乱入者
白い扉。そのドアノブの上に取り付けられた鍵穴に、金の鍵を差し込む。
そう力を入れることなくカチャリと回る。外見同様、雨風に晒されていたにも関わらず錆び一つないのが窺えた。
キイ、と軽く軋む音はするものの、問題なく開く扉。その奥には、ワンルームの殺風景な部屋。その隅には買った本が乱雑に積まれている。
一歩足を踏み入れて扉を閉める。
明かりが奥の大きな濁った硝子窓だけになってしまうが、それでも開口部は充分で、昼過ぎのこの時間ならばまだまだ充分明るい。
僕は靴を脱ぐ。
荷物を下ろして、溜め息のように長い息を吐く。
壁際に座り込めば、このイラインで過ごした日々と同じ視界……よりもちょっとだけ高くなっているけれど。
帰ってきた。僕の家に。僕が、自分の力で手に入れた家に。
何年ぶりだろう、その冷えた床板の感触に、自分の体が大分重たくなった気がした。
いない間にもそれなりに掃除はしてくれていたらしい。
グスタフさんの手配だろうが、頭が下がる。
だがそれでも、埃は多少溜まっているし、虫の死骸もいくつか転がっている。
約束の時間まで少しあるし、一応は掃除をせねばなるまい。家具がほとんどなかったムジカルの時以上に物がないこの部屋は、そういうときはとても楽だ。
根を張ったように重たい体を叱咤し、立ち上がる。一度座らなければよかった。
とりあえず窓を開けて、中の埃を吹き飛ばす。埃が日光に当たり、きらきらと輝いて見えた。
床の水掃除も終わり、僕は退避してあった本を床に戻して眺める。
聖典や英雄譚の書。それに加えて、いくつかの本草学の本。
いままであったそこに、荷物から出した薄手の本をいくつか並べてみる。
ムジカルでも当然本は手に入った。お国柄だろう、教養書としては軍学や天文学にまつわる本が多く、物語としてはやはり立身出世の成り上がり物が多かったと思う。
どこの誰が使っているかもわからない武術の秘伝書とやらが、露店で投げ売りされていたこともあった。一冊試しに買ってみたが、秘伝書といっても、その武術を修めていない僕には当然実用に耐えうるものではない。ただの技名の羅列のようなものだったが。
読んだ本は適当に燃やしてしまうか捨ててしまっていたが、結局何冊かは荷物の中に放り込んだまま持ってきてしまった。
ムジカルの歴史書や、本草綱目と名付けられた動植物の一覧。その他雑多な教養書。イラインではあまり役に立たないものたち。
今見てみれば、天体の動きに合わせた入浴法や入浴剤の作り方などを詳細に記した本など、何が面白くて取っておいたのだろう。
もう一度読み返したら適当に捨ててしまおう。
そして、本の他に所持していた唯一の荷物が、僕の前に山と積まれている。
山といってもそれは数着しかない以上、山でもないのだが。
子供服。まだ体の小さかった僕が使っていた服。
カッターシャツを広げて僕の上半身に合わせてみれば、明らかにもう着れるサイズではない。腕も入らず、前でボタンを閉めることも出来ない。
多分、最後に僕がこの部屋を出たときは普通に着られたのだろうけれど。
……本当に、大きくなった。
顔を上げてみれば、服と本、それと何枚かの布程度しか置いていなかったほどの殺風景な部屋。幾ばくかの知識と、体を隠すために布を纏う程度の社会性。
多分、僕がここで過ごした日々のうちで、僕の頭の中にあったものそのままだ。
今ならばここに何が必要なのだろう。
机、椅子、本棚。そう今まで見てきた家具を思い浮かべても、どれも必要そうではない。
まあ、それはどちらかといえばそんな抽象的なものではなく、体が強くなった恩恵だろう。座るならば地面でいいし、書き仕事もないし。
窓を見れば、少しだけ傾いてきている日が入る。
きっと僕に必要なものは家の外にある。そんな気がする。
服も本も売りにいってもいいが、景気よく燃やしてしまおう。今日今からイラインの外に出るのは面倒だし、明日以降でいいけれど。
そうだ。服がないとなれば、適当に服を買いにいこう。そのうちに約束の時間になるだろう。安物で構わない。ついでに外套も新しく……以前と同じく黒い布で誂えて、そうしよう。
思い立った僕は立ち上がり、整理して随分と軽くなった背嚢を担ぐ。
適当な仕立屋でいい。多分、三番街にもいくつかあったはずだ。僕の記憶が正しければ。
扉の鍵をかけて、家を出る。
ムジカルで何年も借りた部屋にいたせいだろうか。自分の家なのに、なんとなく落ち着かない気分だったと、家を出てから僕は気付いた。
適当に服を手に入れ、街を練り歩くように見てもやはり、と思う。
戦争の気配が見えない。
それは今から戦うという機運の話だけではない。血の気配がしないのだ。
