「……お二人も、ついてきていただけるとありがたいです。きっと、お二人の力が必要になりますので」
「あたしたちの? ……つーことは……?」
「暴漢かの!?」
「いいえ」
マリーヤは、両腕を構えてやる気を見せたスティーブンを冷たい声で切り落とす。微かに首を横に振り、艶っぽく微笑みを浮かべながら。
「いいえ、それも、いいえですね。そうです、守っていただきたいのです」
「……? んなら、衛兵とか呼んで来いよ。つーか、どういうことかさっぱりなんだけど」
あやふやなマリーヤの答え。ともすると呆然としているような力の抜けた笑みを、グーゼルは不可解に思う。このような顔、付き合ってきて初めて見た。
「守っていただきたいのです」
うわごとのように繰り返す。その顔から生気がなくなったかのようにグーゼルには見えた。
マリーヤはふらりと足を踏み出す。二人を避けて、廊下の先へ進むために。
「待てって」
「お願いします。お守りください。メルティ・アレクペロフを」
二人からは後ろ姿しか見えない中の懇願。
「メルティ、って……」
「今、城の門にいるそうです。私を待っているとか」
グーゼルは愕然とする。その名前は、もしかして。
「ですから、どうか、お願いします。私からメルティ・アレクペロフをお守りください」
またしても吐き出された、二人には意味のわからない言葉。
だが、その深刻そうな声音に顔を見合わせたスティーブンとグーゼルは、駆けだしたマリーヤを追う形で城の門へと駆けていった。
城の門では、両者は睨み合う形で対峙していた。
睨み合うといっても多勢に無勢。門の内側、十数人の官吏に対して、門の外にいるのは女性二人だけの極端な差があったが。
官吏たちの人混みのような塊。それが、声なく女性二人を睨む。老若男女差があれど、全員の目に浮かぶのは怨嗟。誰も彼も皆、先王の法により縁者が罰された者たちだ。
それに応えるのは銀の髪。ソーニャはその背にメルティを隠すようにしながら目の前の者たちを見る。敵意のない目、だが警戒はあった。
そして、その背に隠されていたメルティは、唇を結びやや下を向く。
目の前の官吏たちの目を意識の外に追い出そうと必死だった。
受け止めなければいけない。それが自分の罪滅ぼしだ。そうは思いつつも、やはり恐怖は勝る。何も持っていないその手に凶器が感じられ、口を開いていないはずの者たちから声が聞こえた。
足が震える。寒い国のはずなのに汗が噴き出る。唾を飲む音がやけに大きかった。
ふと、ざわりと声が聞こえた。メルティの視界の上端で、官吏たちの足が動いた。まるで、岩が川の流れを割るように。
「…………」
ソーニャが唾を飲む。信頼する家令の緊張を読み取り、メルティが覚悟を決める。
何かが来た。誰かが来た。きっとその『何か』は自分が乗り越えなければいけないもので、『誰か』はきっと自分が心底会いたくない人物なのだろう。
そうは思う。けれど、もう逃げられない。逃げたくない。
俯いた目に薄く溜まった涙を瞬きで何度も拭い、顔を上げる。雪に照らされた城が眩しい。
そして、ようやく。
マリーヤ・アシモフと目が合った。
ギクリとメルティが体を固める。その目に一切の好意的な情というものが読み取れず。
ソーニャが一歩前に出る。メルティの体を半身で隠すように。
その姿を見て、マリーヤがため息をつく。
「……何を、何を考えてここに来たのか」
嘆くような声音にメルティは自分が裁かれていると感じた。きっと目の前の女性は裁判官で、自分は被告人。陪審の席には官吏たちが座り、弁護人はソーニャただ一人。
心細い。そうは思ったが、それでも答えなければならない。ここには、そのために来た。
「貴方と、お話がしたかったのです」