三番街の大通りはそれなりに人がいる。住宅地ということもあり多くは通行人だが、中には雑貨店や食料品を売る店もあり、そこの買い物客や業者も歩く。
だがその中に、軍事的な要素があまり見えないのだ。
街を歩く人が武器を携帯していない。多分懐や見えないところに持ってはいる人も多いのだろうが、ムジカルのように露出させている者は少ない。
街を歩く人はあまり怪我を負っておらず、向こう傷や障害などの戦った跡も見えない。ムジカルでは、老若男女問わず多くの国民が、肌に傷跡を持っていたのにもかかわらず。
戦うことなど考えない。それはとても素晴らしいことなのだろう。
それは戦う必要がない。少なくとも、肉体的に戦うことを日常にしていないということなのだろうから。
しかしこうしてみれば、やはりイライン……エッセンにも欠陥というものはある。
東を見れば、天高く伸びる白骨塔。だが、僕が見ているのはその先だ。
貧民街。それは、ムジカルにはなかったものだ。
子供であれ、大人であれ、彼らムジカルの国民は飢えることはない。給付金があり、そしてもしもそれで満足出来なければ戦えばいい。
そして、奴隷たちも食い詰めることはあまりない。
ランメルトはそれを批判したけれど、奴隷たちにも必ず仕事はあるのだ。たとえそれが最低の仕事であっても、探せば必ずどこかにある。
奴隷は安く使える労働力ではあるが、安かろうが庶民にとってはせっかく買った奴隷だ。積極的に使い潰そうとすることは少ない。
いや、とそこまで考えて気付く。
欠陥と言うほどのものでもなかった。最低の仕事はここイラインにだってあるし、それを選ぶことも出来る。犯罪奴隷しか奴隷と呼ばないエッセンでは、その最低の仕事を奴隷労働と言わないだけで。
どちらも厳しい仕事だ。尊厳を奪われ、自由を奪われ、死なずとも飢えるような仕事。
やりたくないと思う人の方が自然だと僕も思う。
それでも、見えるか見えないかは大きな違いだ。
可視化されている。少なくとも、『使おう』と思われるだけ、ムジカルの孤児たちは恵まれている。
僕はモスクの作った城壁を思い返す。
モスクや騎士団はそれを、戦争と敵への備えとして作ったのだろう。それはきっと間違いない。
破城槌を防ぎ、登ってきた兵は見張り台からの矢と内堀に放った火の壁が迎える。不完全ではあるが、戦いに使えることは間違いない。
だが、どうしてだろう。
僕にはあれは、まるで貧民街の者たちからイラインを守る壁に見えた。
ひっそりとした出入り口付近と、そこを監視するように仕事する女性の姿に、どうしてかそうとしか思えない。
……きっと先程のエウリューケの話から、そう思ってしまっているだけだろう。
そう思う。だが、何となく嫌な気持ちで、鐘が鳴り響く街の中、僕は家路を急いだ。
六の鐘が鳴る少し前。約束の大きな交差点で僕は待つ。
一番街を通り過ぎて、五番街に入った辺りの場所。連れだってくるわけではないので、集まり次第どこかに行くとの話ではあるが、まだ来ない。
五の鐘は鳴っているしきっともうすぐではあるが、約束の時間まではまだ少しある。
早めに来たが、失敗だろうか。
立ち止まって通行人を眺めて暇つぶしをするが、通行人も僕を見ている。
というか、視線が多い。何だろうか。何か変わった格好をしているつもりもないのに。
目の前を通り過ぎた同年代の女性が、僕と視線が合うと小走りになる。そんなに一般人に顔を知られているわけでもないはずなのに。
自分の体を検分してもおかしなところはない。仕立て直した黒い外套。こちらも前と同じはず。それに、汚らしいわけではないはずだ。埃掃除をした後で埃っぽかったのが気になり、着替える前に水浴びもしている。水すらも常に温いムジカルと比べて、イラインの水は冷たかった。
また一人、ちらちらと僕を見ながら女性が通り過ぎる。
野菜の入った紙袋を抱えた、僕と同じか少し上くらいの髪の長い女性。
だが、その女性は僕と視線を合わせても全く動じず歩いていく。
それから、通り過ぎたと思ったら、少しぎこちない動きで後ろ向きに歩く。バックトラックといったか、まるで、動物の止め足のように。
そしてゆっくりと戻ってきて、僕の顔をちらりと見てまた普通に歩き出す。
なんだろう、いったい。
何度か続く不可思議な動きに、僕が眉を顰め始めた頃。
徐々に近付いてきていた女性がついに僕の前に立ち止まり、大きく首を傾げた。
「お兄さん、どっかで見たことがあるんですけど。前にどっかで会ったことあります?」
「……いえ?」
殊更に色が白く、金の髪。イラインでもいないわけではないが、どちらかと言えば北方系の人物。
僕も目を細めてその顔を見るが、……たしかにどこかで見たことがある気がするが、顔をあわせていただろうか?
どこだかもわからない。まじまじと顔を見つめられると少し忌避感が出てくるが、それでもたしかに僕も気になる。
「えっとぉ……?」
「いつの話ですか?」
女性……どちらかといえば少女かな? まあ、女性が腕を組み、悩む。だが、一瞬悩んで電球が頭の上に光ったように顔を上げた。
「あ! リドニックに来たことないっすか!? 多分宿のお客さん!!」
「宿……?」
リドニックに、ということは三年ほど前。
そして、宿……、僕はリドニックでほとんど宿には泊まっていないけれど……。
あ。
「蛍火雲のとき、野菜収穫を手伝ったあそこの」
「ああ、それですそれです!! 多分、あのときの、魔法……使い……の……?」
それでも名前は出てこないようで、正直僕も名前が出てこない。聞いたような、聞いていないような。
「そういえばイライン出身だって聞いてましたっけ。聞いてない気もしますけど」
「正直、覚えてませんが言った気もします」
さすがにそんな細かいことは覚えていない。名前すら覚えていないのだ。一応だんだんと思い出してきているとはいえ、細かい会話もまだ朧気だ。
「しっかし、あれがねぇ……あれが……」
ぶつぶつと呟き、検分するように彼女が僕を見る。それから、口元を自分の手で覆い、下から覗き込む。
「まじか、うっわ、まじか!」
「何です? いったい」
しげしげと僕の顔を見る目が懐疑的? な光を帯びる。というか、やはりテンションがエウリューケだこの人。
ゴクリと唾を飲んで、彼女が周囲を見渡す。
「……待ち合わせです?」
「ええ。実は今日この街に戻ってきたので、友人と」
その友人たちが未だに来ないのが問題なのだが。いや、まだ約束の時間にはありそうだし別にいいけど。
「友人、ねえ……?」
彼女が僕の頭から足元を見ながら呟く。
なんだろう、とそう思ったが次の瞬間いきなり背中に手を当て押されてしまう。
「では、少し歩きましょっ! 急がないとうちの店、そろそろ夕飯時で席が埋まっちゃうんです」
エスコートをするように背中を押されて少し動いてしまうが、なんだなんだ。
「いえ、ですから待ち合わせ中で……」
「まだ来てないんだから少しくらいいいじゃないですか! ていうか、お兄さんの待ち合わせなんてどうせ女でしょ? いくらでも引っかかりますし、こんないい女がついていくんですからむしろ得? 損と得が爆発して無限大になりますし」
「よくわかんないんですけど」
ぐいぐいと押す力がやたら強い。一応、これは客引きなのだろうか。やけに物理的だけれど。
背後すぐ近くから響く彼女の大きな声に、周囲の視線がいよいよ集まる。
思い出してきた。この強引さ、やはりエウリューケに似ている。……エウリューケならば、即座にその目的地に移動しているか。
「場所だけ教えてもらえれば、今度また行きますから」
「今日行きましょ! 今日来ましょ! エッセン向けに調整した、特製の絶品リドニック料理が待ってますよっ」
……それは少し魅力的だが。
「ですから、もうすぐ友人が来ますので……」
「むう……」
頬を膨らまされても、さすがに不義理は出来ない。ざわ、と周囲の気配が少しだけ変わったということは、彼女も少し有名なのだろうか。
周囲を見てみれば、反応しているのは若い男性が多い……ということはそういうことか。
面倒な。
まあ、まだ時間まで少しあるだろう。とりあえず一度この場を去りたい。視線を躱すように、僕は身を翻す。
「……じゃあ、案内だけ。今日は行かないと思いますけど」
「うは、やったー!」
野菜を持ち上げ、笑顔で喜ぶ。……未だに名前が思い出せないけど、誰だっけ。
「お兄さん、太っ腹! そのまま食べてけば!?」
「案内だけです」