「…………」
叩かれる。そう一瞬メルティは身構えた。
指一本動かしていない目の前の女性から、何かが伝わってきた気がした。
「……マリーヤ、姫様はお前と……」
「ついてきてください」
ソーニャが言い添えようとする言葉も聞かず、マリーヤが踵を返す。その視線の先にいたグーゼルとスティーブンに会釈し、歩き出す。
「しかし、マリーヤ様……!」
「彼女は私の客人です。話をするくらい、構わないでしょう」
誰とも知れずに上げられた声に、振り向かずにマリーヤは応える。その顔を誰にも見られたくなかった。
それでも、と深く息を吐き、表情を整える。笑顔を作ることはどれだけ努力しても出来ないと自嘲しつつ。
メルティもソーニャも動けないのを見て取り、周囲への牽制も込めて振り返った。
「どうぞ。貴方がたの昔の居城です。ご遠慮なさらずに」
その冷たい声に、その場にいた全員が、心臓が跳ねた気がした。
「それで、話とは?」
机に置かれた茶を持ち上げ、マリーヤは優雅に啜る。その微笑みは美しく、壁際に立つ幾人かの衛兵も見惚れるほどだった。しかしその場にいた誰もが、その指が微かに震えているのを無意識に感じ取り、違和感を覚えていたが。
案内された小さな部屋。そこでグーゼルとスティーブンを含めた五人は対峙していた。壁際には衛兵が並んでいるが、彼らは今はマリーヤの眼中にない。
座っているのはマリーヤ、そして木の机の向こう側にメルティとソーニャ。スティーブンとグーゼルはマリーヤの横、少し離れた位置に立ち、その動向を見守っていた。
メルティの、膝の上に置かれた拳が握りしめられる。
俯いたまま、顔を上げることなく。
微かな哀れみを込めてマリーヤが見つめるが、それを遮るようにソーニャが口を開いた。
「姫様は、この国に帰ってきた。過去の清算をするために」
「過去の清算?」
ピク、とマリーヤの眉が上がる。視界に入っていないはずなのに、メルティの肩が震えた。
「私が、私があのとき何もしなかったせいで、みんなが……」
「精算など、出来ると思っているのでしょうか?」
ようやく辿々しく話し始めたメルティの言葉を遮り、マリーヤが呟く。その声に、メルティの顔が上がる。
「人は生き返りません。たくさんの人が死んだ。それをどうするというのでしょう。お前……貴方一人が何をしたところで、何の償いにもなりません」
「それでも……、……!」
メルティは言い返そうとして言葉に詰まる。喉の奥に何か大きな塊が出来た気がした。
その何かを強引に飲み込んで、もう一度瞬きをする。じくじくと目の奥が痛んだ。
「……それでも、生きている人に、何か出来るはず、なんです……」
「……今お前が目の前にいる。それだけで、生きている私は大変不愉快ですが」
ふふ、と茶化すようにマリーヤが笑う。
しかし、本心だとソーニャは愕然とした。わかっていたことだったが。
メルティが椅子を立つ。それから机の横に歩み出る。まるで、処刑台に向かう罪人のように。
そして、深々と頭を下げた。ふわりとした髪が垂れ下がる。
「ごめんなさい」
マリーヤは、唇が震えるのを必死に堪えた。怒りを顔に出さないように、精一杯の理性を込めて。
「……何を、謝っているのでしょう」
「知らなかったの。貴方のお父様が死んだと。みな、苦しんでいたと私は知らなかった」
震える声に、本心からだろうとマリーヤは読み取る。けれど、それ故に我慢できなかった。
カップが地面に叩きつけられる。
破片が飛び散り、床から湯気が上がった。
「もう一度お聞きしますが、何を、謝っているのでしょう」
「……私が、してきたことを……!」
「……謝るな!!」
マリーヤが叫ぶ。部屋に響き渡る大声。メルティが反射的に体をすくめた。
「お前が何をしたところで、お父様は戻ってこない!! 謝罪など何の役に立つ!!?」
「マリーヤ、姫様は……!」
「お前はただ謝って楽になりたいだけだ!! ええ、ええ! 謝って済む問題ならば、何度でも頭を下げてもらいますとも! 地面に額をこすりつけて、その頭を踏みつけてやろうとも! しかし、そんなものはなんにもならないんだ!!」
ソーニャの取りなしも聞かず、マリーヤが激昂を続ける。それでもメルティは、涙を浮かべながらも頭を下げ続けた。
「あのさ、マリーヤ、その辺で……」
「この女はまだ何も考えていない。以前と同じく頭が空っぽのようで」
わざと取った挑発的な言動。侮蔑を込めて見つめても、メルティは何も返さない。それを見届けて、マリーヤは短く息を吐いた。
「グーゼル様。申し訳ありませんが、どうかお止めになりませんよう」
「そりゃ止めるって……なあ?」
グーゼルがスティーブンを見つめて同意を求めるが、スティーブンは頷けない。
事情がわからなかった。今のところ、何一つ。
「誰に言われてこちらへ? レヴィンは違うでしょうね、死んでますから」
「死……!?」
レヴィンの名前を口にされ、メルティが顔を上げる。その顔を見て、マリーヤは鼻を鳴らした。
「ほうらごらんなさい。謝罪など口だけではないですか。レヴィンがそんなに気になりますか? お姫様」
嘲るようにマリーヤが笑う。事情を知るものはさておき、知らないものはその笑みに魅力を感じて見惚れていたが。
「お前の発案ですか、ソーニャ」
これ以上の質問は無意味だ。そう感じ、マリーヤは矛先をソーニャに変える。
突然水を向けられたソーニャは、返答に窮し口を開いては閉じて、そしてようやく言葉を紡ぐ。
「……カラス殿の発案だ。姫様に、生きてリドニックに戻れと」
「カラス殿の? まあ」
フフ、とマリーヤは笑う。ほんの少しだけ柔らかくなった雰囲気に、メルティの肺が緩んで息を吐き出すことが出来た。
マリーヤは丸めた指を唇に当て、可笑しいと笑い続けた。
「……そうですか。また、そうですか」
「また?」
ソーニャが聞き返す。『また』というのはどういうことだろうか。探索者カラスに関する何かについてのことだろうか。そう考えて。勘違いということを全く考えずに。
マリーヤがメルティを睨む。今の今まで笑っていたことを感じさせない目で。
「また、人の言いなりですか。今のこの国に帰ってくることがどういうことか、少しは考えたらいかがでしょうか」
「どういうことだ?」
「カラス殿に提案された。それがいつのことかは知りませんが、方策としては時季外れです。今のこの国に貴方が戻ってきても、騒乱の種にしかなりませんでしょう」
ソーニャの問いに、メルティの顔を見ながら答える。メルティのその腕がソーニャに伸びようとしているのを軽蔑しながら。
「もう少し考えればわかったでしょうに。もう少し早いか、もう少し遅いか、そのどちらかならばまだよかったかもしれないのに」
視線で言外に、『お前にもわかっていただろう』とソーニャへの言葉を滲ませる。ソーニャならば、わかったはずなのに。
言葉を切り、そして床の陶器の欠片を見て、マリーヤは自嘲する。冷静でいないのはこちらも同じだ。
「……まあ、いいでしょう。昔の誼で住まいは用意していただきます。そちらでごゆるりと滞在していただきましょうとも」
「……いいのか?」
「いいもなにも。人は皆同じ権利を持ち、階級もないこの国です。亡命されたとはいえ、今はまたこの国の国民である貴方たちを差別するわけにはいかないでしょう」
この国の滞在を断られると思っていた。しかし、予想に反してマリーヤは受け入れてくれるという。ありがたい、と素直に思う。