僕が歩き出すと、彼女も横に並んで歩く。確か以前見たときには厚手の冬服だったのに、当然のようにエッセンの薄手の服を着ている。何となくそれに違和感がある。
「看板娘の案内ですし、もっと喜んでくださいよう」
「はいはい。よろしくお願いします」
多分後日伺うことになるけれど、その時もいるだろうか。いや、看板娘と名乗っているくらいだし、多分いるだろう。
「……そういえば」
「はい?」
悩み、そして殊更に笑顔を強めて彼女が笑う。どちらかといえば、何かを誤魔化すように。
「お兄さん、名前なんだっけ?」
やはり覚えていなかったか。今回は好都合だし別にいいけど。
「カラス、といいます。正直、僕もそっちの名前を覚えていませんが」
「じゃあ、耳に刻みつけておいて下さいね! ササメ、ササメです!!」
「はいはい」
ササメ、ね。そういえば、確か昔に聞いた気がする。本人が名乗ったわけではないが、たしか母親がそう呼んでいたのを聞いた。
「今度は忘れないようにします」
「お願いしまっす」
自分が僕の名前を忘れていたことをどこかに放り出したようで、ササメがじとっとした目で僕を見る。言い訳かもしれないが、三年前に一度しか会っていないのだ。忘れていても当然だろうに。
「あの宿閉めちゃったんですか?」
「そうなんですよ! お父さんがこの街にいたので、どうせなら、って……」
「……………………」
「…………」
適当な話をしながら、僕らは連れだって歩く。
しかし、楽しげに話すものだ。これだけ愛想がよいのなら、看板娘もしっかりとこなしているだろうと、そう思えるほどに。
どこかで響く鐘の音を聞きながら、僕はそんなことを考えていた。
「それで、ここ! ここが我が家です!!」
「へえ……あれ?」
その店の外見を見て、僕はまた首を傾げる。
ここ、来たことある。正式に食べにきたことはないが、たしか昼前に、酔っ払いをつれてここに来たことがある。
あの時は、たしか、レシッドが……。
「じゃあ、名残惜しいでしょうけれどここでお別れです。よよよ」
「それは声に出して言わないと思いますが」
泣き真似のように目の端を袖で拭い、ササメが店を示す。既に看板が出ているということは開いているのだろう。ならば、僕も邪魔するわけにはいくまい。
「また来てくださいね! お兄さん来たら席の一つや二つ強引に空けてあげますから!」
「そんな混んでたら帰ります。……まあ、その時はお願いしますね」
「ではー!」
ガタン、と扉を開いてササメが飛び込むように中に入っていく。
扉を少し開けただけで、中の笑い声が外に響き渡った。
……昼の、エウリューケの開いた扉と同じ笑い声だが違う声。似ていると思ったけれど、やはり少し違うらしい。
ササメの営業活動に付き合って歩いてきたが、少しばかりの暇つぶしにはなった。
何の意味もない会話というものも楽しいものだ。きっと、商売柄彼女はそれがとても上手く、そして僕に合わせてくれていたからだとも思うけれど。
世間話、というものが僕はどうも苦手だ。
どうしても、何か意味のあることを口にしようとしてしまうし、励ましたりするときにもどうしても話題が血生臭くなる。そうでない彼女の方がきっと優れていて、そして皆に求められている人材なのだろう。
そこはなかなか真似出来ない。
一度息を吐いて、気持ちを切り替える。
さて、待ち合わせ場所に戻らないと。ササメに向いていた視線は彼女の消失とともにほとんどが消えた。もう戻ってもいいだろうし、そろそろ時間だろう。今がいつかはわからないけど。
少しだけ楽しかった時間から離れていくように僕は歩き出す。
親しいわけではないが、懐かしい顔に会えた。
あの懐かしい二人は、今どんな感じになっているのだろうか。楽しみだ。