だが、ふふ、とまたマリーヤは笑う。その顔に、ソーニャは一抹の不安を覚えた。
「……下がれ!!」
話がまとまった。見方によってはそんな雰囲気で染まっていた部屋に怒号が飛ぶ。
怒号の主は、グーゼル・オパーリン。その声はソーニャとメルティに向けられており、ソーニャもその声に反応し視線の先を見る。
衛兵の一人が駆け出す。その手に短刀を握りしめて。
机を盾にして、とりあえず凌いで、と投げ飛ばすためにグーゼルは机に手をかける。
だがそれよりも早く、スティーブンが動いた。
まっすぐに駆ける衛兵。その短刀は迷いなくメルティに向けられており、突き刺されば重傷、あるいは死は免れない勢いだ。
喊声もなく、実行まで殺気も抑えて誰にも悟られなかったのは彼の練度故。
当然、メルティは反応できない。
ソーニャは手の内の寸鉄を構えながら、メルティと場所を入れ替えようとする。せめて主を守ろうと。
うまい具合に体を入れ替えて、ソーニャはその背を暴漢に向ける。
当たる。ソーニャはそう思った。目を瞑り衝撃に備えて、せめて痛みがないようにと祈った。
ソーニャと暴漢の間に、もう一人割り込む。
銀の鎧を煌めかせ、その手足で空気を裂きながら短刀を振るう。
下から上へ、縦に一振り。
部屋に、キン、という澄んだ音が響く。
「……え?」
それから遅れて聞こえた、金属が二つ床に落ちて絡む音。そこまでを聞いて、ソーニャは目を開く。衝撃がない。それに、不思議な音。
そして振り返ったそこに立っていた銀の鎧の背に驚愕し、そして落ちた金属と暴漢の手に握られていた短刀の柄を見てさらに驚いた。
「ば、捕らえろ!!」
響くグーゼルの声に合わせて、衛兵たちが暴漢に飛びかかる。位置が悪かった故に割り込めなかった悔しさを誤魔化すよう、グーゼルはソーニャに駆け寄った。
それからグーゼルは、床に落ちた残骸を見る。
(……やっぱ……)
暴漢の手に握られていたはずの短刀。その刃は茎や目釘までを含めて薄くするように縦に割れ、柄から抜けて落ちている。それにも関わらず、暴漢の手にはおろか短刀の柄には傷一つ付いていない。
神速の抜刀に、月野流の技法が加わった神業だった。
(人には、向き不向きってもんがあるもんだなぁ……)
グーゼルはスティーブンの朝の練武を思い返し、そう内心独りごちる。
朝の練武は、グーゼルに付き合った仙術の鍛錬だ。それを一年近く続け、全く形になっていないのに。
取り押さえられた衛兵は、床に頬を押しつけられながらも叫ぶ。
「離せ、離せぇ……!! その女を、殺し、殺さなければ……!!」
もがきながらも叫ぶ怨嗟の言葉。スティーブンは、血走った目にその本気を見た。
マリーヤはその暴漢の頭の横にしゃがみ込み、その顔を見下ろす。
女神のような、慈愛のこもった悲しそうな顔で。
「……マリーヤ様、あなたも……、あなただって……! 止めないで、ください……!!」
「気持ちはわかります。痛いほど、よく。しかし、それはさせられません」
「何故……!?」
何故、そう問われてマリーヤは一瞬長い瞬きをする。自分の心を落ち着かせようと、懸命に抑えていた。
「気持ちはわかります。私も、本当は木の鋸でこの女の首を引き裂いてやりたい。死の淵で泣き叫ぶ姿が見たい。……ですが、それは今のこの国では認められません」
「…………!?」
マリーヤは立ち上がり、怯み下がったメルティを見る。震えるその姿は、革命の前と大差ないように見えた。
「彼女は罪人ではありません」
「……っ、罪なら、ある……!」
暴漢が、他の衛兵に拘束されたまま立ち上げさせられる。応援が呼ばれ、廊下も騒がしくなった。
「……何故ですか、貴方のお父様は……!!」
「私個人の意見では、貴方に罪はない。貴方の処置は寛大に、と言い含めておきます。けれど、それでも罪は罪。……連れていってください」
暴漢の問いには答えず、マリーヤは他の衛兵に指示を出す。その横顔が、泣いているようだ、とスティーブンは思った。
メルティに笑いかける。今日、彼女に初めて見せた花の咲くような笑顔だった。
「これ以上ここにいても、同じような騒乱を招くだけでしょう。さあ、もうお帰りになってください。住まいに関してはお知らせしますので、城門でお待ちになっていただければ」
「……マリーヤ……」
「帰り道はわからないはずがないでしょう? ……いえ、ご案内してくださいませ。くれぐれも丁重に。傷一つつけませんように」
衛兵に言い含めるその様も、いつも同じだろうか。グーゼルはそう感じはじめる。
初めてだった。そこまで取り乱したマリーヤを見るのは。
これで終わりだと思った。そこまで取り乱したマリーヤを見るのは。
「……また、会っていただけますか」
「用事がございましたらどうぞ。予定があいている限りは」
メルティにもにこやかに答える。まるで革命前の、いつものマリーヤだった。
メルティとソーニャ。二人の騒乱の種が廊下を歩き出し、衛兵もそれに続く。
いつもとは多少違う空気を感じ、足早に衛兵たちも部屋を出ていく。マリーヤに促され、皆配置に戻っていく。
後に残ったのはスティーブンとグーゼル、そしてマリーヤとその秘書官。
厚い扉が閉まる。外の音が遠ざかっていく。
人の目を気にするのも、それが限界だった。
落ち込んだように机の一点を見つめて動かなかったマリーヤが、水煉瓦の壁に歩み寄る。
「…………っ!」
何をするのか。そうスティーブンたちが怪訝に思うのも無視して、マリーヤが拳を振り上げた。
「っぅぅぁあああああああああ!!!」
壁に拳が叩きつけられる。
突然のことに固まる三人を無視して、渾身の力を込めて一つ、二つ、と壁に衝撃が伝わる。
非力な女性の細腕である。壁に傷一つつけられず、固い壁には衝撃など与えられないだろうにもかかわらず、三人は部屋が震えたように感じた。
息が切れ、叫び声がなくなっても、拳は止まらない。
やがて、マリーヤの拳に血が滲む。皮膚がすり切れ、白い手に赤色が入った。
透明感のある水煉瓦の壁に血の跡が滴る。それでもなお、マリーヤは渾身の力で壁に拳を叩きつけた。
「やめろって、マリーヤ、なあ……!!」
「あの女が! あの女が……!!」
グーゼルに羽交い締めにされ、ようやく止められた拳は血に塗れ、床にもしずくが滴り落ちた。それでもマリーヤは痛みを感じない。痺れた感触が、むしろ心地よかった。
「お父様を……!!」
「落ち着けって!!!」
崩れ落ちた体をあえて支えず、グーゼルはマリーヤを座らせる。
ぺたんと床に座り込み、マリーヤは肩で息を繰り返した。
そのマリーヤの右の拳を手に取り、グーゼルはため息をついた。
「あーあ、ひでえこれ」
「……私の手など」
捨て鉢のようにマリーヤは吐き捨てる。だがグーゼルはそれを無視し、両手で包み込むように握った。
どうでもいいと片付けられる程度の怪我ではない。女性の力でも、不壊の水煉瓦へ渾身の力で叩きつけたのだ。皮膚は破け血が流れ、折れてはいないものの骨も傷ついているだろうとグーゼルは推測する。
そしてそれはおおかた事実だ。このまま何もしなければ、白魚の手には抉れたような跡が残り、城の男たちは大いに悲しむことだろう。
グーゼルは強く息を吸う。横隔膜を押し下げ、本来の限界以上に濃密に。
そして活性化した丹田から全身に気血を巡らせ内力を運用する。仙術の基礎である。
内力をマリーヤの手に通し、その効果を発現させる。
込められた効果は《快癒》。応急処置としてグーゼルが使える仙術の一つだった。
煙を上げながら癒えていく傷を見つめながら、マリーヤは考える。
「お、おい」
拳を握りしめて、皮膚の伸展を確認しつつ。
ため息をつけば、全身の力が抜けていく気がした。
自分が嫌になる。
どうして感情のままにあの憎い憎い女を殺せなかったのだろう。殺せば楽になれた。護身用として持ち歩いている小刀をあの女の首に押し当てて振り切れば、簡単に殺すことが出来たはずなのに。
出来なかった。その行為が、自分たちの作った法に触れると考えてしまえば。
出来なかった。罪がない女を感情のままに殺すことが。
出来なかった。民主主義を謳う国家の人間として。
今となってはあの女も人間なのだ。自分たちと同じく。自分たちと同じように生きる権利があり、声を上げる権利がある。
その概念がレヴィンの世界で『人権』と呼ばれていることは知らないまでも、その概念をマリーヤは理解している。
人権。それは相手を人間として扱うということ。誰しもが持っている、何の咎もない人間が、無法者に傷つけられない権利。
人間の平等を旨とする民主主義では、とても重要なもの。
相手を人間として扱うその概念を、誰に対しても適用するのは難しい。人には好みがある。感情がある。誰しもが、人と人とを区別する。味方を人間として扱い、敵を獣として扱うようになる。
故に、マリーヤは理解していた。
平等を守るためのそれは、まず自分が最も嫌う相手に適用しなければいけない。
誰しもが嫌い、疎む相手にこそ適用しなければいけないもの。
だから、メルティを、この世で一番嫌い、そして憎む女を守らなければいけない。無辜である以上、守らなければいけない。
噛みしめた奥歯。口の中が切れたのか、唾液に血まで混じった気がした。
自分が嫌になる。国も責任も何もかも放り出してしまいたくなる。
どうして、あの女を罰せずに、あの女をただ殺そうとした気の良い兵士を罰しなければいけないのだろう。
どうして。
自分が嫌になる、仕事も責任も放り出せない自分が。
「……彼女らの住居の手配を、直ちにお願いします」
「わ、わかりました!」
秘書官に言いつけるのは、先ほど約束した言葉。住居の用意も、約束などしなければよかったと今になって思った。
「それと」
自分が嫌になる。あの女を殺せず、その使い道を考える自分が。
「最低限の警護を。そしてその他に秘密裏に兵士を用意し、監視をさせてください。住居に誰が訪ねたか、誰と文をやりとりしたか」
「……は、はあ……?」
秘書官が戸惑いながら頷く。メルティを殺そうとまで反感を抱いていない秘書官にとっては、そのマリーヤの取り乱した姿にそれどころではなかった。
「あの女が戻ってきた以上、王党派は必ず彼女に接触しようとするでしょう。住居の場所はまず出来るだけ情報を制限し、徐々に情報を広めていきます」
「制限、ですか?」
「……まずは王城の者だけが知るように……ときどきの転居も考えたほうがいいでしょうか」
「何のためにそんなことを?」
「王城内の王党派のあぶり出しです。表立つものは王城内にはもう残ってはいないと思いますが念のために」
自分が嫌になる。憎い女すら政敵を追い落とすために使おうとするなんて。
「……せっかく戻ってきていただいたのです。存分に使わせていただきましょう」
民主主義などというものがあるから、あの女を守らなければいけない。
民衆の意見を聞くために対応が遅れ、そして最大公約的な意見しか採用されないような民主主義。今のマリーヤから見れば、不便な政体。
それにもかかわらず。
「この国のこれからのために。民主主義国家を成立させるために」
そのために、尽くさなければいけない。それが、王制を打倒した自分の責任だ。
そうマリーヤは信じていた。




